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第一章 幼児編

※※※(棗視点)

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カタカタと隣の部屋から音がした。てっきり葵の部屋からかと思ったけど、葵の部屋とは逆隣り。
「美鈴の部屋から…?」
眠い目を擦って起き上がると、物音を立てないようにこっそりとドアが開く音がした。
今何時だろう?
時計を確認すると、五時前っ?
こんな時間に起きて、何処に行く気だろう?
しかも一人で。
この前誘拐されかかったのに、一人でなんて行かせられる訳ないっ。
僕は慌てて手近にあったシャツとデニムパンツに着替えると、その後を追った。
美鈴は外を上機嫌で鼻歌を歌いながら坂道を下っている。
ちゃんと足元みて歩かないと危ないのに。あぁぁっ、石に蹴躓いてるっ。
心配で見てられないよっ。
僕が見るに見かねて、声をかけると、美鈴は驚いて、けれど直ぐにしゅんとして小さくなった。
うん。悪戯がばれた時ってこうなるよね。僕もその気持ちは良く解る。
でもダメな事はダメだからしっかりとその事は伝えてから、僕は美鈴の願いを叶えてやることにした。
僕達の朝ご飯を作りたいんだ、ってそう言っていた美鈴。
まだ一週間しか経っていないのに、僕達家族の為に朝食を作りたいんだって。
そんな優しい妹の為に、僕も何かしたいと思ったんだ。
昔から僕は、皆に守られる存在だったから。
父さんをはじめ、鴇兄さん、双子である葵にですら、僕は末っ子ってだけで庇われて守られていた。
父さんの実家に帰ったって、いつも僕は足を引っ張って。
僕だって皆を守りたいのに。皆の支えになりたいのに。
僕はそんなに頼りないの?
家族なのに。家族を守りたいって思うのは皆と同じなのに。
心の奥底に常にもやもやした思い。
でも、美鈴が出来て、佳織母さんが出来て、一気に環境が一変した。
僕にも守る対象が出来た。
僕は素直にその事が嬉しかった。
二人で商店街の朝市へ行って、様々な店を回る。行く先々で、色んな表情を見せる美鈴はとても可愛らしかった。
美鈴が満足するまで買い物に付き合い、帰ろうとしたその時。
「あっ、ガキがこんな時間にこんな場所でデートか?」
目の前にTシャツにジーパン。銀のアクセサリーをじゃらじゃらつけた紫髪の…高校生?なんか見覚えがある?
どこで見た事があるんだろう?
じっとその姿を見聞していると、その高校生は美鈴の肩に触れた。その瞬間、
「嫌ぁっ!!」
美鈴が弾かれた様に叫び、震え出した。
妹のそんな姿を見たのはこれで二度目。恐怖に怯える妹を僕は咄嗟に抱きしめていた。
「美鈴っ!!」
僕の腕の中でガタガタと震える。僕にまで振動が伝わる震えが美鈴の恐怖を物語っている。
「魅せつけてくれるね」
美鈴の反応に驚いて手を離したその高校生が苦笑しながら僕に言う。
何か、言いたいことがあるのかもしれない。
けど、今その相手をする必要性を感じられない。美鈴を安心させる方が先だ。
「…何か、ご用ですか?」
務めて冷静に言うと、その高校生はその苦笑を深くした。うん。今急いで相手をする必要は全くなさそうだ。
「用がないのでしたら、失礼します」
はっきりと言い切って、僕は美鈴を抱き締めたまま、一歩二歩と後退する。
って、なんで貴方も近づいてくるんですか。
僕達が引いた分、ちょっとずつ近づいてくる。…やっかいな。
走って逃げた方がいいかもしれない。
そっと美鈴を窺い見ると、その大きな水色の澄んだ瞳から涙がボロボロと零れ落ちている。
プチンと何かが切れた気がした。
僕達の可愛い妹を泣かすなんて…腹が立つ。
「美鈴、走れる?」
走れなかったら僕が担いで逃げよう。
こんな男の傍に美鈴を近づけたら、確実に美鈴が汚れる。
決意を込めて、一応美鈴に確認を取ると美鈴は小さく頷いた。
良かった。なら走ろう。大丈夫。いざとなったら僕が担いで逃げるからねっ。
美鈴一人。余裕で担いで走れる。その細くて小さい体を自分に出来るだけ寄せて、また数歩距離を取って…。
高校生が一瞬僕達から目を離したその隙を狙って、僕は美鈴の手を取り走り出した。
「えー?逃げんの?俺、追いかけちゃうぞっ♪」
何だコイツ、気色悪いっ。
僕は美鈴の手を引っ張って全速力で走る。
美鈴も精一杯走るけれど、いかんせん、高校生とは歩幅が違う。
どうしようっ、いっそ抱えてしまおうか。
その一瞬の悩みが命取りだった。
後ろから追い付いてきた高校生の腕が美鈴の腰に回り、背後から一気に抱き上げられた。
「いやあああああああああっ!!」
僕の手すら払いのけて、美鈴は狂ったように泣き叫ぶ。
予想外の反応だったのか、高校生も焦って美鈴をきちんと抱っこし直す。
そんな事美鈴にとって何の意味もないようだ。その綺麗な金色を振り乱し、頭を抱えて泣いている。
美鈴が怯えてる。怖がってる。―――泣いてるっ。
反射的に動いていた。
「美鈴を離せっ!!」
手に持っていた、買い物袋を地面に投げ捨て、美鈴を奪い取り、腕の中に仕舞い込む。
腕の中でさっきよりも最悪な顔色で涙すら止まる程恐怖で震える美鈴。
何て言ったらいいっ!?
