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第二章 小学生編
第八話 猪塚要
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入学式は滅茶苦茶目立ってしまったものの、授業が始まってしまえば普通の日常で。入学してから1か月が経った。
男性恐怖症は今の所男子生徒と一定の距離を保つ事で何とかやり過ごしている。
それに朝は葵お兄ちゃんと棗お兄ちゃんと登校して、玄関で華菜ちゃんと会って一緒に教室へ行くから男の子と接点がないのも幸いしている。
生物委員に指名されていた華菜ちゃんは、朝教室へ来ると学校で飼っている生き物の世話に教室を出て行ってしまう。一人で教室に残りたくない私は付いて行って華菜ちゃんと一緒に動物のお世話をする。ここまでが朝の日課になりつつあった。にしても、この学校は凄いんだよ。生物委員ってほら、動物のお世話するじゃない?例えば、ウサギとか鳥系とか、ハムスターとか犬とかの所もあると思うけど。こう…小動物ってイメージがあるでしょ?
ところがどっこい。この学校。何故かダチョウとカピバラと鰐がいる。どうやって世話すんねんっ!!
誰よ、最初飼おうって言ったのっ!!お兄ちゃん達に聞くと、お兄ちゃん達の時代にはもういたんだって。どゆことっ!?
せめて家畜なら自分を納得させれたものを…。あぁ、でも、飼育員さんが――子供だけで世話出来る訳ないので、ちゃんとした飼育員もいます―――ダチョウが卵産んだらくれるって言ってたな。
ダチョウの卵食べた事ないからちょっと気になる。それに鰐。ここの鰐ほんっとに人懐っこくて不本意だけど可愛いんだ。ジュリエンヌちゃんって言うんだけど、お手もしてくれると言う賢過ぎる鰐。因みにカピバラは常にまったりしてる。
色々規格外。
そんな学校だって慣れてしまえばどうって事ないっ。前世を持ってる人間の順応力舐めるべからずっ!
今日も餌やりから戻り、私は華菜ちゃんと二人教室へ戻る。
すると、入学1か月目にして、初めての事件が勃発していた。
「全く、金しか能のない奴らはこれだから」
「なんだとーっ!!」
「事実を言ったまでですよ。あぁ、事実って言葉が解らないかもしれませんね。『ほんとうのことをいった』と言ったんですよ」
「きさまぁっ!!」
多分庶民派と言われてる男子と貴族派と言われてる男子が小競り合いの末、殴り合いの喧嘩にまで発展したんだろう。
なんとまー、元気な事。
「ど、どうしようっ、美鈴ちゃんっ」
この争いに一切関係ないのに何故か華菜ちゃんがあわあわしている。そんな所も可愛いけれど。
「ほっとこう。今あの争いに参加した所でトバッチリを喰うだけだよ」
華菜ちゃんの手を握って教室の自分の席に行こうとするけど、華菜ちゃんがピタッと足を止めた。
「でも、いいの?美鈴ちゃん」
「え?」
「美鈴ちゃん、学級委員長でしょ?先生に怒られない?」
……しまった。すっかり忘れてたよ。まだ一度も招集がないからクラスの仕事しかしてない所為で学級委員長の自覚が全くなかった。
ついつい天を仰いでしまう。
「……はぁ。ごめん、華菜ちゃん。私、職員室行ってくる…」
「うん。いってらっしゃい」
手を離して、私は今来た道を戻る。
職員室は、2階。玄関の真上だ。
下校時の生徒を見る為なのか何なのかは分からないけど。分かりやすくてこっちとしては有難い。
階段を上り、ノックをして職員室へ入る。
すると、先生の視線が一斉に私へ向けられる。やめてー、怖いからやめてー。男の先生はあっちむいてー。
体がふるふると震えて、思わず開けたドアに隠れてしまう。
廊下からひっそりと中を覗くと、先生が近づいて来てくれた。
「どうしたの?白鳥さん」
あぁ、担任教師が女で良かった…。ホッとする。
「あ、あの、先生。クラスで男の子達が拳で語らい合ってます」
「へ?」
一瞬何を言われたか解らんとはてなを浮かべた呆け顔をしていたけれど、直ぐに理解、表情を立て直して教室へ走った。
先生、廊下は走っちゃいけないんですよね?
そして、置いて行かないでください。
私は一礼して、ドアを閉めた。
「あれ?鈴?」
後ろから声がして、振り返るとそこには棗お兄ちゃんが立っていた。
「棗お兄ちゃんっ」
職員室と言う大人の男の集団エリアから抜け出した私には神様に見えて、そのまま抱き着く。
「珍しい所で会ったね」
抱き着く私を抱きしめ返して、頭を撫でてくれる。棗お兄ちゃんだーっ!私の癒しだーっ!
すりすりすり…。おでこを擦りつけると、棗お兄ちゃんはクスクスと笑う。これもいつも通りだから嬉しい。
ぎゅぎゅーっ。……ん?
棗お兄ちゃんに会えたのは嬉しいけど、そう言えば、棗お兄ちゃんだって用事あってここにいるんだよね。いけないいけない。
「ごめん。棗お兄ちゃん。つい嬉しくて抱き着いちゃった。用事あったんだよね。職員室に」
「うん?あぁ、まぁそうだけど。大丈夫。鈴をこうして癒す位の時間はあるよ」
うぅぅ…棗お兄ちゃん優しい…。
「鈴のクラスは男子が多いから心配だよ。家に帰っても大丈夫しか言わないし。無理しちゃ駄目だよ?」
「うんっ。正直、男子ばかりで常に緊張状態だけど、近寄られなきゃなんとかなるし。近寄らないしっ。頑張るっ」
「そう。…鈴、いつでも僕のクラスに来ていいからね」
棗お兄ちゃん、優しいよぉー…。
本当に行く時が来るかもしれないけど、そうならないように私頑張る。頑張るからーっ!
棗お兄ちゃんに礼を言って、もう一度抱き着いて癒しを十分に充電してから私は教室へ戻る。
先生の説得のおかげか喧嘩は収まっており、それを確認して私は席に座っている華菜ちゃんの側へ寄った。
「お疲れ、美鈴ちゃん」
「ただいまー」
朝から疲れ切ってしまった。途中で棗お兄ちゃんから癒しを充電出来なかったら増々疲れ果ててたと思う。
取りあえず、棗お兄ちゃん癒しパワーで1時間目の算数は何とか乗り切った。
2時間目は体育。
更衣室へ体操服を持って華菜ちゃんと仲良く向かっていると、体育館前が何やら騒がしい。
そこを通らないと体育館に隣接している更衣室へ行けない。
一体なんなのか。そう思って近寄ってみると、
「この庶民がっ!」
「脳足らず貴族がっ!」
終わったと思っていた争いが再び勃発していた。なんでこー争いたがるのかしらねー。
しかも扉の前でこんな堂々とやられてたら、私達行けないじゃない。
「…あ?何っ見てんだよっ」
「白鳥か。今朝は余計な事をしてくれたな」
ビクッ!!
二人がこっちを睨み、一歩踏み出してくる。
「こ、こっち来ないでくれるっ!?」
慌てて近寄られた分だけ退く。睨まれる事より近づかれる方が怖い。いくら小学一年生の男の子とは言えど、怖いものは怖いよっ。
「美鈴ちゃんっ、行こっ」
震える私の手を掴み、華菜ちゃんは男子2人の横を堂々と擦れ違う。
「おい、きさま…。庶民のぶんざいで俺サマのヨコを通るとはナニゴトだっ!」
「五月蠅いなぁ。遅刻しちゃうから横を通っただけだよっ。貴方達も遅刻しないようにしなさいよっ、それじゃっ」
か、華菜ちゃん、かっこいいっ!!凄いっ!!男の子相手にあんなに強気に出れるなんてっ!!
でも、復讐されないかお姉ちゃん心配だよ?
そして、その心配は現実のものとなった。
今日の体育はドッジボール。男子と女子混合で、クラスを4分の1に割って試合をする。
勿論私は華菜ちゃんと同じチームになった。そして何故か同じチームに今日争っていた片割れである庶民派男の子と相手チームには貴族派であるあの男の子がいる。
今日は厄日なんだろうか。
朝から酷い目にしか遭っていない。
試合が開始されて、私と華菜ちゃんはギリギリでボールを回避していく。男の子からのボールだ。当たれば結構痛いと思う。
避けて、投げて、避けて…。
繰り返していた、その時。
いい加減、当たらない事に焦れたその男の子は何故か野球ボールを取り出した。
ちょっと、ちょっとっ。それ当たると絶対痛いじゃないっ!!
先生っ、先生はっ!?
って、もう一方のチームを見てるしっ!!
これ下手するとリンチだよっ!?
と、とにかく、華菜ちゃんだけは守らないとっ!!
ドッチボールのボールを他の男子が投げ、そいつが野球ボールを私に向かって投げてくる。
それは上手く回避出来たけど…―――っ!?
そいつがもう一つ野球ボールを取り出して、
「華菜ちゃんっ!!」
投げられたボールと私の叫び声は同時だった。
咄嗟に華菜ちゃんを弾き飛ばし…。
「きゃっ!?」
華菜ちゃんの声が聞こえ、
―――ガンッ!
頬に衝撃が走った。
「―――ッ!」
まるでスローモーションのように鈍く感じた感覚が、痛みによって私を我に帰させる。
口の中が鉄臭い。どうやら口の中も切っちゃったみたいだ。衝撃で倒れなかった自分に流石と言いたい。
「美鈴ちゃんっ!大丈夫っ!?」
私に弾き飛ばされ転がった華菜ちゃんが慌てて駆け寄って来た。
「華菜ちゃん、ごめんね。思い切り弾き飛ばしちゃって…怪我、ない?」
「私の事はいいよっ!それより、美鈴ちゃんっ、血がっ!」
野球ボールだけでこんなになるかな?子供の力で投げてるんだよ?だとしたら…。
私は投げられたボールを掴み、触り心地を確かめてみる。やっぱりこれ、おもちゃの野球ボールだ。ゴム製の。しかもその中に石が入ってるっ!!
「これ、石が入ってる…。華菜ちゃんに当たらなくて本当に良かった…」
心底ほっとした。
あのまま私が華菜ちゃんを弾き飛ばさずにいたら、あのボールは華菜ちゃんの目に当たってた。間違いなく目に障害を残したと思う。
良かった。本当に…。
「ちっ。なんだよ。そっちの女に当てたかったのに」
「……何ですって?もう一度言って?」
今聞きたくない言葉を言われた気がする。
睨み付けると、男の子はふんっと鼻で笑った。
―――腹が立った。
ここまで腹が立ったのは久しぶりだ。
前世込みで何年ぶりだろう。
「華菜ちゃんに当てたかった?そう言ったの?…ふぅん、そう…」
この石入りのボールを、華菜ちゃんに?
すっと、頭の中が冷え、私はにっこりと笑った。
「ドッジボール、続けようか。私は当たったから外野だよね?」
転がっていたドッジボール専用のボールを拾って、茫然としている華菜ちゃんに渡して私は外野に回る。
そして、握っていたその石入りボールを力の限り投げつけた。
―――バキィンッ!
「ヒッ!?」
男の子すれすれで当たらずに、その石は体育館の壁に減り込んだ。へなへなと力を無くしそのお貴族坊ちゃんは座りこむ。
「どうしたの?ドッジボールするんでしょ?ほら、立ちなさいよ」
減り込んだボールをわざわざ取りに行き、手の上で跳ねさせる。
「さっさと立ちなさいよ。何座り込んでるの?逃げないなら次は当てるよ?華菜ちゃんが味わった恐怖を君も味わうべきだわ。何事も平等にしないと、ねっ!」
―――ベキッ!!
男の子には当てないようにまた体育館の、今回は床を凹ませる。
「う、うわあああああんっ!!」
男の子が泣きだした。まぁ、怖いよね。怖くした訳だし。
その騒ぎで漸くこちらの事態に気付いた先生が駆け寄って来た。
泣き騒ぐその子へ目をやって、そして私の顔を見て目を見開く。
「し、白鳥さんっ、その顔っ!?」
「そこに減り込んでるボールに当たりました」
そう言って指させば、先生はそのボールを手に取り触り心地を確かめて、綺麗な顔を歪ませた。
ボールには律儀に貴族派の男の子の名前が書いてあるから、この状況は理解出来るだろう。ってか、して貰わないと困るよ。
「詳しく話を聞かせて貰うわよ」
怒りだした先生に、何故か華菜ちゃんが待ったをかけた。
「そんなの後です、先生っ!まず美鈴ちゃんの手当てが先でしょっ!」
「えっ!?あ、あぁ、そうねっ!そうだわっ!」
焦ってるね、先生。多分、私の事あんまり考えたくなかったんだろうなぁ。先生、今回が初担任って言ってたし。そもそも初めての学校勤務がここってのも可哀想だよねー…。同情するわー…。
ここは一つ。大人な私が空気を読んであげようじゃないか。さっき大人げなく怒って小さな男の子をいじめたじゃんとか言わないようにっ!
「先生。私一人で保健室行ってきます」
「えっ!?でもっ」
「大丈夫です。当たったの顔だし、普通に歩けますから」
微笑む。でもやっぱり何故か華菜ちゃんが待ったをかけた。
「じゃあ、私が一緒に行くっ」
泣きそうに立候補する華菜ちゃんがこんな時になんだけど、可愛い。でも、今ついて来られたら私としては困るのです。
なので、華菜ちゃんにそっと耳打ちした。
「あいつら、好き勝手に理由つけて私達が悪いとか言いがかり付けてきそうだから、華菜ちゃん、見張っといて。お願い」
「…美鈴ちゃん…。分かったっ。任せてっ」
大きく頷いてくれた事に、胸を撫で下ろし私は体育館をあとにした。
体育館を脱して、数歩歩いて、
「いってぇー…」
ようやく本音を出せた。頬に手をやって触れると尚更痛い。とりあえず水飲み場へ行きハンカチを濡らして頬につける。
うぅぅー…痛いよぅ…。
石とかホント馬鹿じゃないのー…。小学生の悪戯って怖いわー。前世でテレビで流れてた小学生の虐めは過激ってホントだよねー。世も末って奴?怖いわー…。
痛みを自覚すると足に来る。ふらふらと歩きながら保健室のある生徒用玄関横へ何とか辿り着く。
コンコンとドアを叩き、流石に口を動かす気になれないので無言で中に入ると、保健の先生が振り向いた。
わお。結構なご老人。っと失礼。ご年配の先生ですね。
髭まで白髪な保健の先生は私を見て、先生にしてはハイスピードでよぼよぼと近寄って私に椅子に座る様に促した。
ん。これなら最初から座りなさいって言ってくれた方が速いです。先生。
私が進んで椅子に座る間に、手当てをする為の道具を取りに行こうと薬品棚に移動する。
が、これまた遅い。すると、ベッドを覆い隠していたカーテンがシャッと音を立てて開かれた。
そこにはオレンジの髪をツンツンに立てた人相の悪い男の子がいた。
「なにしてんだ、爺。とっとと薬出せよっ。俺にやらせるのか?あぁ?」
口悪っ!?
