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山のように積まれた骸と赤黒く染まった部屋の中央に、二つの人影が立ち尽くしていた。
片方は剣士、着込んでいる鎧は既に数多の外傷に晒され原型すら留めて居ないが剣士自体の体には目立った傷はなく、その眼光は鋭く対面の相手に注がれている。
黒い髪は血によって染まっており、元は柔らかだっただろう表情は硬く厳しいものだ。
対して相手はおそらく魔法使い。
剣を持っておらずローブを着込んでいる彼女を前にして、剣士は一切の油断をせずにジリジリと距離を測って居た。
男にとっては本来必殺の距離、だがその距離が見た目よりはるかに遠いものであることを男は理解している。
それは目の前の女がこの世界で最強の魔法使いである魔王と呼ばれる存在だからだ。
「よくここまで来たな勇者。たった一人か?」
座したまま魔王はまるで旧友に声をかけるかの如く気さくにそう口にした。
彼女にとっていまから行われる殺し合いは所詮消化試合、ならばその試合をせめて楽しく出来るようにとの彼女なりの配慮である。
そんな彼女の行動に勇者は特に感情を表にも出さず疲れ切っているのか目をぼうっとさせながら言葉を発した。
「仲間なら全員死んだよ。お前を殺せば俺も死ぬ」
漏れ出た、という表記の方が近いその言葉を聞いて魔王は嬉しそうに笑う。
薄紫の長髪に病気の様に白い肌がよく映え、異形の証である4本の角と翼は赤黒く光り輝いている。
真っ赤な瞳に笑みの端から八重歯を覗かせながら、魔王は薄氷の上になんとか立っている勇者の自尊心を興味本位で突いてみることにした。
「つまらん人生だな。その強さ、私の下で使ってみたくはないか?」
「命乞いか?」
「冗談を言え、私は魔族の王。そんな事をする理由がない。ただ単純に哀れなお前を救ってやろうというのだ」
「俺が哀れか? 随分と上から物を言うな魔王」
「哀れだよ、誰よりも哀れだ。私なんかよりよほどな」
魔王は王だ、民草とはそもそも視点が違う。
だからこそ勇者という特別な存在が、他者に比べて別の視点を持って居たとしてもそれを理解できるはずだった。
勇者が自分の喉元に来るまで、何度か密偵を送り彼の素性を理解しようとした魔王は知れば知るほど彼のことがよく分からなくなっていく事に、驚かずにはいられなかった。
なぜ自らの身を犠牲にして戦うのか? なぜ仲間をどうでもいい奴らのせいで失いながらそれでもそいつらの為に戦うのか。
元を辿れば勇者はただの村の人間だった筈だ、だがいまや数千年の歴史を持ちそう生きることを決められた王と同じく勇者は他者に勇者たり得ることを要求されている。
それが魔王にとっては不思議でならなかった。
「それだけの力を有していながら、お前は人を守る。何故だ?」
「それが勇者だからだ」
「……神の呪いか。所詮使命でしか生きられない哀れな生き物だな」
たった一言の返答だったが、魔王にとってはそれで十分だった。
勇者はどこまで言っても勇者で、そして自分の敵なのだと、そう認識させられる。
「魔王、お前は喋るのが随分と好きなんだな」
「勇者キミだってそうだろう? いや正確に表現するなら違うか、最後に他人と喋りたいんだろう? 私に勝てばお前は正真正銘世界最強になってしまうんだからな。そうなれば次の人類の敵はお前だ」
「俺はお前と相打ちで負ける。それがこの世界にとって一番いい、そうだろう?」
世界の為に死ぬなんていったいなんの意味があるのだろうか。
そう言いたかった魔王だが、その役目を勇者に押し付けてしまったのは他でもない魔王という存在自体だ。
自分の様に祭り上げられた人物がいつかは自分の前に立つとそう思って居た魔王は、悲しいかなどれだけ考えようとも自分と同じく相手の思考は変えようもないことを知って居た。
方法があるとすればただ一つ、死んで生まれ変わればもしかすれば分かり合えるのかもしれない。
「意思は硬いか……お前とは本当に仲良くしてみたかったんだがな」
「お互いが魔王と勇者じゃなくなって、俺がその約束をまだ覚えてたら次は仲良くするよ」
「それが聞けてよかった。さぁ殺し合おうか、せめて骸を慈しんでやる」
