上 下
13 / 19

グロッサー男爵夫人

しおりを挟む
グロッサー男爵夫人は焦っていた。

亡くなった夫が築き上げた資産がどんどん無くなっている。屋敷の使用人もグロッサー男爵家に見切りをつけて辞めてしまった。それでも、ルアンナの婚約者リカルドが婿入りすればなんとかしてくれると思っていた。夫のロイド・グロッサーは冴えない男性だったが、仕事だけはできた。だから、婿が働けば、またグロッサー貿易会社は持ち直すはずだ。使用人が減り荒れる屋敷の庭、粗末な食事、請求書の数々を見ないようにしてリカルドがルアンナと結婚する日を待っていた。

その日は珍しく、リカルドだけでなく両親のローバン侯爵夫人もグロッサー男爵家に訪れた。ローバン侯爵夫人は、複雑な刺繍の入ったハンカチを口元に当てて顔を顰めている。
リカルドは言った。

「婚約破棄してください。」


グロッサー男爵夫人の隣に座る娘のルアンナが声を上げる。


「どうして!リカルド様。私と結婚してくださるって言われたじゃないですか!」


ルアンナは、涙目でリカルドを縋りつくように見つめている。


グロッサー男爵夫人は最愛の娘が不憫でならなかった。グロッサー男爵夫人は、リカルドを睨みつけて言った。

「そうですわ。そんなに簡単に婚約破棄できると思っているのですか!ルアンナの気持ちはどうなるのです?」

リカルドは怯むように、体を後ろに倒した。



その時、ローバン侯爵が言った。

「簡単ではありませんよ。グロッサー男爵夫人。リカルドは平民となり働く意思を固めました。貴族籍を失ったとしてもグロッサー男爵家に入るのは嫌だそうです。私達も驚き、本人を説得してきましたが意志が固い。ですが、こちらに伺って我々も納得しましたよ。」

ローバン侯爵夫人も言った。
「まさか、グロッサー男爵家がこのような状態になっているなんて信じられませんわ。庭の手入れは出来ておらず、掃除も滞り、お茶からは酷い匂いがします。ロイド・グロッサー男爵はかなりの資産を残したはずです。まさか貴方達の装飾品に全て使ったのですか?」

グロッサー男爵夫人は、驚きローバン侯爵夫妻を見る。この縁談はローバン家から申し入れられた縁談だった。まさかローバン侯爵夫妻も婚約破棄に納得しているとは思っていなかった。

窓の外には、雑草と木々が生い茂り、日の光を遮り、室内は薄暗い。
最近は屋敷の中の掃除が滞り、部屋の隅には埃がつもり、蜘蛛の巣が張っている場所もある。
使用人がいなくなった為、グロッサー侯爵夫人自ら入れたお茶は、茶黒く濁り、きつい匂いを放っている。

(なんとか説得しないと、このままだと娘まで、私と同じようになってしまう。)


グロッサー男爵夫人は言った。
「もうすぐ、膨大な金額が手に入る予定ですわ。グロッサー貿易会社の株を売っているのです。国外から、沢山株取引の注文がありますの。お金さえ入れば、問題ありませんわ。」

ローバン侯爵は呆れたようにグロッサー男爵夫人を見て言った。
「まさか、家業の株にまで手をつけるなんて信じられないな。危険な事をする。貿易会社を手放すのですか?」

グロッサー男爵夫人は困惑して言った。
「手放すなんてとんでもありません。ただ、必要な金額を手に入れるだけですわ。」

ローバン侯爵は、残念な物を見るように、グロッサー男爵夫人とルアンナを見て被りを振った。
「婚約破棄いたしましょう。手続きは私が勧めておきます。リカルドは平民となる。貴方達も平民のリカルドと婚約は、されたくないでしょう。亡くなられたロイド・グロッサー男爵に敬意を表して忠告させていただきます。貿易会社の株は売ってはいけません。焼け石に水でしょうが、売るなら貴方達がたくさん身につけている宝飾品から売るべきです。」

娘のルアンナは、唇を噛みしめ、目の前の公爵夫妻とリカルドを睨みつけ言った。
「平民だなんて、、、、信じられないわ。」

リカルドは、言う。
「イリーナから全てを奪ったのはルアンナだったらしいね。俺はもう君たちに振り回されるのも騙されるのも嫌だ。苦労しても自分の手で働いて得た金で暮らす事にするよ。ルアンナも早く気が付いた方がいい。」

