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第一章 幼児編

※※※(葵視点)

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父さんの実家。
僕はここが苦手だった。いや、正しくは、父さんの実家にいる父さんの兄姉が苦手だった。
白鳥財閥のお金が目的で、正式な跡取りである父さんと繋がりを持とうと父さんの兄妹は操りやすそうな僕に目を付けてきた。
実家に帰る度に伯母達に操られて、僕達の家の内情を報告させられていた。
その事に気付いた鴇兄さんは父さんに遺産相続権を放棄させた。優しさからくる行為。でも僕にはその事がずっとずっと気がかりだった。
本来手に入る筈だったものを全て放棄させたんだ。僕の所為で。
父さんの兄妹からの圧力、そして、家族の足を引っ張っている事。
苦しくて苦しくて、でも逃げられなくて。
父さんの実家に来ると僕は呼吸をするのも困難になっていた。
逃げたくて仕方ないのに、父さん達の披露宴は避ける事が出来ない。
僕は割り当てられた部屋で、いつまでも訪れない眠気に抗う事を諦め、持って来ていた本を開き読んでいた。
すると、ドアがノックもなく突然開けられ、そこには一人のおばさんが立っていた。
僕が一番苦手とする、父さんの兄妹で長女である園江伯母さんが遠慮もなくずかずかと中へ入ってきた。その取り巻きである次女である珠美伯母さんと三女の多恵伯母さんも一緒だ。多恵伯母さんが後ろ手でドアを閉める。
無意識に僕は立ち上がっていた。
「また、貴方に動いて貰う事が出来たわ。葵」
無駄に長いロングスカートを靡かせて、扇子で口元を隠している。時代錯誤にも程がある。けれど、それをかっこいいと思っている伯母達に何を言っても無駄だろう。
じっとその姿を睨んでいると、
「なにかしら、その目は。全く汚らわしい。これだから庶民との間の子は嫌なのよ」
苦々しく吐き捨てた。
庶民庶民と言うけれど、金持ちだから何だと言うのだ。僕はお金がなくたって、今の生活は凄く幸せだ。美鈴ちゃんが来てから更に幸せ度は増している。毎日が楽しくて仕方ない。庶民だからって幸せになれない訳じゃない。
「この私が使ってやると言ってるのよ。庶民は庶民らしく貴族の言う事を聞けばいいのよっ。いいこと?貴方は誠がこの家にいる間、鴇に私の娘と婚約するように説得しなさい」
「なっ!?」
「私はこの財閥の跡取り。でも、私は娘しかいないから跡を継がせるのも難しい。なら、賢く美麗で、跡を継ぐに相応しい立場の人間。総帥に気に入られてる孫を婿にこさせるのがいいわ」
何を言ってるんだ、この人は。そんな事、そんな事させられる訳がないっ!
「明日、娘を連れて披露宴に出席するから、その時に旨い事やりなさい。わかったわね」
言うだけ言って、出て行った。バサッと持っていた本が落ちた。
言われた事が理解出来ない。…違う。理解したくないんだ。
…僕はまたこうして駒として使われるのか。
胃がぎゅううっと締め付けられる。気持ち悪い。
ぐっと胃から何かが逆流してきて、僕は急いで洗面所へ駆け込み、そのまま胃の中にあるもの全てを吐きだした。
口の中にが酸っぱくなって、水で口を濯ぐ。うがいして、洗面所を出るとベッドへと身を倒した。眠れる気が全くしなくて、気持ち悪い胃を撫でて、どうしたらあの伯母達の命令を回避できるかと考えながら僕は夜を明かした。

翌日。庭での披露宴。
結局夜通し考えても良い案など浮かばず、かと言って鴇兄さんに望まぬ結婚をさせるなんて、ましてやあの伯母の下へ行かせるなんて出来る筈もなく僕は披露宴をそっと脱け出した。
伯母達が来るのを待ち伏せする。
すると、玄関からいつも以上に装飾を華美にした伯母達が出て来た。
僕の姿を見るなり、口の端をあげてこっちへきた。
伯母達が参加者最後だったらしく、僕は玄関から少し離れた所で対峙した。
「それで、鴇は何処かしら?」
「ここにはいません」
僕ははっきりと言った。すると、園江伯母は眉をぴくりと釣り上げた。
「どう言う事かしら?」
聞かれても僕は答えなかった。ただじっと睨み付ける。
「もう一度聞くわ。鴇は何処かしら?」
「ここにはいません。連れてくる気もありませんっ」

―――バシッ。

言い切ったと同時に肩に痛みが走る。
一瞬何が起きたのか解らなかったけど、怒っている伯母の顔を見て、あぁ叩かれたんだと納得した。
「誰に口答えをしているのっ!?」

―――バシッ、バシッ!

