旦那様と僕・番外編

三冬月マヨ

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幸せなえいぷりるふぅる

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『なあんで、休みなんだよーっ!』

 倫太郎りんたろう様の大きなお声に、僕は思わず受話器から耳を離してしまいました。
 せい樣のお声も大きいですが、今の倫太郎樣のお声はそれ以上かも知れません。

『毎年毎年楽しみにしてるのにさあっ!!』

 倫太郎樣が楽しみにしていると仰ったのは、今日のこの日、えいぷりるふぅるの事です。一年に一回、この日だけは嘘を吐いても許される日とされています。
 ですが、学舎まなびやは春の長期休暇に入っていまして、騙す相手が少ないと倫太郎樣は嘆いているのです。

雪緒ゆきおもそう思うだろ!?』

 強く同意を求められましたが、僕は受話器を持つ手とは逆の手で頭を掻きました。

「うぅん…そんなに、嘘を吐くのって楽しい物なのでしょうか?」

 僕は、それに同意出来ませんから。

『嘘を吐いても許される日なんだぞ!? 嘘を吐かなきゃ勿体無いだろ!』

 勿体無いとは?
 うぅん…やはり僕には解りません。

『騙されたーって、悔しがるの見るの楽しいだろ!?』

 うぅん、更に解りません。
 …ですが。

「…僕は、嘘を吐かれたら悲しいです…」

 騙す為の嘘は、とても悲しいです。
 例え驚かせる為だとしても、それはやはり悲しいです。
 優しい嘘でも、どうしても『嘘を吐かれた』と云う事が先行してしまうと思うのです。

『…ごめん』

 僕の言い方が悪かったのでしょうか?
 深く沈んでしまいました倫太郎樣のお声に、僕は慌ててしまいます。

「ああっ、あの、ですが先に嘘を吐くと仰って戴けましたら、覚悟を決めますので…っ…!!」

『ぶはっ! それじゃあ意味がないだろっ!』

 僕は大真面目に言いましたのに、何故か倫太郎様は噴き出してしまいました。

「いいえ! 立派に驚いてみせます!」

 ぐっと拳を握って言いましたのに、何故か、引き攣った笑い声が聴こえました。

 ◇

「は? 嘘を吐いてみろ?」

 あの後倫太郎樣は『笑い過ぎて腹痛い。また学舎でな』と、電話をお切りになりました。一体何があったのでしょう? 腹痛が治まっていると良いのですが。

「はい。今日は、えいぷりるふぅるですので」

 倫太郎樣がそうでありました様に、この日は誰もが嘘を吐くのを楽しみにしているのでしょうか?
 それは、旦那様も同じなのでしょうか?
 そう思いましたら、止まらなくなりまして、僕は旦那様にそう言ってました。

「ああ、もうそんな日だったか…しかし、そう言われてもな…」

 お猪口を持つ手とは反対の手で旦那様は頭を掻き、うぅむと唸ってしまいました。
 おや?
 旦那様は違うのでしょうか?

「…冗談なんざ、そうそう思い浮かぶ物でもないしな」

「冗談?」

 苦い表情を浮かべます旦那様に、僕はこてんと首を傾げます。

「ああ、この日は本来、冗談を言ったりして皆を楽しませ、喜ばせる日だ。それが何故か、どんな嘘を吐いても良い日になってしまったんだ」

「ふぇ…それは知りませんでした」

 目から鱗が落ちるとはこの事でしょうか。ぱあっと目の前が広がって明るくなった気がします。

「まあ、エイプリルフールだからと無理に嘘を吐く必要もないがな」

「そうですね」

 それは確かに、旦那様の仰る通りです。
 無理を押して通す嘘に何の意味があるのでしょう?