そうして魔王と勇者の戦いは始まった。
随分と長い間戦って居た様にも思えるし、ほんの30分ほどの出来事であったのかもしれない。
勝っても負けてもどちらも不幸になることが確定した戦い。
ならばなんのために戦っているのかと聞かれれば、二人を突き動かすものは大義である。
他者のために負けてはならない、たったの一度たりとも敗北を許されない二人は、そうして己の全力の力を賭して相手を殺そうと最強の一撃を放った。
世界最強同士の戦闘によって空間は歪曲し、時間はその流れの方向を忘れ世界は己の形状を見失って居た。
それは神すら予見できなかったイレギュラー、本来ならあり得るはずもないほどの圧倒的なエネルギー同士の衝突により時空は意図も容易く変質する。
「──────」
誰かの声が聞こえる。
それはまるで包み込む様な優しさを感じさせ、だがその言葉の意味は到底理解できなかった。
己が何であったのかも思い出せないが、心地よさに全身を浸らせていたいとそう勇者に心の底から思わせる。
もうあの場所には戻りたくない、もう一人で生きて居たくない。
寂しさを埋めるように声を頼りに生きているのか死んでいるのかもよくわからないまま漂って、いつまでそうして居たのだろうか。
だがその空間に自分がたった一人であることに気がつくと、いつのまにか激しい頭痛と共に勇者は目を覚まして居た。
「──痛っ」
立ち上がることすらもままならないほどの痛みに何とか堪えながら、勇者はゆっくりと起き上がる。
「ここは……どこだ?」
周囲を見渡してみれば一面の荒野。
雰囲気は魔王が居を構えて居た魔界によく似ているが、あそこはもっと酷い場所だった。
大地は死に空は汚く空気は汚れて居たあの場所に比べてこの場所は随分とマシである。
戦闘の余波か何かで吹き飛ばされたのだろうか?
「俺は魔王と戦って……それで……」
思い出そうとしても何も思い出せない。
記憶が無いというよりは、随分昔のことだから思い出さないというような感覚だ。
「死にそびれたか…………死にたくねぇなぁ。でもなぁ……生き残ったら絶対に碌なことにならないだろうし」
死にたくは無い。
何をしたいという明確な意思があるわけではなかったが、魔王と戦うという押し付けられた役目ではなく、ただ漠然と人生を生きてみたかった。
だがそんな望みも世界の平和という大きな物に比べれば小さなものだ。
勇者と呼ばれた彼にとって最も大切なのは人間という種自体が絶滅せず、かつ健やかに過ごすことにある。
その点において彼は自分自身の事を物事を推し量るときの勘定に入れることはしない。
腰に添えられた愛刀に手をかけ、何万何十万と繰り返した動作で音も無く武器を抜くとそのまま自分の首にあてがう。
流れていく血液もその下にある命の形すら明確に意識することができた。
後は武器を抜くだけだ、そうすればいままで自分がそうしてきたように、いともたやすく命は消える。
はっと息を吐き出して、勇者は武器に力を込め――
「ちょちょ、ちょっと待て!」
「なんだ?」
力を入れようとした勇者の腕に誰かが抱き着いて無理やり止めようとする。
勇者の力があまりにも強すぎるため微動だにもしていないが、それでも必死に止めようとするその姿を前にして勇者は自分の首に押し当てていた武器を下ろす。
視線をずらし、自分を止めた人間が誰なのかとみてみればそこに居るのは小さな子供だ。
「子供か。迷子か?」
「迷子ではない、というかこの姿を見て解らんのか?」
「もしかして……魔王の隠し子か?」
薄紫の髪に白い肌と赤い瞳はまさしく魔王の血統を持つものの証だ。
翼や角こそ魔王のそれと比べてとても小さいが、それでも一般人くらいなら簡単に殺せそうなほどの力を感じる。
魔王に子供がいるという話を聞いたことはなかったが、考えてもみれば当たり前のことで王として後継者がいないという状況の方がおかしいだろう。
魔王として再建する可能性がある以上は目の前の命も奪うほかない。
そう思いながら勇者が手に力を籠めると、目の前の少女はおかしなことを口にする。
「おしいが違う。魔王本人だ、こんなナリになってしまったがな」
「魔王本人? 嘘つけよ、お前からは魔力も何も感じないぞ」
