睡蓮

樫野 珠代

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本編

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次の週の月曜日。

朝礼の後、再び課長に呼ばれた。
もちろん、益子さんも一緒に。
揃って課長の机の前まで行くと、
「この1週間、二人の仕事内容を見させてもらった。」
そう言いながら、課長が立ち上がり、私を捉えた。
「まず樋野、君は早見が抜けてからずっと残業ばかりだが、それに関して何か思う事はないか?」
いきなりそう指摘されて口を噤む。
そして、課長は隣の人物に目を向ける。
「益子、君は、ほぼ定時上がりで社で働く者として理想的だ。しかしこの課に来てまだ半年にも満たない者が遅くまで残業、一方入社して2年の先輩が定時上がり。世間一般では普通、逆になるものだ。この現象についてどう思う?」
「それは・・・慣れとか経験の差じゃないでしょうか。」
その言葉を聞いて、課長は頷きながら言葉を続ける。
「なるほど。1年早くうちの課に所属していたのだから仕事も要領を掴んでいる分早いという事か。」
「そうだと思います。ね?樋野さん?」
急に同意を求められ、思わず条件反射で頷く。
「わかった。二人がそう言うのであれば、そうなのだろう。では、二人の仕事をこちらで分けても問題ないな。」
「え・・・?」
益子さんの小さな声が聞こえた。
「どの会社も、今はコスト削減が第一だ。つまり、何の手も打たず残業をさせるほど気前の良い会社は今時、ほぼない。わが社も当然同じだ。では残業をさせないためにはどうするべきか。単純だ。一人一人の能力を見極め、適材適所と仕事効率UPを図るしかない。報告によれば、書類に関してはほぼ全て樋野が担当していたようだから、今日から益子がそれら全てを担当し、樋野はそれ以外の事を担当するんだ。樋野はまだ慣れない部分があるだろうから、益子はそのフォローも同時にしろよ。最後に、今週もスケジュール報告をしてから帰るように。以上だが、何か質問は?」
「い、いえ。」「ないです。」
二人はそれぞれ返事をして、課長の前を離れ、席に着く。
そして私は自分の机の上にある書類に一度、目を通し、営業さん達からの指示を付箋に書いて貼っていく。
全ての書類の指示を書き終わってからそれを隣りの席の益子さんへと渡す。
「あの、これが今日必ず仕上げなければならない分です。あと、こちらが明日以降の分。」
「え?こんなに?」
眉間に皺を寄せ、益子さんが不満を露わにする。
「なんでこんなに溜めてるの。信じらんなーい。」
「す、すみません。」
謝りながら、そっとそれを益子さんの机に置く。
益子さんはその書類の山の一番上のものを取ると、早速、仕事を始めた。
しかし、それでは困る。
私は彼女から今日しなければならない仕事を全く聞いていないのだから。
「あ、あの!私は何からすれば・・・。」
次第に声が小さくなるのは自覚しているが、彼女の発する重い空気がどうしてもそうさせてしまう。
益子さんはパソコン画面を向いたまま、
「自分で考えてよね。私、この書類の山を片付けなきゃいけないんだから。誰かさんがきちんと仕事してたら、こんな事にならなかったのに。もう、ホント最悪。」
そう言って、キーボードを打ち始め、完全に私をシャットアウトした。
仕方なく、自分の席に戻り、過去に書き留めたノートを取り出し、見返す。
しかし、そこに書かれている事は、持ち込まれた仕事に対する処理等がほとんどで何かしら頼まれている前提での話だ。
すでに益子さんへ頼まれている仕事が何なのか、わからなければ始まらない。
どうすべきか。
暫く迷ったあと、最後の手段である課長の所へと向かった。
課長はパソコンに向かい、手を動かし続けていたが、すぐに私の気配に気づいたのか、視線をあげた。
「どうした。」
「あの・・・・・・・。先週の、益子さんが書かれたスケジュールを見せて頂けないでしょうか。参考にしようと思って。」
そう言いながら、課長の視線を避けるために俯く。
「ああ、別に構わないが。益子は何を・・・。」
一旦、そこで区切った課長が少しだけ動く気配がした。
そして、溜息を零し、
「悪いな。」
「え?」
呟くように謝った課長に、思わず顔を上げてしまった。
しかし、課長は何も言わなかったかのように、普段の表情のまま、
「今からパソコンにデータを送っておく。確認して。」
そう言うと、課長はパソコンに視線を戻し、操作を始めた。
無言で、もう行けと言っているように感じて、私は会釈をして自分の机に戻るとすぐにデータを開き、確認作業へと集中した。