そう言いながら、薬品棚の前にいる保健の先生の横に立ち、指さしながら必要な物をトレイに載せている。
凄いツンデレなのかしら?
保健の先生もほっほっほと笑いながら嬉しそうだし。保健の先生の手を引っ張りつつ、その子は先生を椅子に座らせて、その横にある椅子に座った。
『…痛そう…。折角可愛い顔してるのに…』
ぼそりと呟く。イタリア語?この子もしかしてハーフ?
この乙女ゲームの世界だと髪色とか見た目でハーフかどうかの判断がつかない。
だってこぞって皆美形なんだもの。
でも、がっつりイタリア語話してる彼は多分、ハーフかもしくは帰国子女か。どちらかであろう。
「さ、怪我をみせなされ」
言われて、ぐきっと首を強制的に動かされた。横を向くとハーフの子と顔を向き合わせる事になり、どうしたものかと一瞬戸惑う。
すると、彼はにっこりと笑ってくれた。
『ほんとに可愛い子だな…。名前、何て言うんだろう…』
褒められてるのは嬉しいけど、あんまり顔を近寄らせないで下さい。お願いします。怖いっす。
それと、イタリア語が解らないと思って言ってるんでしょうが、はっきりと分かってしまうのでちょっと自重して下さい。恥ずかしいので。
物凄くスローペースで手当てされて、出来たと言われてもつい不安になってしまうのは仕方ない。
口の中の切れた場所にも良く解らない薬を塗られて、口の中に苦さが広がる。良薬口に苦しって奴かね?でも本当に良薬ですか?
とりあえずは手当をされたので、胸を撫で下ろし、体育が終わるまでここにいなさいと言われたので、ソファに腰かける事にした。
あぁ、そうだった。忘れてた。
男の子をじっと見る。
「あん?何見てんだよっ」
『名前を聞いていたから、自己紹介しようと思って。白鳥美鈴です。一年です』
イタリア語で自己紹介をすると、その男の子が瞠目した。
『私もお名前を聞いても宜しいですか?』
訊ねると、首がもげるんじゃないかって心配になる位、激しく頷いてくれた。
『かなめっ!猪塚要っ!ねぇねぇっ、白鳥さんっ!僕の言葉分かるのっ!?』
分かるっ、分かるからっ。だから、あんまり詰め寄らないでーっ!
ソファの隣に正座してこっちに迫ってこないでーっ!
大きいソファだから、人一人分の距離を離れてから私は頷く。
『どうしようっ、嬉しいっ!家族以外で初めてだっ!僕の言葉を分かってくれるのっ!』
そ、それは良かった。ので、ちょっと離れてください。
『あ、あの、猪塚先輩?ちょっと離れていだだけると嬉しいんですが』
『どうしてっ!?』
どうしてと来たもんだ。怖いからに決まってる。
さっきから迫りくる猪塚先輩への恐怖と、男の人しかいない空間での気持ち悪さと、怪我の痛みで鳥肌やら吐き気やらで私実は限界に近いんです。
『お、お願いですから、離れてください』
もう土下座でも何でもするので、解放してください。
泣きそうで、少し上にある先輩の顔を視線だけで見上げお願いすると、先輩は何故か顔を赤らめた。
『可愛いっ!』
先輩の両腕が伸びて来て、私は思わず立ち上がり逃げた。
『白鳥さんっ?どうしたのっ?』
ふるふると頭を左右に振って、とにかく近寄るなと訴える。
けれど、それは通じない。意味が分からずに先輩は私に近寄ってきた。
『白鳥さん、僕、君を抱きしめたい』
どストレートだねっ!でも、無理っ!!
どうしようっ!?
迫りくる先輩に、逃げたい一心で周りを見た、その時。
―――キーンコーンカーンコーン…。
タイミング良く、チャイムが鳴り響いた。
チャンスだっ!
私は保健室の入口まで走り、「失礼しましたっ」とちゃんと挨拶だけして、駆け抜ける。
休憩時間に入り、男子生徒が廊下を歩きまわっていて、恐ろしさに体が震えた。
『…鈴、いつでも僕の教室に来ていいからね』
ふと棗お兄ちゃんの言葉が脳裏を過る。
無意識に足をそちらへ向けて走りだしていた。安息地を求めて。
階段を駆け上がり、三階にある三年生の教室の一つへ向かう。
そして、運よく棗お兄ちゃんは廊下へ出て、誰かと話をしていた。
全力で棗お兄ちゃんの背中に跳び付く。
「おわっ!?誰…って、鈴?」
棗お兄ちゃんが振り返って、私を確認したのが分かる。
「棗お兄ちゃん…うぅ…」
「ちょ、ちょっと、鈴。落ち着いて。どうしたの?」
あぁ…安心する。離したくないよー。お家帰りたいよー。もしくは教室に棗お兄ちゃんをお持ち帰りしたいよー…。
必死にマイナスイオンを吸収していると、棗お兄ちゃんの苦笑が聞こえた。
「すーず。一度手離して」
安心させるように、私の手を数回撫でてくれる棗お兄ちゃんに従い、ゆっくりと手を離す。
すると、くるっと振り向いた棗お兄ちゃんが私の顔を見て、すぅっと笑いを消して、目をキリキリと釣り上げていった。
忘れてました。怪我の事。
「鈴…。これ、どうしたの?」
「…………えへ?」
「えへじゃない。誤魔化されないよ。―――誰にやられたの?」
棗お兄ちゃん、怖いです。ママに怒り方似て来てませんか?超怖いのです。
「へぇ、これが白鳥の妹か。可愛いー」
「綺麗な顔が台無しじゃん。可哀想に」
「ちょっと、君達黙っててくれる?」
棗お兄ちゃんの友達達が場を和ませてくれようとしたのに、一刀両断。しゅんとしちゃったよ。なんか、ごめんね、私の所為で。
仕方なく、私は事の顛末を棗お兄ちゃんに一から説明した。
「ありえないっ。鈴の顔にこんな、こんな傷つけるなんてっ!」
「いや、あのね、棗お兄ちゃん。私が棗お兄ちゃんに癒しを求めたのは、その…猪塚先輩が怖かったからであって。顔を傷つけられたのは別に…」
気にする事でもないんだよね。
これで乙女ゲームのストーリーから外れるのなら何の問題もないって言うか、むしろ万々歳?
いっそ傷が残ってくれた方が私的には有難いのですよ。それより、男子が迫ってくる方が怖いのです。
「猪塚でしょ?それなら僕がどうとでも出来るから、安心していい」
「そ、そうなの?」
「あぁ。部活の後輩なんだ。あとで絞めておくから」
にっこり。絞めるってあれ?シめておくって、懲らしめておくって事だよね?おかしいな?棗お兄ちゃんの言い方が首を絞めるとかそう言う感じに聞こえるのは気のせいかな?
そんな爆弾を落とした当人は私を抱きしめて、ただただ頭を撫でている。
…気のせいって事にして、私は棗お兄ちゃんからマイナスイオンを吸収しよう。そうしよう。
ぎゅぎゅーっと抱き着く。
「鈴。次の授業が始まるから、とにかく着替えに戻ろう?僕も一緒に行くから」
あ、そうか。そう言えば私体育着のままだった。しかもまだ二時間目。今日は四時間目まであるからあと二教科授業がある。
棗お兄ちゃんは私を抱き上げて、少し早足で体育館へと向かってくれた。
更衣室へ入り、手早く着替えて、外に出る。
てっきり戻ったのかと思っていた棗お兄ちゃんは外で待っててくれて、心配してくれている事に嬉しくなって思わず抱き着いた。
それでも嫌な顔一つせず、微笑んでくれる棗お兄ちゃんはやっぱり神様だと思う。
性格の悪い神様。どうか、棗お兄ちゃんに私なんかよりもっと良いお嫁さんが来てくれますように。
私を抱っこして再び抱き上げた棗お兄ちゃんは真っ直ぐ私の教室へと向かってくれた。
ガラッと教室のドアを開けると、注目が集まる。
棗お兄ちゃんは私を降ろし、にっこりと笑って額にキスをした。
そして、その笑顔はすぐさま切り替わり、
「…僕の妹を傷つけたのは誰か、知らないけれど。次、美鈴に怪我させたら―――『消す』から。憶えといて」
笑顔のまま黒い刃物のような視線が私の頭上を通過して背後に突き刺さる。
そしてもう一度柔らかい笑顔を私に向けて、頭を撫でると颯爽と去っていった。
棗お兄ちゃん、かっこいい。私もあんな男になりたいっ!…いや、女だから無理だけども。
「美鈴ちゃんっ」
泣きそうな声で名前を呼ばれ、振り返るとそこには華菜ちゃんが立っていた。
そのまま私に抱き着く。良かった。あれから華菜ちゃんが怪我するような事がなくて。
「ごめんね、華菜ちゃん。あんな空気の中おいてって」
謝りこちらからも抱きしめると、華菜ちゃんは耳の横でぶんぶんと頭を振った。
華菜ちゃんの為なら三つ編み攻撃を耐えようともさっ。
「美鈴ちゃんは謝る必要ないっ。悪いのはみ~んな、あそこの馬鹿二人っ!」
「ず、随分とハッキリ言うね、華菜ちゃん」
お姉ちゃんびっくりだよ?
「だって本当の事だもんっ!美鈴ちゃんには悪いけど、言ってやったわっ!あの馬鹿にはっ」
そう言って指さす先には、クラス1賢いと自称している庶民派の男の子。
ビクリと肩を震わせて、怯えた顔でこっちを見ている。
「美鈴ちゃんが今年の新入生の中で断トツ一位入学したって事をしっかり言ってやったしっ、あの馬鹿にはっ」
更に指を移動させた先には、クラス1金持ちだと自称している貴族派の男の子。
ヒィッと悲鳴を上げて、顔面蒼白で首を振っている。
「美鈴ちゃんが、白鳥財閥の後継者候補だって言ってやったわっ!!」
白鳥財閥の後継者候補って…。いや、まぁ、あの親戚一同に継がせるよりはいいかもだけど、でも、私より優秀なお兄ちゃん達がいる訳だし…ねぇ。
「美鈴ちゃんが学級委員長になったのにも、そう言う意味があるってのに、それさえも知らない癖に、何が賢いよ、何が貴族よ、馬鹿じゃないのっ!!」
「え、えーっと…華菜ちゃん?どうどう…落ち着いて?」
まるで暴れ馬だわ。華菜ちゃんって怒るとこうなるんだー。新たな発見。
「でもっ!」
「私は、華菜ちゃんが守れただけで十分だよ。それに華菜ちゃんが私の為に戦ってくれて凄く嬉しいし」
そう。嬉しいんだ。だって前世で女の子の友達っていなかったし。ネットを通じて腐った仲間は数人いたけれど。
「あのまま華菜ちゃんにボールが当たって、万が一失明とかしちゃったら、私ショックだわ。きっとそっちの方がこんな傷よりずっとずっと辛い」
「…美鈴ちゃん…。…私、決めたっ」
「へ?何を?」
「美鈴ちゃんに忠誠を誓うわっ!!」
「………は?」
流石小学生。話の飛び方についていけないわ。
なんでいきなりそんな話になったの?
しかも忠誠って。時代背景なんか違うくない?何かそれっぽい本でも読んだ?華菜ちゃん。
「絶対、絶対、私はどんな事があっても、美鈴ちゃんを裏切ったりしないからっ!!」
「う、うん。ありが、とう?」
う~ん…。良く解らないけど、ずっと友達でいてくれるって事、だよね?
だとしたら、嬉しい。
私と華菜ちゃんが抱き合ってると、チャイムが鳴り、同時に先生が入って来た。
傷は平気かと言われ、しっかりと頷き華菜ちゃんと二人仲良く席につく。
三時間目の国語の授業が開始された。
今更な内容で、私は酷く眠い。
そんな時、ふと隣を見ると華菜ちゃんが私の視線に気付き微笑んだ。うん、可愛い。お礼に微笑み返すと、奥の方で何やら「う…」と息を呑む声が聞こえた。
なんなんだろう。持病の癪かな?…ネタ的に古いか?
そう言えば、華菜ちゃんって、三つ編み解くとどうなるのかな?やっぱりこうふわふわの…ん?何か今頭に何か過った?
エイト学園の制服を着た、華菜ちゃんの姿…眼帯をつけた……―――あ。
思い出した。
華菜ちゃんの立ち位置。
花崎華菜(はなさきかな) 高校一年生。ヒロインの親友で、情報屋。攻略対象などの情報を持っている。選択肢や服のコーディネートなど困った事があった時電話すると情報をくれる。
情報屋だったんだ。確か、小学校の時男子の虐めで片目を失明しているから眼帯をつけてるんだよね。それで卑屈になってた所をヒロインが気にも留めずに接していたから、親友関係になった。
…そうか。前世の時、そんな酷い目にあったのかとゲームキャラながら同情したものだけど、そうか、そぉうか…。あいつらが失明の原因だったのか。
今回は本当に華菜ちゃんを庇って良かった。これで華菜ちゃんの悩みは何もなくなるんだねっ。痛い思いをした甲斐がある。
痛い思い…痛い思いと言えば、さっきは恐怖でまともに頭が回転しなくて思い出せなかったけど。
猪塚先輩。彼は間違いなく攻略対象キャラのあの猪塚要であってるとおもうの。
今こうして冷静に考えてみるに、色々思い出せた事がある。
猪塚要(いのづかかなめ) 二年生。生徒会会計。母親が日本人で父親がイタリア人のハーフ。幼い頃イタリアで育ち、三流任侠ドラマを見て日本語を覚えた。その為、日本語で話そうとすると言葉遣いが最悪になってしまう。イタリア語で話すと紳士的。見た目オレンジ髪逆立て、目つきも最高に悪い所為で良くチンピラに絡まれる。喧嘩は強いが中身がヘタレの為喧嘩には向いていない。
あーあー…納得。そうだそうだ。彼ってギャップが凄すぎたんだ。だから、名前が記憶に残ってたんだ。私、このキャラ私『好きだったから覚えてた』んじゃなくて、『苦手』だったから覚えてたんだ。
恋愛には凄く押せ押せなんだよね。対他人に対してはヘタレる癖に、対想い人に対してはそれはもう押せ押せで、ウザい。
好感度が上がれば上がる程、月一デートのお誘いが、週一になって、毎日になる。もうこっちから電話かけてデートに誘う必要がなくなるくらい、お誘いが来る。ウザい。愛の国恐るべし。
そう言えばパラメータってどうだっけ?…あぁ、そうそう。
猪塚要(いのづかかなめ) 必要パラメータ。文系MAX状態からの限界突破アイテム『イタリア語入門編』を入手してMAX値を更に伸ばした状態で文系をMAXにする必要がある。それから優しさを四分の一以上必要。
この人はイタリア語と日本語のギャップを知る必要があるから、アイテムを入手してイタリア語を覚える必要があるんだ。まぁ、入手はこの人との恋愛を進めていけば、自然と手に入るからそんなに難易度は高くない。他のパラメータ無視して文系だけ上げていけばいい訳だし。
イベント場所、どこだったかなぁ…。思い出せない。
神様得意の記憶フィルターですね。いい加減にしろ、この野郎。
っといけない。ついつい本音が。安心してください、神様。色々腹は立ってますが、もう一度ママと親子になれた事で多少の事は許します。この先の保証はありませんが。
…ちょっと待って?