「お前の聖なる力で全部消されたからな、私に残ったのは魔族としての本当に基本的な力だけだ」
魔王と自称する少女に言われて目を凝らしてみれば、確かに本当に残っているのは基本的な力だけだ。
最強の生物である魔王がその魔力をすべて失ったとあれば、脅威として認知する必要はもうないだろう。
気が付けばいつの間にか勇者の手からは武器が零れ落ち、地面に膝を付けながら自分の役目が本当に終わったのだという事を勇者はついに自覚した。
「ならお前にお願いだ、俺を殺してくれないか?」
「はぁ……無茶を言うな勇者。こんな細腕でどうやってお前を殺せと言うんだ、魔力もろくにない身体だぞ。いくら上級魔族とは言え、その武器がいまのこの身にとってどれほど重いか。よしんば持てても殺すのにどれだけかかるか分かったものではないぞ」
「俺は魔族を沢山殺してきた、だから魔族の代表であるお前に殺されるのならそれでもいい」
自分が死ぬときだけは苦しまずに死にたいというのは贅沢だと勇者は考えている。
もちろんなるべく楽に死ねるように戦ってきたつもりではあるが、大軍を前にしていちいち止めを刺すことができず死にかけのまま放置してしまったり命を奪わないようにと気を付けすぎて逆に死ねた方がよかったと思えるほどのけがをさせたこともある。
人類を救うための戦いだったのだから罰を受けるという意識はないが、やり返す権利は魔族を代表する魔王にあると考えるのが勇者にとっては自然な考えだった。
憎いはずだ、なんせ人の国の王は憎いからこそ停戦協定を結べば来年からの犠牲者は減ると知っていても殺し合いを辞めることができなかった。
今まで魔族との戦いで死んでしまった多くの魂、それらを前にしてどうして相手をゆるすなどという言葉が口に出来るだろうか。
だが魔王はそれでも勇者の肩に手を置き、優しい声音で語り掛ける。
「先程までの──とは言ってもどれくらい寝ていたか分からんが──お前の態度はどうした? 私はまだ生きているんだぞ、殺さないと人類は負けだぞ」
「……じめてだったんだ」
「なんだ? 大きな声で言ってくれ」
「初めてだったんだよ、人に仲良くしたいって言われることが。嬉しかった、人も魔族も殺してきた俺にそう言ってくれたことが。もう俺にはお前が殺せない」
気が付けば涙が零れ落ちていた。
勇者として招集され、血も枯れるほどの努力を持って最強の人間となり、孤独に耐えて何とか魔王すらも打ち倒した勇者が流したその涙は実に彼が勇者として選定された日の夜以来の物だ。
泣かなかったのではなく泣けなかった。
目の前で大切な人が死んでも、自分は勇者なのだから周りの士気を下げるような行為などできるはずもなく。
彼が殺してきた涙はようやく勇者を辞めたという彼自身の認識により、止まることなく濁流のように流れ落ちていく。
「だから宿罪の為に私に殺せと? 仲良くなりたいと言った私に、お前を殺させるのか?」
魔王の双眸が勇者の目を貫いた。
友と呼べる者達など勇者になって一度も出来なかった自分に、優しく歩み寄ってくれる相手がいることがいまの勇者には耐えられなかった。
幸福だ、嬉しい、だがその気持ちが湧き上がるほど苦しくなる。
大衆は勇者に言うだろう。
苦しんできたのだから幸福になっていいと、たとえ相手が何であれ自分の人生を生きていいと。
だが魔王と共にアレないと勇者をそうさせてしまったのは結局のところその大衆だ。
「なぁ勇者、勇者なんかやめてしまえ。神の呪いなど跳ね除けろ、お前はお前でそれ以外の何者なんかじゃない。何かを助けていなければ気がすまないのであれば、私を助けてくれ」
「俺は──」
勇者としての力は、ある日突然手に入れた。
対して信仰もしていなかった神に昔からの習慣だからだと惰性で祈りをささげるために教会へ行ったとき、その教会にいた神父様に勇者だと言われあれよあれよというまに前線に立つことになった。
初めのうちは他人を助けられることがうれしかったが、徐々に力が増すごとに周りから人が減っていった。
力を頼りにしてくる人間は増えたが、かつていた背中を預けるにたる人間はどこにもいなくなっていたのだ。
そしてある日、魔物に襲われている人を助けたときのこと。
