睡蓮

樫野 珠代

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本編

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師走に入り、年末に向けて課の景色も慌ただしさを増している。
さらには一人の女性が醸し出す空気によって、ピリッと張りつめた空気がさらに輪をかけているのも要因の一つとなっていた。
「益子さん、またここ間違ってるわ。」
「え?す、すみません!見たつもりだったんですけど。」
「つもり・・・ね。それって『見た』わけじゃないってことよね?」
「い、いいえ!見ました!でも・・・。」
「ああ、もういいわ。言い訳聞く時間が勿体ない。」
手を振り、北川さんはさっさとしろと言わんばかり体を翻して自分の仕事へと戻っていく。
それが最近よく見る光景となっていた。
そしてそのたびに自然と体を強張らせてしまうのは私だけだろうか。
ミスをしない事。
それを第一に気を付けているけれど、まだまだ細かなミスはある。
だから余計に北川さんの声に反応してしまうのだろう。
隣りの吉木さんにも申し訳ない。
きっと私が反応してしまう事に気付いているだろうし、以前にも自信を持てと励まされたのに。
はぁ・・・
幾度となく溜息が出てしまう。
「・・・ちゃん・・・樋野ちゃん?」
「っ!は、はい!」
係長に呼ばれていたことに漸く気付き慌てて返事をすると、席に座っていた係長がははっと笑っていた。
とりあえず係長の元へと近づくと、
「急に声かけて悪いね。」
「いえ、大丈夫です。」
「今、何か急ぎの仕事は持ってる?」
「え?いえ、今日上げるものは先ほど終わったので特に急ぐものはありません。」
「良かった。実は頼みたい事があってね。」
そう言いながらA4サイズの封筒と名刺を渡された。
「これを今日中に届けて欲しいんだ。向こうは20時まではいるそうだから。もうすぐ定時だしそのまま直帰していいよ。行けるかい?」
「はい。では今、手を付けている仕事を区切り良い所まで終わらせたら出ます。」
「うん、宜しく頼む。明日は土曜だし、早く帰ってゆっくりするといい。あ、空が怪しいから傘も持っていった方がいいかもな。」
「はい、そうします。」
軽く頭を下げ、自分の席へ戻ると名刺に書かれた住所を確認する。
初めて行く場所だった。
けれど目的の会社名は知っている。
もちろん担当の人の顔も。
とにかくまずは目の前の仕事を片付けなければ。
一呼吸した後、すぐにキーボードに置かれた手を動かし始める。
係長のおかげで頭を切り替えることが出来たのか、思った以上に仕事が進み、最後に間違えがないかチェックして保存。
そして指定のフォルダに入れて担当営業に終了した旨のメールを送信。
以上で終わりだ。
直帰出来る事が少し嬉しくて、週番制になっている会議室の片付けと給湯室の整理を担当の週でもないのに進んで終わらせる。
ちょうど給湯室を出ようとした時、益子さんが入ってきた。
そして珈琲を入れようとして部屋の中の変化に気付き、
「給湯室の片付けしてくれたんだ!今週はこっちの班が担当だったのに。ありがとう、助かった。」
「いえ、ついでだったので。」
「あ!樋野さん、もう仕事終わり?」
「え?いえ、今から係長のお客様の会社に行くことになってて。」
「そっか・・・ちょっと頼みたい事があったんだけど・・・無理だよね?」
最近、こんな風に帰り間際に仕事を手伝ってほしいという彼女からのお願いが増えてきた。
少しだけならといつも引き受けるのだが、今日はさすがに無理だ。
「すみません。ちょっと今日は・・・。」
「ううん、いいの。ごめんね、呼び止めて。」
そう言ってカップを持ち給湯室を出て行った。
それを見送り、ホッと息を吐く。
益子さんのお願いを断ったことを申し訳なく思う一方で、断った事で何か言われるかもしれないとハラハラしていた自分がいて、気付かないうちに息を止めていたらしい。
その後、自分の席に戻り、机の上を片付けて、ホワイトボードの自分の名前の横に直帰と初めて書いた。
なんとなくドキドキした。
まるで自分が営業になったか、一人前だという事のアピールであるかのように感じて。
「どうかした?」
急に後ろから声を掛けられびっくりしながら振り返った。
そこには外回りから帰ってきた吉木さんが立っていた。
「いえ・・・初めて書くので新鮮で・・・。」
吉木さんは怪訝な表情でホワイトボードを見つめ、ようやく理解できたのか、
「なるほど。」
それだけ言うと自分の席へと戻っていった。
変に思っただろうか。
吉木さんが素っ気ないのはいつもの事だけど、さすがに今の自分の発言は聞く人によっては奇妙に思うかもしれない。
少しずつ萎んでいく気持ちを感じながら、席へと戻る。
係長から預かった書類と名刺を持ち、他に何か必要なものはないか確認する。
そしてカードリーダーに社員証を翳し、フロアの方を向いて
「お先に失礼します。」
と挨拶をして課を出た。


