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秘書編
21
しおりを挟む直人との別れから1ヶ月が過ぎた。
朱里と恭介の関係も依然として変わりなく、仕事一色の生活を送っていた。
直人との面会についても恭介から何も言ってこない。
あの日、屋敷に戻った時に話す機会はあったのだが無言でその話は終わりだというオーラを放たれた為、朱里はあえなく引き下がることしか出来なかった。
その後、ただ一度だけ直人からメールがきた。
『父と和解しました。これで優人との生活にも落ち着きが取り戻せます。今まで本当にありがとう。』
短い文章だったが、朱里はそれがとても嬉しかった。
いきなりのお別れでその後どうなったのか、ずっと引っかかっていたからだ。
メールをくれた事で朱里もようやくほっと安心することができた。
そして平穏な一日が終わろうとしていたある夜、帰りの車の中で朱里の携帯が震えた。
怪訝に思い、運転をしている木島を横目でチラッと見つつ、携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし。」
『朱里ちゃん!大変なの!』
電話の先で叫ぶような声を上げる千夏に朱里は嫌な予感がした。
隣りの木島にもその声は聞こえているようだ。
「千夏さん?落ち着いて下さい。どうしたんですか?」
『奥様が・・・奥様が倒れたの!』
「え・・・。」
『だから奥様がっ・・・倒れたの!い、今病院に運ばれて行ったの!』
朱里の手から携帯がスルリと落ちた。
木島はゆっくりと車を道路脇へと寄せた。
そして朱里の膝に落ちた携帯を取ると、そのまま話し出した。
「千夏、俺だ。それでどこの病院だ?・・・ああ、わかった。俺達はこのまま向かう。ああ、わかった。」
木島は携帯をたたむと朱里に視線を向けた。
そこには体中を震えさせ、真っ青な朱里がいた。
木島が声をかけようとした時、後部座席にいた恭介が仕切りを下げ怪訝そうに木島に声をかけた。
「どうした?何かあったのか?」
「恭介。珠子さんが倒れた。それで・・・。」
木島はチラッと視線を朱里に向け、恭介を促す。
恭介も自然とその視線を追う。
「風立?おい、大丈夫か?顔色が悪いぞ。」
恭介は身を乗り出し、問いかけた。
朱里はコクコクと頷き、
「だ、大丈夫です。と、とにかく病院に向かいましょう。奥様が・・・待ってます。」
か細い声でそれだけ言うと朱里は自分を抱きしめながら俯いた。
恭介はさっと車を出ていくと、助手席側のドアを開けた。
そしてサッと朱里の体に腕を通すと、そのまま抱え上げ外に持ち出した。
「え・・・あ、あの!」
「後ろに乗り換えだ。こんな状態で助手席にいたら運転手も気が気じゃない。それに・・・後ろには俺がいる。」
そう言って、そのまま朱里を後部座席へと移す。
恭介は自分が車に乗り込むとすぐに木島へ指示を出した。
「出してくれ。」
その合図に木島は頷き、アクセルを踏みこみ車を走らせ始めた。
朱里は突然の恭介の行動に驚き、体の震えも少しだけおさまっていた。
珠子が倒れたと聞いた瞬間、朱里の脳裏に遠い昔の記憶が甦っていた。
受験の日、朝起きて見たものはキッチンで倒れていた母親の姿。
すでにそれは温かさをなくし、冬の寒さ以上に冷たくなっていた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
これは夢だ。
そう自分で言い聞かせたのを覚えてる。
前日までは普段と変わらない様子だったのに、次の日にはもうこの世の人でなくなっていた。
その現実を朱里はわずか15歳で味わったのだ。
人の生死に“絶対”など有り得ない。
だからこそ恐ろしい。
朱里はギュッと瞼を閉じた。
すると左手が急に温かいものに包まれた。
「心配しなくても大丈夫だ。」
恭介の声が響いてきた。
朱里はハッと顔をあげ恭介をみると、恭介は窓枠に肘をつき窓の外を見つめている。
それでも左手を放そうとはしない。
左手からじわりと温かさが全身に伝わる。
朱里は静かに頷いた。