『大丈夫ですか、間に合ってよかったです』
『――ば、化け物……!?』
あのあとその言葉を口にした人はすぐに謝ってくれたが、とっさに口から出た言葉は彼の真意だったはずだ。
人という枠組みから自分が外れていることは分かっていた。
誰もわかってくれないと、そう思っていた。
だけどいま目の前にいるのは、全力を賭してもなを死ななかった存在。
唯一自分を受け入れてくれる対等な存在。
勇者が心の底から欲していたが、どうやっても手に入れられなかった宝物。
もう勇者でなくなってしまったけれど、君もきっと魔王で無くしてしまったけれど。
そんな自分を肯定してくれるのなら、どうか隣にいてほしいと初めて勇者は願う。
「俺はもう勇者でいたくないっ……っ……俺は俺として生きていたい……!」
「それでいいんだよ勇者。私を、よろしく頼むよ」
かくして物語は幕を開ける。
最強となった元勇者と魔王がどのような人生を歩むのか。
それは誰にもわからない。
片方は剣士、着込んでいる鎧は既に数多の外傷に晒され原型すら留めて居ないが剣士自体の体には目立った傷はなく、その眼光は鋭く対面の相手に注がれている。
黒い髪は血によって染まっており、元は柔らかだっただろう表情は硬く厳しいものだ。
対して相手はおそらく魔法使い。
剣を持っておらずローブを着込んでいる彼女を前にして、剣士は一切の油断をせずにジリジリと距離を測って居た。
男にとっては本来必殺の距離、だがその距離が見た目よりはるかに遠いものであることを男は理解している。
それは目の前の女がこの世界で最強の魔法使いである魔王と呼ばれる存在だからだ。
「よくここまで来たな勇者。たった一人か?」
座したまま魔王はまるで旧友に声をかけるかの如く気さくにそう口にした。
彼女にとっていまから行われる殺し合いは所詮消化試合、ならばその試合をせめて楽しく出来るようにとの彼女なりの配慮である。
そんな彼女の行動に勇者は特に感情を表にも出さず疲れ切っているのか目をぼうっとさせながら言葉を発した。
「仲間なら全員死んだよ。お前を殺せば俺も死ぬ」
漏れ出た、という表記の方が近いその言葉を聞いて魔王は嬉しそうに笑う。
薄紫の長髪に病気の様に白い肌がよく映え、異形の証である4本の角と翼は赤黒く光り輝いている。
真っ赤な瞳に笑みの端から八重歯を覗かせながら、魔王は薄氷の上になんとか立っている勇者の自尊心を興味本位で突いてみることにした。
「つまらん人生だな。その強さ、私の下で使ってみたくはないか?」
「命乞いか?」
「冗談を言え、私は魔族の王。そんな事をする理由がない。ただ単純に哀れなお前を救ってやろうというのだ」
「俺が哀れか? 随分と上から物を言うな魔王」
「哀れだよ、誰よりも哀れだ。私なんかよりよほどな」
魔王は王だ、民草とはそもそも視点が違う。
だからこそ勇者という特別な存在が、他者に比べて別の視点を持って居たとしてもそれを理解できるはずだった。
勇者が自分の喉元に来るまで、何度か密偵を送り彼の素性を理解しようとした魔王は知れば知るほど彼のことがよく分からなくなっていく事に、驚かずにはいられなかった。
なぜ自らの身を犠牲にして戦うのか? なぜ仲間をどうでもいい奴らのせいで失いながらそれでもそいつらの為に戦うのか。
元を辿れば勇者はただの村の人間だった筈だ、だがいまや数千年の歴史を持ちそう生きることを決められた王と同じく勇者は他者に勇者たり得ることを要求されている。
それが魔王にとっては不思議でならなかった。
「それだけの力を有していながら、お前は人を守る。何故だ?」
「それが勇者だからだ」
「……神の呪いか。所詮使命でしか生きられない哀れな生き物だな」
たった一言の返答だったが、魔王にとってはそれで十分だった。
勇者はどこまで言っても勇者で、そして自分の敵なのだと、そう認識させられる。
「魔王、お前は喋るのが随分と好きなんだな」
「勇者キミだってそうだろう? いや正確に表現するなら違うか、最後に他人と喋りたいんだろう? 私に勝てばお前は正真正銘世界最強になってしまうんだからな。そうなれば次の人類の敵はお前だ」
「俺はお前と相打ちで負ける。それがこの世界にとって一番いい、そうだろう?」