態と服の上から叩いてくる。
ばれたくないならこんなことしなきゃいいのに。
痛みより、こんなのに僕は逆らえないのか、と悔しくて俯き拳を握る。
何かぎゃんぎゃん叫んでいるけど、ヒステリック過ぎて何を言っているか解らない。
「ほら、何しているのっ!?動きなさいよっ!!」
でも、この言葉にだけは従えない。
「…嫌です」
「何ですって?」
聞き返してくる伯母と僕は目を合わせ、言い切った。
「嫌ですっ!今まで僕は実家に戻って来た時、貴女の言う通り動いてきた。でも、もう嫌だっ!僕の大事な家族を、貴女に壊されたくないっ!!」
これ以上皆に迷惑をかけたくないんだっ。
「言わせておけば…。このクソガキがっ!!」
殴ってばかりで言わせて何てくれなかったじゃないかっ。
絶対にこの目を逸らさない。今度こそ、皆の足を引っ張らないようにするために。
目の前に大量の水が入ったバケツが映る。伯母が僕にそれをぶちまけた。
盛大な音を立てて、僕はその水を被る。
けれど、僕は瞳を逸らすつもりはない。
「貴方は黙って私の言う事を聞けばいいのよっ!」
また殴られても僕は決して瞳を逸らさなかった。
でも、大人の力でその肩を殴られれば、倒れる気はなくても後ろへ飛ばされてしまう。
「おーほっほっほっ。いい様ねっ!」
笑い声。何がそんなに楽しいんだろうか。
すると、またバケツの水を持って取り巻き伯母さんが現れる。
いくら攻められても僕は意志を曲げるつもりはない。その瞳を睨み続けた。
そして、いざ水をかけられそうになった―――その時。

「葵お兄ちゃんっ!!」

ふわりと甘い香りと優しい温もりが僕を包んだ。
僕に新たな水の冷たさはなく、ただ小さな、けれど確かな暖かさが頭を抱きしめてくれている。
「み、すず、…ちゃ、ん?」
いる筈のない、ここに来るはずのない存在が僕を包んでいる。
庇ってくれたその存在の名前を思わず呼ぶと、ゆっくりと僕の顔を覗き込んで彼女は微笑んだ。
「大丈夫?葵お兄ちゃん」
髪を掻き上げて、現れたその瞳はいつもの穏やかな澄んだ水色の輝きでなく、闘志を宿したアイスブルーの瞳だった。
「今、片をつけてあげるから、ちょっと待っててね」
その低い声も僕の知らない彼女で、僕は立ち上がる彼女を茫然と見ていた。
濡れた服、その髪すらも美しく身を翻して、
「さて、と。伯母様方。少し、私とお話ししましょうか」
怒気を含んだ透る声で彼女は言い放った。
この声を僕が向けられたらと思うと、恐怖に鳥肌が立つ。
「私の大事な、大事な、家族を傷つけた報復をしっかりとさせていだきます」
美鈴ちゃんの冷え切った言葉に、伯母達は一瞬怯みながらも、悪態をつき反撃した。
「ふんっ。小娘如きが一体何が出来ると言うのよっ!」
胸を張り、美鈴ちゃんを見下す。
けれど、僕は知っていた。美鈴ちゃんがただの六歳児じゃないって事を。
一筋縄で行く子供ではないって事を。
「あら。簡単ですよ。こうするんです」
嘲笑うかのように言うと、次の瞬間、耳を塞ぐような叫び声が辺りに響いた。
「きゃああああああああっ!!誰かああああああああっ!!」
美鈴ちゃんの叫び声。その声は明らかに意図を含んだものだった。
伯母達がその声に焦り始める。
それはそうだ。こんな状況を見られたら明らかに悪いのは大人な伯母達だ。
この場にいるのは危険だと判断した伯母達は逃げ出そうとする。
だが、美鈴ちゃんはそれを許さなかった。園江伯母のドレスの裾を踏んづけて、逃亡を防ぎ、更に園江伯母を囮に逃げようとした二人の取り巻きの背中へいつの間に脱いだのか靴を投げつけ転ばせた。
今目の前の状況に僕の思考回路は全くついていけない。
逃げ道を塞いだ美鈴ちゃんに園江伯母が手を上げようとした。でも、それは塞がれた。