「お前は?」

 そう思いましたのに。

「はい?」

「人に話を振ってお前はないのか?」

 卓袱台を挟んだ向こう側で、旦那様が何故だか、とても良い笑顔を浮かべて僕に訊いて来ました。

「は? ふえ?」

 お話は終わりかと思いました僕は、瞬きを繰り返す事しか出来ません。

「…ああ、お前には難しいか」

 そんな僕に旦那様はお猪口を傾けてから、にやりと笑いました。

「そっ、んな事はありません! 僕だって、嘘の一つや二つ言えます!」

 何故でしょう?
 何故か僕は、そんな旦那様の姿に、かちんと頭に来てしまったのです。

「ほう? 例えば?」

 にやにやと笑いながら、いぶりがっこを摘まむ旦那様に向かって僕は声を荒げます。

「実は、僕はちょこれいとが好きで…っ…!」

 そこまで言葉にした処で、僕は、はっとしました。
 僕は今、何を言おうとしたのでしょう?
 僕は今、何と云う事をしてしまう処だったのでしょう?
 ちょこれいとは、奥様との、大切な大切な、とても大切な思い出です。口に出してしまいましたら、その大切な思い出が穢されてしまいます。あのぽかぽかの箱も、きっと、ぽかぽかでは無くなってしまいます。それは嫌です。幾らちょこれいとが好きで、咄嗟に口を吐いてしまったのだとしても、これはあんまりです。

「好きで…の、続きは?」

 ぐっと唇を結んで黙り込んでしまった僕を、旦那様が目を細めて見て来ます。唇は愉快そうに弧を描いています。

「ちょ、ちょこれいとは好きですが! 意地悪な旦那様は大嫌いですっ!!」

 酷いです。
 あんまりです。
 旦那様は、本当に意地悪です。
 幾ら嘘でも、好きな物を、大切な思い出を、好きではありませんだなんて言いたくありません。

「そうか、嫌いか」

 そんな僕の思いを知らぬ様に、旦那様は意地の悪い笑顔を浮かべます。

「嫌いではありませんっ! 大嫌いですと言ったのです!」

「そうかそうか」

 僕はこんなにも怒っているのに、何故か旦那様は愉快そうに肩を揺らせます。
 僕が幾ら怒っても、旦那様の迫力には敵いませんが、それでも僕は怒っているのです。精一杯に肩を怒らせて、目だって思い切りの上目遣いをして睨んでいますし、唇も思い切りに尖らせています。
 ですのに。

「もっと怒れ。その方が鞠子まりこも喜ぶ」

 旦那様はふわりと僕の頭に手を置いて、そっと撫でるのです。
 何時もでしたら顔が赤くなるのですが、既に怒りで赤くなっているので、これ以上に赤くなる事は無いと思います。
 
「…奥様が喜ばれる…のですか?」

 ですが、それよりも、旦那様の言葉に赤みが引いた気がします。

「ああ。鞠子は怒るお前を喜ぶだろう。だから、もっと怒って鞠子を喜ばせてやれ」

「うぅん…?」

 旦那様の仰る事は難しいです。
 ですが、奥様が喜ばれるのでしたら、それはとても喜ばしい事です。
 
「で、では…っ! 頑張って怒りますね! あの、足袋なのですが! 裏表逆のまま洗濯籠に入れないで下さい。それから、たまになのですが、迷い箸になられる時があります。それは、とてもお行儀が悪いですし、あと、最近は酒量が増えた様な気がします。それから…」

「解った解った! 一気に言うな!」 

 何故か旦那様は片手で胃を押さえて、もう片方の手を僕に向けて待ったを掛けて来ました。
 うぅん?
 これは、怒り過ぎと云う事でしょうか?
 ですが、旦那様の目は優しく細められていますし、口元も優しく弧を描いています。

「…旦那様、もしかして楽しんでいらっしゃいますか?」

 もしかしてもしかしましたら、旦那様は怒られるのが好きなのでしょうか?

「いや、そんな事はない」

 そうは仰いましても、肩は震えていますし、目尻にうっすらと涙が浮かんでいるのですが?

「そうですか。それでは、引き続き怒らさせて戴きます。旦那様は基本的に好き嫌いはございませんが…」

 何故か、そんな様子の旦那様が可笑しくて楽しくて、僕は旦那様が『参った、勘弁してくれ』と、僕の鼻を摘まむまで怒り続けたのでした。
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