神様の件はこの際置いといて。
私、先輩との出会い迎えちゃったんだよね?
で、私は前世の記憶の所為でもともとイタリア語が分かる。と言う事は…?
いやいやいや。まさか。そんな、ねぇ…?
棗お兄ちゃんもどうにかしてくれるって言ってたし。大丈夫だよね。きっと…。
嫌な予感に机に突っ伏した私は、先生に見つかり、あてられて教科書を読む様に言いつけられた。
すっかり頭の中が猪塚先輩の事で一杯になった私が、ついついイタリア語で国語の教科書を読み上げてしまい、クラス中を凍らせてしまったのは仕方ない事だったと思います。
なんだかんだで授業が終わり、帰りの会も終わった。
さて、帰ろうかと隣にいる華菜ちゃんに言おうと振り返った瞬間、ドアが盛大な音を立てて開かれた。
『白鳥さんっ!デートに行こうっ!!』
なんか来たーっ!?
咄嗟に華菜ちゃんの背後に隠れる。
キョロキョロと私を探すような仕草を見せる猪塚先輩に私は益々華菜ちゃんの後ろで震える。
だが、何分私は華菜ちゃんより身長が高い。このクラスの女子の中で一番背が高いのです。華菜ちゃんは逆にクラスで一番小さい。
『あ、白鳥さん、見つけたっ』
隠れられる訳ないよねーっ!
あっさりと見つかってしまい、私は華菜ちゃんに抱き着いた。
「美鈴ちゃん?」
そりゃ不思議に思うよね?いきなり隠れて抱き着いて、しかも教室に変な上級生が来たらそう思うよね。でもお願い匿ってーっ!!
早足で猪塚先輩は華菜ちゃんの前に立ち、隠れている私を覗き込んだ。
『白鳥さんっ!デートに行こうっ!』
『む、無理です。無理無理っ』
即行で断る。だってあり得ないものっ!無理なものは無理っ!
『どうして?それに何で隠れてるの?出ておいでよ。君が抱きしめる相手は僕がいい』
ひいぃぃぃっ!!無理無理っ!!
「美鈴ちゃん。一体なんて言ってるの?分からないよ」
華菜ちゃんが首だけで振り向いて言うので、今の会話をそのまま日本語で伝えると、華菜ちゃんは大きく頷き、
「よしっ!変態はおいて私達は帰ろうっ!」
はっきり断言した。
華菜ちゃーんっ!!私の天使ーっ!!
『白鳥さん、帰るのっ!?じゃあ、僕もっ』
上手く話せないだけで日本語は分かる筈なのに、何故変態の部分は華麗にスルーした?
ってか、ついて来ないで下さいっ!!
もういっそ走って帰ろうか、そう思った時。
「猪塚っ!」
入口から声が聞こえた。聞き慣れた声だけれど、こんな風に怒りを交えて張り上げられてるのは初めて聞いた。
「ちょっとこっち来い」
棗お兄ちゃんが教室の入口で、壁に凭れながら指先だけで来い来いと示している。
腕組んでそうする姿は本当にかっこいい。流石私のお兄ちゃん。って言うか、ぶっちゃけ鴇お兄ちゃんそっくり。
「あぁ?白鳥先輩がなんでここにいんだよっ!?」
棗お兄ちゃんに眼を飛ばす猪塚先輩。傍からはそう見えるだろう。でも彼、本当はこう言いたいのである。
はい?どうして白鳥先輩がここに?と。日本語を間違って覚えてる彼はそう話しているつもりなのです。眼を付けてる訳ではないのです。ただ目つきが悪いだけなんです。
「どうして?おかしなことを言うな。ここは『僕の大事な妹』のクラスだ。部活で僕は言わなかったかな?妹に手を出したら殺すって」
にこにこ顔の奥にある殺意。って言うか棗お兄ちゃん、そんな事言ってたんですか?
『白鳥先輩の妹…?』
『はい』
今気付くの?苗字同じでしょーよ。
『あー…そっか。だからそんなに可愛いんだっ!』
意味わからんっ!!変な納得しないでっ!!今はそこじゃないでしょっ!!
『白鳥先輩が義理のお兄さんか。うん。幸せな家庭になるねっ!!』
ならないってのっ!!棗お兄ちゃんのあの黒い笑顔が目に入らぬのかっ!?
『僕白鳥家に婿養子?いや、でも出来れば白鳥さんをお嫁に貰いたいな…。白鳥さんの花嫁姿?…絶対可愛いよねっ!!』
うへーいっ!妄想ストップっ!やめてーっ!!
『それはそれとして、デートに行こうっ!!』
「うぇっ!?」
華菜ちゃんを間に挟んででも私を抱きしめようと伸ばされた腕。
それを助けてくれたのはやっぱり棗お兄ちゃんだった。
猪塚先輩の頭を背後からわしづかみにしている怒れる棗お兄ちゃん。
「…鈴。今何となく腹が立つ様な事言ってなかった?こいつ」
棗お兄ちゃん。凄い直感ですね。
「教えてくれる?」
「う、うん。えっとね…」
猪塚先輩の妄想を…もとい、独り言の内容を棗お兄ちゃんに教えると、その黒い笑みすら消え失せ、素直に怒りの顔に変わった。
「良い度胸してるな。猪塚。…今日は特別に念入りに鍛え上げてやるよ。僕直々に」
「う…」
「それに、君は二年だろう?午後の授業があるはずだ。行くぞ」
頭を掴んだままズリズリと棗お兄ちゃんは猪塚先輩を連れて行く。
「あ、そうだ。鈴」
「え?な、なに?」
何時もの優しい声で呼ばれ、そのギャップについつい慌ててしまう。
そんな私の態度を気にも留めず棗お兄ちゃんは優しく微笑んで、
「今度僕にイタリア語教えてくれる?こいつ叩きのめさなきゃいけないからね」
とイタリア語講座を申し込んできました。きっと後半の言葉は私の聞き間違いなんでしょう。えぇ、きっと。
「うんっ、分かったっ」
「ありがとう」
にっこりと微笑む棗お兄ちゃんはいつものお兄ちゃんなので、さっきの言葉はきっと私の幻聴ですね。
「これから帰るんでしょ?気を付けて帰るんだよ。えーっと、華菜ちゃん、だっけ?」
「は、はいっ」
「美鈴をよろしくね?」
「はいっ!命に替えましても御守りしますっ!」
うぉーい…華菜ちゃーん?何か色々間違ってるよー。なんで棗お兄ちゃんに敬礼してるのかなー?私は護衛じゃなくて友達が欲しいなー。
『白鳥さーんっ!!』
「うるさい。黙れ」
そのまま私達は棗お兄ちゃん…と猪塚先輩を見送ると、二人で仲良く学校を出た。
仲良く下校していると、おずおずと華菜ちゃんが会話を切りだしてきた。
「あのね。美鈴ちゃん。私ね、美鈴ちゃんに謝らなきゃいけないことがあって…」
「謝らなきゃいけない事?なぁに?」
「あのね。私ね、本当は美鈴ちゃんの事、利用しようとしてたの」
繋いでいた手がぎゅっと握られる。
利用、ねぇ…。私としては小学生に利用された所で全くもって痛くも痒くもないので気にしないけど。
でも、華菜ちゃんは気になるんだよね。だったら、話を最後まで聞こうじゃんか。
話の先を促すように私も華菜ちゃんの手を握り返す。
「私達のダリア組って貴族派の女の子は多いけど、庶民派は私だけでしょ?」
「うん。そうだね」
「美鈴ちゃんは立場的に貴族派にも入る筈なのに、私は美鈴ちゃんの立場を知っていながら、庶民派に引き入れようと思ってたの」
「あらまぁ」
「美鈴ちゃんから話しかけてくれた時、これはチャンスだって思ったの。美鈴ちゃんさえ味方に引き入れちゃえば私もあの子達と対等になれるって、そう…思って」
うーん。誰でも思う事じゃない?それ。謝罪する必要ないと思うんだけどな。それにあの女子達に華菜ちゃん一人で敵対するって無理あるだろうし。かと言って、はいはい言う事聞いてたらパシリ決定だしね。華菜ちゃんの判断は悪くなかったと思うけど。
「ごめんね。美鈴ちゃん。こんな私を庇って怪我までしたのに。私はこんな事考えてたの。ごめん、ごめんなさい」
あぁ、そっか。この傷が華菜ちゃんに本音を言わせてしまった訳だ。それで忠誠だの命にかえてだのになったのね。ふふっ、小学生って可愛いな。やっぱり。
しかし、華菜ちゃんの性格だと「気にしないで」と言った所で気にしてしまうだろう。だったら…。
「謝らなくていいよ。華菜ちゃん」
「美鈴ちゃん?」
「誰だって、人との関係を作る時、必ず計算してしまうものだよ。私だってそう」
「美鈴ちゃんも?」
「うん。私はね、華菜ちゃん。華菜ちゃんといれば、男の子が近寄って来ても隠れていられる。そう思って声をかけたんだよ。私にとって庶民派、貴族派なんてどうでもいい。ただ、男の子が側に来られる事だけがとにかく嫌なの。本当は視線を向けられるだけでも嫌」
「そう、なの?でも、今日は…」
「あれは怒ってたから。怒りが先に立ったのね。お兄ちゃん達は家族だし、商店街の人達ももう家族みたいなものだから平気だけど。学校の男子は無理。マジで無理っ」
ぎゅぎゅーっと思わず繋いでいた手に力が入る。
「み、美鈴ちゃん?」
名を呼ばれて、はっと我に帰り、手から力を抜く。
「だからね。華菜ちゃん。お相子、でどうかな?」
「え?」
「どっちもどっち。互いに利用し合ってたけど、今は仲の良いお友達。それじゃ、駄目?」
小首を傾げてそう訊ねると、華菜ちゃんは嬉し気に微笑み首を左右に振った。
「ダメじゃないっ。私と美鈴ちゃんはお友達っ。嬉しいっ」
「うんっ。私も嬉しいっ」
やっと笑ってくれた華菜ちゃんに、安心しながら帰途につく。
商店街と自宅への坂道との分かれ道。
何時もならここでバイバイする所だけど、今日は晩御飯の買い物をしたいので、華菜ちゃんと一緒に商店街に行くことにした。
今日の晩御飯何にしようかな~。アスパラと春キャベツを使ったサッパリスパゲティとかどうだろう。お野菜たっぷり~。いいかもっ。
うん、今日の献立決まりっ。
「美鈴ちゃん、何買うの?」
「今日はアスパラと、春キャベツ、あ、あとベーコンも欲しいなぁ」
「じゃあ、まずは八百屋さんだね」
「うんっ」
仲良く歩きながら八百屋さんの前に立つと、「いらっしゃいっ」と店の奥から大地お兄ちゃんのお兄さんが出て来た。一番上のお兄さんかな?
その人は私の顔を一目見て、顔面蒼白となった。
「そ、その顔、どうした、マイエンジェルっ!?」
「えっとー、そのー…」
マイエンジェルの件は置いとくとして、この顔の傷はー…話していいものか?
戸惑ってると、彼は八百屋さん専用のエプロンから携帯を取り出し何かしら打ち込んでいる。お兄さんはまだガラケーなんだね。
何、打ってるのかな?
そう、疑問に思ってると、奥からガタガタと音を鳴らして誰かが飛び出してきた。
「姫ちゃんっ!?その顔どうしたのーっ!?」
「え?え?大地お兄ちゃんなんでいるの?学校は?」
「サボったんだよ。ってオレの事より、どうしたの、その頬っ」
予想外の人物がいた。しかも堂々とサボり宣言。凄いね、大地お兄ちゃん。ほけーっと驚いていると、隣に立っていた華菜ちゃんが大地お兄ちゃんに迫る勢いで今日の顛末を話し始めた。
最初はうんうんと聞いていた大地お兄ちゃんだったけれど、段々と目が吊り上がり、あれ?なにこのデジャヴ感は。
「クソガキが…。いや。そんな事より、あのもうろく爺さんが手当てしたってー?大丈夫かよ。…姫ちゃん。ちょっとおいでー。一緒に病院行こう」
「えっ!?い、いいよっ、手当てして貰ったもんっ」
「美鈴ちゃん。丑而摩さんの言う通りだよ。私も本当は別れ際にそう進めようと思ってたんだ。念の為に行っときなよ」
華菜ちゃんに背を押されても、どうしても頷けない。だって、病院の先生って大抵男じゃんっ!!
今日の保健室で、猪塚先輩って厄介なのと出会った事もあり、消毒液の匂いのする場所には極力近寄りたくない。
私が渋っていると、大地お兄ちゃんはスマホを取り出して、
「佳織さんに今すぐ知らされるのと、素直に病院に行くのとどっちがいー?」
二択を迫って来た。いやーっ!!そんな選択肢いらなーいっ!!
