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最終章 数多の未来への選択編

※※※(葵視点)

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ここは…?
紫さんが乗りこんだ車を追い掛けて辿り着いたのは、お世辞にも綺麗とは言えないアパートだった。
どうしてこんな場所に?
車に走って追い付くのは流石に無理そうだったから、そこらにあったバイクを借りて追いかけたんだけど正解だった。
こんなアパートに逃げられたら絶対見失っていただろうから。
駆け込むように中へ消えた紫さんの後を僕も慌てて追いかける。
途中、紫さんを守っていた黒服スーツの男がいたけれど、遠慮なくぶん殴って気を失わせといた。
紫さんが入った家のドアを開くと、そこは家財道具など何もない、ただフローリングの部屋の中央に置かれたちゃぶ台とノートパソコンが一台。
これは、一体…?
「…何もない部屋でしょう?」
横から声がして、目を見開く。
風呂場から出て来たのか?
念の為に隠れていた?
何にしても驚いた。
「驚いたわ。まさかこんな所まで追ってくるなんて…」
「紫さん。話をさせて貰えませんか?」
「話?なんの?こんな馬鹿げた事はやめろとか。そう言う正論なら聞かないわ」
「そんな話は僕も聞きたくないですよ」
溜息混じりにそう言うと、紫さんが目を丸くした。
僕の反応が予想外だったのかな?
でもね、紫さん。実際、僕はこの爆弾騒ぎを止めるつもりはないんだ。
「どう言う事?葵君はそんな事言う子じゃ…」
驚いて、僕の言葉を飲みこめなくて。紫さんはふるふると頭を振った。
「紫さん。僕は話がしたいと言ったんです。説得しに来た訳じゃないんですよ」
「…葵、君?」
紫さんの事でずっと思ってた事がある。
それは、僕の知っている紫さんと今の紫さんにぶれがあると言う事だ。
あの別邸に乗りこんだ時にそれを増々意識した。紫さんの態度が何度か違うと感じる瞬間があった。
その違和感を今も感じる。
話をしようと言言うと、説得だと思って突っぱねた。なのにそうじゃないと、話がしたいと言うとこうして僕の心配をする。敵対している人間が過去の姿と違って心配する。
紫さんは何かを隠している。だけど、それを僕達にわざと気付かせようとしているんじゃないかな?って。そう、思うんだ。
「…僕はさっきも言った通り、鈴ちゃんが…僕の恩人でもある妹が大事なんです。妹が無傷であればそれで良い。だから…紫さんが鈴ちゃんに傷の一つでもつけようモノなら僕は例え貴女が恩人であろうと容赦はしません」
「………そう」
「だけど。…紫さんもまた僕の恩人の一人なんです。だから…話して下さい。貴女の気持ちを。貴女の境遇を。絶対に味方になるとは言えませんが。それでも僕の出来る範囲で貴女の力になりたい」
「………」
黙り込んでしまった。
これ以上僕は言葉が見つからなくて、ただじっと紫さんの反応を待った。
「………入って」
そう促されて、僕は素直に靴を脱ぎ中に入って適当な場所へと座る。
真っ暗だけど、パソコンの明かりがあるだけ、ありがたい。
パソコンの背の方へ僕は座ったから、当然紫さんはパソコンの前方へ座るかと思ったけれど、紫さんは静かにノートパソコンを閉じて、膝を抱える様にして座った。
「……何を、話したらいいの?」
「…何でも良いです。…そうだな。…紫さんはどうして昔僕を助けてくれたんですか?」
僕が伯父伯母に呼び出される度に助けてくれたのは、何故?