世界の為に死ぬなんていったいなんの意味があるのだろうか。
そう言いたかった魔王だが、その役目を勇者に押し付けてしまったのは他でもない魔王という存在自体だ。
自分の様に祭り上げられた人物がいつかは自分の前に立つとそう思って居た魔王は、悲しいかなどれだけ考えようとも自分と同じく相手の思考は変えようもないことを知って居た。
方法があるとすればただ一つ、死んで生まれ変わればもしかすれば分かり合えるのかもしれない。
「意思は硬いか……お前とは本当に仲良くしてみたかったんだがな」
「お互いが魔王と勇者じゃなくなって、俺がその約束をまだ覚えてたら次は仲良くするよ」
「それが聞けてよかった。さぁ殺し合おうか、せめて骸を慈しんでやる」
そうして魔王と勇者の戦いは始まった。
随分と長い間戦って居た様にも思えるし、ほんの30分ほどの出来事であったのかもしれない。
勝っても負けてもどちらも不幸になることが確定した戦い。
ならばなんのために戦っているのかと聞かれれば、二人を突き動かすものは大義である。
他者のために負けてはならない、たったの一度たりとも敗北を許されない二人は、そうして己の全力の力を賭して相手を殺そうと最強の一撃を放った。
世界最強同士の戦闘によって空間は歪曲し、時間はその流れの方向を忘れ世界は己の形状を見失って居た。
それは神すら予見できなかったイレギュラー、本来ならあり得るはずもないほどの圧倒的なエネルギー同士の衝突により時空は意図も容易く変質する。
「──────」
誰かの声が聞こえる。
それはまるで包み込む様な優しさを感じさせ、だがその言葉の意味は到底理解できなかった。
己が何であったのかも思い出せないが、心地よさに全身を浸らせていたいとそう勇者に心の底から思わせる。
もうあの場所には戻りたくない、もう一人で生きて居たくない。
寂しさを埋めるように声を頼りに生きているのか死んでいるのかもよくわからないまま漂って、いつまでそうして居たのだろうか。
だがその空間に自分がたった一人であることに気がつくと、いつのまにか激しい頭痛と共に勇者は目を覚まして居た。
「──痛っ」
立ち上がることすらもままならないほどの痛みに何とか堪えながら、勇者はゆっくりと起き上がる。
「ここは……どこだ?」
周囲を見渡してみれば一面の荒野。
雰囲気は魔王が居を構えて居た魔界によく似ているが、あそこはもっと酷い場所だった。
大地は死に空は汚く空気は汚れて居たあの場所に比べてこの場所は随分とマシである。
戦闘の余波か何かで吹き飛ばされたのだろうか?
「俺は魔王と戦って……それで……」
思い出そうとしても何も思い出せない。
記憶が無いというよりは、随分昔のことだから思い出さないというような感覚だ。
「死にそびれたか…………死にたくねぇなぁ。でもなぁ……生き残ったら絶対に碌なことにならないだろうし」
死にたくは無い。
何をしたいという明確な意思があるわけではなかったが、魔王と戦うという押し付けられた役目ではなく、ただ漠然と人生を生きてみたかった。
だがそんな望みも世界の平和という大きな物に比べれば小さなものだ。
勇者と呼ばれた彼にとって最も大切なのは人間という種自体が絶滅せず、かつ健やかに過ごすことにある。
その点において彼は自分自身の事を物事を推し量るときの勘定に入れることはしない。
腰に添えられた愛刀に手をかけ、何万何十万と繰り返した動作で音も無く武器を抜くとそのまま自分の首にあてがう。
流れていく血液もその下にある命の形すら明確に意識することができた。
後は武器を抜くだけだ、そうすればいままで自分がそうしてきたように、いともたやすく命は消える。
はっと息を吐き出して、勇者は武器に力を込め――
「ちょちょ、ちょっと待て!」
「なんだ?」
力を入れようとした勇者の腕に誰かが抱き着いて無理やり止めようとする。
勇者の力があまりにも強すぎるため微動だにもしていないが、それでも必死に止めようとするその姿を前にして勇者は自分の首に押し当てていた武器を下ろす。
視線をずらし、自分を止めた人間が誰なのかとみてみればそこに居るのは小さな子供だ。
「子供か。迷子か?」
「迷子ではない、というかこの姿を見て解らんのか?」