でも拒否は許されなくて…。私は泣く泣く大地お兄ちゃんと一緒に病院へ行く羽目になった。
因みに買い出しは華菜ちゃんがやってくれました。
大地お兄ちゃんに病院へ連行されて、改めて手当てを受けて家まで送って貰い「ただいまー」と玄関のドアを開け中に入る。
本当は大地お兄ちゃんにお茶でも飲んで言って貰おうと思ったんだけど、用事があるとかで帰ってしまった。
リビングのドアを開けて、中を覗くと、二つの視線が私に刺さり、その視線の主達は動きも止める。
「……美鈴。理由は?」
ママ、超怖いっ。でも喧嘩じゃないからっ!喧嘩に近いけど、喧嘩じゃないからっ!!
決して乙女ゲームヒロインのコースを逸脱する為、自分でやったとかそう言う訳でもないからっ!!
色々、冷汗かきつつ考えた結果。
「友達を庇ったっ!」
端的に説明してみた。
「……そう。ならいいわ」
納得してくれた。万事解決。私の説明にママの隣に座っていたお祖母ちゃんも頷いてたからこれで良しっ!問題なしっ!
その後、私は部屋に戻り、着替えて、手洗いうがいを済ませ、昼食とおやつの準備に取り掛かる。
間に金山さんが来て、大泣きしながら秘伝の薬を持ってきてもう一度手当てしてくれたり、昼食後おやつの時間に葵お兄ちゃんが飛び込む様に帰って来て心配してくれたり、部屋で宿題してる最中に棗お兄ちゃんがそれはそれは黒い笑顔で帰宅したり、華菜ちゃんから預けられた食材を持って鴇お兄ちゃんが、透馬お兄ちゃん達を引き連れて帰ってきたり、誠パパが帰宅した途端私の顔見て学校に乗り込みに行こうとしたり、色々とあったけれど、まぁ恙無く?その騒がしい一日は終わった。
―――翌日。
頬が昨日より腫れあがりはしたものの、金山さんの秘伝の薬が効いたのか、痛みは殆どなくなっていた。
痛み止めだと言ってたけど、ここまで効くとは思わなかったよ。
今日もまた持って来てくれるって言ってたからありがたく頂戴するとしよう。痛みはない方がいいもんね。
いつもの様に皆で食卓を囲んでいると、珍しく良子お祖母ちゃんが口を開いた。
「美鈴。貴女、薙刀を習う気はないかしら?」
「薙刀?」
「えぇ。そう。勿論体がもう少し成長してからって事になるけれど」
薙刀…。一切考えた事なかったなぁ。前世は護身術も兼ねて合気道やってたんだけど、護身術にならなかったんだよね。結局男の方が力が強いんだよ。悔しい事に。
「美鈴は、皆の話を聞く限りだと、どうも巻き込まれ体質のようだから護身術は必要だと思うの。でも、男性恐怖症なのよね?だったら近づかないで撃退出来る術を覚えてみるのはいかがと思って」
近寄らないで撃退っ!?それは、なんて魅力的なお誘いだろうっ!!
「やりたいっ!!」
挙手しちゃうよね。元気よく右手を上げて、はいはいはーいっ!
「よろしい。準備は全部私がしてあげるわ。講師も私と金山ですから安心なさいね」
「はいっ。お祖母ちゃん大好きっ!」
「お祖母ちゃんも美鈴が大好きですよ」
にこにこにこ。笑顔が浮かぶ。ご飯も美味しく感じられる。
「良かったね、鈴ちゃん」
「うんっ」
「これで、猪塚を一緒に叩きのめせるね、鈴」
「うんっ…うん?」
棗お兄ちゃんがにこにこしてるけど、ここは頷いて良い所だったんだろうか?
…あんまり考えないでおこう。
お祖母ちゃんの勧めで、三年生になったら薙刀を始めると言う事で決まり、私達はいつものように朝食を終えママとお祖母ちゃんに見送られながら登校した。
昨日と違い、今日は特に騒がしい事もなく、一日が終わる…と思いきや。
『白鳥さんっ!』
うぅぅ…来ちゃったよ…。
移動教室の真っ最中。次の時間は図工です。とは言っても絵を書くだけですが。制服を汚すといけないので美術室に行ってエプロンを付けて書くのです。
それはいいとして。なんでここに猪塚先輩がいるのでしょう?
私はすっと華菜ちゃんの後ろに隠れた。
『また、隠れる…。どうして隠れるの?僕が怖い?』
『先輩が、じゃなくて、男の人が怖いんです』
ここはもうハッキリ言ってしまおうと言い切る。先輩が怖いのではなくて男の人全員怖いんですよ、と。近寄らないで下さいね、と。私はそう告げたつもりだった。
けど、恋愛ポジティブな先輩にそれは通用しなかった。
『あぁ、確か白鳥先輩が昨日そう言ってたっけ。確か男性恐怖症なんだよね』
知ってたんかいっ!
と言う突っ込みを何とか飲み込んで『はい』と素直に頷いておく。
『なぁんだっ。だったら僕で慣れたらいいんだよっ!って事で抱き締めても良い?』
『良い訳ないよねっ!?』
一歩前に進まれると、私は一歩後退する。
華菜ちゃんが私の為にすっと間に入ってくれた。でも、先輩は華菜ちゃん越しでも抱きしめてこようとしていたし無駄な気もする。
だったら逃げるしかない。
じりじりと距離を保っていると、先輩の後ろから救世主が現れた。
「……いーのーづーかー?」
「棗お兄ちゃんっ!」
嬉しくて声も高くなる。棗お兄ちゃんは私達には優しく微笑んで、
「鈴。授業遅れちゃうよ。こいつの事は僕に任せて行って」
逃げる様に促してくれる。優しいっ!
「うんっ。お願いっ。行こっ、華菜ちゃんっ」
華菜ちゃんの手を取り、授業へと向かう。猪塚先輩が何やら騒いでいたけれど、そこはそれ。しっかりと無視して私達は美術室へと向かった。
今日の授業内容は校内写生。好きな場所へ行ってスケッチブックにガシガシ描く。華菜ちゃんと話して何処で描こう、何を描こうと話しながら歩いていると、一か所良い場所が見つかった。
グラウンドの隅にある大きな木。私はあの木に一目惚れしてしまった。華菜ちゃんに伝えてあの木の下で描こうと言ってみると、下だと木が描けないと言う。
私としてはあの日陰から上を見上げて木漏れ日を描きたいんだけどな。
話し合った結果。華菜ちゃんもあの木は気になるらしく、校舎の中の見下せる場所から描くとの事で別行動する事になった。
描くものは一緒だし、互いに姿が確認出来る位置だからいいよね。
授業中だから何か起こる訳もない。ここは学校の敷地内だから不審者もそうそう入ってこないだろうし。久しぶりに開放的な気分になれる。
テンション高く駆け足気味で木の下へ行って、その木にそっと触れてみた。
ひんやりとしてるけど、優しい感じがする。…やっぱり私この木好きだな。
木に背中を預けて、上を見上げる。暖かな木漏れ日が差し込む。そっと見上げて、頭の中に記録して、スケッチブックに鉛筆で下書きしていく。
こんな風にスケッチするのいつぶりだろう?
昔は腐ってた漫画しか描いてないしな~。あ、因みに私、強姦ネタとか嫌いでしたよ?だって、あれリアルで考えると超怖いでしょ。自分がされた時の事思い出しちゃうし。
私が好きだったのは、ほんわかしたラブラブもの。くっつけば幸せ~みたいな。可愛いんだよね。誰かが言ってたよ。BLはファンタジーだって。
どうでも良い事を考えつつ、手はしっかりと動かしていく。
『白鳥さん、絵も上手いんだっ!』
「えっ!?」
背後から予想外の声が聞こえて、思わず振り返る。
そこには授業に出てる筈の猪塚先輩がいた。待て待て待てっ!!今出て来られたら困るっ!!
『な、なんでっ!?先輩授業はっ!?』
『サボった』
えええー…マジですかー…?
授業はちゃんと出ましょうよ~。そんなんだから間違った日本語を間違ってると認識出来ないんですよ~…。
『ねぇ。白鳥さん。触れたりしないから、横に、座っても良い?』
伺いをかけるように、しゃがみ込んで聞かれると、断り切れない。
だってまるで私が悪い子としてるみたいじゃんか。私は、小さく頷く。
『…少し、距離をあけてくれるなら』
『分かった』
条件はしっかり出しておく。すると、猪塚先輩は私の言葉通り少し距離を開けて隣へ座った。
『ねぇ、白鳥さん』
『はい。なんでしょう?』
距離を開けてくれるって約束してるから、怖いは怖いけどまだ普通に話せる。だから、写生をする手を止めずに聞き返すと、彼は膝を抱え、その膝の上に頭を乗せてこちらをみた。
『どうしたら、君みたいになれるかな?』
ん?それはどういう意味?女になりたいって事?だったら、去勢手術したらいいんでない?
…ってそう言う事じゃないよね。うん。分かってるよ。ただ言ってみただけ。
どう言う意味があって聞いたのか分からず、猪塚先輩の方を向くと彼は悲しそうな瞳で笑っていた。まるで心が泣いていそうな…。
『僕も皆と話したり遊んだりしたいんだ。でも…皆僕の顔を見ると逃げて行く。話しかけると怯えた顔をするんだ』
そりゃそうだろうねぇ…。あんな喧嘩腰で話されたら誰だって、ねぇ。
『皆、僕を怖がる。僕は皆と仲良くしたいのに…』
『…それはですね。先輩。貴方が日本語を間違って覚えてるからですよ』
『え…?』
この選択は正しいのか?ここでこれをやると、猪塚先輩の好感度が増々上がってしまう気がする。
でも……こんな悲しい顔をされるとどうしても突き離せないよねぇ…。
『猪塚先輩。日本語で私に話しかけてみてください』
『う、うん。分かった』
自覚させる為には実際に話させてみるのが早い。頼むと、猪塚先輩はこくりと頷き、
「おい、こら、白鳥っ。こっちむけっ」
バリバリに喧嘩腰。普通の小学生だったら怖がります。
『猪塚先輩。今度はイタリア語で同じ風に話しかけてみてください』
『うん。「ねぇ、ちょっと、白鳥さん。こっちむいて?」』
『はい。ありがとうございます。では猪塚先輩。私が今猪塚先輩に話しかけられた日本語をイタリア語に直訳しますね?』
『う、うん』
『「おい、こら、白鳥っ。こっちむけっ」です』
『えっ!?』
猪塚先輩は釣り目を見開いて唖然とする。まぁ、そうなるよね。
『猪塚先輩の日本語は本当に言葉遣いが怖いんです。皆喧嘩売られてるって思っちゃうんですよ。こうして話してるとそんな事ないって分かりますけどね。それでも初めて話しかけられてそんな風に話かけられたら誰だって怖いと思いませんか?』
『怖いね…。うわぁ…僕、そんな風に喋ってたの?うわぁ…』
頭を抱えてしまった。自分の失敗を見せつけられる瞬間って辛いよね。恥ずかしさが雪崩の様にドドドって一気にくるんだよねー。分かる分かる。頑張れ、少年。今が成長時だ。
『ねぇ、白鳥さん。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?』
『…ものによります』
そんな悲しそうな顔しないでよ。仕方ないでしょ。もし、ハイって答えてから『付き合ってとか』何時もみたいに『抱きしめて良い?』とか言われたら抗えないじゃん。
『それで?お願いってなんですか?』
お詫び代わりにあえてこちらから先を促す。すると、先輩は少し嬉しそうに微笑み言った。
『僕に日本語教えてくれない?』
『私がですか?』
予想外のお願いにちょっと驚く。だってまがりなりにも私は先輩の一個下。前世の記憶があるにしても、それは猪塚先輩の知らぬ事。そんな私にお願いする?普通。
『うん。白鳥さんに教わりたい』
『って言っても、猪塚先輩、私一年生ですよ?午前中で帰っちゃいますし、正直家帰ってからの方が家事とかで忙しかったりしますし。先輩だって部活あったりしますよね?時間的に難しいんじゃないですか?』
諦めてーと願いも込めて言ってみるが、先輩は頭を振って私の意見に真っ向から反撃してきた。
『だったら、先生にお願いするっ!一週間に一時間だけどうにかして貰うっ!だからっ!』
このまま断り続けたら何か土下座でもされそうな雰囲気である。正直、猪塚先輩と二人っきりってのは避けたいけど、でも、もしかして、ここで先輩の言葉遣いを修正し先輩の交友関係を広げておけば、私と言うヒロイン以外にも女の子に対する視野を広げる事が出来るかも知れない。
そうなれば私の脅威は一つ減る事になる。それはとてもありがたいのでは…?華菜ちゃん、打算的ってのはこういう事を言うんだよ。お願いだから華菜ちゃんは悪い大人にならないでね。
心の内で関係ない方に謝罪しつつ、
『分かりました。先生を説得出来たなら、私で良ければ、お勉強にお付き合い致します』
断言する。すると、猪塚先輩の瞳が一気に光り輝き、その顔には満面の笑みが浮かんだ。
『ありがとうっ!白鳥さんっ!』
お礼を言われて悪い気はしない。こくりと頷き微笑む。
この一瞬の気の緩みが運の尽きだった。
両手を広げた猪塚先輩に気付く事が出来ず、その腕にしっかりと抱きしめられてしまった。
「ひっ!?」
目の前に猪塚先輩の胸がある。棗お兄ちゃんより少し小さいその胸板だけど、私には恐怖にしか感じられない。
「いやっ!離してっ!」
まだ恐怖が完全に体を支配する前に、怖い記憶がフラッシュバックして脳内を支配する前に、何とか離れようともがく。
『震えてるの?…可愛い』
ぐっと顎を掴まれ上を向かされる。猪塚先輩と視線がかち合い、その瞳の奥に欲の色が見えて、私の体は益々恐怖に慄いた。
そっと近づいてくる猪塚先輩の顔。この状況は身に覚えがあり過ぎる。キスだ。前世でファーストキスは変質者なおっさんだった。
今回は顔も綺麗な男の子だからマシだろうか?ってそんな訳ないじゃんっ!!