「…私と同じになって欲しくなかったから」
「?」
「私はね。葵君が…ううん。白鳥家の皆が一緒にいて笑ってる姿を見るのが大好きだったのよ。私もいつか、いつかあんな家庭を持ってみたいと思う位に。…私の出生を葵君は知ってる?」
「…父さんに少しだけ聞いた。伯父と伯母の子だって」
「そう。私は白鳥を継ぐ為だけに作られた謂わば人形のようなもの。祖父の血を色濃くひく人間が必要だった」
うん。父さんはそう言ってた。僕は頷いて先を促す。
「私は生まれたばかりの頃、母さん…文美母さんの所に預けられた。あの二人は自分達で育てたくないからって私を文美母さんの所へ捨てたのよ。…でも、それでも良かったの。私は文美母さんの下で育てられて幸せだった。文美母さんは愛情を一杯一杯注いで私を育ててくれた。文美母さんの内縁の夫。父さんも私を愛してくれた。血族で子を成すとまともな子が生まれ辛い。私は生まれつき体が弱くて。今も激しい運動をすると心臓に負荷がかかって倒れる事もある。そんな面倒な私でも二人はちゃんと愛を注いで育ててくれた」
…鈴ちゃんや佳織母さんみたいだな…。無償の愛程嬉しいものはないよね。
「でも…そんな面倒な私の所為で文美母さんは白鳥から逃げる事が敵わなかった。私がどうして白鳥の姓を名乗っているか。それは文美母さんが白鳥の名をいまだ持っているから。文美母さんは私がいる所為で、父さんと一緒に逃げる事も白鳥から逃げる事も出来ない」
「それは、違うと思う」
父さんの話だと、文美伯母さんは一番優しい人だったって言ってた。なら紫さんの存在が足かせとするならば、逆に夫の姓に入り遠くへ、それこそ白鳥の人間が探し出せないような奥地にでも逃げたはずだ。紫さんを連れて。それをしなかったって事は紫さんの足枷はそこにないと言う事。
「どうして違うと思うの?」
「…紫さんが尊敬する人は、自分の娘を足枷だと思うような人なの?」
「そ、れは…だって…」
「うん。…解るよ。僕もその気持ち痛いほど解るよ。きっと僕も鈴ちゃんと出会わなければ、同じように思っていたと思う」
「葵君…」
「他の選択肢何て思い浮かばなかったと思う」
紫さんは、鈴ちゃんと出会う事が出来なかった時の僕だ。家族の足枷にしかならないと、そう考えていた僕と同じなんだ。
「……ねぇ、葵君。白鳥美鈴ってどんな子なの?私の印象は私が得る筈だった物を全て奪った強かな女。それ以外無いの。でも葵君から見た白鳥美鈴は違うんでしょう?」
「僕から見た鈴ちゃんは…可愛いとか綺麗だとか色々言葉は浮かぶけれど…、一番はこれかな?凄く格好良い」
「格好良い?」
キョトンとしている紫さん。当然だよね。見た目は完全にふわふわの可愛い系だし。それに僕達が側にいる事によって人から見たら男を侍らせてる男好きの女に見えるだろうし。
「鈴ちゃんは強いんだ。…父さんと佳織母さんの再婚した時。結婚式では無かったけれど、披露パーティが行われたのは知ってる?」
「…えぇ。私も出席していたから。目立たないように隅の隅にいたけど。確か葵君が小学生低学年、くらいの時だったわよね?」
「うん。そう。…あの時も僕は伯母達に連れ出され、利用されそうになっていた。逆らい方が解らなくて。でも大事な大事な家族に手を出されたくなくて。初めて逆らったんだ」
「えっ?大丈夫、だったの?」
「うん…。勿論、殴られたし水をかけられたりもした。情けなかったよ。やっぱり僕は家族の足を引っ張るだけの存在だって。悲しくて、辛くて、腹立たしくて…っ、あんなに悔しい思いをしたのは初めてでっ」
あの時の悔しさを思い出して、ぐっと手を握る。