どうしたら美鈴を助けられるっ!?
「大丈夫っ!大丈夫だからっ!美鈴っ、落ち着いてっ!!」
ぎゅっときつく抱きしめる。
他の音など今だけは美鈴に届く必要もない。
美鈴、お願い。お願いだから僕の声だけ聞いて。
「美鈴っ!!大丈夫っ!!大丈夫だからっ!!」
もう怖くないからっ!!
絶対に僕が守って見せるからっ!!
「美鈴っ!!」
美鈴の名を呼んで大丈夫、もう怖くないと、そう言い続ける。
すると、美鈴の体から徐々に力が抜けていき、僕の背に腕が回された。
きゅっと縋る様に服を握られる。
何とか落ち着いてくれた。良かった…。
ほっと息を吐いて、僕はゆっくりとその頭を撫でる。
「おい」
呼ばれてそっちを睨み付けると、高校生の訝し気な瞳とぶつかる。
「…本当に大丈夫なのか?俺が怖がらせといて何だが、その怯え方、異常だぞ?」
…美鈴を怯えさせといて何をいけしゃあしゃあと。
更に腹が立った。美鈴が目の前のこいつが話す度に体をびくつかせる。
あぁ、もう、さっさと消えてくれないかな?いらいらする。
「異常だろうと、何だろうと。貴方には関係ありません。これ以上美鈴を怖がらせる前に消えてください」
この世から。
敢えてこの言葉は伏せておく。けど、思いが伝わる様に半眼で睨み付ける。
「そうしたいんだけどなー」
え?この状況で話を続けるか、普通?
「俺的には非常に気になる訳だよ、その美少女」
にやにや笑いながら言うな。気味悪い。
美鈴がぎゅっと胸に顔を押し付けてくる。怖いんだ。
僕は大丈夫と何度も囁きながら頭を何度も何度も撫でる。
「な?やっぱりちょっとその場所俺と変わってくんない?大丈夫、今度は怯えさせないから」
伺いかけてくるな。煩わしいっ。
にっこりと微笑み、消えろって意味をたっぷりと込めて。
「嫌ですっ」
はっきりと言い退ける。
「いいじゃん。気になるんだよ。な?白鳥弟」
尚も言いますか。
白鳥弟と言うって事は、…鴇兄さんの知り合いか。
葵と僕の交友関係は大抵被っているから葵の知り合いの訳はない。それに相手は高校生だ。だったら間違いないだろう。
成程。道理でどこかで見た記憶がある訳だ。
とは言え、例え鴇兄さんの知り合いだとしても。
「絶対嫌ですっ」
消えてください。
鴇兄さんには後で消えた事を説明しておきますから、心置きなく消えてください。
「もう、泣かせないからっ、なっ、なっ?」
手を顔の前で合わせて、おねだりポーズ。
いや、気持ち悪いんで勘弁して貰えますか?
そもそも、そんなに言われても美鈴は絶対離さないっ。
苛立ちを込めながら、
「だからっ…あっ!?」
続けようとした言葉が途切れた。高校生の後ろに僕の尊敬する鴇兄さんが立っていたから。
「ほーう?オレの可愛い妹を泣かせて、大事な弟を怯えさせたのは、お前か…?透馬」
怒ってる。鴇兄さんが、ここまで怒るのは珍しい。僕達弟ですらこんな怒られた事はない。
バキバキと指を鳴らしている。
「よ、ようっ。おはようっ、鴇っ」
急いで振り返り右手を上げて裏返る声で挨拶するそいつに兄さんは半眼で微笑む。
「覚悟は、出来てるんだろうな…?」
「い、いやっ、これはなっ?色々事情があってなっ!?事情的な事情を事情ってな感じでなっ!?」
言っている意味がさっぱり解らない。
僕も半眼になって睨み付ける。
「事情、ねぇ?…それは後でゆっくり、じっくり、聞いてやる。それより、殴らせろ」
鴇兄さん、かっこいいっ!