顔を背けたくても、顎に指をかけられて抑えられてる限りは無理。なら、これしかない。
―――ゴンッ。
私は頭を突き出した。猪塚先輩の口に私の額がぶつかる。
「~~~ッ!!」
痛がっている今がチャンス。私は猪塚先輩を突き飛ばし素早く立ち上がり、スケッチブック片手に逃げ出した。
校舎の中に駆け込むと、猪塚先輩と二人っきりになった私を心配してくれた華菜ちゃんと遭い、私は全力で華菜ちゃんに抱き着いた。
男性恐怖症は今の所男子生徒と一定の距離を保つ事で何とかやり過ごしている。
それに朝は葵お兄ちゃんと棗お兄ちゃんと登校して、玄関で華菜ちゃんと会って一緒に教室へ行くから男の子と接点がないのも幸いしている。
生物委員に指名されていた華菜ちゃんは、朝教室へ来ると学校で飼っている生き物の世話に教室を出て行ってしまう。一人で教室に残りたくない私は付いて行って華菜ちゃんと一緒に動物のお世話をする。ここまでが朝の日課になりつつあった。にしても、この学校は凄いんだよ。生物委員ってほら、動物のお世話するじゃない?例えば、ウサギとか鳥系とか、ハムスターとか犬とかの所もあると思うけど。こう…小動物ってイメージがあるでしょ?
ところがどっこい。この学校。何故かダチョウとカピバラと鰐がいる。どうやって世話すんねんっ!!
誰よ、最初飼おうって言ったのっ!!お兄ちゃん達に聞くと、お兄ちゃん達の時代にはもういたんだって。どゆことっ!?
せめて家畜なら自分を納得させれたものを…。あぁ、でも、飼育員さんが――子供だけで世話出来る訳ないので、ちゃんとした飼育員もいます―――ダチョウが卵産んだらくれるって言ってたな。
ダチョウの卵食べた事ないからちょっと気になる。それに鰐。ここの鰐ほんっとに人懐っこくて不本意だけど可愛いんだ。ジュリエンヌちゃんって言うんだけど、お手もしてくれると言う賢過ぎる鰐。因みにカピバラは常にまったりしてる。
色々規格外。
そんな学校だって慣れてしまえばどうって事ないっ。前世を持ってる人間の順応力舐めるべからずっ!
今日も餌やりから戻り、私は華菜ちゃんと二人教室へ戻る。
すると、入学1か月目にして、初めての事件が勃発していた。
「全く、金しか能のない奴らはこれだから」
「なんだとーっ!!」
「事実を言ったまでですよ。あぁ、事実って言葉が解らないかもしれませんね。『ほんとうのことをいった』と言ったんですよ」
「きさまぁっ!!」
多分庶民派と言われてる男子と貴族派と言われてる男子が小競り合いの末、殴り合いの喧嘩にまで発展したんだろう。
なんとまー、元気な事。
「ど、どうしようっ、美鈴ちゃんっ」
この争いに一切関係ないのに何故か華菜ちゃんがあわあわしている。そんな所も可愛いけれど。
「ほっとこう。今あの争いに参加した所でトバッチリを喰うだけだよ」
華菜ちゃんの手を握って教室の自分の席に行こうとするけど、華菜ちゃんがピタッと足を止めた。
「でも、いいの?美鈴ちゃん」
「え?」
「美鈴ちゃん、学級委員長でしょ?先生に怒られない?」
……しまった。すっかり忘れてたよ。まだ一度も招集がないからクラスの仕事しかしてない所為で学級委員長の自覚が全くなかった。
ついつい天を仰いでしまう。
「……はぁ。ごめん、華菜ちゃん。私、職員室行ってくる…」
「うん。いってらっしゃい」
手を離して、私は今来た道を戻る。
職員室は、2階。玄関の真上だ。
下校時の生徒を見る為なのか何なのかは分からないけど。分かりやすくてこっちとしては有難い。
階段を上り、ノックをして職員室へ入る。
すると、先生の視線が一斉に私へ向けられる。やめてー、怖いからやめてー。男の先生はあっちむいてー。
体がふるふると震えて、思わず開けたドアに隠れてしまう。
廊下からひっそりと中を覗くと、先生が近づいて来てくれた。
「どうしたの?白鳥さん」
あぁ、担任教師が女で良かった…。ホッとする。
「あ、あの、先生。クラスで男の子達が拳で語らい合ってます」
「へ?」
一瞬何を言われたか解らんとはてなを浮かべた呆け顔をしていたけれど、直ぐに理解、表情を立て直して教室へ走った。
先生、廊下は走っちゃいけないんですよね?
そして、置いて行かないでください。
私は一礼して、ドアを閉めた。
「あれ?鈴?」
後ろから声がして、振り返るとそこには棗お兄ちゃんが立っていた。
「棗お兄ちゃんっ」
職員室と言う大人の男の集団エリアから抜け出した私には神様に見えて、そのまま抱き着く。
「珍しい所で会ったね」
抱き着く私を抱きしめ返して、頭を撫でてくれる。棗お兄ちゃんだーっ!私の癒しだーっ!
すりすりすり…。おでこを擦りつけると、棗お兄ちゃんはクスクスと笑う。これもいつも通りだから嬉しい。
ぎゅぎゅーっ。……ん?
棗お兄ちゃんに会えたのは嬉しいけど、そう言えば、棗お兄ちゃんだって用事あってここにいるんだよね。いけないいけない。
「ごめん。棗お兄ちゃん。つい嬉しくて抱き着いちゃった。用事あったんだよね。職員室に」
「うん?あぁ、まぁそうだけど。大丈夫。鈴をこうして癒す位の時間はあるよ」
うぅぅ…棗お兄ちゃん優しい…。
「鈴のクラスは男子が多いから心配だよ。家に帰っても大丈夫しか言わないし。無理しちゃ駄目だよ?」
「うんっ。正直、男子ばかりで常に緊張状態だけど、近寄られなきゃなんとかなるし。近寄らないしっ。頑張るっ」
「そう。…鈴、いつでも僕のクラスに来ていいからね」
棗お兄ちゃん、優しいよぉー…。
本当に行く時が来るかもしれないけど、そうならないように私頑張る。頑張るからーっ!
棗お兄ちゃんに礼を言って、もう一度抱き着いて癒しを十分に充電してから私は教室へ戻る。
先生の説得のおかげか喧嘩は収まっており、それを確認して私は席に座っている華菜ちゃんの側へ寄った。
「お疲れ、美鈴ちゃん」
「ただいまー」
朝から疲れ切ってしまった。途中で棗お兄ちゃんから癒しを充電出来なかったら増々疲れ果ててたと思う。
取りあえず、棗お兄ちゃん癒しパワーで1時間目の算数は何とか乗り切った。
2時間目は体育。
更衣室へ体操服を持って華菜ちゃんと仲良く向かっていると、体育館前が何やら騒がしい。
そこを通らないと体育館に隣接している更衣室へ行けない。
一体なんなのか。そう思って近寄ってみると、
「この庶民がっ!」
「脳足らず貴族がっ!」
終わったと思っていた争いが再び勃発していた。なんでこー争いたがるのかしらねー。
しかも扉の前でこんな堂々とやられてたら、私達行けないじゃない。
「…あ?何っ見てんだよっ」
「白鳥か。今朝は余計な事をしてくれたな」
ビクッ!!
二人がこっちを睨み、一歩踏み出してくる。
「こ、こっち来ないでくれるっ!?」
慌てて近寄られた分だけ退く。睨まれる事より近づかれる方が怖い。いくら小学一年生の男の子とは言えど、怖いものは怖いよっ。
「美鈴ちゃんっ、行こっ」
震える私の手を掴み、華菜ちゃんは男子2人の横を堂々と擦れ違う。
「おい、きさま…。庶民のぶんざいで俺サマのヨコを通るとはナニゴトだっ!」
「五月蠅いなぁ。遅刻しちゃうから横を通っただけだよっ。貴方達も遅刻しないようにしなさいよっ、それじゃっ」
か、華菜ちゃん、かっこいいっ!!凄いっ!!男の子相手にあんなに強気に出れるなんてっ!!
でも、復讐されないかお姉ちゃん心配だよ?
そして、その心配は現実のものとなった。
今日の体育はドッジボール。男子と女子混合で、クラスを4分の1に割って試合をする。
勿論私は華菜ちゃんと同じチームになった。そして何故か同じチームに今日争っていた片割れである庶民派男の子と相手チームには貴族派であるあの男の子がいる。
今日は厄日なんだろうか。
朝から酷い目にしか遭っていない。
試合が開始されて、私と華菜ちゃんはギリギリでボールを回避していく。男の子からのボールだ。当たれば結構痛いと思う。
避けて、投げて、避けて…。
繰り返していた、その時。
いい加減、当たらない事に焦れたその男の子は何故か野球ボールを取り出した。
ちょっと、ちょっとっ。それ当たると絶対痛いじゃないっ!!
先生っ、先生はっ!?
って、もう一方のチームを見てるしっ!!
これ下手するとリンチだよっ!?
と、とにかく、華菜ちゃんだけは守らないとっ!!
ドッチボールのボールを他の男子が投げ、そいつが野球ボールを私に向かって投げてくる。
それは上手く回避出来たけど…―――っ!?
そいつがもう一つ野球ボールを取り出して、
「華菜ちゃんっ!!」
投げられたボールと私の叫び声は同時だった。
咄嗟に華菜ちゃんを弾き飛ばし…。
「きゃっ!?」
華菜ちゃんの声が聞こえ、
―――ガンッ!
頬に衝撃が走った。
「―――ッ!」
まるでスローモーションのように鈍く感じた感覚が、痛みによって私を我に帰させる。
口の中が鉄臭い。どうやら口の中も切っちゃったみたいだ。衝撃で倒れなかった自分に流石と言いたい。
「美鈴ちゃんっ!大丈夫っ!?」
私に弾き飛ばされ転がった華菜ちゃんが慌てて駆け寄って来た。
「華菜ちゃん、ごめんね。思い切り弾き飛ばしちゃって…怪我、ない?」
「私の事はいいよっ!それより、美鈴ちゃんっ、血がっ!」
野球ボールだけでこんなになるかな?子供の力で投げてるんだよ?だとしたら…。
私は投げられたボールを掴み、触り心地を確かめてみる。やっぱりこれ、おもちゃの野球ボールだ。ゴム製の。しかもその中に石が入ってるっ!!
「これ、石が入ってる…。華菜ちゃんに当たらなくて本当に良かった…」
心底ほっとした。
あのまま私が華菜ちゃんを弾き飛ばさずにいたら、あのボールは華菜ちゃんの目に当たってた。間違いなく目に障害を残したと思う。
良かった。本当に…。
「ちっ。なんだよ。そっちの女に当てたかったのに」
「……何ですって?もう一度言って?」
今聞きたくない言葉を言われた気がする。
睨み付けると、男の子はふんっと鼻で笑った。
―――腹が立った。
ここまで腹が立ったのは久しぶりだ。
前世込みで何年ぶりだろう。
「華菜ちゃんに当てたかった?そう言ったの?…ふぅん、そう…」
この石入りのボールを、華菜ちゃんに?
すっと、頭の中が冷え、私はにっこりと笑った。
「ドッジボール、続けようか。私は当たったから外野だよね?」
転がっていたドッジボール専用のボールを拾って、茫然としている華菜ちゃんに渡して私は外野に回る。
そして、握っていたその石入りボールを力の限り投げつけた。
―――バキィンッ!
「ヒッ!?」
男の子すれすれで当たらずに、その石は体育館の壁に減り込んだ。へなへなと力を無くしそのお貴族坊ちゃんは座りこむ。
「どうしたの?ドッジボールするんでしょ?ほら、立ちなさいよ」
減り込んだボールをわざわざ取りに行き、手の上で跳ねさせる。
「さっさと立ちなさいよ。何座り込んでるの?逃げないなら次は当てるよ?華菜ちゃんが味わった恐怖を君も味わうべきだわ。何事も平等にしないと、ねっ!」
―――ベキッ!!
男の子には当てないようにまた体育館の、今回は床を凹ませる。
「う、うわあああああんっ!!」
男の子が泣きだした。まぁ、怖いよね。怖くした訳だし。
その騒ぎで漸くこちらの事態に気付いた先生が駆け寄って来た。
泣き騒ぐその子へ目をやって、そして私の顔を見て目を見開く。
「し、白鳥さんっ、その顔っ!?」
「そこに減り込んでるボールに当たりました」
そう言って指させば、先生はそのボールを手に取り触り心地を確かめて、綺麗な顔を歪ませた。
ボールには律儀に貴族派の男の子の名前が書いてあるから、この状況は理解出来るだろう。ってか、して貰わないと困るよ。
「詳しく話を聞かせて貰うわよ」
怒りだした先生に、何故か華菜ちゃんが待ったをかけた。
「そんなの後です、先生っ!まず美鈴ちゃんの手当てが先でしょっ!」
「えっ!?あ、あぁ、そうねっ!そうだわっ!」
焦ってるね、先生。多分、私の事あんまり考えたくなかったんだろうなぁ。先生、今回が初担任って言ってたし。そもそも初めての学校勤務がここってのも可哀想だよねー…。同情するわー…。
ここは一つ。大人な私が空気を読んであげようじゃないか。さっき大人げなく怒って小さな男の子をいじめたじゃんとか言わないようにっ!
「先生。私一人で保健室行ってきます」
「えっ!?でもっ」
「大丈夫です。当たったの顔だし、普通に歩けますから」
微笑む。でもやっぱり何故か華菜ちゃんが待ったをかけた。
「じゃあ、私が一緒に行くっ」
泣きそうに立候補する華菜ちゃんがこんな時になんだけど、可愛い。でも、今ついて来られたら私としては困るのです。
なので、華菜ちゃんにそっと耳打ちした。
「あいつら、好き勝手に理由つけて私達が悪いとか言いがかり付けてきそうだから、華菜ちゃん、見張っといて。お願い」
「…美鈴ちゃん…。分かったっ。任せてっ」
大きく頷いてくれた事に、胸を撫で下ろし私は体育館をあとにした。
体育館を脱して、数歩歩いて、
「いってぇー…」
ようやく本音を出せた。頬に手をやって触れると尚更痛い。とりあえず水飲み場へ行きハンカチを濡らして頬につける。
うぅぅー…痛いよぅ…。
石とかホント馬鹿じゃないのー…。小学生の悪戯って怖いわー。前世でテレビで流れてた小学生の虐めは過激ってホントだよねー。世も末って奴?怖いわー…。
痛みを自覚すると足に来る。ふらふらと歩きながら保健室のある生徒用玄関横へ何とか辿り着く。
コンコンとドアを叩き、流石に口を動かす気になれないので無言で中に入ると、保健の先生が振り向いた。
わお。結構なご老人。っと失礼。ご年配の先生ですね。
髭まで白髪な保健の先生は私を見て、先生にしてはハイスピードでよぼよぼと近寄って私に椅子に座る様に促した。
ん。これなら最初から座りなさいって言ってくれた方が速いです。先生。
私が進んで椅子に座る間に、手当てをする為の道具を取りに行こうと薬品棚に移動する。
が、これまた遅い。すると、ベッドを覆い隠していたカーテンがシャッと音を立てて開かれた。
そこにはオレンジの髪をツンツンに立てた人相の悪い男の子がいた。
「なにしてんだ、爺。とっとと薬出せよっ。俺にやらせるのか?あぁ?」
口悪っ!?