『…いいんだよ。今のままでいいの』
『自分を誇って良いよ』
『葵お兄ちゃんっ、大好きーっ』

脳裏に鈴ちゃんの声が、あの優しい言葉が過って。
ふっと力が抜けて、口元に笑みが浮かんだ。
「あんなに悔しい思いをしたのは初めてだった。でも鈴ちゃんはそんな僕を守ってくれた。ふふっ、信じられる?紫さん。鈴ちゃんは僕を庇うようにバケツ一杯の水を受けてびしょ濡れになったんだ。普通の女の子ならそこで一歩も動けなくなるよね。でもね、鈴ちゃんは僕にこう言ったんだ。『今、片をつけるからちょっと待っててね』って。その後は凄かったよ。履いてた靴を伯母達に投げつけたんだ」
「伯母って…園江伯母達?」
「そう。絶対逃がさないって。勿論鈴ちゃん一人の力じゃ大人三人には…いや、もしかしたら勝てたかもしれないけど、不利だと判断した鈴ちゃんは、目一杯叫んで助けを求めて。そしたらそれはもう凄い速さで佳織母さんが駆けつけてくれた。良く考えたら佳織母さんはあの時から園江伯母を嫌ってたっけ」
振り上げた手を掴んでギリギリっと握って。下手するとぽっきり…うん。なんだろう。鈴ちゃんが佳織母さんを思い出して遠い目する気持ちが解ったよ。何でもお見通しなのに、とにかく手が先に出るって、こう…呆れると言うか達観すると言うか…。
「凄い、ね…」
「鈴ちゃんだから、ね。鈴ちゃんは強いんだ。そしてその強さは優しさの中にあるんだよ」
今でも覚えてる。
泣きじゃくる僕を優しく抱きしめてくれた鈴ちゃんを。
僕はあの時誓ったんだ。