数歩後退るそいつ。こっちにくるなと僕はその尻をぐっと片手で押してやる。
「えええええっ!?問答無用ってのは酷くねっ!?」
酷くないっ!!
ぎゅっと美鈴を抱きしめて、なるべく美鈴に嫌なシーンを見せないようにする。
鴇兄さんの拳はそいつの顔面にめり込んだ。
鼻血だして僕達の横に面白い顔して倒れたのをしらっと確認する。
それを確認して鴇兄さんは、そいつを踏みつけたまま僕達の前で膝をついた。
「大丈夫か?棗、美鈴」
聞かれて僕と美鈴は頷く。何か兄さんの足の下から呻き声が聞こえるけど、それはきっと気のせいだね、うん。
「悪かったな。俺の下僕が怖がらせて」
「下僕って、鴇兄さん」
こんなのを下僕にするなんて趣味が悪過ぎるよ。信じられない。
「でも、お前達も悪いぞ?こんな朝早くに二人で出歩くなんて。もしも俺が間に合わなかったらどうなってたか、分かるか?」
それは分かってた。
だって来る前に美鈴と二人で反省したんだ。
でも、鴇兄さんは心配してこうして来てくれた。こんなに汗かいてまで。
多分家に帰ったら、葵も父さんも佳織母さんも心配して怒ってくれるんだろう。
僕は美鈴と顔を見合わせて、二人で同時に謝った。
すると、鴇兄さんはさっきの怒り顔が嘘のように優しく微笑み、僕と美鈴の頭を「良い子だ」と少し荒めに撫でてくれた。
「さて、帰るぞ。二人共」
鴇兄さんの言葉に僕は大いに同意する。すると、
「ちょぉーい、ちょ、い、待ってっ!鴇、よっ!待て、ぃっ!!」
ビクッと体を震わす美鈴をぎゅっと抱きしめ、鴇兄さんの下で呻く声を僕は睨み付ける。
だけど、鴇兄さんは大きくため息を吐いて、僕達を見た。
鴇兄さんがどいた途端、立ち上がって美鈴に近寄ろうとするのを、鴇兄さんがを腕をそいつの首に回してぐっと締め上げた。
「…悪いな。棗。ちょっとあの馬鹿を黙らされてから後を追うから、美鈴と一緒に先に帰っててくれるか?」
にっこりと微笑む。…顔が赤くなって、あ、白くなった。
流石に、これは…。
「分かった。でも、鴇兄さん?」
僕の笑みもちょっと引き攣る。兄さん、本気の本気で怒ってる。正直滅茶苦茶怖い。
「どうした?」
僕達に向ける笑みが優しいから尚更怖い。
「そ、の…、下僕さんの顔が真っ白になってるから、首解放してあげて、ね?」
鴇兄さんはにっこりと笑って、そのままそいつを引き摺って去っていった。
結局首を解放したのかどうか解らないままだけど、ま、いっか。
美鈴の背をぽんぽんと軽く叩いて、「帰ろうか」と美鈴を離し、落とした買い物袋を拾うと美鈴と手を繋ぎ家へと帰った。
その後も色々な事があって、家に帰ったら美鈴と佳織母さんが猛泣きして、また一悶着あったものの、僕達は美鈴の作った美味しい朝ご飯を食べて登校した。
鴇兄さんと、葵と三人で並んで歩いていると、坂道の下で誰かが手を振っている。
僕達の知り合いではない為、鴇兄さんの知り合いでだろう。そう思って葵と二人で鴇兄さんの顔を見ると、……すっごく怖い顔をしていた。
葵が引くくらいには。だってこんな鴇兄さんの顔見た事ないから当然だ。…僕は朝見たけど。
でも、そんな鴇兄さんをまるで無視して、その人はゆったりと近づいてきた。
「……あっ」
「棗?」
思わず声が出た。
あの人、朝、僕と美鈴を追い掛けてきた人だ。顔中に湿布やら絆創膏やら張られてるけど、間違いない。と言うかむしろそれが証拠と言うか。
誰だか分かった瞬間、僕も顔を顰めてしまった。
「棗?どうしたの?」
「あの人、美鈴を泣かせた人だ」
「へぇ」
スゥっと葵の目が細められた。その瞳は冷え切っている。葵のこんな表情もかなり珍しい。
「よっ、おはよーさんっ。鴇、って恐っ!?えっ!?なんで兄弟揃って怒ってんのっ!?」