そう言いながら、薬品棚の前にいる保健の先生の横に立ち、指さしながら必要な物をトレイに載せている。
凄いツンデレなのかしら?
保健の先生もほっほっほと笑いながら嬉しそうだし。保健の先生の手を引っ張りつつ、その子は先生を椅子に座らせて、その横にある椅子に座った。
『…痛そう…。折角可愛い顔してるのに…』
ぼそりと呟く。イタリア語?この子もしかしてハーフ?
この乙女ゲームの世界だと髪色とか見た目でハーフかどうかの判断がつかない。
だってこぞって皆美形なんだもの。
でも、がっつりイタリア語話してる彼は多分、ハーフかもしくは帰国子女か。どちらかであろう。
「さ、怪我をみせなされ」
言われて、ぐきっと首を強制的に動かされた。横を向くとハーフの子と顔を向き合わせる事になり、どうしたものかと一瞬戸惑う。
すると、彼はにっこりと笑ってくれた。
『ほんとに可愛い子だな…。名前、何て言うんだろう…』
褒められてるのは嬉しいけど、あんまり顔を近寄らせないで下さい。お願いします。怖いっす。
それと、イタリア語が解らないと思って言ってるんでしょうが、はっきりと分かってしまうのでちょっと自重して下さい。恥ずかしいので。
物凄くスローペースで手当てされて、出来たと言われてもつい不安になってしまうのは仕方ない。
口の中の切れた場所にも良く解らない薬を塗られて、口の中に苦さが広がる。良薬口に苦しって奴かね?でも本当に良薬ですか?
とりあえずは手当をされたので、胸を撫で下ろし、体育が終わるまでここにいなさいと言われたので、ソファに腰かける事にした。
あぁ、そうだった。忘れてた。
男の子をじっと見る。
「あん?何見てんだよっ」
『名前を聞いていたから、自己紹介しようと思って。白鳥美鈴です。一年です』
イタリア語で自己紹介をすると、その男の子が瞠目した。
『私もお名前を聞いても宜しいですか?』
訊ねると、首がもげるんじゃないかって心配になる位、激しく頷いてくれた。
『かなめっ!猪塚要っ!ねぇねぇっ、白鳥さんっ!僕の言葉分かるのっ!?』
分かるっ、分かるからっ。だから、あんまり詰め寄らないでーっ!
ソファの隣に正座してこっちに迫ってこないでーっ!
大きいソファだから、人一人分の距離を離れてから私は頷く。
『どうしようっ、嬉しいっ!家族以外で初めてだっ!僕の言葉を分かってくれるのっ!』
そ、それは良かった。ので、ちょっと離れてください。
『あ、あの、猪塚先輩?ちょっと離れていだだけると嬉しいんですが』
『どうしてっ!?』
どうしてと来たもんだ。怖いからに決まってる。
さっきから迫りくる猪塚先輩への恐怖と、男の人しかいない空間での気持ち悪さと、怪我の痛みで鳥肌やら吐き気やらで私実は限界に近いんです。
『お、お願いですから、離れてください』
もう土下座でも何でもするので、解放してください。
泣きそうで、少し上にある先輩の顔を視線だけで見上げお願いすると、先輩は何故か顔を赤らめた。
『可愛いっ!』
先輩の両腕が伸びて来て、私は思わず立ち上がり逃げた。
『白鳥さんっ?どうしたのっ?』
ふるふると頭を左右に振って、とにかく近寄るなと訴える。
けれど、それは通じない。意味が分からずに先輩は私に近寄ってきた。
『白鳥さん、僕、君を抱きしめたい』
どストレートだねっ!でも、無理っ!!
どうしようっ!?
迫りくる先輩に、逃げたい一心で周りを見た、その時。
―――キーンコーンカーンコーン…。
タイミング良く、チャイムが鳴り響いた。
チャンスだっ!
私は保健室の入口まで走り、「失礼しましたっ」とちゃんと挨拶だけして、駆け抜ける。
休憩時間に入り、男子生徒が廊下を歩きまわっていて、恐ろしさに体が震えた。
『…鈴、いつでも僕の教室に来ていいからね』
ふと棗お兄ちゃんの言葉が脳裏を過る。
無意識に足をそちらへ向けて走りだしていた。安息地を求めて。
階段を駆け上がり、三階にある三年生の教室の一つへ向かう。
そして、運よく棗お兄ちゃんは廊下へ出て、誰かと話をしていた。
全力で棗お兄ちゃんの背中に跳び付く。
「おわっ!?誰…って、鈴?」
棗お兄ちゃんが振り返って、私を確認したのが分かる。
「棗お兄ちゃん…うぅ…」
「ちょ、ちょっと、鈴。落ち着いて。どうしたの?」
あぁ…安心する。離したくないよー。お家帰りたいよー。もしくは教室に棗お兄ちゃんをお持ち帰りしたいよー…。
必死にマイナスイオンを吸収していると、棗お兄ちゃんの苦笑が聞こえた。
「すーず。一度手離して」
安心させるように、私の手を数回撫でてくれる棗お兄ちゃんに従い、ゆっくりと手を離す。
すると、くるっと振り向いた棗お兄ちゃんが私の顔を見て、すぅっと笑いを消して、目をキリキリと釣り上げていった。
忘れてました。怪我の事。
「鈴…。これ、どうしたの?」
「…………えへ?」
「えへじゃない。誤魔化されないよ。―――誰にやられたの?」
棗お兄ちゃん、怖いです。ママに怒り方似て来てませんか?超怖いのです。
「へぇ、これが白鳥の妹か。可愛いー」
「綺麗な顔が台無しじゃん。可哀想に」
「ちょっと、君達黙っててくれる?」
棗お兄ちゃんの友達達が場を和ませてくれようとしたのに、一刀両断。しゅんとしちゃったよ。なんか、ごめんね、私の所為で。
仕方なく、私は事の顛末を棗お兄ちゃんに一から説明した。
「ありえないっ。鈴の顔にこんな、こんな傷つけるなんてっ!」
「いや、あのね、棗お兄ちゃん。私が棗お兄ちゃんに癒しを求めたのは、その…猪塚先輩が怖かったからであって。顔を傷つけられたのは別に…」
気にする事でもないんだよね。
これで乙女ゲームのストーリーから外れるのなら何の問題もないって言うか、むしろ万々歳?
いっそ傷が残ってくれた方が私的には有難いのですよ。それより、男子が迫ってくる方が怖いのです。
「猪塚でしょ?それなら僕がどうとでも出来るから、安心していい」
「そ、そうなの?」
「あぁ。部活の後輩なんだ。あとで絞めておくから」
にっこり。絞めるってあれ?シめておくって、懲らしめておくって事だよね?おかしいな?棗お兄ちゃんの言い方が首を絞めるとかそう言う感じに聞こえるのは気のせいかな?
そんな爆弾を落とした当人は私を抱きしめて、ただただ頭を撫でている。
…気のせいって事にして、私は棗お兄ちゃんからマイナスイオンを吸収しよう。そうしよう。
ぎゅぎゅーっと抱き着く。
「鈴。次の授業が始まるから、とにかく着替えに戻ろう?僕も一緒に行くから」
あ、そうか。そう言えば私体育着のままだった。しかもまだ二時間目。今日は四時間目まであるからあと二教科授業がある。
棗お兄ちゃんは私を抱き上げて、少し早足で体育館へと向かってくれた。
更衣室へ入り、手早く着替えて、外に出る。
てっきり戻ったのかと思っていた棗お兄ちゃんは外で待っててくれて、心配してくれている事に嬉しくなって思わず抱き着いた。
それでも嫌な顔一つせず、微笑んでくれる棗お兄ちゃんはやっぱり神様だと思う。
性格の悪い神様。どうか、棗お兄ちゃんに私なんかよりもっと良いお嫁さんが来てくれますように。
私を抱っこして再び抱き上げた棗お兄ちゃんは真っ直ぐ私の教室へと向かってくれた。
ガラッと教室のドアを開けると、注目が集まる。
棗お兄ちゃんは私を降ろし、にっこりと笑って額にキスをした。
そして、その笑顔はすぐさま切り替わり、
「…僕の妹を傷つけたのは誰か、知らないけれど。次、美鈴に怪我させたら―――『消す』から。憶えといて」
笑顔のまま黒い刃物のような視線が私の頭上を通過して背後に突き刺さる。
そしてもう一度柔らかい笑顔を私に向けて、頭を撫でると颯爽と去っていった。
棗お兄ちゃん、かっこいい。私もあんな男になりたいっ!…いや、女だから無理だけども。
「美鈴ちゃんっ」
泣きそうな声で名前を呼ばれ、振り返るとそこには華菜ちゃんが立っていた。
そのまま私に抱き着く。良かった。あれから華菜ちゃんが怪我するような事がなくて。
「ごめんね、華菜ちゃん。あんな空気の中おいてって」
謝りこちらからも抱きしめると、華菜ちゃんは耳の横でぶんぶんと頭を振った。
華菜ちゃんの為なら三つ編み攻撃を耐えようともさっ。
「美鈴ちゃんは謝る必要ないっ。悪いのはみ~んな、あそこの馬鹿二人っ!」
「ず、随分とハッキリ言うね、華菜ちゃん」
お姉ちゃんびっくりだよ?
「だって本当の事だもんっ!美鈴ちゃんには悪いけど、言ってやったわっ!あの馬鹿にはっ」
そう言って指さす先には、クラス1賢いと自称している庶民派の男の子。
ビクリと肩を震わせて、怯えた顔でこっちを見ている。
「美鈴ちゃんが今年の新入生の中で断トツ一位入学したって事をしっかり言ってやったしっ、あの馬鹿にはっ」
更に指を移動させた先には、クラス1金持ちだと自称している貴族派の男の子。
ヒィッと悲鳴を上げて、顔面蒼白で首を振っている。
「美鈴ちゃんが、白鳥財閥の後継者候補だって言ってやったわっ!!」
白鳥財閥の後継者候補って…。いや、まぁ、あの親戚一同に継がせるよりはいいかもだけど、でも、私より優秀なお兄ちゃん達がいる訳だし…ねぇ。
「美鈴ちゃんが学級委員長になったのにも、そう言う意味があるってのに、それさえも知らない癖に、何が賢いよ、何が貴族よ、馬鹿じゃないのっ!!」
「え、えーっと…華菜ちゃん?どうどう…落ち着いて?」
まるで暴れ馬だわ。華菜ちゃんって怒るとこうなるんだー。新たな発見。
「でもっ!」
「私は、華菜ちゃんが守れただけで十分だよ。それに華菜ちゃんが私の為に戦ってくれて凄く嬉しいし」
そう。嬉しいんだ。だって前世で女の子の友達っていなかったし。ネットを通じて腐った仲間は数人いたけれど。
「あのまま華菜ちゃんにボールが当たって、万が一失明とかしちゃったら、私ショックだわ。きっとそっちの方がこんな傷よりずっとずっと辛い」
「…美鈴ちゃん…。…私、決めたっ」
「へ?何を?」
「美鈴ちゃんに忠誠を誓うわっ!!」
「………は?」
流石小学生。話の飛び方についていけないわ。
なんでいきなりそんな話になったの?
しかも忠誠って。時代背景なんか違うくない?何かそれっぽい本でも読んだ?華菜ちゃん。
「絶対、絶対、私はどんな事があっても、美鈴ちゃんを裏切ったりしないからっ!!」
「う、うん。ありが、とう?」
う~ん…。良く解らないけど、ずっと友達でいてくれるって事、だよね?
だとしたら、嬉しい。
私と華菜ちゃんが抱き合ってると、チャイムが鳴り、同時に先生が入って来た。
傷は平気かと言われ、しっかりと頷き華菜ちゃんと二人仲良く席につく。
三時間目の国語の授業が開始された。
今更な内容で、私は酷く眠い。
そんな時、ふと隣を見ると華菜ちゃんが私の視線に気付き微笑んだ。うん、可愛い。お礼に微笑み返すと、奥の方で何やら「う…」と息を呑む声が聞こえた。
なんなんだろう。持病の癪かな?…ネタ的に古いか?
そう言えば、華菜ちゃんって、三つ編み解くとどうなるのかな?やっぱりこうふわふわの…ん?何か今頭に何か過った?
エイト学園の制服を着た、華菜ちゃんの姿…眼帯をつけた……―――あ。
思い出した。
華菜ちゃんの立ち位置。
花崎華菜(はなさきかな) 高校一年生。ヒロインの親友で、情報屋。攻略対象などの情報を持っている。選択肢や服のコーディネートなど困った事があった時電話すると情報をくれる。
情報屋だったんだ。確か、小学校の時男子の虐めで片目を失明しているから眼帯をつけてるんだよね。それで卑屈になってた所をヒロインが気にも留めずに接していたから、親友関係になった。
…そうか。前世の時、そんな酷い目にあったのかとゲームキャラながら同情したものだけど、そうか、そぉうか…。あいつらが失明の原因だったのか。
今回は本当に華菜ちゃんを庇って良かった。これで華菜ちゃんの悩みは何もなくなるんだねっ。痛い思いをした甲斐がある。
痛い思い…痛い思いと言えば、さっきは恐怖でまともに頭が回転しなくて思い出せなかったけど。
猪塚先輩。彼は間違いなく攻略対象キャラのあの猪塚要であってるとおもうの。
今こうして冷静に考えてみるに、色々思い出せた事がある。
猪塚要(いのづかかなめ) 二年生。生徒会会計。母親が日本人で父親がイタリア人のハーフ。幼い頃イタリアで育ち、三流任侠ドラマを見て日本語を覚えた。その為、日本語で話そうとすると言葉遣いが最悪になってしまう。イタリア語で話すと紳士的。見た目オレンジ髪逆立て、目つきも最高に悪い所為で良くチンピラに絡まれる。喧嘩は強いが中身がヘタレの為喧嘩には向いていない。
あーあー…納得。そうだそうだ。彼ってギャップが凄すぎたんだ。だから、名前が記憶に残ってたんだ。私、このキャラ私『好きだったから覚えてた』んじゃなくて、『苦手』だったから覚えてたんだ。
恋愛には凄く押せ押せなんだよね。対他人に対してはヘタレる癖に、対想い人に対してはそれはもう押せ押せで、ウザい。
好感度が上がれば上がる程、月一デートのお誘いが、週一になって、毎日になる。もうこっちから電話かけてデートに誘う必要がなくなるくらい、お誘いが来る。ウザい。愛の国恐るべし。
そう言えばパラメータってどうだっけ?…あぁ、そうそう。
猪塚要(いのづかかなめ) 必要パラメータ。文系MAX状態からの限界突破アイテム『イタリア語入門編』を入手してMAX値を更に伸ばした状態で文系をMAXにする必要がある。それから優しさを四分の一以上必要。
この人はイタリア語と日本語のギャップを知る必要があるから、アイテムを入手してイタリア語を覚える必要があるんだ。まぁ、入手はこの人との恋愛を進めていけば、自然と手に入るからそんなに難易度は高くない。他のパラメータ無視して文系だけ上げていけばいい訳だし。
イベント場所、どこだったかなぁ…。思い出せない。
神様得意の記憶フィルターですね。いい加減にしろ、この野郎。
っといけない。ついつい本音が。安心してください、神様。色々腹は立ってますが、もう一度ママと親子になれた事で多少の事は許します。この先の保証はありませんが。
…ちょっと待って?