更衣室のロッカーから鞄を取り出し扉を閉めた時、ふと係長の言葉を思い出した。窓の外を見ると今にも降り出しそうな雰囲気の空が映し出されている。
いつも鞄に入れている折り畳み傘はこの前使ってそのまま家に置いてきてしまった。
でも傘立てに長傘を置いてある。
そう思って更衣室の出入り口近くにある傘立てへと向かうがそこに見覚えのある傘は見当たらなかった。
誰か間違って持って帰った?
でも置き傘にしてるのは大抵ビニール傘で私のように柄の入っている傘を置いている人はほとんどいないから間違えようがないと思うんだけど。
女子更衣室の傘立てだから使うとしたら女性だろう。
すると扉の開く音が聞こえ、続けてよく耳にする声が聞こえてきた。
「あら、珍しい。こんな時間にあなたがここにいるなんて。」
視線を声を方へと向ければ、北川さんが立っていた。
「お疲れ様です。係長から届け物を頼まれたのでこれから伺うんです。」
「ああ、そう言えばさっきそんな話してたわねー。で?何か探し物?その辺、きょろきょろしてたけど。」
すごい、きっと見えたのは一瞬だったはずなのに探し物してたってわかるなんて。
少し驚きながら答えた。
「置き傘が見当たらなくて。」
そう言うと北川さんは傘立てに視線を向け、
「誰かが無断で使ったんじゃない?この前、天気予報で雨なんて言ってなかったのに降った事あったでしょ?」
そう言われてみればそんな日があった気がする。
「でも普通は次の日に持ってくるものよね。男性ならわかるけど、ここは女性しか使わないから確実に持っていったのは女性だろうし。ちなみにどんな傘?普通のビニール傘?何か特徴があれば社内の他の場所に置いてるかもしれないから見かけたら持ってきてあげるわ。」
「えっと白地に黒の猫の影絵が2か所入っている傘です。」
「・・・・なるほど。」
北川さんは何か思い当たる事があるのか、考え始めた。
一方、私はと言うと視線が時計を捉え、思った以上に時間を取っている事に気付いた。
「あ、もう行かないと。お時間を取らせてすみませんでした。」
ぺこっと頭を下げて荷物を持ち直し出入り口へと向かう。
「ちょっと待って。傘は?持ってるの?」
「いえ。雨が降ってきたらコンビニで傘を買おうと思います。ではお先に失礼します!」
少し慌て気味に伝え、足早に更衣室を後にした。