この優しい存在を守ろうって

僕にとっての唯一無二の女の子を守り続けようって。

「葵君は、白鳥美鈴の事が好き、なの?」
「…うん。好きだよ。妹としても、人としても、異性としても。どんな角度から見ても鈴ちゃんが愛おしい。恋情も尊敬も全て含めて僕は美鈴って言う存在そのものを愛している」
この感情だけはきっと決して失う事がない。鈴ちゃんが他の誰を見ていたとしても、僕は生涯この気持ちを持ち続ける。断言しても良い。
「やっぱり、私は白鳥美鈴を強欲だと思う」
「どうして?」
「だって、私が欲しかったもの、一番欲しかったものを持って行くんだもの」
紫さんが動く音がした。
僕の腰に腕が回り、僕の手にひやりとした感触がある。これは、紫さんの手…?
背中にぴったりとくっつかれて。抱きしめられている。
「私は、葵君を初めて見た時からずっと好きだったのに」
「―――ッ!?」
驚き、言うべき言葉を見失う。
「……君は私にとって救いだったの。…君を白鳥の屋敷で見た時、天使かと思ったわ。天使が地上に降りてくれた。やっと私と同じ境遇の人間を見つけたって。やっと私一人じゃなくなったんだって。君が欲しくて仕方なくなった。本来私は白鳥の跡を継ぐべく人間だった。葵君のお父さんである誠さんが跡継ぎを放棄した瞬間に私は跡を継ぐはずだった。けれど良子お祖母さんはそれを認めなかった。どんな時も跡継ぎは誠さんだと主張して。私に謝りつつも私に跡を継がせることは頑として認めなかった。どれだけ努力をしても。どれだけ勉強してもそれだけは認めてくれなかった。誠さんが葵君の事を鴇さんから報告を受けて放棄すると言った時も頑なに私に継がせる事だけは出来ないのだと」
その理由は意地悪とかではない。血を認めないからとかでもないだろう。ただ単にこれ以上紫さんに重たいものを背負わせないようにだ。
「紫さんは、その時には自分の血の事を知っていた?」
「知っていたわ。私は文美母さんと引き離された時に言われていたもの。『お前は白鳥を継ぐために作り上げた人形だ』と。『お前の母親は勢津子で父親は一典(わたし)だ』と。そう言って私を文美母さんから引き離し白鳥の家に監禁したのだから」
聞いて増々お祖母さんが白鳥の跡を継がせなかった訳が解る。紫さんを少しでも白鳥から解放したかったんだ。本当なら白鳥のしの字も触れない場所へ行かせたかったに違いない。
「………良子お祖母さんが白鳥の屋敷を出て行く時。私に言ったの。『一緒に行きましょう』って。そこまで私を白鳥から引き離したかったのかって絶望したわ」
「ちょっと待って。それは違う。絶対違うよ、紫さん」
「何が違うのっ?白鳥を出ようとした時に連れて行くのはそう言う事でしょうっ?」
「どうしてそうなるんだっ?お祖母さんは紫さんを助けようとしていたのにっ」
「助ける?」
「もしかして、知らないの?紫さん」
「何を…?」
「…白鳥の正式な後継者は順一朗ではなく、良子お祖母さんだよ?」
「…え?」
成程。そうか。…そうなんだ。そこの情報がなかったのか…。
「敢えてそこの情報だけを隠したのか。やっぱり白鳥家の人間は父さんの言う通り屑だらけだ」
「待って…、待って待ってっ。どう言う事っ!?」
僕の腰に回されている腕が、手が、体が小刻みに震え始める。
「監禁されていた場所にテレビとかパソコンとか。情報を仕入れるものはなかったの?」
「当時は、なかった。けど、伯父伯母に従順なふりをするようになってからは少しずつ情報を得れるようになって…」
「それは何処からの情報?」
「三郎伯父がくれた、パソコンから…まさかっ」
「…間違いなく裏から開示できる情報とそうでない情報をコントロールされていたね。下手するとその情報を手に入れられないように精神操作(マインドコントロール)もされてる可能性がある」
「う、そ…うそっ、うそよっ!そんなこと、出来る訳っ」
動揺し離れようとする紫さんの手を僕は振り返って引き寄せ胸に抱きしめる。
「聞いて。紫さん。僕が知っている事、全部教えるよ。ゆっくりで良いから、落ち着いて考えて受け入れて…。そもそも良子お祖母さんは―――」
僕は知っている事を少しずつ、確実に言葉に綴った。
それは今までの僕達白鳥家が歩んできた足跡。
紫さんは僕の話を聞く度に、僕の服を握る力が弱まっていった。大体の事が話し終わる頃には、僕が支えていないと駄目な程に。
「……葵君の、話が、本当なら…。私は今、一体、何の為に…」
「紫さん…」
「…私の、覚悟は、どうしたら…」
覚悟?
一体何の覚悟だ?
その覚悟という呟きがやたらと胸をざわめかせる。
「……解らない。どうしたら、いいの…?」
「紫さん。どうしたの?落ち着いて」
僕が声をかけても、紫さんに反応はない。
小さな…それこそ、こんな真っ暗闇で音のない空間だからこそ聞き取れるくらいの蚊の鳴くような声で。
「考えなきゃ…。私は一人なんだから…。今は、一人なんだから、考えなきゃ…考えなきゃ…でも、でもっ…」
と。ただ、考えなきゃいけないと、一人なんだからと呟き続けている。
きっと僕が紫さんにもたらした情報が、紫さんの思考の琴線に触れ、揺れ動いているんだろう。本来ならばそれは良い事かもしれない。でも今の紫さんは元々植え付けられた情報がある。それが今の紫さんを作り上げていた。それを違うと否定されてしまえば誰だって…。
「……あおい、くん…あおいくんっ…」
手が伸ばされて、頬に触れる。
ひやり…。
その手のあまりの冷たさに鳥肌が立ちそうになる。
けれど、何故か逃げる気になれなくて…。
僕はされるがままになっていた。紫さんの顔が近づいてくるのをただ見つめるのみで…。
まるで止まる寸前のオルゴールの様に。

吐息が重なって、唇が触れあう―――寸前に。

ダァンッ!!

ドアから予期せぬ音が聞こえた。
ボロイアパートだったから、建物全部揺れている感じがする。いや、実際揺れてるのかも?
思わぬ振動と音に紫さんも動きを止めドアへ視線を向ける。

ダァンッ!!

