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海に溶けた涙

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 来ない。猿石が、帰って来ない。

『いてて…。やらかしちゃったなぁ』

 石で傷付けてしまった傷は結構パックリと切れてしまったようでジクジクとした痛みが続く。何も止血するものがないから手当てが出来ない。

 いや、一つある。

『ん~なんとか、ある程度は治して俺も脱出しなきゃ。頑張れ俺のバランサー力~』

 バランサーになって怪我の治りをうながす。短時間ではどうにもならないかもしれないが、やるだけ価値はあるだろうと集中した。

 洞窟内は段々と海水の量が増して、俺はどんどん洞窟の奥へと追いやられる。

『…アニキ、大丈夫かな。無事に着いててくれたら良いんだけど』

 怪我を見てからの慌てっぷりを思い出して少し笑ってしまう。自分たちの怪我なんて大して気にも留めないくせに俺が怪我をしただけですぐ大袈裟になる。

 彼らからしたら、まだまだ子どもだからだろう。

『しかし寒くなってきたな。洞窟って意外と寒いんだ。アニキがいた時は…気付かなかったな』

 心細い。

 この海がどんどん流れ込む現象が満潮によるものではないかと気付いてから、洞窟を無理なく進む。奥まで行かないのは全く先が見えないからだ。これでもしも足元に落とし穴でもあって、落ちてしまえば終わり。

 助けが来るかもしれないなら、無理に動かない方が良いけど…洞窟の先が入口より下に続いてるなら助かる見込みは少ない。

 恐らく溺死する。

『はぁ…。怪我なんてすぐ治るって…自分から普通じゃない方にかじ切ってんじゃん。バカだな、俺。こんなんだから』
 
 こんなんだから、嫌われるんだ。

 真っ暗な洞窟の中で曲がり角の上に小さな横穴があった。なんとかよじ登って中に入ると、丁度俺一人が入れるくらいのスペースがある。

 …あんまり湿ってない。此処ならギリギリ満潮を乗り越えられないか?

 海水が流れる音を聞きながら、ぼんやりと過ごす。いっそのこと…眠ってしまえば何もかも終わっていないだろうか。濡れた身体を抱きしめながら静かに目を閉じる。

 今日は、楽しかったなぁ。

『アニキ…泣いてないと良いけど、』

 まるで恐怖や痛みから身を守るように瞼が重くなり、意識を手放そうとした。寒いから最後にオメガになって温かくなろうかなぁ、なんて思いながらコントローラーを握った、その時だった。

 ザバっ! と何かが海から出て来たような音がした気がして思わずコントローラーのイメージが消える。流木か何かかな、と思ったけどバランサーの耳が…息遣いのような音をキャッチした。

 そして、洞窟内に響き渡る声に俺の意識は覚醒する。

『っ宋平!! いたら返事しろ、何処にいる!!』

 …は?

 なんだこの馬鹿デカい幻聴。いくら死の間際でもやって良いことと悪いことってのが

『宋平!!』

 …あるでしょう、神様…。

 そっと横穴から顔を出すと海から上がって髪をかき上げながらスマホのライトを周囲に照らして必死に声を上げる…ボスがいた。

 なんで? 猿石ならわかるよ、わかる。

 …なんで、あの人が…しかも此処に?

『っクソ。此処じゃねェのか…?』

 上半身裸で、ズボンだけなのに見事な肉体で…むしろカッコいい。裸足のまま歩く姿は間違いなく我らが弐条会のボス。首に掛けられていたのが猿石のゴーグルだったから、ちゃんと浜辺に帰れたんだと内心で喜ぶ。

 いや違う、今は目の前のボスだ…!

 まさか俺を探しに…? いーや、有り得ないね! だってあの人っ、俺のこと目障りだって言った! というかいくら弐条会が預かったからって、ガキ一人にあの人が命懸けで来るか?! 