病院に着くと入口の所で松井が備え付けのベンチに座り、待機していた。
「松井。」
恭介が声をかけると松井はさっと立ち上がり、一礼をした。
「お疲れ様です、恭介様。」
恭介を促し、松井は病室へ案内をする。
朱里は二人のあとをついて行く。
「それで容態は?」
「はい。命に別状はございません。心労が重なったのではないかと医師は申しておりました。あと、少し肝機能が低下しているとのことです。この際、一度詳しく検査をなさってはどうかと仰られてました。」
「そうか。本人にそれは任せよう。で、今はどうしてる?」
「先ほど目をお覚ましになられました。今はメイドが一人付き添っております。」
ちょうど話が終わった所で病室へとたどり着いた。
恭介がその部屋へ入ると、朱里と松井は病室の外で待機することにした。
そこで朱里は松井に気になっていた事を尋ねる事にした。
「松井さん。奥様はその、心労が祟るような事があったのでしょうか。」
「さぁ、それはさすがに奥様本人しかわからないことですから。ただ・・・私から言わせて頂くならば、今回の事は起こるべくして起きた、と言えるでしょう。そして奥様が二階堂の夫人である限り、今後もその危険性が付き纏うと考えられます。」
「そう・・・ですよね。」
松井の遠まわしな発言でも朱里はすぐに理解できた。
屋敷の主人でもある二階堂会長は家にいる事が少ない。
いや稀だと言っても過言ではない。
その主人に変わって妻である珠子があの屋敷を一人で切り盛りしている。
並大抵の努力では、維持できないだろう。
聞いたのは愚問だった。
ほんの短い期間ではあったが、朱里はその女主人のそばで働いてそれを見てきたのだ。
その上でこんな質問をするなんて。
朱里は急に恥ずかしさを覚えた。
松井はそんな朱里を部屋から少し離れたところまで連れていくと、
「奥様は19歳の時に二階堂へ嫁がれてきました。まだ社会の事など理解する前です。いきなり屋敷を任される立場になられたんです。しかも周りは知らない人間ばかり。環境が全く違う場所で一からその身に叩きこまなければならなかった。そして同時に会って間もない旦那様との結婚生活にも慣れていかなければいけなかった。それは私達の想像以上に過酷なものだと思います。しかも唯一頼りにしていた旦那様は仕事一筋の人で家庭を顧みる事も忘れるほど会社に全てを注いでおられた。そんな状況が今日まで30年以上続いているんです。倒れられるのも無理はない。むしろ今まで倒れなかったのがおかしいくらいだと思います。」
「奥様には誰かその・・・心を許されてる方はいらっしゃるんでしょうか。悩みとかを打ち明けたりできるような・・・。」
「おそらく皆無だと思いますよ。奥様の立場を考えてみてください。自分の周りにいるのはメイドかあるいは社交場で少しだけお付き合いのある方ばかり。それらに心を許せば、いつ付け込まれるかもわからない。だから安易に自分をさらけ出すことはできないんです。」
「そんな・・・。」
「仕方ありません。それが二階堂へ嫁ぐということなのです。」
朱里はこれまでの珠子の行動を思い浮かべた。
いつも楽しそうに笑ってた珠子の胸の内を誰も知らない。
その現実に朱里は震えた。
たった一人でずっとそんな環境にいたなんて。
私だったら耐えられない。
「けれどその生活もあなたが来てから変わられた。」
「え?」
「あなたが二階堂に来て奥様付きのメイドになられて、奥様の表情がとても和やかで自然に微笑まれるようになりました。それまでは感情を押し殺したような表情しか見る事ができなかったので。奥様はあなたを一人のメイドとしてだけではなく、おそらく娘にも近い感情で接していたのではないでしょうか。だから、あなたといる間だけ奥様は一人の人間として過ごすことが出来た。そんな二人を見て、わたしも安心していたのです。ようやく奥様も心の拠り所が出来たのだと。けれどあなたは奥様から離れ、恭介様に付く事になった。もちろん奥様は喜ばれてました。しかしそれは同時に奥様は唯一の安らぎを失ったことを意味します。再び元のシビアな現実を起きている間中、感じていなければならなくなった。」