―――パンッ。

純白のドレスを纏った佳織母さんが伯母の頬を力の限り張ったからだ。
「私の大事な子供達に何をしているのかしら?」
初めて叩かれたのか、一瞬、呆気にとれていた伯母がやりかえそうと手を上げる。
しかし、佳織母さんはそれをあっさり受け止め、その手首を握った。
「わ、わたしをぶったわねっ!!この時期総帥であるこの私をっ!!」
「あら。何かいけなかったかしら?悪い事をしたら総帥であろうと何であろうと制裁は受けるべきでしょう?ねぇ、美鈴?」
「うん。ママ。その通りだわ。本当なら私も叩きたいのよ?葵お兄ちゃんが叩かれた分だけ。苦しめられた分だけっ」
「なら、可愛い娘の代わりに私が叩いてあげるわ。今度は、拳で、ね」
ギリギリと手首が締めあげられているのが分かる。伯母の手が白くなっているから。
佳織母さん、何か楽しそう…?
「葵お兄ちゃんっ!大丈夫っ!?」
ぼんやりと流れて行く状況を眺めていると、美鈴ちゃんがもう一度抱き着いてきた。
その暖かさに我に帰る。
「美鈴ちゃん…」
「ごめんねっ。助けに来るの遅くなってごめんっ。早く着替えさせてあげたいんだけど、もう少しだけ、我慢してっ」
この位なんてことはないのに。
僕は美鈴ちゃんの顔を覗き込むと、それにくすっと微笑み彼女は僕の耳元に顔を摺り寄せた。
「いい?葵お兄ちゃん。女と敵対するには、やり方があるんだよ?」
やり、方…?
「そう。女は自分達が弱い事を知ってるの。だから、こうして裏に回って徒党を組んで自分より弱い一人を集中攻撃してくる。そこを逆手にとって反撃するのよ」
どうしてそんな方法を知ってるんだろう。
逆手にとって反撃?それは、どうしたら…?
じっと対峙している佳織母さんと伯母達をみる。佳織母さん一人でも勝てそうだけど…。
「姉さん達っ。そこで何をしているんだっ!?」
父さんと鴇兄さん、棗が走って来て、僕達の姿を見て、更に慌てて走り寄った。鴇兄さんと棗は僕達の側に。父さんは佳織母さんの側へ。
「一体何事だ?」
祖父母も顔を顰めながら登場する。それに気付いて、美鈴ちゃんが、ふふっと笑った。
「ほら、これで裏から表になった。あとは、相手の攻撃を全て防ぎ完膚なきまで叩き潰す」
嬉しそうに微笑んで、僕の濡れた髪をその小さい手で撫でて、立ち上がった。
その後姿が、羨ましくなるくらいかっこよかった。
「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。実は葵お兄ちゃんが伯母様方と口論になってしまいまして。伯母様がカッとなって私達に水をかけてしまったの」
「ほう」
「でもね?優しい伯母様達はその謝罪として本来受け取る筈だった『財産権を放棄』すると宣言してくれたの」
「なっ!?」
「とても優しい伯母様達でしょう?それに今ある『負債の肩代わり』もしなくていいそうよ?」
「まぁっ!それは素晴らしいわっ。流石お姉様達ねっ!」
鮮やかな手口だった。伯母達の財産相続権を放棄させ、お金を取り上げ、今ある負債を自分で払う様に言いつけ、手元にあるお金ですら払わせる。更に、
「確かに。優しい伯母さん達なら、その位してくれるだろうな」
と鴇兄さんがそれに賛成する事によって、婚約すらも不可能に追いやってしまった。そして、
「それから、伯母様達はこれから急ぎ、『海外へ向かわなくてはならない』らしいの。お祖父ちゃん、チケットを用意してくれる?伯母様達だけのチケットを三カ国分」
海外へ行かせることによって、報復の危機もなくした。
「……ありえ、ない…」
僕が小さく呟くと、鴇兄さんと棗は苦笑した。
「まぁ、美鈴だからな」
「うん。美鈴だもんね」
言われて僕も苦笑が浮かぶ。それで納得出来てしまうんだから、仕方ない。
けれど、伯母達も黙ってはいなかった。
トチ狂った伯母達は叫びながら、祖父母に、主にお祖父さんに自分達は関係ないと、私達は悪くないと、美鈴達が勝手に言ってるんだと訴える。
佳織母さんが反撃するんだろうか。
その行動を見守ってると、佳織母さんは予想外の行動をした。
お祖父さんを殴ったのだ。拳で。