「むしろ何でお前が怒られないと思ってるのか俺は知りたいね」
「俺かなり謝っただろっ!?殴られて、親父に突きだされて朝から散々っぱら働かされて、お袋にもちゃんとぶん殴られたぞっ!?」
「足りない」
「うん。足りない」
「美鈴ちゃんを泣かせた人は討たれたらいいと思う」
「ひ、酷ぇ」
座りこみしくしくと泣き真似しているその人の脳天に鴇兄さんの拳骨が落ちる。
痛み苦しむその人を置いて、僕達は歩き出す。無視無視。美鈴を苛めた人なんて見る価値なし。
「あ、そうそう。その妹ちゃんなんだけど」
討たれ強すぎる。拳骨とか何の威力もないのか。その人はすっくと立ち上がり僕達と一緒に歩き出した。
「あれ、ちょっと異常だよ?」
「……安心しろ。お前の体の丈夫さには負ける」
「いやいや。すっごい痛かったからな。流石に手加減してくれるものだと思ってたんだけど、一切なかったしな」
「そうか。すまない。力が足りなかったか」
「そうじゃなくて。…まぁ、今はそれを一旦置いておけ。話を戻すが、鴇、お前の妹冗談抜きで少し異常だ」
声のトーンが変わった。それに鴇兄さんが答えるように少し歩を緩めた。
僕達もそれに合わせて二人の後ろに下がり後方から話を聞く事にする。
「お前が妹の事を可愛い可愛い言うから、どんなものかと思って。ついちょっかいをかけて、急に追いかけたり抱き上げたのは悪かったと思う。だが、あの怯え方は異常だ」
…確かに、美鈴の怯え方は異常だった。
『いやああああああああっ!!』
あの時。美鈴がこの男に抱きかかえられた時、叫びが聞こえて僕は弾かれた様に美鈴を目の前を歩くこの男から奪い返した。
腕の中に仕舞い込んで、ガタガタと震えるその体を必死に抱き締めて、ずっと大丈夫だと、もう大丈夫だからと言い続けた。
その時の姿を思い出し、また顔を顰めてしまう。
「あれは男を嫌うとかそんなレベルじゃない。男を怖がって怯えてる。病的なレベルだと俺は思う」
「……あのなぁ」
「だとしてもっ」
鴇兄さんの言葉を遮り、僕は声を上げた。
二人は驚いて僕を振り返る。隣を見ると葵も口をぽかんと開けていた。
「あんな風に、自分より圧倒的に弱い小さな女の子を脅すように迫って、追い掛けて泣かせた人に言えるセリフではないと思うっ。それにっ、もしもっ、貴方の言う通り美鈴が男性恐怖症なのだとしたら、貴方がしたことはそれを助長させることになりませんかっ?」
「棗…」
「行こうっ、葵っ。後の始末は鴇兄さんがやってくれるよ。鴇兄さん、その人ね。僕と美鈴に最初因縁つけてきたんだ」
「…ほう?」
天罰は直ぐに下るってね。
宣言通り僕は葵と一緒に急いで学校へと向かった。鴇兄さんの通う学校とは坂を下ると逆方向。兄さんの姿はあっという間に見えなくなった。
葵と二人学校へ向かう。
その時の僕達の話題は、今朝の出来事と朝に出た美鈴特製朝ご飯の話だった。
僕と葵はクラスが違う。双子だからわざと一緒にしないのかもしれない。実際葵と同じクラスになった事は一度もない。
それにクラブも違うから、行きは一緒でも帰りは別々。
今日は僕が所属してる柔道部が顧問不在の為、早く帰れた。
朝の美鈴の様子も気になって、僕は小走りに帰宅した。
鍵を入れて玄関のドアを開ける。すると、ひょこっと美鈴が顔を出した。
「棗お兄ちゃん、お帰りなさいっ」
両手を伸ばして走ってくる。どうしよう。凄く可愛い。
本当は抱き着きたいのに、僕が靴を脱いでるのを見て、ぐっと我慢しているその姿も凄く可愛かった。
ちゃんと靴を揃えて、美鈴に向き合うと、美鈴は嬉しそうに抱き着いてきた。
キラキラと瞳が輝いて、本当に凄く嬉しそうだ。何かあったのかな?