もう一度音が聞こえたかと思うと、フローリングの床をコツコツと靴の音が響く。
かと思うとその音は僕達の近くで止まり、僕の体にかかっていた重みが消えた。
「……お待たせ。来てあげたよ、紫さん。これでゲームセットね」
ゾクリ。
紫さんの手よりも冷えた声が聞こえた。鈴ちゃん、滅茶苦茶怒ってる…?
「な、何を…っ」
焦った紫さんの声。
一体どう言う状況なんだ?真っ暗で何も見えないんだけど。って言うか何で鈴ちゃんは見えてるの?
「ちょっ、離しっ」
「駄目。今離したら、葵お兄ちゃんに迫るでしょう?」
え?鈴ちゃん一体どんな恰好してるの?
僕がそう思っていると、パッと電気がついた。
ずっと暗闇にいたから、ちょっと目が慣れない。
きつく目を閉じ、徐々に開いて目を慣れさせて行くと、予想外の声が聞こえた。
「………美鈴。お前、敵を抑えるのにお姫様抱っこってどう言う事だ…?」
この声は、龍也?
驚いて声のした方を見ると、そこに立っていたのは確かに龍也でその後ろに棗もいる。
明るさに慣れてきた目で辺りを見回すと、確かに鈴ちゃんが紫さんをお姫様抱っこして立っていた。
これは…突っ込みをいれたくなる龍也の気持ちも解る。
「ヨネお祖母ちゃんに暗闇で歩く技術教わっといて良かったわ~。うんうん」
いや、うんうん、じゃなくてさ、鈴ちゃん。
「鈴ちゃん。どうしてここが?」
「……んー…勘?」
「勘っ!?美鈴っ!お前こんな時に勘ってっ!」
龍也の突っ込みに僕達もうんうん頷く。
「むぅ…だってこっちに葵お兄ちゃんが居そうだなって思ったんだもん」
だからって、勘でこんなピンポイントに来れるもの?
「前情報がない訳じゃないよ?棗お兄ちゃんが葵お兄ちゃんのいなくなった方向から、隠れる場所は何処だろう?って頭の中を検索して、色々出て来た白鳥家情報の中から良子お祖母ちゃんが良く通っていた家がこっちにあったなって思い出して」
「美鈴。それを勘とは言わない」
「ふみ?」
「しっかり計算してるだろ」
「でも良子お祖母ちゃんが通ってた場所って何か所かあるから、その中の一つを勘で選んだんだから勘で合ってるよ?」
…流石鈴ちゃん。って言葉しか思い浮かばない。
「貴女が、白鳥美鈴…?」
「えぇ。初めまして。白鳥紫さん?まぁ、私は顔を知っていましたけど」
「え?」
「初めて顔を見たのは、私の母と義理の父の披露宴の場でしたね」
綺麗に微笑む鈴ちゃんとそれを見て青褪める紫さん。
鈴ちゃんはゆっくりと紫さんを腕から降ろして、未だ座っている僕の前に立った。…かと思うとくるっと振り返って、僕に向かって両手を広げて……え?
「す、鈴ちゃんっ?」
え、えっとっ…?
鈴ちゃんの胸に僕の顔が…って、えっ?えぇっ?
頭を抱き寄せられてる。鈴ちゃんの腕の中に。
ど、どうしてっ?えっ?待ってっ?僕、夢でも見てるっ?
「がるるるる…」
や、でも、鈴ちゃんの唸り声はちゃんと耳に届いてるしっ。そもそも何で鈴ちゃん唸ってるのっ?
「鈴ちゃん…?」
「色々、色々紫さんにも言いたい事、聞きたい事一杯あるけどっ。まずこれだけは宣言しますっ!」
「?」
「葵お兄ちゃんは私のっ!!誰にもあげないっ!!例え、葵お兄ちゃんの恩人であってもあげないんだからっ!!」
そう宣言して、また僕の頭をきつく抱きしめる。
…えーっと…夢かな?やっぱり。もしくは幻覚?
って言うか、鈴ちゃん、胸っ、胸がっ…っ!!
「私のって…。葵君は物じゃないのよっ?そんな扱いっ」