こうして驚くのは今日何度目だろう。
驚いたのはお祖父さんも同じだったようで、でも突然殴られたからその表情は怒りで塗りつぶされていた。
それに反して聞こえたのは、佳織母さんの冷静な声。この声はさっきの美鈴ちゃんの声とそっくりだった。鳥肌の立つ恐怖声。
「分かりますか?この状況を作り上げたのは貴方なんですよ。お義父様。こんな風に我儘に、傍若無人に、彼女達が育ったのは全て貴方の所為です。誠さんと初めてあった時、誠さんの瞳は常に寂しさに揺れていた。彼女達も皆そう。貴方が子供に愛情も注がず育てた結果がこれですっ」
大人の事情は解らない。けど、佳織母さんはお祖父さんの事を何か知っている。そう思った。
「佳織さん…」
父さんが佳織母さんの言葉に胸を震わせていた。
「忙しいだの、自分は総帥だの。そんな言葉で貴方が切り捨ててきた者達のなれの果てが彼女達です。お義父様。全て貴方の責任です。本当は貴方に責任をとらせたかったのですが。これでも私譲歩したつもりですよ?お義父様の為を思って、美鈴が出した譲歩にのっかったのです。まぁ、それすら結果的に貴方の失敗作によって放棄されましたがね」
しんっと静寂が辺りを包む。
伯母達もお祖父さんに殴りかかり黙らせる女性に逆らえないようだ。
この状況をどうにか出来るのは…。視線だけをお祖母さんへ向けると肩を震わせていた。
怒ってる?
不安に思っていると、直後、お祖母さんの笑い声が辺りに響いた。笑いすぎて、噎せるほどに。
口に手を当て、笑い終えると、その瞳はすっと細められ、お祖父さんへと向けられた。
「良い機会よ、順一朗さん」
「良子?」
「少し反省したら宜しいわ。昔から貴方はそう。人の気持ちを理解出来ず、踏みにじって。順一朗さん、覚えてらして?本来、貴方の『恋人』で『婚約者』だったのは私だったのよ?」
「そ、れは…」
「浮気を繰り返して、色んな所で子供を作って、最後に私の所にいけしゃあしゃあと戻って来て、子供を育ててくれって?私を馬鹿にするのもいい加減にして欲しいわ。正直私にとっての『子』は血の繋がった『誠』だけ。後は貴方が外で勝手に作った子なの。勿論子供に罪はないわ。だから私は平等に育てた。けれど、私にとっては所詮他人の子なのよ。年々貴方に似て馬鹿に育っていくこの子達を見て私は嫌気をさしていたの」
馬鹿と、はっきりと口にされ、子供ではないという宣言。伯母達の顔から血の気が引けていた。
「順一朗さん。佳織さんの言う通り、貴方のつけは全てご自分でどうにかなさいな。私は暫くこの家を離れます」
「そ、そんなっ。良子、お前ひとりで何処へっ」
きっと馬鹿の中にはお祖父さんも込められていたんだろう。
お祖父さんがお祖母さんに縋りついている。けれど、お祖母さんはそれを払い退けた。それはそれは冷静な、愛情の欠片もない瞳で。
お祖母さんは僕達の家に来る事に決めて佳織母さんがそれを受け入れた。
そう言えばお祖母さんはいつも僕達家族に優しかった。それはきっと父さんだけがお祖母さんの子だったから、なんだ。
「そうと決まったら、早速準備をして今日中に出て行きましょう。あぁ、それに、『私』の孫達の手当てをしなくてはね。おいでなさい、葵、美鈴」
さっきとは打って変わって、優しく僕達に労りの言葉をくれる。
すると、美鈴ちゃんが嬉しそうに戻って来て、僕に手を差し伸べてくれた。
でも、僕はその手を握る事が出来なかった。
ここまででやっと僕は自分の現状を知った。
六歳児の妹に助けられたんだ。本来は助けるべき存在に助けられた。
悔しい…。
下唇を噛んで俯くと、急に体が持ち上がった。
僕を持ち上げた存在を確認すると、鴇兄さんで。
「全く、無茶しやがって。ほら、行くぞ。葵」
「う、ん…」
結局家族に迷惑をかけて、僕は何もできなかった。
あまりにちっぽけで弱い自分に泣きそうで。
悔しさで、何も出来ないもどかしさで、胃が気持ち悪くなる程、脆弱な自分に嫌気がさして。
ぐるぐると今日あった事を頭の中で思い出す。
帰宅する車の中、僕の意識はそれだけに支配されて―――家へ到着した途端に闇に落ちた。