「どうしよう。」
その一言に尽きた。
今、何もすることがないのだ。
益子さんのスケジュールを一通り見たけれど、毎日必ずしなければならない仕事というのは、午前中のわずか1時間以内で終わってしまうものだけだった。
営業の人達は私達よりも30分遅れで就業開始。
つまり、出社も基本的には30分遅い。
それまでに営業の人達の机の拭き掃除、フロアに掃除機をかけておく。
そのあとは珈琲等の飲み物の用意、補充。
その間に、次々と出社してくる営業の人達に1杯目のコーヒーやお茶を出しつつ、本日のスケジュールを聞き、同時に備品等で必要なものがないか聞いてみるが、使用するものはほぼ決まっているため、特に要望はない。
全員に飲み物を配り終えたら、ホワイトボードに皆のスケジュールを書いていく。
それが終わると、会議室の掃除。
以上。
そして、それと同時にすることがなくなった。
とにかく、仕事を探そう。
そう思って、備品を確認したり、コピー機の中の紙を補充したりと、色々やってみたが、時間はあまり経たずに終わってしまった。
あとは、今日予定されているミーティングのセッティングと電話を取る事くらい。
電話はあまり得意としない仕事だけど、今はそれでさえ有り難いと思う。
けれど、現実はシビアだ。
最後に電話を取ったのは何分前だっただろうか。
内線は直接本人の机上の電話にかかってくるため、不在の場合のみ取る。
つまり、朝はほとんどの営業の人達が存在するので取る必要がない。
しかも今は、月半ばで特に忙しい時期でもなく、どちらかと言えば暇な時期だ。
そんな時期にはかかってくる電話も少ない。
来客だって朝から来ることはほとんどない。
隣りの益子さんをちらっと見るのと同時に、営業の和田が彼女の方へと近づいてきた。
「このページ、修正してくれるかな。こことここ、数字が違ってるんだ。あと、さっきの見積書なんだけど、相手先の会社名が違ってたからそれも頼む。」
「え?あ、ごめんなさーい!すぐにやります。」
そう言って、益子さんはその書類を受け取っている。
さらに、
「益子ちゃん、さっき頼んだ書類どうなってる?そろそろ俺、出たいんだけど。」
「わ!ごめんなさーい。すぐにします!」
別の営業さんの書類の修正も頼まれている。
あまりにも仕事を抱えているので、手伝おうと口を開きかけた時、
「樋野、ちょっと来い。」
課長の呼ぶ声が聞こえてきて、びくっと体が震える。
けれど、幾度の経験のおかげなのか、すぐに立ち上がり課長の元へと行く。
すると目の前にいくつものファイルが差し出された。
「手が空いてるんだろ。これをデータ化して、終わったら資料室に戻しておいてくれ。」
「わ、わかりました。」
「言っておくが、益子の手伝いは不要だ。もし手が空くならいつでも声を掛けてくれ。やる事はいくらでもある。迷ってる時間もコストがかかっているということを忘れるなよ。」
「は、はい。」
「あと、電話応対はもっとシャキッとしろ。君の対応次第で仕事が決まってくることもあるんだから。」
「・・・・はい。」
そうして静かに席へと戻った。

課長は気づいてる。
たぶん何もかも。
私が苦手にしているのは何か、そしてそれを避けて今まできてたことも。
書類中心の毎日は大変だけれどそれでも苦手分野からは解放される、精神的に楽な方に私が逃げていたことを。
だから課長はこんなにも現実を突きつけて来るんだと思う。
『でもさ、仕事には厳しいみたいよ。』
数か月前に聞いた台詞がふと頭を過ぎる。
単に厳しいわけじゃない。
しなければならない事から逃げているから厳しく指摘をしてるだけ。
その指摘もすぐにするわけじゃない、たぶんこれまで気付いてはいても敢えて時間を置いて様子を見ていたんだと思う。
自ら気付くかどうか、そして行動を起こすかどうか。
けれど、私は現状で満足したまま時間だけが過ぎていった。
だから課長も我慢の限界を超えたのかもしれない。
そして、先ほどの益子さんの言葉。
『誰かさんがきちんと仕事してたら、こんな事にならなかったのに。』
その通りだ。
私がもっと人と交流できれば、少なくとも接客など普通に出来れば。
今回の件は必要のないものだったのかもしれない。
益子さんには迷惑をかけてしまった。
今はその気持ちでいっぱいだ。


それからは課長直々の指示に従い、作業を進めた。
頼まれた仕事も定時の10分前には終わり、課長へ提出するためのスケジュール管理表をパソコンの画面に立ち上げる。
そして内容を入力してそれを保存。
課長へとデータを送る。
あとは・・・・・・給湯室の片付けをするのみ。
それも5分もあれば終わる。
そうして定時のチャイムが鳴る頃には机の上は綺麗に片付けも終わっていた。
隣りでは益子さんが頭を抱えながら画面と向き合っている。
声をかけるべきか迷う。
何気なく視線を前に戻した時、課長と目が合った。
「樋野、仕事が終わったならさっさと帰れよ。」
「は、はい!お、お疲れ様です。お先に失礼します。」
慌てて立ち上がり、フロアにいる人達へと視線を送り、会釈をしてその場を後にした。

 



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