「気を付けて帰ってね。」
そう言って目的の人に見送られたのはつい15分程前。
そして今、私はずぶ濡れの状態で辛うじてあった店の軒先で雨宿り中。
まさかこんなにも早く天気が急変すると思わず、降り出したらコンビニで買おうと安易に考えていたのがいけなかった。
「どうしよう・・・・。」
雨はどんどん強くなってきていて、止む気配がない。
周りにコンビニらしきものは見当たらない。
そもそも来る途中に見たコンビニは駅前くらいだ。
書類を届けた会社は薬品の研究所も兼ね備えているためか、自然の多い郊外の一角にあり、敷地がやけに広く、雨が降り出したのはちょうどその敷地を出たところだった。
つまり戻って雨宿りのためも戻ろうにも距離があり結局は濡れることに変わりはないと思い、それならば急いで駅前向かおうと思ってしまったのが間違いだった。
敷地を出てこの軒下にたどり着くまで雨を避けられる場所は木陰ぐらいで、このどしゃぶり具合ではそれも意味がないものだった。
着ている服に雨水が浸透していって重量が増している。
しかも今は冬だ。
このままでは風邪を引きそうだ。
けれどこのまま濡れながら駅に着いても、とてもじゃないがずぶ濡れ状態で電車に乗る勇気はない。
タクシーなんてそれ以前だ。
とりあえず拭かなきゃと思って鞄の中にあるハンカチを探していると、手に何かが当たった。
あ・・・
課長の名刺だった。
『何かあったら連絡しろ。』
そう言って渡された名刺だけれど、連絡を取った事はない。
きっとこれからもそれはないだろう。
微かに濡れたその名刺の表面をハンカチで拭き、再び鞄へと戻す。
雨は止みそうにない。
このままここにいてもどうしようもない、どうせ既にずぶ濡れなのだからさらに濡れたとしても大して変わりはないだろう。
そう考えて足に力を入れて一歩を踏み出した。
そして駅までという目標を定め、走り始める。
けれど神様はどこまでも無情らしい。
ガードレールさえない、ただ白いラインのみ引かれた歩道と呼ばれる1mも満たない幅の中を走っていると対向車がやや深めの水たまりを速度を落とさずに通過した反動でバシャっと水しぶきがあがり、見事に全身に降りかかってきた。
「きゃっ!」
一瞬のことで、我に返った時にはよける間も場所もない状態で呆然とそれを受け止めていた。
車は止まることなくそのまま過ぎ去っていったようだ。
つ、冷たい・・・
ぼたぼたと大粒の水滴が服から地面へと落ちていく。
暫く佇んでいたけれど何も考える余裕も、ましてや走る気力もなく、ただただゆっくりと歩き始めた。
そしてまた一台の車がやってくる。
水攻めは避けたい、けど車道と壁に挟まれた歩道はずっと続いている。
せめて水たまりがない場所で止まっておこう。
視線を少し先へと向けると絶望がまた襲う。
土砂降りの雨のおかげで水はけの悪い地面には所々というには無理があるほどほぼ全体的に浸水していた。
ダメだ。
そう思って目をギュッと瞑って水攻めの衝撃に耐えようとしたけれど、近づく車の音が次第に緩やかになりブレーキ音が聞こえた。
そしてドアの開く音とともに
「樋野!」
聞き慣れた声がして、目を開けると課長が慌てたように走ってきた。
「おい、ずぶ濡れじゃないか!ほら、早く車に乗って!」
そう言って助手席へと手を引いていく。
「か、課長、どうして・・・。」
辛うじてその言葉が出てきた。
けれど課長は
「とにかく車に乗れ。」
助手席のドアを開けてくれた。
けれどこんな状態で乗るなんて出来ない。
シートが濡れてしまうもの。
課長はすぐにその考えを読み取ったようで自分の着ていたコートを脱ぎシートに敷く。
「ほら、これでいいだろ。早く乗らないと俺も濡れてしまう。」
そう言われてしまったら乗るしかない。
悪いと思いながらコートの上に座る。
課長もすぐに運転席へと乗り込み、私の冷えた体を温めようとエアコンの温度を一気に上げる。
けれど冷え切った体はすぐに温かさを感じないほどで、全身がジンジンと痛み震えが止まらない。
すると課長はさらに着ていたジャケットを脱ぎ、私の体に掛ける。
「まずいな、これじゃあ風邪を引く。とにかく急いで温めないと。」
そう言ってすぐに車を出した。



 

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