「私のせい・・・?」
「誤解させたのならすみません。あなたを追い詰めているわけではないんですよ。ただ私が言いたいのは、今の奥様にはあなただけが頼りだということです。」
「そんなこと・・・。」
「もう一度言いますが、これはあくまでわたしの見解です。ですから聞き流して頂いて結構です。おっと話が過ぎましたね。」
松井の視線の先に恭介の姿が映った。
ちょうど病室から出てくるところだった。
松井は朱里に視線を送り、恭介の方へ歩いて行く瞬間、小さい声で最後に言った。
「これからも奥様の傍にいて差し上げて下さい。」
「朱里ちゃん、来てくれたのね。」
珠子は笑顔で朱里を迎え入れた。
恭介から珠子が朱里に会いたがっていると聞いて、朱里は病室へと足を踏み入れた。
嬉しそうに微笑む珠子だが、その顔色はやはり悪そうだ。
「奥様・・・。」
朱里はなんと声をかけて良いのか、言葉に詰まった。
ここに向かう車の中での不安な気持ちと先程聞いた松井からの衝撃的な話に朱里は思考能力が停止していた。
「ごめんなさいね、心配をかけて。でも大したことないのよ。それを松井が大袈裟にするものだから・・・。」
「いいえ、大袈裟なことではありません。当然のことです。私の母・・・産みの母もそう言いながら突然亡くなりました。人は常に死と隣り合わせなんだとその時に思いました。だから奥様、どうかお体だけは大切になさってください。」
「朱里ちゃん・・・。」
「何か要り様のものはございますか?私、ご用意いたします。」
「いいのよ。必要なものはメイドに頼んだから。・・・そうね、じゃあお言葉に甘えようかしら。」
「はい。」
「もう少しここに居てわたくしの話し相手になってもらえない?」
「え・・・あ、はい。それはもちろん。」
「よかった。松井とメイドは一旦、屋敷に戻るようだし、恭介もきっとこんな所に長居はしないでしょう?一人はなんだか寂しいわ。」
「あの・・・会長は・・・?」
朱里は思わず、尋ねていた。
こういう時こそ、一番に駆け付けるものではないだろうか。
しかし朱里の言葉に珠子はほっと息を吐いた。
「あの人はきっと来ないでしょうね。今もきっと仕事しか頭にないんだわ。あの人にしても恭介にしてもホントに二階堂の男達には困ったものよね。」
そう言って寂しそうに笑った。
「でもね、私はあの人の仕事をしている姿が好きなの。周りには仕事の鬼だとか、冷酷な人だとか言われてるけれど、それだけ仕事に徹していなければ成り立たない地位だと私は理解しているし。だからその邪魔をするのは嫌なの。私の為にその仕事を放り出す方が耐えられないわ。だからこんなところにも来てほしくない。」
「奥様・・・。」
どこか遠くを見て話す珠子に朱里は胸が締め付けられた。
こうやって奥様はずっと一人で生きてきたのかもしれない。
自分の気持ちをずっと胸に締まって。
「とは言っても、あの人と一緒に居たい気持ちもあるの。こんな歳になってもまだそんな事で悩んでるなんてなんだか可笑しいわよね。一体、何年悩んでるの!って自分でも笑ってしまうわ。」
暗い雰囲気を払拭するようにわざと明るく振舞う珠子に自然と朱里の口も緩んでしまう。
「でも・・・奥様の気持ち、わかります。」
「そう?」
ニコリと笑顔で返す珠子に朱里は少しだけ頷く。
「それだけ相手の事を思っているんだと思います。」
「そうかしら・・・でもそうよね。なんとも思っていない相手だったらこんなにも悩んだりしないものね。それにあの人を思う気持ちがあったからここまで来れたし、何にでも耐えられたわ。強い気持ちさえあれば何でもできるのかもしれない。あら?と言う事は、朱里ちゃんにもそういう人がいるってことよね?」
「え?」
「恭介はさっさと追い返して、じっくりとそのお話を聞きたいわぁ。」
「お、奥様。そろそろお休みに・・・。」
「いいえ!朱里ちゃんの悩みはわたくしが解決して差し上げます!さぁ、お話になって。」
目を輝かせる珠子に朱里は引き攣った笑顔で応戦するしかなかった。
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