「関係ないっ!あげないっ!!」
ぎゅぎゅーっ!
鈴ちゃん、流石に、苦しい…。
何これ?好きな子の胸に顔押し付けられて窒息死って…幸せなのかもしれないけど笑えない。
「す、ず、ちゃん…ちょっ、とだけ、離し、て…」
「ふみ?」
ギブアップ。
鈴ちゃんの背中を叩いてそれを伝えると、ごめんと素直に謝って、僕を解放してくれた。
それでも僕から完全に離れる事はせずに、僕の前に座ると真正面から抱き着いてきた。
本当に、何、この状況。鈴ちゃんが死ぬほど可愛い…。
「あげないって…。葵君がもし他に好きな子がいたらどうするの?それは貴女の我儘じゃないのっ?」
「ぎゅーっ!!」
鈴ちゃん、可愛い…。
こんな状況で鈴ちゃんも対外だけど僕も中々だよね…。
でも、鈴ちゃんがこんな風にイヤイヤしながら抱き付いてくれる事って、あんまりなかったから…うん。こんな状況だけど、僕は嬉しい。
僕も静かに腕を回して、鈴ちゃんを抱きしめると、鈴ちゃんはパッと顔を上げて僕を見て。
うっ…。
満開の笑顔。しかも少し照れたような、ほんのり頬を赤らめて微笑むんだから、始末に負えない。可愛いっ!
「えへへ。ちょっと待っててね。葵お兄ちゃん。今片つけるから。後でもう一回ぎゅーしてね?」
うん。可愛い。
僕の言語中枢は死んだのかもしれない。もしくは鈴ちゃんに毒されたか。…今更か。
鈴ちゃんは僕の額にちゅっとキスをして、すっくと立ち上がり紫さんと対峙した。…何だろう、昔もこんな光景があったような…?デジャヴ?
「さて、と。紫さん。私に言う事があるんじゃない?」
「言う事…?何?謝ればいいの?あぁ、そうか。ゲームは私の負けなんだから、遺言でも言えば良いのかしら?」
「違うでしょ?」
一歩、鈴ちゃんが前に足を踏み出す。
鈴ちゃんの気迫に怯えた紫さんが一歩後退する。
そしてそのまま紫さんは壁に追い詰められた。
「違う?じゃあ、何?葵君に迫った事を謝罪したらいいのっ?」
焦った紫さんが言葉を返すが、鈴ちゃんは頭を振るだけ。
ダンッ。
壁際に追い込まれた紫さんの顔の脇に鈴ちゃんの手が置かれる。…壁ドン?
恐怖に俯いた紫さんの顎に手をかけて上向かせ、鈴ちゃんは強制的に自分と視線を合させた。
「一言で良いんだよ。紫さん。紫さんが私にしか言えない言葉があるでしょう?ほら…」
そう言って鈴ちゃんは僕達にも聞こえない声で紫さんの耳に何か囁いた。
すると…紫さんは目を見開いて…涙を零した。両手で口元を隠すようにして、まるで祈る様に目を閉じて彼女は言った。

「お願いっ…。私はっ、私はっ、死んでも構わないからっ。文美母さんを助けてっ」

彼女の嗚咽交じりの悲痛な声が部屋に響く。
鈴ちゃんは崩れ落ちそうになる紫さんを抱きしめた。
「…大丈夫。任せて。貴女も、文美伯母さんも助けてあげるから。…もう、頑張らなくて良いよ」
「っ…」
「頑張ったね。一杯一杯頑張ったね。こんなになるまで一人で戦い続けて。これからは一人で戦わなくてもいいの。私達が側にいるからね」
僕は知ってる。鈴ちゃんが与えてくれる温もりを。
それに抗う事が出来ないって事も。
「大丈夫。絶対に大丈夫だから。だから…泣いてもいいよ」
鈴ちゃんの甘い声が紫さんを包んで…。
「あ、ぁ……ぁああああぁぁぁ…っ!!」
紫さんの泣き声は、暫く部屋に響き渡っていた…。

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