「どうしたの?美鈴。何か良い事あった?」
聞くと、胸に埋めてた顔をぱっと上げて、美鈴はニコニコと微笑んだ。
「棗お兄ちゃんが帰って来て嬉しいだけっ」
えへへっと照れる。か、可愛い…。
今日の朝のあの姿を見ているから尚更、こうして笑っている姿が可愛すぎる。
言ってる事から、態度まで何処までも可愛い。
思わず僕からも抱きしめてしまう。
「そうなの?」
「うんっ」
「そっか」
嬉しくて、美鈴が可愛くて、僕の頬まで緩んでしまう。
「棗お兄ちゃん、私ね、マドレーヌ焼いたのっ、一緒に食べよう?」
小首を傾げて訪ねてくる。マドレーヌを美鈴が焼いた?一人で?
でも確かにリビングから甘い香りが漂ってくる。母さんも料理が得意じゃなく、佳織母さんも料理が苦手で、父さんなんて論外だから、普段家にする筈のない香りにごくりと喉がなった。
「それは、嬉しいな。じゃあ、急いで部屋に鞄を置いてこないとね」
笑って美鈴に伝えると、美鈴もまた嬉しそうに微笑んだ。
「うんっ。手洗いとうがいもねっ。あ、着替えた制服のシャツは洗濯機の横の籠にいれといてねっ」
まるで母親みたいなこと言うから、ついつい笑えてしまう。
それを堪えて、コクコクと何度か頷き、着替える為に自室へと向かう。
(美鈴の作ったお菓子、か。佳織母さんは部屋で仕事してるみたいだし、もしかして僕が一番乗り?だったら急がなきゃっ。葵が帰ってくる前に食べようっ)
行儀悪いと知りつつも階段を駆け上がり、自分の部屋へ入る。ブレザーを脱いでネクタイを外してシャツを脱いで、適当にハンガーにかけて我に返る。
(美鈴がシャツは出してって言ってたっけ?)
ブレザーとネクタイだけをハンガーにかけて、シャツは外に出しておく。制服の短パンを脱ぎ棄てて、黒のTシャツとデニムパンツに着替えて、シャツを持って洗濯機のある一階の洗面所へ走る。
あ、籠が置かれてる。今まで洗面用具しかなかったのに、棚にはタオルが何枚も畳まれてあって、洗濯機周辺には小さなボックスに洗濯バサミとか必要な道具が置かれている。勿論洗剤もある。
籠にシャツを入れて、僕は手を洗い、置かれている新しいコップを見る。初めて見るコップなのに、どれが誰のかはっきりと分かるのが面白い。多分この緑地に金色のラインが入ってるのが僕のだ。青地に金ラインが葵、緑地に赤ラインが父さん、青地に赤ラインが鴇兄さん。黄色地に水色ラインが佳織母さんでピンク地に水色ラインが美鈴。
「ふふっ。凄い。一目で分かるよ」
今日、朝に確かに雑貨屋に行ったけど、ここまで揃えてるなんて思わなかった。しっかりと歯ブラシとかも新品に替えられている。コップを手に取り水を並々と注ぐと言われた通りうがいをする。水でコップを洗い流して、元の位置に戻して、僕は廊下へ出た。
さっきは気付かなかったけど、何か家の中がピカピカしてる。もしかして美鈴が掃除した?
朝とは違う家の中を物珍し気にキョロキョロと見回しながら、リビングのドアを開けると、ぱっと美鈴が振り返り笑った。
テレビの前の机には、綺麗に並べられた貝殻の形をしたお菓子。綺麗な飴色とチョコレート色と何かの果肉が混ぜられた物と三種類。
それとティーカップに入れられたお茶が僕の分だけ置かれていた。美鈴は湯のみに入ったお茶を飲むのかな?