真っ暗の闇の中。
頭の中に声だけが響く。
あぁ、これは…夢だ。

―――遺産相続権を放棄するっ!?だって、父さんはお祖父さんのお気に入りでしょうっ!?

『いいんだよ。葵。俺は、母さんとお前達がいてくれれば何もいらない。お前達の食い扶持くらい稼げるよ』

―――だって、僕が伯母さん達の言う事を聞いてたからっ、だからっ!!

『それは違うぞ、葵。親父はそんな風に思ってない。お前は気にしなくていいんだ』

―――僕は、皆の迷惑になってるっ。どうして、怒らないのっ!?

『何言ってるの、葵。葵が怒られる要素なんて一つもないよ?』

どうして、誰も僕を怒らないのっ!?責めないのっ!?
だって僕は皆の迷惑になってる。
こんなに足を引っ張ってるのに。
優しい言葉をかけないで。
僕は…僕は…。

―――皆の側にいてもいいのかな…。

目の前の闇が濃くなった気がした。
いっそこの闇の中にいた方が皆の為なんじゃないかと思ってしまう。でも…。

『葵お兄ちゃんっ!』

声が聞こえた気がした。

『葵お兄ちゃんっ!』

この声は…。
僕を助けようとしてくれたこの優しい声は―――…。
闇の中に小さな光がある。
暖かそうなその光に触れたいと何故かそう思った。
暗闇の中、もがいてもがいてその光に向かって手を伸ばすと、辺りが光に包まれて…。