ローバン侯爵夫妻とリカルド公爵令息は、婚約破棄賠償金と引き換えに、サインされた婚約破棄の書類を持って屋敷から出て行った。

娘のルアンナは落ち込んでいる。あの時の私のように、、、、












ルチア・グロッサー男爵夫人は、帝国の伯爵家の庶子として生を受けた。庶子だが、父はルチアの事を可愛がり、伯爵令嬢として社交界デビューをした。そこで出会ったあの方にルチアは一目惚れをした。あの方には既に妻がいた。でも、いつもあの方を見ていると、あの方と妻はあまり仲が良くない事に気が付く。ルチアにもチャンスがあるはずだ。妻になれなくてもいい。愛人でもいいからルチアを受け入れて欲しい。

愛している。こころの底から、あの方だけを愛している。

だから、、、、


ルチアは、愛する人の寝所に忍び込んだ。薬を使い、朦朧とするあの人と愛し合った。
幸せだった。

ルチアを受け入れてくれたはず。

何度も目が合った。時々私に笑いかけてくれた。そう、当然のように隣に座る彼の妻より、私が相応しい。


誰にも気付かれず、寝所を後にしたルチアは、名乗りを上げる事が出来なかった。あの日以来彼の周辺の警護は厳重になってしまった。彼は何を勘違いしているのか刺客を捕えろと命令しているらしい。

捕まるわけにはいかない。でも、彼に会いたい。

そんな時、お腹の中に宿った命に気が付いた。

ああ、これで、私はあの方の側に行ける。

愛する人の側に、、、、、

ルチアは、皇城へ尋ねて行った。










子どもの事告げると彼は、激高した。ルチアの事を、酷くののしり否定する。「お前みたいな女は虫唾が走る。」「二度と顔を見たくない」ルチアは驚いた。お腹の中には彼の子供がいるのに、ルチアこそが、彼の隣に相応しいのに、、、どうして、、、、、
彼は、腰の剣を抜きルチアに近づいてきた。ルチアは尻もちをつき後退り、逃げようとする。彼が、ルチアに剣を振り下ろした瞬間、ルチアは恐怖で意識を失った。








ルチアが目を覚ますと、馬車の中にいた。目の前には、茶髪で茶眼の凡庸な男性が座っている。遠い親戚だと父から紹介された商人だったと思う。目の前の男性は言った。

「目が覚めたらしいね。僕の事は覚えているかい?ロイド・グロッサー男爵だよ。君は僕の妻となる。もう2度と帝国へ入る事は許されない。そのお腹の子は僕の子供だ。君のした事は大罪だよ。命が助かった事を感謝する事だね。」

ルチアは、殺されそうになった恐怖を思い出し吐き気がこみ上げてきた。
「う、う、う。」

ロイドはルチアへ言った。
「できれば我慢してくれ。伯爵家は君の事を追放したよ。服一枚さえ渡してくれなかった。さっき君の服が汚れていたから、侍女に着替えさせたよ。もうその服しか残っていない」

ルチアは言う。
「どうして、私が貴方の妻に?」

ロイドは言った。
「僕は君に興味がない。ただ、そのお腹の子の父親に頼まれたから引き受ける事にしただけだよ。あの方は自分の子供を殺せなかったらしい。僕に育ててくれと言われた。僕はあの方に恩がある。だから協力する事にしたのさ。子供には母親が必要だ。君はあの方の子供を育てる為だけに生かされている。その事を忘れないでくれ。」

ルチアは、震えた。
(私は、、、、私は、、、、、)




帝国を出て、隣国へ行きルチア・グロッサー男爵夫人となった。
あの時の子供は無事に産まれた。父親そっくりの銀髪に、紺色の瞳。私を殺そうとしたあの男にそっくりな娘。ロイド・グロッサーは、娘のイリーナにばかり高価な品々を買ってくる。(イリーナを育てる為だけに、生かされている。)私の愛を拒絶し、私を手酷く捨てたあの男は、会った事のない娘だけは大事だと、ロイドを通して伝えてきているようだ。娘が憎くて仕方がない。好きでもない男に無理やり結婚させられ、娘の為だけに生きろと命じられる。あの男にそっくりなこの娘さえいなければ、こんな事にならなかったはずだ。

ロイドがいない時は、イリーナを冷遇するようにした。イリーナを父親と重ね合わせ、仕返しをしているような気持になる。私を拒絶し排除しようとしたあの人が悪い。愛していたのに、今は憎悪しか残っていない。
ロイドは優秀で、グロッサー男爵家にはかなりの資産がある。中にはあの男からの援助金もあるかもしれないが、そんな事は関係ない。二人目の子供のルアンナは私にそっくりだった。グロッサー男爵領には付き合っている男性が数人いて誰が父親か分からなかった。