もう一度そのマドレーヌを見る。素直に感嘆の息が漏れる。
「凄い、これ本当に美鈴が作ったの?」
聞くと間髪入れず答えが返ってきた。
「勿論っ。味はバターとココアとレモンだよっ」
成程。混ぜられてる果肉はレモンだったんだ。
どれも、美味しそう。どれから食べよう…。素直に迷う。迷いに迷った末、真ん中に置かれたココアを手に取って口に含んだ。
横から美鈴が固唾をのんで見守ってくる。
焼き肉の時も朝ご飯の時もそうだったけど、反応が気になるみたいだ。
でも、美鈴の作ったものにハズレはないと僕はもう知ってる。このマドレーヌも例外なくとても美味しい。
(それに父さんのカオス料理に比べたらどんなものも美味しいしね)
ちょっと遠い目をしたくなる。っと、これじゃあ美味しい料理を作ってくれる美鈴に失礼だね。
僕は素直に美味しいと、美鈴に伝えた。すると、美鈴は安堵するようにほっと息を吐いて微笑み、僕に抱き着いてきた。
お菓子作ってた所為かな?美鈴から甘い匂いがする。
一つ食べ終えて、今度はレモンを食べようと手を伸ばすと、
「あ、でも晩御飯もあるからほどほどに食べてね」
冗談めかして僕に言うから、僕もそれに微笑んで答える。
この位食べても余裕で晩御飯も食べれるけど、葵や兄さんや父さんも食べたいだろうから、あとバターだけ食べて我慢しよう。
汚れてない方の手で美鈴の頭を撫でてあげると、美鈴は嬉しそうに僕に額を擦りつけてきた。うん。可愛い。
「棗お兄ちゃん、晩御飯何食べたい?」
突然だなぁ。晩御飯、か。美鈴が作ったのだったら何でも美味しいだろうしなぁ。
「んー。美鈴が作った物だったら何でもいいよ?」
何でも美味しく食べれるし、何が出て来ても完食出来る自信があるからそう答えたのだけど、美鈴は不満だったらしく唇を尖らせた。
「だめだめ。食べたいの言ってよ。私何でも作れるよ?」
凄い自信満々に言って、僕にぎゅっと抱き着く美鈴の頭を撫でながら僕は考える。
食べたいもの、かぁ。何も思い浮かばないなぁ。空いた手でマドレーヌのバター味を取り食べる。
でも下から美鈴が何かないの?と視線だけで訴えてくる。どうしようもなくて咄嗟に僕は答えていた。
「そ、そうだなぁ。じゃあ、オムライス」
特に食べたい訳でもなかったけど、伝えた瞬間美鈴の顔がとても生き生きとしたので良しとする。
「僕も手伝うからね」
ぽろっと口から出た言葉。言うとさっきまで拗ねていた顔が綻んだ。
「いいの?」
「勿論っ」
「ありがとうっ!棗お兄ちゃんっ!」
可愛いなぁ…。いつまでも撫でていられる。美鈴と共にこののんびりした空間を満喫していると、

―――バァンッ!

「ズルいよっ!棗っ!!」
叩きつけるように開くドアの音と、葵の声が同時に響いた。
「僕だって美鈴ちゃんと一緒にお茶したいのにっ!!」
こんなに焦ってる葵の顔は初めて見たかもしれない。
ついつい物珍しさにガン見してしまう。
そんな僕達の間に入ったのは、名指しされた当人である美鈴だった。
「葵お兄ちゃん、ドアを乱暴に開けちゃ駄目だよ。壊れちゃう。それとお菓子はまだあるから大丈夫。それから、手洗いうがいしてちゃんと着替えてから来て?シャツは洗濯籠の中ね」
さっき僕が言われた事をまるまる言われて、立ち上がった美鈴に背中を押されリビングを追い出されてしまった。
これから葵は僕と同じ衝撃を受けるんだろうなぁ…。美鈴が行った数々の形跡を見て。
それが面白くて、笑みが込み上げる。
「棗お兄ちゃん?」
笑ってる僕が不思議なのか、美鈴がもう一度抱き着いて首を傾げた。
「うぅん。なんでもないよ。それより美鈴」
「ん?」
「葵が戻ってきたら、一緒に遊ぼうか」
「うんっ」
美鈴が満面の笑みで頷いた。
葵がリビングに戻って来て、美鈴がお茶を用意して、僕がテレビゲームを起動する。
葵と二人で良くプレイする、五色のもにもにした球体が二つセットで落ちてきて、同じ色を四つ隣接させると消える有名なパズルゲームを三人ですることにする。
そこでまさかの事態が起きた。
「み、美鈴、強いね」
「僕、棗が負けるの初めて見た…」
「ふふ~んっ」
かなり得意なはずのゲーム。葵が言う通り僕はこのゲームに関しては負けなしだった。なのに結果は三対二で僕の負け。
あの鴇兄さんにも勝てる唯一のゲーム。そんな僕が、負けた?