ふと目を開けると甘い香りがした。
「葵お兄ちゃん、目が覚めたっ!?」
目の前に心配そうな美鈴ちゃんの顔があり、額に冷たい感触がある。体は柔らかい何かに包まれている。
「み、すず、ちゃん…?あれ、ぼく、は…?」
視線を巡らせて、漸くここが僕の部屋だって理解する。
すると、美鈴ちゃんは椅子を僕の寝ているベッドに近づけると、そこへ座った。
「昨日家に帰った途端に熱出して倒れたんだよ。大丈夫?体、痛くない?今日は学校お休みする電話したからね。とれるようなら水分とってね。お粥食べれる?」
まるで母親みたいだ。
僕はこれ以上心配かけまいと体を起こすけれど、頭がふらつき上手く起こせない。でも、気合で体を起こす。
「だいじょうぶ。ごめんね。迷惑かけて」
自分としてはちゃんと言ったつもりだったけれど、言葉は途切れ途切れになってしまった。
これではまた迷惑をかけてしまう。
美鈴ちゃんは慌てて傾ぐ僕の体を支え、スポーツドリンクを手渡してくれた。
喉は渇いている。けれど、どうしても飲む気が起きず、少しだけ飲んで返すと、
「葵お兄ちゃん?まだ飲まなきゃ駄目だよ?一杯汗かいたんだから」
ともう一度押し付けてきた。
また、こうやって美鈴ちゃんにも迷惑をかけて…僕は何をやってるんだろう。
堪えて堪えて、必死に堪え続けた涙が、決壊したように溢れだした。
ぎょっとして、美鈴ちゃんが僕の顔を覗き込む。
「葵お兄ちゃんっ?どうしたのっ?何処か痛いのっ?」
僕はこんな情けない姿を見せたくなくて、俯いた。
涙を止めようとしても、もう、止まってくれなくて。
堪え切れなかった弱音が僕の口から零れた。
「ど、…して…、ぼくは、こうなのかな…。いつもいつも、大事な所で役に立たない…っ。鴇兄さんも、棗も、いざという時、皆を守れるだけの強さを持ってるっ。なのに、僕は…僕はっ、最後の最後で足を引っ張るんだ…。皆の力に、なりたいのに…くっ」
なのに、迷惑ばかりかけて。
僕は自分が情けないっ!!
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「棗お兄ちゃんも、同じ事で悩んでたよ。自分は誰も支えられないって」
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「うん」
あの、棗が…?
いつも僕をフォローして、鴇兄さんと一緒に胸を張って颯爽としている、あの棗が?
「棗お兄ちゃんもそうだけど、葵お兄ちゃんもちょっと早く大人になろうとし過ぎだよ。いいんだよ。今のままでいいの。ゆっくり成長していこうよ」
年下に言われるセリフじゃない。だけど、美鈴ちゃんの言葉はすとんと胸にすんなり落ちていく。
美鈴ちゃんが僕の隣にそっと腰をかけて、僕の頭を抱きよせた。
「それにね、葵お兄ちゃん。私ね、あのババア…もとい伯母様達に立ち向かう葵お兄ちゃんをみて、すっごく誇らしくなったよ。私のお兄ちゃんはこんなに強いんだってっ。こんなにカッコいいんだよっ、って」
僕を認めてくれるの…?
こんなに迷惑をかけたのに、誇ってくれるの?
かっこいいと、思ってくれるの…?
「うっ…くっ…」
美鈴ちゃんの言葉が心に沁みる。涙が溢れる。
「今のままでいいの。大丈夫。大丈夫だよ、葵お兄ちゃん」
「う、ぁ…」
「私は今のままの葵お兄ちゃんが大好きよ」
優しい優しい言葉が僕の胸を満たしていく。
「少なくとも、葵お兄ちゃんが頑張ったから、鴇お兄ちゃんはどこぞの馬の骨と結婚させられる事も、お祖母ちゃんがこの先苦しめられることもなくなったんだよ。自分の事、誇っても良いよ」
「みすず、ちゃんっ…っ」
「頑張ったね、お兄ちゃん。偉い偉い」
もう、我慢出来なかった。