神様の件はこの際置いといて。
私、先輩との出会い迎えちゃったんだよね?
で、私は前世の記憶の所為でもともとイタリア語が分かる。と言う事は…?
いやいやいや。まさか。そんな、ねぇ…?
棗お兄ちゃんもどうにかしてくれるって言ってたし。大丈夫だよね。きっと…。
嫌な予感に机に突っ伏した私は、先生に見つかり、あてられて教科書を読む様に言いつけられた。
すっかり頭の中が猪塚先輩の事で一杯になった私が、ついついイタリア語で国語の教科書を読み上げてしまい、クラス中を凍らせてしまったのは仕方ない事だったと思います。
なんだかんだで授業が終わり、帰りの会も終わった。
さて、帰ろうかと隣にいる華菜ちゃんに言おうと振り返った瞬間、ドアが盛大な音を立てて開かれた。
『白鳥さんっ!デートに行こうっ!!』
なんか来たーっ!?
咄嗟に華菜ちゃんの背後に隠れる。
キョロキョロと私を探すような仕草を見せる猪塚先輩に私は益々華菜ちゃんの後ろで震える。
だが、何分私は華菜ちゃんより身長が高い。このクラスの女子の中で一番背が高いのです。華菜ちゃんは逆にクラスで一番小さい。
『あ、白鳥さん、見つけたっ』
隠れられる訳ないよねーっ!
あっさりと見つかってしまい、私は華菜ちゃんに抱き着いた。
「美鈴ちゃん?」
そりゃ不思議に思うよね?いきなり隠れて抱き着いて、しかも教室に変な上級生が来たらそう思うよね。でもお願い匿ってーっ!!
早足で猪塚先輩は華菜ちゃんの前に立ち、隠れている私を覗き込んだ。
『白鳥さんっ!デートに行こうっ!』
『む、無理です。無理無理っ』
即行で断る。だってあり得ないものっ!無理なものは無理っ!
『どうして?それに何で隠れてるの?出ておいでよ。君が抱きしめる相手は僕がいい』
ひいぃぃぃっ!!無理無理っ!!
「美鈴ちゃん。一体なんて言ってるの?分からないよ」
華菜ちゃんが首だけで振り向いて言うので、今の会話をそのまま日本語で伝えると、華菜ちゃんは大きく頷き、
「よしっ!変態はおいて私達は帰ろうっ!」
はっきり断言した。
華菜ちゃーんっ!!私の天使ーっ!!
『白鳥さん、帰るのっ!?じゃあ、僕もっ』
上手く話せないだけで日本語は分かる筈なのに、何故変態の部分は華麗にスルーした?
ってか、ついて来ないで下さいっ!!
もういっそ走って帰ろうか、そう思った時。
「猪塚っ!」
入口から声が聞こえた。聞き慣れた声だけれど、こんな風に怒りを交えて張り上げられてるのは初めて聞いた。
「ちょっとこっち来い」
棗お兄ちゃんが教室の入口で、壁に凭れながら指先だけで来い来いと示している。
腕組んでそうする姿は本当にかっこいい。流石私のお兄ちゃん。って言うか、ぶっちゃけ鴇お兄ちゃんそっくり。
「あぁ?白鳥先輩がなんでここにいんだよっ!?」
棗お兄ちゃんに眼を飛ばす猪塚先輩。傍からはそう見えるだろう。でも彼、本当はこう言いたいのである。
はい?どうして白鳥先輩がここに?と。日本語を間違って覚えてる彼はそう話しているつもりなのです。眼を付けてる訳ではないのです。ただ目つきが悪いだけなんです。
「どうして?おかしなことを言うな。ここは『僕の大事な妹』のクラスだ。部活で僕は言わなかったかな?妹に手を出したら殺すって」
にこにこ顔の奥にある殺意。って言うか棗お兄ちゃん、そんな事言ってたんですか?
『白鳥先輩の妹…?』
『はい』
今気付くの?苗字同じでしょーよ。
『あー…そっか。だからそんなに可愛いんだっ!』
意味わからんっ!!変な納得しないでっ!!今はそこじゃないでしょっ!!
『白鳥先輩が義理のお兄さんか。うん。幸せな家庭になるねっ!!』
ならないってのっ!!棗お兄ちゃんのあの黒い笑顔が目に入らぬのかっ!?
『僕白鳥家に婿養子?いや、でも出来れば白鳥さんをお嫁に貰いたいな…。白鳥さんの花嫁姿?…絶対可愛いよねっ!!』
うへーいっ!妄想ストップっ!やめてーっ!!
『それはそれとして、デートに行こうっ!!』
「うぇっ!?」
華菜ちゃんを間に挟んででも私を抱きしめようと伸ばされた腕。
それを助けてくれたのはやっぱり棗お兄ちゃんだった。
猪塚先輩の頭を背後からわしづかみにしている怒れる棗お兄ちゃん。
「…鈴。今何となく腹が立つ様な事言ってなかった?こいつ」
棗お兄ちゃん。凄い直感ですね。
「教えてくれる?」
「う、うん。えっとね…」
猪塚先輩の妄想を…もとい、独り言の内容を棗お兄ちゃんに教えると、その黒い笑みすら消え失せ、素直に怒りの顔に変わった。
「良い度胸してるな。猪塚。…今日は特別に念入りに鍛え上げてやるよ。僕直々に」
「う…」
「それに、君は二年だろう?午後の授業があるはずだ。行くぞ」
頭を掴んだままズリズリと棗お兄ちゃんは猪塚先輩を連れて行く。
「あ、そうだ。鈴」
「え?な、なに?」
何時もの優しい声で呼ばれ、そのギャップについつい慌ててしまう。
そんな私の態度を気にも留めず棗お兄ちゃんは優しく微笑んで、
「今度僕にイタリア語教えてくれる?こいつ叩きのめさなきゃいけないからね」
とイタリア語講座を申し込んできました。きっと後半の言葉は私の聞き間違いなんでしょう。えぇ、きっと。
「うんっ、分かったっ」
「ありがとう」
にっこりと微笑む棗お兄ちゃんはいつものお兄ちゃんなので、さっきの言葉はきっと私の幻聴ですね。
「これから帰るんでしょ?気を付けて帰るんだよ。えーっと、華菜ちゃん、だっけ?」
「は、はいっ」
「美鈴をよろしくね?」
「はいっ!命に替えましても御守りしますっ!」
うぉーい…華菜ちゃーん?何か色々間違ってるよー。なんで棗お兄ちゃんに敬礼してるのかなー?私は護衛じゃなくて友達が欲しいなー。
『白鳥さーんっ!!』
「うるさい。黙れ」
そのまま私達は棗お兄ちゃん…と猪塚先輩を見送ると、二人で仲良く学校を出た。
仲良く下校していると、おずおずと華菜ちゃんが会話を切りだしてきた。
「あのね。美鈴ちゃん。私ね、美鈴ちゃんに謝らなきゃいけないことがあって…」
「謝らなきゃいけない事?なぁに?」
「あのね。私ね、本当は美鈴ちゃんの事、利用しようとしてたの」
繋いでいた手がぎゅっと握られる。
利用、ねぇ…。私としては小学生に利用された所で全くもって痛くも痒くもないので気にしないけど。
でも、華菜ちゃんは気になるんだよね。だったら、話を最後まで聞こうじゃんか。
話の先を促すように私も華菜ちゃんの手を握り返す。
「私達のダリア組って貴族派の女の子は多いけど、庶民派は私だけでしょ?」
「うん。そうだね」
「美鈴ちゃんは立場的に貴族派にも入る筈なのに、私は美鈴ちゃんの立場を知っていながら、庶民派に引き入れようと思ってたの」
「あらまぁ」
「美鈴ちゃんから話しかけてくれた時、これはチャンスだって思ったの。美鈴ちゃんさえ味方に引き入れちゃえば私もあの子達と対等になれるって、そう…思って」
うーん。誰でも思う事じゃない?それ。謝罪する必要ないと思うんだけどな。それにあの女子達に華菜ちゃん一人で敵対するって無理あるだろうし。かと言って、はいはい言う事聞いてたらパシリ決定だしね。華菜ちゃんの判断は悪くなかったと思うけど。
「ごめんね。美鈴ちゃん。こんな私を庇って怪我までしたのに。私はこんな事考えてたの。ごめん、ごめんなさい」
あぁ、そっか。この傷が華菜ちゃんに本音を言わせてしまった訳だ。それで忠誠だの命にかえてだのになったのね。ふふっ、小学生って可愛いな。やっぱり。
しかし、華菜ちゃんの性格だと「気にしないで」と言った所で気にしてしまうだろう。だったら…。
「謝らなくていいよ。華菜ちゃん」
「美鈴ちゃん?」
「誰だって、人との関係を作る時、必ず計算してしまうものだよ。私だってそう」
「美鈴ちゃんも?」
「うん。私はね、華菜ちゃん。華菜ちゃんといれば、男の子が近寄って来ても隠れていられる。そう思って声をかけたんだよ。私にとって庶民派、貴族派なんてどうでもいい。ただ、男の子が側に来られる事だけがとにかく嫌なの。本当は視線を向けられるだけでも嫌」
「そう、なの?でも、今日は…」
「あれは怒ってたから。怒りが先に立ったのね。お兄ちゃん達は家族だし、商店街の人達ももう家族みたいなものだから平気だけど。学校の男子は無理。マジで無理っ」
ぎゅぎゅーっと思わず繋いでいた手に力が入る。
「み、美鈴ちゃん?」
名を呼ばれて、はっと我に帰り、手から力を抜く。
「だからね。華菜ちゃん。お相子、でどうかな?」
「え?」
「どっちもどっち。互いに利用し合ってたけど、今は仲の良いお友達。それじゃ、駄目?」
小首を傾げてそう訊ねると、華菜ちゃんは嬉し気に微笑み首を左右に振った。
「ダメじゃないっ。私と美鈴ちゃんはお友達っ。嬉しいっ」
「うんっ。私も嬉しいっ」
やっと笑ってくれた華菜ちゃんに、安心しながら帰途につく。
商店街と自宅への坂道との分かれ道。
何時もならここでバイバイする所だけど、今日は晩御飯の買い物をしたいので、華菜ちゃんと一緒に商店街に行くことにした。
今日の晩御飯何にしようかな~。アスパラと春キャベツを使ったサッパリスパゲティとかどうだろう。お野菜たっぷり~。いいかもっ。
うん、今日の献立決まりっ。
「美鈴ちゃん、何買うの?」
「今日はアスパラと、春キャベツ、あ、あとベーコンも欲しいなぁ」
「じゃあ、まずは八百屋さんだね」
「うんっ」
仲良く歩きながら八百屋さんの前に立つと、「いらっしゃいっ」と店の奥から大地お兄ちゃんのお兄さんが出て来た。一番上のお兄さんかな?
その人は私の顔を一目見て、顔面蒼白となった。
「そ、その顔、どうした、マイエンジェルっ!?」
「えっとー、そのー…」
マイエンジェルの件は置いとくとして、この顔の傷はー…話していいものか?
戸惑ってると、彼は八百屋さん専用のエプロンから携帯を取り出し何かしら打ち込んでいる。お兄さんはまだガラケーなんだね。
何、打ってるのかな?
そう、疑問に思ってると、奥からガタガタと音を鳴らして誰かが飛び出してきた。
「姫ちゃんっ!?その顔どうしたのーっ!?」
「え?え?大地お兄ちゃんなんでいるの?学校は?」
「サボったんだよ。ってオレの事より、どうしたの、その頬っ」
予想外の人物がいた。しかも堂々とサボり宣言。凄いね、大地お兄ちゃん。ほけーっと驚いていると、隣に立っていた華菜ちゃんが大地お兄ちゃんに迫る勢いで今日の顛末を話し始めた。
最初はうんうんと聞いていた大地お兄ちゃんだったけれど、段々と目が吊り上がり、あれ?なにこのデジャヴ感は。
「クソガキが…。いや。そんな事より、あのもうろく爺さんが手当てしたってー?大丈夫かよ。…姫ちゃん。ちょっとおいでー。一緒に病院行こう」
「えっ!?い、いいよっ、手当てして貰ったもんっ」
「美鈴ちゃん。丑而摩さんの言う通りだよ。私も本当は別れ際にそう進めようと思ってたんだ。念の為に行っときなよ」
華菜ちゃんに背を押されても、どうしても頷けない。だって、病院の先生って大抵男じゃんっ!!
今日の保健室で、猪塚先輩って厄介なのと出会った事もあり、消毒液の匂いのする場所には極力近寄りたくない。
私が渋っていると、大地お兄ちゃんはスマホを取り出して、
「佳織さんに今すぐ知らされるのと、素直に病院に行くのとどっちがいー?」
二択を迫って来た。いやーっ!!そんな選択肢いらなーいっ!!
