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それから

土下座とチョコレート

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 朝、目が覚めたら雪緒ゆきおが居なかった。

 昨日、風呂場で雪緒が望む様に触れたのは良いのだが、信じ難い事に雪緒は自分でそれをした事が無く、意識がある状態でのそれに非常に戸惑い、そして泣き出した。知識としては相楽さがらの指南書のお蔭でありはしたが、実際に経験するとやはり違うのだろう。悪い物でも、悪い事でも、汚い物でも、汚い事でも無いと幾度も言い聞かせ、宥めた。同じ布団に入って、その細い身体を抱き締め、背中や頭を撫でながら。そうこうしている内に、雪緒は眠りに付き、俺も休んだのだが。

「…何故、居ない…」

 のそりと身体を起こしながら口を開けば、その声音は見事に不満が滲んでいた。
 隣に居た筈の雪緒の姿が無かった。
 先に起きて朝餉の支度かと、時計を見れば六時を過ぎた処で、俺が仕事の時は雪緒は何時もこの時間に起こしに来るのだが。
 頭を掻きながら立ち上がり、茶の間へと向かった。

『おはようございます、旦那様。今日は、朝からやらなければいけない事があるのを失念していました。昨夜の内にお伝え出来ずに申し訳ありません。朝の挨拶も無く、先に行く失礼を…』

「…お許し下さい…? 朝餉の用意は出来て…弁当は冷蔵庫…」

 何だ、これは?

 茶の間へ来れば、卓袱台の上には朝餉の用意がされてあり、飯と味噌汁は自分でよそうだけとなっていて、そんな書き置きが置いてあった。

「…逃げられた…のか…?」

 いや…逃げるって…。
 ……………まあ…とにかく、だ。
 仕事が終わったら、ゆっくりと話そう。幸い、明日は俺も休みだ。

 ◇

「うおっ!? ちょ、高梨っ、何か殺気が籠もってないか!?」

「気のせいだ。怪我をしたくなければ、真面目に相手をしろ」

 訓練場に天野の情け無い声が響いた。
 今日の巡回は別の部隊が行って居るから、俺達は訓練に勤しんでいる。
 木刀で打ち合ったり、走り込みをしたり、皆、好きに動いている。中には俺と天野がやり合う姿を見ている者もいる。
 …ぼさっと見ている奴等は、後で特別に面倒を見てやろう。

「ひえっ! ちょ、ま、昨日の事は悪かった! ゆかりんと話すべきだった! 反省した! だから、もう良いだろ!?」

 焦りながら片手を出して俺を制する天野に、俺は冷たく感情の籠らない声で言い放つ。

「そうか。だが、諦めろ。常に生死を意識しろ。訓練だと甘えるな。その油断が命取りになる」

「ゆかりんの鬼ーっ!!」

「高梨だ!」

 勤務中は高梨と呼べと、幾度言えば解るんだ?
 泣き真似をしながら逃げる天野を追い、本気で突きを繰り出せば、漸くやる気を出してくれた様だ。
 こいつは何時もそうだ。
 のらりくらりと、飄々と躱して行く。
 その時が来るまで本気を出す事は無い。
 それが無ければ、こいつは何時だって上に行けるのに。

 ふと視線を巡らせれば、せいと相葉が手合わせをしているのが見えた。
 その動きに、軽く口角を上げる。
 俺と天野の動きを再現している様だ。

「隙ありっ!!」

 それを逃さず、天野が俺の胴を薙ぎ払おうとしてきたが、軽く後ろへ飛び退って躱す。

「甘いな。ひよっこ共が俺らの動きを盗んでる。盗られない動きを見せてやれ」

「うげぇ…」

 軽く顎をしゃくって二人を示せば、天野は眉を下げ、口を曲げて情けない声を出したが、それは直ぐに口の端だけを僅かに上げる不敵な笑みに変わった。

「ふうん。…なら、基本に則った動きでもしてみせるかな」

「…酷い奴だな」

 手の内は見せたくないと?

「ゆかりんに言われたくないっ!!」

「高梨だっ!!」

 お前がそう呼ぶから、星が偶に俺の事を『ゆかりんたいちょ』って呼んでいるんだぞ!
 更には、あの親父まで『ゆかりんたいちょ』と呼び始めた。
 本当にあの親子どうしてくれようか。

 その後、星と相葉に散々文句を言われた。
 基礎的な動きの合間に変化を入れたりするなとか、あの動きはどうやったら出来るのかとか、本当に人間なのかとか、因みに天野は俺を囮にさっさと逃げ出していた。

 家へと帰る前に、店に寄りチョコレートを買う。
 雪緒は俺の酒等の嗜好品は買う癖に、自分の嗜好品は買わない。
 毎月生活費を渡す時に、お前の好きな物を買えと言っているのにだ。
 だが、それが良いとも思う。
 俺がチョコレートを渡せば、雪緒は何時も嬉しそうに笑う。
 そんなに食べたかったのならば、自分で幾らでも買えるだろうに。
 だが、その笑顔を見たいと思う自分も確かに居るのだ。
 時間の流れと共に、あの青い箱に入ったチョコレートも様変わりして行った。
 もう、あの頃と同じ物は存在しない。
 そして、雪緒が持つあの箱と同じ物も存在しない。
 今もまだあの箱は、あの場所にある。
 宝物だと、小さな身体で壊れない様にと、そっと包み込む様にその箱を抱き締めていた、あの日の雪緒の姿は今でも鮮明に思い出せる。

 そんな事を考えながら帰宅し、玄関を開ければ、そこで土下座している雪緒の姿が目に入った。眩暈がした。何時からそうして居たのか気になる処ではあるが、今朝、何も言わずに家を出て行った事を気にしているのならば、その必要は無いと強く言った。雪緒の腕を掴み立ち上がらせて、恥ずかしいと云うか、いたたまれなくなったのだろうと問えば、雪緒は顔を赤くして頷いた。

「…あの様な事をお願いしていただなんて露知らず…無知な自分を殴りたいです…」

「…いや…まあ…役得と云うか…」

 それ程までに、俺に触れて欲しかったのかと思えば、また愛しさも溢れて来る訳で。

「…こ…声も…あんな…」

「…いや…まあ…聞きたかった…」

 …物とは違ったが…。

「ふええ?」

 情けない声を上げ、軽く俺を見上げて来る雪緒の頭の上に、俺は苦笑して買って来たチョコレートの箱を乗せた。

「…旦那様…」

 それに両手を伸ばした雪緒の頬が徐々に緩んで行く。

「…焦る事は無いんだ…ゆっくりで良い…」

 そうだ。ゆっくりと慣れて行けば良い。
 雪緒と同じ早さで歩んで行けば良い。

「…は、い…?」

「まあ、今日は何時もよりも汗を掻いた。風呂は入れるか?」

 チョコレートを胸に抱き締めた雪緒の頭に手を置いて言えば、直ぐに入れるとの返事だった。
 そうして風呂へ入り、その後で飯を食いながら今日一日の話をする。
 雪緒も雪緒で、今日一日は色々と大変だったらしい。その事に落ち込んでいたが、チョコレートを食べれば元気になると笑った。

 後日。星から葉山の伝言を聞いて、次の休みの日には雪緒を迎えに行こうと、ついでに葉山を絞めようと思ったのは、雪緒には内緒だ。
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