「うああぁぁぁぁっ…!」

僕は美鈴ちゃんの胸に顔を埋めて泣いた。
美鈴ちゃんは僕が泣き止むまでずっと僕を撫でてくれた。
一頻りなくと、なんだか恥ずかしくて、でも、心は凄く晴れやかで、僕は微笑んだ。
「葵お兄ちゃん、何か食べられそう?」
美鈴ちゃんが僕の顔を覗き込み微笑みながら訪ねてきたので、僕は頷いた。
「お粥より林檎とかの方がいいかな?ちょっと待ってね」
僕の腕から離れると、僕の勉強机の上に置いてある林檎とあれはすりおろし器、かな?
あとは果物ナイフを持って椅子に戻ってきた。タオルを太ももの上に敷いて、器用に林檎を剥いていく。
「それにしても、葵お兄ちゃんも棗お兄ちゃんも我慢し過ぎだよね」
「…そう?」
「うん。我儘は子供の特権って言うじゃない?その特権を行使したらいいのに」
「僕達我儘だと思うよ?前に父さんと一緒にいたいってずっとダダ捏ねてたりしたし」
「へぇ~。それでそれでっ?」
なんでそんな嬉しそう?
でも先を促してくるから、続ける。
「我儘言うなって怒られちゃったけどね。父さんだって仕事で大変なのに、我儘言っちゃったんだって後で後悔して」
「ふぅ~ん…」
あ、あれ?空気が変わった?
皮を剥いた林檎を六等分にして、更にシャリシャリとおろしていく音が部屋に響く。
な、なんだろ。美鈴ちゃんから怒気を感じるんだけど…。
「誠パパはちょっと反省が必要みたいね」
「み、美鈴ちゃん…?」
「お兄ちゃん達がこんな風に気を使うようになっちゃったのは、親の責任よ」
シャリシャリシャリ、バキッ!
り、林檎が折れたっ!?
えっ?えっ?
美鈴ちゃんまだ六歳だよねっ!?
その力はあり得ないよねっ!?
「ママに誠パパを怒って貰おうねっ、葵お兄ちゃんっ。折角お祖母ちゃんもいるんだから、二人にフルボッコにして貰おうねっ」
「う、うん?その、手加減、してあげてね?」
ニッコリ。
…父さん、なんか、ごめん。
仕事から帰ってきたらフルボッコが決定したみたいだよ。
折れた林檎を美鈴ちゃんは自分で食べて、タオルを剥いた皮ごと綺麗に畳むと、椅子に置いてその上にナイフとおろし器のおろし部分を置いた。ポケットから使い捨てのスプーンを取り出して開封しておろし器の器部分に刺した。
そのままベッドに座ると、一掬いとって僕の口に差し出してくれた。
僕は躊躇いなくそれを口に含む。甘いけど、さっぱりしてて、水分が喉を潤してくれる。
「大丈夫?食べれそう?」
「うん。美味しいよ」
「そっか。一杯食べてね」
嬉しそうにせっせと僕の口に運ぶ美鈴ちゃんが可愛い。
「葵お兄ちゃん、皆に迷惑ばっかりかけてるって言ってたじゃない?」
スポーツドリンクを手渡しながら言われて、僕は頷く。
「それ言ったら、家で一番迷惑かけてるの、私だよ?」
申し訳なさそうに言う美鈴ちゃんのセリフに僕は驚く。
そんな訳ない。美鈴ちゃんは家族の為に家事をしてくれて、こうして僕を助けてくれた。
僕が必死に否定すると、美鈴ちゃんは苦笑した。
「葵お兄ちゃんはこれからどんどんかっこよくなって、強くなって、皆の憧れる存在になれる。でもね、私は無理なんだよ。ずっとずーっと皆に迷惑をかけ続けるの」
「それは…美鈴ちゃんが男を怖がってるのと関係ある?」
こくりと頷いた、その表情は今にも泣きそうで。
「いつこの状態が良くなるかなんてわからない。もしかしたら一生このままかもしれない。そうしたら、私は確実にお兄ちゃん達の足枷になる。私の方がよっぽど迷惑かける」
そんなことないのに。迷惑何て思わないのに。
それに、僕はずっと男に慣れないかもしれないと言う美鈴ちゃんの言葉が妙に嬉しかった。
だって、それは、ずっと僕達の側にいてくれるって事だから。
いっそ、慣れないで欲しいと思うのは性格が悪いだろうか。
「僕ね、美鈴ちゃん」
「なぁに?」
「美鈴ちゃんにかけられる迷惑だったら嬉しいかも」
「え?」
僕が微笑むと、一瞬驚いて目を見開いた美鈴ちゃんは、ふわりと微笑んだ。
その頬を少し赤らめて。
「もう、葵お兄ちゃんったら」
照れ隠しに少し拗ね気味に言う彼女がとても可愛く見えて、僕の口から笑いが溢れる。
「そうやって冗談言えるなら、もう大丈夫だね。でも一応お医者さんが置いてった薬飲んで着替えてもう一眠りしてね?」
美鈴ちゃんが部屋を出て行って、タライにお湯とタオルを入れて持ってきた。
もう一度美鈴ちゃんは出て行って、その間にパジャマを脱いでタオルで体を拭って、もう一度新しいパジャマを着る。
トイレに行って、ベッドに座ると美鈴ちゃんが戻ってきた。
その手には水と薬があった。素直に受け取り、言われるまま飲むと大人しく横になった。
肩まで美鈴ちゃんが毛布をかけてくれる。そしてパタパタと部屋の中を動き回る。
部屋の中を誰かがいるのが前は苦手だった。自分のテリトリーに入られた気がして。何か用がある時、基本的に僕が出向く方だった。
なのに、美鈴ちゃんの存在は心地よくて…。その存在にほっとして。
僕は薬と安心感で、ウトウトと心地よい眠気に包まれ始める。
瞼が閉じそうになる中、美鈴ちゃんが側に来てくれたのが分かった。
咄嗟に手を伸ばして、その小さな手を掴むと、
「葵お兄ちゃん?」
「ありがとう…鈴ちゃん―――大好き」
眠気に抗えず、そのまま瞳を閉じる。
意識が眠りに落ちそうになる僕の手をぎゅっと掴んでくれるその小さな手。そして、
「私もよ。葵お兄ちゃん。大好き」
穏やかな声が聞こえた。
完全に眠りに引き込まれた僕の髪に何かが触れた気がしたけど、それが何か眠ってしまった僕にはわからなかった。
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