でも拒否は許されなくて…。私は泣く泣く大地お兄ちゃんと一緒に病院へ行く羽目になった。
因みに買い出しは華菜ちゃんがやってくれました。
大地お兄ちゃんに病院へ連行されて、改めて手当てを受けて家まで送って貰い「ただいまー」と玄関のドアを開け中に入る。
本当は大地お兄ちゃんにお茶でも飲んで言って貰おうと思ったんだけど、用事があるとかで帰ってしまった。
リビングのドアを開けて、中を覗くと、二つの視線が私に刺さり、その視線の主達は動きも止める。
「……美鈴。理由は?」
ママ、超怖いっ。でも喧嘩じゃないからっ!喧嘩に近いけど、喧嘩じゃないからっ!!
決して乙女ゲームヒロインのコースを逸脱する為、自分でやったとかそう言う訳でもないからっ!!
色々、冷汗かきつつ考えた結果。
「友達を庇ったっ!」
端的に説明してみた。
「……そう。ならいいわ」
納得してくれた。万事解決。私の説明にママの隣に座っていたお祖母ちゃんも頷いてたからこれで良しっ!問題なしっ!
その後、私は部屋に戻り、着替えて、手洗いうがいを済ませ、昼食とおやつの準備に取り掛かる。
間に金山さんが来て、大泣きしながら秘伝の薬を持ってきてもう一度手当てしてくれたり、昼食後おやつの時間に葵お兄ちゃんが飛び込む様に帰って来て心配してくれたり、部屋で宿題してる最中に棗お兄ちゃんがそれはそれは黒い笑顔で帰宅したり、華菜ちゃんから預けられた食材を持って鴇お兄ちゃんが、透馬お兄ちゃん達を引き連れて帰ってきたり、誠パパが帰宅した途端私の顔見て学校に乗り込みに行こうとしたり、色々とあったけれど、まぁ恙無く?その騒がしい一日は終わった。
―――翌日。
頬が昨日より腫れあがりはしたものの、金山さんの秘伝の薬が効いたのか、痛みは殆どなくなっていた。
痛み止めだと言ってたけど、ここまで効くとは思わなかったよ。
今日もまた持って来てくれるって言ってたからありがたく頂戴するとしよう。痛みはない方がいいもんね。
いつもの様に皆で食卓を囲んでいると、珍しく良子お祖母ちゃんが口を開いた。
「美鈴。貴女、薙刀を習う気はないかしら?」
「薙刀?」
「えぇ。そう。勿論体がもう少し成長してからって事になるけれど」
薙刀…。一切考えた事なかったなぁ。前世は護身術も兼ねて合気道やってたんだけど、護身術にならなかったんだよね。結局男の方が力が強いんだよ。悔しい事に。
「美鈴は、皆の話を聞く限りだと、どうも巻き込まれ体質のようだから護身術は必要だと思うの。でも、男性恐怖症なのよね?だったら近づかないで撃退出来る術を覚えてみるのはいかがと思って」
近寄らないで撃退っ!?それは、なんて魅力的なお誘いだろうっ!!
「やりたいっ!!」
挙手しちゃうよね。元気よく右手を上げて、はいはいはーいっ!
「よろしい。準備は全部私がしてあげるわ。講師も私と金山ですから安心なさいね」
「はいっ。お祖母ちゃん大好きっ!」
「お祖母ちゃんも美鈴が大好きですよ」
にこにこにこ。笑顔が浮かぶ。ご飯も美味しく感じられる。
「良かったね、鈴ちゃん」
「うんっ」
「これで、猪塚を一緒に叩きのめせるね、鈴」
「うんっ…うん?」
棗お兄ちゃんがにこにこしてるけど、ここは頷いて良い所だったんだろうか?
…あんまり考えないでおこう。
お祖母ちゃんの勧めで、三年生になったら薙刀を始めると言う事で決まり、私達はいつものように朝食を終えママとお祖母ちゃんに見送られながら登校した。
昨日と違い、今日は特に騒がしい事もなく、一日が終わる…と思いきや。
『白鳥さんっ!』
うぅぅ…来ちゃったよ…。
移動教室の真っ最中。次の時間は図工です。とは言っても絵を書くだけですが。制服を汚すといけないので美術室に行ってエプロンを付けて書くのです。
それはいいとして。なんでここに猪塚先輩がいるのでしょう?
私はすっと華菜ちゃんの後ろに隠れた。
『また、隠れる…。どうして隠れるの?僕が怖い?』
『先輩が、じゃなくて、男の人が怖いんです』
ここはもうハッキリ言ってしまおうと言い切る。先輩が怖いのではなくて男の人全員怖いんですよ、と。近寄らないで下さいね、と。私はそう告げたつもりだった。
けど、恋愛ポジティブな先輩にそれは通用しなかった。
『あぁ、確か白鳥先輩が昨日そう言ってたっけ。確か男性恐怖症なんだよね』
知ってたんかいっ!
と言う突っ込みを何とか飲み込んで『はい』と素直に頷いておく。
『なぁんだっ。だったら僕で慣れたらいいんだよっ!って事で抱き締めても良い?』
『良い訳ないよねっ!?』
一歩前に進まれると、私は一歩後退する。
華菜ちゃんが私の為にすっと間に入ってくれた。でも、先輩は華菜ちゃん越しでも抱きしめてこようとしていたし無駄な気もする。
だったら逃げるしかない。
じりじりと距離を保っていると、先輩の後ろから救世主が現れた。
「……いーのーづーかー?」
「棗お兄ちゃんっ!」
嬉しくて声も高くなる。棗お兄ちゃんは私達には優しく微笑んで、
「鈴。授業遅れちゃうよ。こいつの事は僕に任せて行って」
逃げる様に促してくれる。優しいっ!
「うんっ。お願いっ。行こっ、華菜ちゃんっ」
華菜ちゃんの手を取り、授業へと向かう。猪塚先輩が何やら騒いでいたけれど、そこはそれ。しっかりと無視して私達は美術室へと向かった。
今日の授業内容は校内写生。好きな場所へ行ってスケッチブックにガシガシ描く。華菜ちゃんと話して何処で描こう、何を描こうと話しながら歩いていると、一か所良い場所が見つかった。
グラウンドの隅にある大きな木。私はあの木に一目惚れしてしまった。華菜ちゃんに伝えてあの木の下で描こうと言ってみると、下だと木が描けないと言う。
私としてはあの日陰から上を見上げて木漏れ日を描きたいんだけどな。
話し合った結果。華菜ちゃんもあの木は気になるらしく、校舎の中の見下せる場所から描くとの事で別行動する事になった。
描くものは一緒だし、互いに姿が確認出来る位置だからいいよね。
授業中だから何か起こる訳もない。ここは学校の敷地内だから不審者もそうそう入ってこないだろうし。久しぶりに開放的な気分になれる。
テンション高く駆け足気味で木の下へ行って、その木にそっと触れてみた。
ひんやりとしてるけど、優しい感じがする。…やっぱり私この木好きだな。
木に背中を預けて、上を見上げる。暖かな木漏れ日が差し込む。そっと見上げて、頭の中に記録して、スケッチブックに鉛筆で下書きしていく。
こんな風にスケッチするのいつぶりだろう?
昔は腐ってた漫画しか描いてないしな~。あ、因みに私、強姦ネタとか嫌いでしたよ?だって、あれリアルで考えると超怖いでしょ。自分がされた時の事思い出しちゃうし。
私が好きだったのは、ほんわかしたラブラブもの。くっつけば幸せ~みたいな。可愛いんだよね。誰かが言ってたよ。BLはファンタジーだって。
どうでも良い事を考えつつ、手はしっかりと動かしていく。
『白鳥さん、絵も上手いんだっ!』
「えっ!?」
背後から予想外の声が聞こえて、思わず振り返る。
そこには授業に出てる筈の猪塚先輩がいた。待て待て待てっ!!今出て来られたら困るっ!!
『な、なんでっ!?先輩授業はっ!?』
『サボった』
えええー…マジですかー…?
授業はちゃんと出ましょうよ~。そんなんだから間違った日本語を間違ってると認識出来ないんですよ~…。
『ねぇ。白鳥さん。触れたりしないから、横に、座っても良い?』
伺いをかけるように、しゃがみ込んで聞かれると、断り切れない。
だってまるで私が悪い子としてるみたいじゃんか。私は、小さく頷く。
『…少し、距離をあけてくれるなら』
『分かった』
条件はしっかり出しておく。すると、猪塚先輩は私の言葉通り少し距離を開けて隣へ座った。
『ねぇ、白鳥さん』
『はい。なんでしょう?』
距離を開けてくれるって約束してるから、怖いは怖いけどまだ普通に話せる。だから、写生をする手を止めずに聞き返すと、彼は膝を抱え、その膝の上に頭を乗せてこちらをみた。
『どうしたら、君みたいになれるかな?』
ん?それはどういう意味?女になりたいって事?だったら、去勢手術したらいいんでない?
…ってそう言う事じゃないよね。うん。分かってるよ。ただ言ってみただけ。
どう言う意味があって聞いたのか分からず、猪塚先輩の方を向くと彼は悲しそうな瞳で笑っていた。まるで心が泣いていそうな…。
『僕も皆と話したり遊んだりしたいんだ。でも…皆僕の顔を見ると逃げて行く。話しかけると怯えた顔をするんだ』
そりゃそうだろうねぇ…。あんな喧嘩腰で話されたら誰だって、ねぇ。
『皆、僕を怖がる。僕は皆と仲良くしたいのに…』
『…それはですね。先輩。貴方が日本語を間違って覚えてるからですよ』
『え…?』
この選択は正しいのか?ここでこれをやると、猪塚先輩の好感度が増々上がってしまう気がする。
でも……こんな悲しい顔をされるとどうしても突き離せないよねぇ…。
『猪塚先輩。日本語で私に話しかけてみてください』
『う、うん。分かった』
自覚させる為には実際に話させてみるのが早い。頼むと、猪塚先輩はこくりと頷き、
「おい、こら、白鳥っ。こっちむけっ」
バリバリに喧嘩腰。普通の小学生だったら怖がります。
『猪塚先輩。今度はイタリア語で同じ風に話しかけてみてください』
『うん。「ねぇ、ちょっと、白鳥さん。こっちむいて?」』
『はい。ありがとうございます。では猪塚先輩。私が今猪塚先輩に話しかけられた日本語をイタリア語に直訳しますね?』
『う、うん』
『「おい、こら、白鳥っ。こっちむけっ」です』
『えっ!?』
猪塚先輩は釣り目を見開いて唖然とする。まぁ、そうなるよね。
『猪塚先輩の日本語は本当に言葉遣いが怖いんです。皆喧嘩売られてるって思っちゃうんですよ。こうして話してるとそんな事ないって分かりますけどね。それでも初めて話しかけられてそんな風に話かけられたら誰だって怖いと思いませんか?』
『怖いね…。うわぁ…僕、そんな風に喋ってたの?うわぁ…』
頭を抱えてしまった。自分の失敗を見せつけられる瞬間って辛いよね。恥ずかしさが雪崩の様にドドドって一気にくるんだよねー。分かる分かる。頑張れ、少年。今が成長時だ。
『ねぇ、白鳥さん。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?』
『…ものによります』
そんな悲しそうな顔しないでよ。仕方ないでしょ。もし、ハイって答えてから『付き合ってとか』何時もみたいに『抱きしめて良い?』とか言われたら抗えないじゃん。
『それで?お願いってなんですか?』
お詫び代わりにあえてこちらから先を促す。すると、先輩は少し嬉しそうに微笑み言った。
『僕に日本語教えてくれない?』
『私がですか?』
予想外のお願いにちょっと驚く。だってまがりなりにも私は先輩の一個下。前世の記憶があるにしても、それは猪塚先輩の知らぬ事。そんな私にお願いする?普通。
『うん。白鳥さんに教わりたい』
『って言っても、猪塚先輩、私一年生ですよ?午前中で帰っちゃいますし、正直家帰ってからの方が家事とかで忙しかったりしますし。先輩だって部活あったりしますよね?時間的に難しいんじゃないですか?』
諦めてーと願いも込めて言ってみるが、先輩は頭を振って私の意見に真っ向から反撃してきた。
『だったら、先生にお願いするっ!一週間に一時間だけどうにかして貰うっ!だからっ!』
このまま断り続けたら何か土下座でもされそうな雰囲気である。正直、猪塚先輩と二人っきりってのは避けたいけど、でも、もしかして、ここで先輩の言葉遣いを修正し先輩の交友関係を広げておけば、私と言うヒロイン以外にも女の子に対する視野を広げる事が出来るかも知れない。
そうなれば私の脅威は一つ減る事になる。それはとてもありがたいのでは…?華菜ちゃん、打算的ってのはこういう事を言うんだよ。お願いだから華菜ちゃんは悪い大人にならないでね。
心の内で関係ない方に謝罪しつつ、
『分かりました。先生を説得出来たなら、私で良ければ、お勉強にお付き合い致します』
断言する。すると、猪塚先輩の瞳が一気に光り輝き、その顔には満面の笑みが浮かんだ。
『ありがとうっ!白鳥さんっ!』
お礼を言われて悪い気はしない。こくりと頷き微笑む。
この一瞬の気の緩みが運の尽きだった。
両手を広げた猪塚先輩に気付く事が出来ず、その腕にしっかりと抱きしめられてしまった。
「ひっ!?」
目の前に猪塚先輩の胸がある。棗お兄ちゃんより少し小さいその胸板だけど、私には恐怖にしか感じられない。
「いやっ!離してっ!」
まだ恐怖が完全に体を支配する前に、怖い記憶がフラッシュバックして脳内を支配する前に、何とか離れようともがく。
『震えてるの?…可愛い』
ぐっと顎を掴まれ上を向かされる。猪塚先輩と視線がかち合い、その瞳の奥に欲の色が見えて、私の体は益々恐怖に慄いた。
そっと近づいてくる猪塚先輩の顔。この状況は身に覚えがあり過ぎる。キスだ。前世でファーストキスは変質者なおっさんだった。
今回は顔も綺麗な男の子だからマシだろうか?ってそんな訳ないじゃんっ!!
顔を背けたくても、顎に指をかけられて抑えられてる限りは無理。なら、これしかない。
―――ゴンッ。
私は頭を突き出した。猪塚先輩の口に私の額がぶつかる。
「~~~ッ!!」
痛がっている今がチャンス。私は猪塚先輩を突き飛ばし素早く立ち上がり、スケッチブック片手に逃げ出した。
校舎の中に駆け込むと、猪塚先輩と二人っきりになった私を心配してくれた華菜ちゃんと遭い、私は全力で華菜ちゃんに抱き着いた。
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