寝癖と塩と金平糖

三冬月マヨ

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離れてみたら

【完】あの日の光景※

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「楠っ!!」

 高梨の叫び声が辺りに響く。
 暗い闇の林の中で。

 気が付いたら身体が動いていた。
 胸から、熱い何かがドクドクと流れて行く。
 泣きじゃくる子供の声が聞こえる。
 それが幼い頃に。
 あの日に聞く事の出来なかった、瑞樹みずきの泣き声の様に優士ゆうじには聞こえた。母親の遺体の傍らで、ただ呆然としていた瑞樹。だが、心の中では、こんな風に泣いていたのかも知れないと。

(…ああ…。…ここに瑞樹が居なくて良かった…)

「…っ…じ…っ…!! ゆ、じ…っ…!!」

 そう思う優士の耳に、瑞樹の悲鳴の様な泣き声が何処か遠くから聴こえて来た…――――――――。

 ◇

 カサカサと草を踏む音が辺りに響く。
 それ以外は時折吹く風の音ぐらいか。
 林の中で虫の宝庫である筈だが、今はそれらの鳴き声も羽音も聞こえない。
 この林の中に潜む何かに恐れて、身を顰めているのか、何処かへと移動したのかは定かでは無いが。
 杜川の名が出たが、優士と高梨はそれについては特に何も言わずに、辺りに気を配りながら来た道を引き返していた。それは自分で杜川の名を出して置きながら、不機嫌になった高梨を刺激しない方が良いと、優士が考えた結果だ。

「…あやかしと遭遇せずに居てくれれば良いが…」

 子供の足だし、もしも刀を持っているとしたら重さもある事から、林の奥深くまでは来ないだろうと、来た道を引き返しているが、子供の冒険心故に人が辿った道を歩むのかと云う不安もある。何時かの何処かの少年達の様に、息を顰めて妖が来るのを待っている可能性もある。
 久川が語った少年は、名を加藤洋介、十二歳、坊主頭で悪戯好きな男の子だと云う。大きな街から来る朱雀を見ては、自分も将来はそうなりたいと周りに語っていたそうだ。夢を語るのは良い。良いが、それが高じてこう云った行動に出るのは戴けない。
 高梨は隣を歩く優士を横目でちらりと見る。
 平素から表情があまり動かない優士だが、今は僅かに眉間に皺を寄せて、きつく唇を結んでいる。洋介に、かつての自分達を重ねているのかも知れない。

「――――――――っ…! ――――――――っ…!!」

 その時、風に紛れて甲高い叫び声の様な物が、高梨の耳に届いた。

「走るぞ!」

「あ、はい!」

 優士の返事を聞かずに高梨は走り出した。走りながら腰にある刀に手を伸ばして舌打ちをする。
 名を呼んで探す事も出来たが、相手は自らの意思でここへ来たのだ。逃げてしまうかも知れないし、妖を呼ぶかも知れないと思い、それはしないでいたのだが、こうなってしまっては意味が無い。

「くそ…っ…!!」

 最悪の事態にだけはならないでくれと、そう祈りながら高梨は走った。

 ◇

 風に乗って、ある匂いが流れて来て星の鼻を擽った。

「…んっ! みずき走るぞ! つやまのおっちゃんはこっち!」

 先を歩いていた星が二人に叫んだと思ったら、津山に背中を見せてしゃがみ込んだ。

「はいっ!?」

「はっ、え、何!?」

 驚く二人に、星は今もその匂いが漂って来る方を睨み、叫ぶ。

「早く乗る! 血の匂いがすんだっ!」

「解りました!」

 星の気迫と血の匂いと云う言葉に、津山は迷わずその首に腕を伸ばして絡ませる。脚を星の腰に掛ければ、直ぐ様に臀部に手が回され『ん!』と、星が立ち上がった。

「頑張ってついて来いな!」

「は、はいっ!」

 顔だけで振り返り、励ます様に言って走り出す星の後を瑞樹が追う。鉄の入った靴が、重い音を立てて草を土を、或いは落ちた枝を踏み付けて行く。しかし、重い音を立てて居るのは、瑞樹だけで。星は軽やかに林の中を駆ける。
 星が本気で走れば、例え人一人担いでいた処で、誰も追い付けはしない。

『人目がある処では、本気を出さない様に』

 と、何度も何度も高梨から注意をされている星だ。
 血の匂いはする物の、その匂いの強さから流れる量は少ないだろうと、星は最悪の事態は想像しては居なかった。星の鼻は血の匂いの他に、良く知った匂いも嗅ぎ取っていたから。彼が居るのなら大丈夫だと云う安心感があったから。だから、瑞樹がついて来られるぐらいの速さで駆けた。

 ◇

「わあああああああっ!! 来るな、来るなあああああっ!!」

「加藤君、落ち着くんだ!」

「く、る、なああああぁぁぁっ!!」

 高梨と優士が、そこへ着いた時には一人の少年が妖を前に、恐慌状態へと陥って、泣きながら闇雲に刀を振り回していた。その刀に僅かに付着しているのは、妖の血か或いは少年の血か。近付いて確認しようにも、この状態では近付けない。少年を落ち着かせなければ、次に血を流すのは高梨か、優士の内のどちらかだ。
 妖は既に高梨が片付けたが、このまま騒いでいれば新たな妖に襲われるかも知れない、いや、逆に逃げるかも知れないが。

「加藤君、落ち着け! 落ち着いて、手にしている物をこちらへ寄越すんだ! 妖は、もう居ない!」

 高梨が声を掛ければ、更に少年は声を上げて刀を振り回し後退り、二人から距離を取る。
 このままでは、少年は二人からも逃げてしまうかも知れない。

「…高梨隊長の顔が怖いのかも知れません。俺が宥めます。…加藤君、落ち着いて。妖はもう居ない」

 優士は重い息を吐いて、少年が怯えているかも知れない原因にそう声を掛け、両手を軽く上げて少年の方へとゆっくりと一歩を踏み出した。

「…解った…」

 何やら理不尽な事を言われた気がすると思いながらも高梨は頷き、加藤少年の確保を連絡しようと無線機を手に取る。顔が怖いと言われた高梨は、顔が見えない様にと、二人に背を向けた。
 それは、一瞬の隙だった。
 しかし、その一瞬だけで、それには十分だった。

『オ"ア"ア"ア"ア"ッ"!!』

 ぶわっと沸き起こる殺意に気付いたのは、高梨が先だったか、優士が先だったのか。

「なっ!?」

「ちっ!!」

 妖の中には、その姿を隠す事が出来る物も居る。それは姿と共に、その気配も。同じ妖相手ならば、見破られる可能性があるが、この場に居るのは、ただの人間だ。

 背後から突然に充てられた強烈な殺意に、少年の動きがピタリと止まる。少年の内腿を生暖かい何かが伝わって、流れ落ちて行く。

 高梨が無線機から手を離し、鞘にしまった刀を抜くより早く、優士の身体が動いていた。
 ただ、無意識だった。
 優士の頭の中には、ただ、一つの光景があった。
 廊下に落ちた蝋燭。
 我が子を庇う、母親の姿。
 還らぬ人となった、瑞樹の母親の姿が。
 腰の刀を抜くと云う事も思い浮かばなかった。
 人の形に近い、その妖の真っ黒な毛に包まれた腕が振り上げられた瞬間。
 月では無く、星明りに浮かび上がる、その鉤爪を見た瞬間、ただ、勝手に身体が動いていた。

「楠っ!!」

 高梨の咆哮にも似た叫びが、暗い林の中に響いた。
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