イリーナはいらない。私の子供はルアンナだけだ。私にそっくりなルアンナには、好きな人と一緒になって欲しい。そうルアンナが選んだ人と一緒に。それが、イリーナの婚約者だとしても、、、、








ルアンナはリカルドと婚約破棄して窶れてしまった。
買い物にも行かず部屋に引き籠って過ごしている。リカルドは平民となり、町の役所で働いていると聞く。ルアンナは一度リカルドに会いに行ったらしい。だが、相手にされなかったみたいだ。

この子には幸せになって貰いたかったのに、好きな相手と結ばれて欲しかったのに、うまく行かない。



今日は、国外の投資家がグロッサー男爵家を訪れる日だった。その投資家は、かなりの株を購入し、筆頭株主として会社経営について相談があると面談の申し入れがあった。

グロッサー貿易会社の株が購入されるたびに、現金が手に入った。だが、収益が激減しているグロッサー貿易会社の株はかなり低価で取引されている。現金は、屋敷の管理費、貿易会社の経費、生活費にどんどん消えていった。

投資家なら、うまく行かない会社経営をなんとかしてくれるかもしれない。貿易会社さえ、うまく行けば、またもとの優雅な暮らしに戻れる。そう思っていた。

屋敷の外から、大型馬車が近づいてくる音がする。

グロッサー男爵夫人は、立ち上がり、娘のルアンナを呼び出した。投資家が、美しい娘を見初めるかもしれない。そうすれば、グロッサー貿易会社もその利益も、また私たちの物に、、、、

屋敷の中央の螺旋階段を降り、重厚感のある玄関のドアを開けた。

まぶしい光が、屋敷の中に差し込んでくる。

おもわず、グロッサー男爵夫人は瞳を細めた。

光は太陽の光だけではない。目の前にいる人物の長い銀髪が輝きを放ち、紺色の瞳は罪を暴くようにグロッサー男爵夫人の心の奥深くを見ている。

「ど、どうして、イリーナ。」

久しぶりに再会した娘に声をかけた。




「お久しぶりです。お母様。ルアンナ。私はリム商会会長イリーナと申します。

グロッサー男爵家から貴方達が追放したイリーナですわ。

今日は商談があり、参りました。

もう、グロッサー貿易会社の株式の過半数以上をリム商会が取得しています。

ねえ、お母様、ルアンナ。

私に、御父様が残してくれた物を

私が引き継ぐ予定だった会社を

返してください。」




少し見ない間に、見違えるほど美しくなったイリーナは、憎いあの男そっくりの銀髪を風に靡かせながら、妖艶に微笑んでいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】私の婚約者は、親友の婚約者に恋してる。

山葵
恋愛
私の婚約者のグリード様には好きな人がいる。 その方は、グリード様の親友、ギルス様の婚約者のナリーシャ様。 2人を見詰め辛そうな顔をするグリード様を私は見ていた。

生まれ変わりも楽じゃない ~生まれ変わっても私はわたし~

こひな
恋愛
市川みのり 31歳。 成り行きで、なぜかバリバリのキャリアウーマンをやっていた私。 彼氏なし・趣味は食べることと読書という仕事以外は引きこもり気味な私が、とばっちりで異世界転生。 貴族令嬢となり、四苦八苦しつつ異世界を生き抜くお話です。 ※いつも読んで頂きありがとうございます。誤字脱字のご指摘ありがとうございます。

初夜に妻以外の女性の名前を呼んで離縁されました。

四折 柊
恋愛
 国内で権勢を誇るハリス侯爵の一人娘であり後継ぎであるアビゲイルに一目惚れされた伯爵令息のダニエルは彼女の望みのままに婚約をした。アビゲイルは大きな目が可愛らしい無邪気な令嬢だ。ダニエルにとっては家格が上になる婿入りに周囲の人間からは羨望される。そして盛大な二人の披露宴の夜、寝台の上でダニエルはアビゲイルに向かって別の女性の名前を呼んでしまう。その晩は寝室を追い出され、翌日侯爵に呼び出されたダニエルはその失態の為に離縁を告げられる。侯爵邸を後にするダニエルの真意とは。

噂好きのローレッタ

水谷繭
恋愛
公爵令嬢リディアの婚約者は、レフィオル王国の第一王子アデルバート殿下だ。しかし、彼はリディアに冷たく、最近は小動物のように愛らしい男爵令嬢フィオナのほうばかり気にかけている。 ついには殿下とフィオナがつき合っているのではないかという噂まで耳にしたリディアは、婚約解消を申し出ることに。しかし、アデルバートは全く納得していないようで……。 ※二部以降雰囲気が変わるので、ご注意ください。少し後味悪いかもしれません(主人公はハピエンです) ※小説家になろうにも掲載しています ◆表紙画像はGirly Dropさんからお借りしました (旧題:婚約者は愛らしい男爵令嬢さんのほうがお好きなようなので、婚約解消を申し出てみました)