 …でも。名前、呼んでたしな…。

『…満潮まで後五分もねェか』

 再び入口まで戻ろうとしている背中を見て、臆病な俺はそっと横穴に戻る。

 …会いたくない。ボスが来るほど大袈裟な事態にしてしまった。皆の海の日が、台無しだ。

 そんな奴がノコノコ出て行って…また、あんなことを言われたら俺は。俺は、今度こそ胸が痛くて、泣き尽くして、悲しみに溺れ死ぬ。

 大丈夫。

 もう少し足を治したら、自分の足でちゃんと帰れる。だって俺はバランサーだ。頑張ればきっと帰れるはず。力を使えば、限界まで使えば…やれる。

 そうすればきっと、少しは…失望されずに済む。

『…ぁ、』

 ポチャン、と水に入って行く音がして思わず声を上げた。顔を出せばそこにはもう、誰もいない。もたもたと横穴から降りて海を見る。真っ黒な海。

 どうか。安全に、陸まで戻って。…神様、どうかあの人をあるべき場所へ。

 自分から出て行かなかったくせに、鼻がツンと痛くて堪らない。じわじわと溢れる涙がボタボタと海に落ちて自分の紫色の瞳が海に反射するように光る。

 が。

 次の瞬間、そこに光ったのは紛れもない

 だった。

 逃げる間もなく海から出て来た人に驚いて、腰を抜かす。その人は耳に海水が入ったのか不快そうに耳を叩いてから俺の方を見る。

『…よォ』

 な、なななな…なんで…どうして。

『ったく。居るなら居るって言え』

 どうして、と…口から溢れる前に正面からゆっくりと抱きしめられるとボスは何も言わずに優しく俺の頭を撫で続けた。

『気付かなくて悪かった。一緒に帰るぞ』

 良いな? とこれまた優しく問われると驚きで止まっていた涙が再び溢れ始める。平気だったはずなのに、冷静でいられたはずなのに。自分を抱きしめる人の体温が、鼓動が。

 それらに触れた瞬間、共にいたいと心から叫んでしまいそうで…それを押し留めるように酷い泣き声で誤魔化す。

『見せてみろ。…随分と派手にやったな』

 それからすぐに海を出たボスに抱き上げられ、洞窟の奥の石に座らされて先ずは怪我の手当てを受けた。なんと腰に巻いていた服に手当ての一式を持っていたらしく、手際よく処置がされる。

 グスグスと鼻を啜る俺は未だに喋っていない。そもそも俺たち、喧嘩中だし。

『おい。あんま泣くな…これからはお前の鼻が頼りだ。鼻詰まらせてる場合じゃねェぞ』

 そう言うと再び俺を横抱きにして、スマホのライトを頼りに奥へと進む。暫く歩いてからボスが立ち止まるのでどうしたのかと先を見つめる。

『…宋平。古城での襲撃でお前は真っ先にガスの匂いを感知してたろ。洞窟の奥からガスの匂いはするか?』

 ガス?

 バランサーの力を研ぎ澄まして鼻に集中する。スンスンと鼻を動かすが、特に何の匂いもない。磯臭いだけだ。

 ふるふると首を振ればボスは再び洞窟の奥を進み始める。

『昔、あのビーチを譲り受けた時に大体の地形は把握した。…いや正確には地図を見直すきっかけがあってな。

 先代からの言い伝えでこの地域に珍しい植物があるって話があった。随分と澄んだ、紫色のな。昔は紫ってのは高貴な色だとかで、その植物も贈答用ぞうとうようにしたってェのがある。

 乱獲か、絶滅か、または群生地ぐんせいちを秘匿したか…その植物は言い伝えでしかなくなったらしいが』

 へぇ。それは…是非、見てみたかった。俺の目とどっちが濃いかな? 花弁は何枚だろう。

『お前が消えたって聞いて、何故かその時の話を思い出した』

 おいおい。俺はお花じゃないぞ?

 黙っていても言いたいことはわかるのか、ボスが笑っているのが身体の振動で伝わる。

『消えた植物に、誰も知らねェ洞窟…まァ進めばわかる。幸い先がなくても登り道だ。

 …風も吹いてるしな』

 ボスがお喋りだ。

 人一人抱えて、泳いで来て…しかも坂道を歩いているのにどこか上機嫌で昔話までしてくれる。どこまでこちらを気遣っているのかと落ち込んでいたら、ふと立ち止まったボスが少しの間、無言になる。それから意を決したように喋り出した。

『宋平。お前に謝りたかった』

 …へ。

『この間の…、悪かった。苛ついてお前にあたるような真似して傷付けた。…馬鹿なことをした』

 ぼ、ボスが…謝って、しかも…馬鹿?! いや確かにそれ言ったの俺だけど! いや俺は夢でも見てるのか?! やっぱり洞窟の奥にガスがあって夢でも見てるんじゃっ。

『…お前の弁当が食いたかったんだ』

『え…?』

 バツが悪そうにそっぽを向くボスが、俺が想像もしていなかったようなことを語る。

『なんで俺に作らなかった…』

『え?! だ、だって食事会だって…!』

『…お前が作ったやつなら、あの後でも食える』

 いじけたようにそう呟くボスの姿に、俺は胸をギュンギュン鳴らしながら貴重な瞬間を脳内に焼き付ける。

 出来れば写真に収めたかった。

『…やっぱりお前が悪ィだろ。クソみてェな惨事の後の俺にあんな仕打ちしやがって。どう落とし前付けるつもりだ』

 なんか立場逆転してる!! なんだこの人、無茶苦茶だろ!

 ヤクザ怖い! 怖過ぎる!


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