でも、なんでだろう?美鈴に負けても、全然悔しくならない。
「凄いな、美鈴」
むしろ、胸を張って威張ってる美鈴が可愛くて仕方ない。
その頭を撫でてやると、美鈴はまた抱き着いてきた。
「棗お兄ちゃんも十分強いよ?私も負けた事なかったのに、二回も負けちゃった…悔しい」
本当に悔しいんだろう。美鈴の腕の力が強められた。
そんな姿が微笑ましくて頭を撫でていると、横から葵も撫でてくる。
「今度こそちゃんと勝つんだからっ!棗お兄ちゃんっ!もう一回っ!」
「はいはい」
「美鈴ちゃん、頑張れー」
白熱した勝負は、鴇兄さんが帰ってくるまで続いた。
流石に二時間もゲームしてそれを続ける訳には行かないから、僕達はきちんとゲームを片づけて、夕食の準備に取り掛かった。
「鴇お兄ちゃん、ちゃんと着替えて手洗いうがいしてねっ。シャツは洗濯籠ねっ」
もう既にお決まりのセリフを鴇兄さんにも言って、美鈴は鴇兄さんをも追いだしてしまった。
夕食のオムライスが出来上がる頃に佳織母さんも部屋から出て来た。
それにしても、美鈴の料理の腕前は半端ない。くるくると動くその体。その小さな体のどこにそんな体力があるんだろう?と疑問に思う位には動く。
テーブルに出来上がったオムライスを置いていく。テーブルの中心にボールに入ったサラダがどんと置かれてる。その横のお皿にはドレッシングがある。そのドレッシングも手作りだって。びっくりだ。
「おー。出来たのか。すげぇな」
「うふふ。私の娘は何でも出来るからね。……私と違って」
嬉しそう佳織母さんは胸を張った後に、盛大に落ち込んだ。
「ママと鴇お兄ちゃんにはデミグラスソースのとろふわオムライス。ナイフで切って開いて食べてね。葵お兄ちゃんと棗お兄ちゃんと私にはたっぷりチキンライス入りのお手製トマトソース掛けオムライスっ」
バーンと胸を張って仁王立ちする姿は可愛い。可愛いけど…。
「ねぇ、美鈴?」
「なぁに?棗お兄ちゃん」
「その…父さんのは?」
「………あ」
すっかり忘れていたみたいです。父さん、可哀想に…。
「でも、まだ帰ってきてないし、帰って来てからでいいんじゃない?」
佳織母さんの言葉に美鈴は必死に頷く。
「そ、そうだよねっ。デミグラスソースも残ってるし、卵もあるしっ、うんっ。そうしようっ」
そんなこんなで食べ始めて、僕達が食事を終える時に父さんは帰ってきた。
美鈴は急いでオムライスを作り、父さんの前に差し出した。予想外の料理の上手さに父さんは目を剥いて驚いていた。分かる分かる。それに食べると絶品だから尚更驚くんだよね。ほら、やっぱり驚いた。その父さんの驚きに皆が笑った。
僕達は美鈴が作った食後のデザートであるゼリーを食べながら家族団欒を楽しむ。
「ねぇ、鴇お兄ちゃん」
「うん?なんだ?」
「今日、私を追い掛けて来た人って、鴇お兄ちゃんの友達、なんだよね?」
「…あぁ、俺の下僕だな」
「やっぱり、そう、なんだ…。だったら私、悪い事、しちゃったよね?泣き叫んじゃったし…」
しょんぼりする美鈴を無性に抱きしめたくてうずうずする。そんな美鈴の頭を撫でて鴇兄さんは微笑んだ。
「気にしなくてもいい。あいつが馬鹿だっただけだから」
「…また馬鹿って言われてる…。っと、そうじゃなくて、あの、あのね?それでも私酷い事、しちゃったから、その、お詫びをしたくて。明日、私、鴇お兄ちゃんの分と一緒にその人のお弁当作るから渡して欲しい、な、とか」
美鈴…。あんな人の事気にしなくてもいいのに…。
「あ、勿論、誠パパのお弁当も作るよっ?全員分のお弁当箱用意したんだっ」
あ、父さんが感動泣きしてる。うぅ、でも羨ましいな。僕達は給食が出るからお弁当必要ないし。食べたかった、美鈴のお弁当…。
「棗お兄ちゃんと葵お兄ちゃんにはおやつ作っておくからねっ」
やったっ!