よくある婚約破棄なので

おのまとぺ
恋愛
ディアモンテ公爵家の令嬢ララが婚約を破棄された。 その噂は風に乗ってすぐにルーベ王国中に広がった。なんといっても相手は美男子と名高いフィルガルド王子。若い二人の結婚の日を国民は今か今かと夢見ていたのだ。 言葉数の少ない公爵令嬢が友人からの慰めに対して放った一言は、社交界に小さな波紋を呼ぶ。「災難だったわね」と声を掛けたアネット嬢にララが返した言葉は短かった。 「よくある婚約破棄なので」 ・すれ違う二人をめぐる短い話 ・前編は各自の証言になります ・後編は◆→ララ、◇→フィルガルド ・全25話完結

所詮は他人事と言われたので他人になります!婚約者も親友も見捨てることにした私は好きに生きます!

ユウ
恋愛
辺境伯爵令嬢のリーゼロッテは幼馴染と婚約者に悩まされてきた。 幼馴染で親友であるアグネスは侯爵令嬢であり王太子殿下の婚約者ということもあり幼少期から王命によりサポートを頼まれていた。 婚約者である伯爵家の令息は従妹であるアグネスを大事にするあまり、婚約者であるサリオンも優先するのはアグネスだった。 王太子妃になるアグネスを優先することを了承ていたし、大事な友人と婚約者を愛していたし、尊敬もしていた。 しかしその関係に亀裂が生じたのは一人の女子生徒によるものだった。 貴族でもない平民の少女が特待生としてに入り王太子殿下と懇意だったことでアグネスはきつく当たり、婚約者も同調したのだが、相手は平民の少女。 遠回しに二人を注意するも‥ 「所詮あなたは他人だもの!」 「部外者がしゃしゃりでるな!」 十年以上も尽くしてきた二人の心のない言葉に愛想を尽かしたのだ。 「所詮私は他人でしかないので本当の赤の他人になりましょう」 関係を断ったリーゼロッテは国を出て隣国で生きていくことを決めたのだが… 一方リーゼロッテが学園から姿を消したことで二人は王家からも責められ、孤立してしまうのだった。 なんとか学園に連れ戻そうと試みるのだが…

前世で処刑された聖女、今は黒薬師と呼ばれています

矢野りと
恋愛
旧題:前世で処刑された聖女はひっそりと生きていくと決めました〜今世では黒き薬師と呼ばれています〜 ――『偽聖女を処刑しろっ!』 民衆がそう叫ぶなか、私の目の前で大切な人達の命が奪われていく。必死で神に祈ったけれど奇跡は起きなかった。……聖女ではない私は無力だった。 何がいけなかったのだろうか。ただ困っている人達を救いたい一心だっただけなのに……。 人々の歓声に包まれながら私は処刑された。 そして、私は前世の記憶を持ったまま、親の顔も知らない孤児として生まれ変わった。周囲から見れば恵まれているとは言い難いその境遇に私はほっとした。大切なものを持つことがなによりも怖かったから。 ――持たなければ、失うこともない。 だから森の奥深くでひっそりと暮らしていたのに、ある日二人の騎士が訪ねてきて……。 『黒き薬師と呼ばれている薬師はあなたでしょうか?』 基本はほのぼのですが、シリアスと切なさありのお話です。 ※この作品の設定は架空のものです。 ※一話目だけ残酷な描写がありますので苦手な方はご自衛くださいませ。 ※感想欄のネタバレ配慮はありません(._.)

いらないと言ったのはあなたの方なのに

水谷繭
恋愛
精霊師の名門に生まれたにも関わらず、精霊を操ることが出来ずに冷遇されていたセラフィーナ。 セラフィーナは、生家から救い出して王宮に連れてきてくれた婚約者のエリオット王子に深く感謝していた。 エリオットに尽くすセラフィーナだが、関係は歪つなままで、セラよりも能力の高いアメリアが現れると完全に捨て置かれるようになる。 ある日、エリオットにお前がいるせいでアメリアと婚約できないと言われたセラは、二人のために自分は死んだことにして隣国へ逃げようと思いつく。 しかし、セラがいなくなればいいと言っていたはずのエリオットは、実際にセラが消えると血相を変えて探しに来て……。 ◆表紙画像はGirly drop様からお借りしました🍬 ◇いいね、エールありがとうございます!

処理中です...