葵と一緒に机の下で、拳をぶつけ合って喜ぶ。
和やかな雰囲気のまま時間は過ぎて、夜は更けて行った。
お風呂を済ませ、部屋で宿題をして、予習復習を軽くこなし、そろそろ寝るかな、そう思った時、ドアが小さくノックされて、開かれた。
「棗、お兄ちゃん…」
ドアの影からひょこっと顔を出す美鈴。その顔はお風呂上がりの筈なのに真っ青で。驚いて慌てて美鈴に駆け寄った。フリルたっぷりのパジャマ姿のその肩に触れると冷え切っている。
「どうしたの?美鈴。こんな時間に。とにかく中に入って」
手を引いて美鈴を中に招き入れてドアを閉める。
美鈴のその手には枕があった。
「…その、ね?その…部屋に行って寝ようと目を閉じたら、今日の事、思い出して、…怖、くて…」
ぎゅっと手を握られた。その手は震えていて。
「棗お兄ちゃん、一緒に、寝ちゃ、だめ?」
驚いた。今日あんな事があったから眠れなくなるのは想像がつく。
でも、まさか僕の所に来るとは思わなかった。
「だめ?」
泣きそうな顔をする美鈴に僕は慌てて首を振る。
「まさかっ。うん、分かった。一緒に寝ようか」
美鈴に向かって笑むと泣きそうだったその顔がぱぁっと華やいだ。
ベッドへ向かってその布団を剥ぐと、美鈴がいそいそと先にベッドに登り僕の枕の隣に枕を置いてそこに横になったのを確認して、僕もその横に体を横たえて布団をかける。
枕元にあるスイッチで部屋の電気を消すと、もぞもぞと美鈴は僕に抱き着いてきた。
「…ねぇ、美鈴?どうして、僕の所に来たの?」
「…え?」
僕は、いっつも皆に守って貰って庇われてる弱い奴なんだ。何をするにしても、皆に届かなくて、双子の葵にすら何もかも負けて、カバーされて。そんな情けない奴なのに。
鴇兄さんとか葵とか、それこそ父さんとか佳織母さんとか。皆の方がもっとちゃんと守ってくれるだろうに。なのに、どうして美鈴は僕の所に来たんだろう。
解らなくて自分の腕の中にいる美鈴に問いかけると、美鈴は少し驚きながらも、答えてくれた。
「…安心するから」
「え?」
「棗お兄ちゃん。朝私があんな状況になった時、抱き締めて大丈夫って、美鈴大丈夫だよって言ってくれたでしょ?それが凄く安心したの。棗お兄ちゃんの側なら大丈夫ってそう思えたの」
「…美鈴」
「棗お兄ちゃんと一緒なら怖くないかも、って…。ごめんね。甘えちゃって。鬱陶しいよね…」
美鈴は、こんな僕を頼ってくれてるの?僕はこの家でこんなにも落ち零れてるのに…。
「こんなに頼りない僕でも、いいの…?」
「?、棗お兄ちゃんは頼りなくなんかないよ?私を守ってくれたじゃない」
何気ない一言だったのかもしれない。
でも、その一言が僕にとっては何にも代えがたい、ずっと欲しかった一言だった。
家族の支えになりたかった。それでも皆は僕の上を軽々と飛び越えて行って、僕は何も出来ないものだと思っていたんだ。
けれど、美鈴は僕を認めてくれた。僕を必要としてくれた。
―――嬉しい。
心を巣喰っていたもやもやが晴れて行く。視界がぼやて、鼻の奥がつんとして、頬を熱い滴が伝う。
「…ありが、とう…。美鈴っ……っ」
ぎゅっとその小さな体を抱きしめる。
「えへへっ。棗お兄ちゃん、大好きっ」
そう言って僕の頬に流れ落ちた滴を小さな手で拭いながら美鈴は微笑みをくれる。
「うんっ、僕も、美鈴が大好き」
釣られるように僕の頬も緩み、笑顔が浮かぶ。
「絶対に美鈴は僕が守るから。…だから、安心して目を閉じて。例え夢の中だって絶対に助けに行くから。だから…お休み、美鈴…」
チュッとその額にキスをする。昔母さんがしてくれたみたいに。
すると、眠いのかその水色の瞳を瞬かせて、閉じようとしている瞼に抗うように、それでも、僕を見て、
「お休み。棗お兄ちゃん…」
そう言って、僕の手にキスを返した。
余程疲れていたのか、美鈴は僕の胸に顔を埋めるように眠りにつく。
今日幾度となく抱き着かれ、幾度となく撫でたその頭をゆっくりと優しく愛おしみながら撫でる。
「ありがとう…美鈴」

ありがとう、僕を認めてくれて。

ありがとう、僕を頼ってくれて。

ありがとう、僕の家族になってくれて…。

「大好き…美鈴」
僕の腕の中で規則的な呼吸を繰り返し安心して眠るその小さな存在を抱き寄せ、僕は瞳を閉じた。
美鈴が、愛くるしく優しい妹が、不安に恐怖に襲われる事なく、穏やかに眠れるように祈りながら…。
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