「もしかして……魔王の隠し子か?」
薄紫の髪に白い肌と赤い瞳はまさしく魔王の血統を持つものの証だ。
翼や角こそ魔王のそれと比べてとても小さいが、それでも一般人くらいなら簡単に殺せそうなほどの力を感じる。
魔王に子供がいるという話を聞いたことはなかったが、考えてもみれば当たり前のことで王として後継者がいないという状況の方がおかしいだろう。
魔王として再建する可能性がある以上は目の前の命も奪うほかない。
そう思いながら勇者が手に力を籠めると、目の前の少女はおかしなことを口にする。
「おしいが違う。魔王本人だ、こんなナリになってしまったがな」
「魔王本人? 嘘つけよ、お前からは魔力も何も感じないぞ」
「お前の聖なる力で全部消されたからな、私に残ったのは魔族としての本当に基本的な力だけだ」
魔王と自称する少女に言われて目を凝らしてみれば、確かに本当に残っているのは基本的な力だけだ。
最強の生物である魔王がその魔力をすべて失ったとあれば、脅威として認知する必要はもうないだろう。
気が付けばいつの間にか勇者の手からは武器が零れ落ち、地面に膝を付けながら自分の役目が本当に終わったのだという事を勇者はついに自覚した。
「ならお前にお願いだ、俺を殺してくれないか?」
「はぁ……無茶を言うな勇者。こんな細腕でどうやってお前を殺せと言うんだ、魔力もろくにない身体だぞ。いくら上級魔族とは言え、その武器がいまのこの身にとってどれほど重いか。よしんば持てても殺すのにどれだけかかるか分かったものではないぞ」
「俺は魔族を沢山殺してきた、だから魔族の代表であるお前に殺されるのならそれでもいい」
自分が死ぬときだけは苦しまずに死にたいというのは贅沢だと勇者は考えている。
もちろんなるべく楽に死ねるように戦ってきたつもりではあるが、大軍を前にしていちいち止めを刺すことができず死にかけのまま放置してしまったり命を奪わないようにと気を付けすぎて逆に死ねた方がよかったと思えるほどのけがをさせたこともある。
人類を救うための戦いだったのだから罰を受けるという意識はないが、やり返す権利は魔族を代表する魔王にあると考えるのが勇者にとっては自然な考えだった。
憎いはずだ、なんせ人の国の王は憎いからこそ停戦協定を結べば来年からの犠牲者は減ると知っていても殺し合いを辞めることができなかった。
今まで魔族との戦いで死んでしまった多くの魂、それらを前にしてどうして相手をゆるすなどという言葉が口に出来るだろうか。
だが魔王はそれでも勇者の肩に手を置き、優しい声音で語り掛ける。
「先程までの──とは言ってもどれくらい寝ていたか分からんが──お前の態度はどうした? 私はまだ生きているんだぞ、殺さないと人類は負けだぞ」
「……じめてだったんだ」
「なんだ? 大きな声で言ってくれ」
「初めてだったんだよ、人に仲良くしたいって言われることが。嬉しかった、人も魔族も殺してきた俺にそう言ってくれたことが。もう俺にはお前が殺せない」
気が付けば涙が零れ落ちていた。
勇者として招集され、血も枯れるほどの努力を持って最強の人間となり、孤独に耐えて何とか魔王すらも打ち倒した勇者が流したその涙は実に彼が勇者として選定された日の夜以来の物だ。
泣かなかったのではなく泣けなかった。
目の前で大切な人が死んでも、自分は勇者なのだから周りの士気を下げるような行為などできるはずもなく。
彼が殺してきた涙はようやく勇者を辞めたという彼自身の認識により、止まることなく濁流のように流れ落ちていく。
「だから宿罪の為に私に殺せと? 仲良くなりたいと言った私に、お前を殺させるのか?」
魔王の双眸が勇者の目を貫いた。
友と呼べる者達など勇者になって一度も出来なかった自分に、優しく歩み寄ってくれる相手がいることがいまの勇者には耐えられなかった。
幸福だ、嬉しい、だがその気持ちが湧き上がるほど苦しくなる。
大衆は勇者に言うだろう。
苦しんできたのだから幸福になっていいと、たとえ相手が何であれ自分の人生を生きていいと。
だが魔王と共にアレないと勇者をそうさせてしまったのは結局のところその大衆だ。
「なぁ勇者、勇者なんかやめてしまえ。神の呪いなど跳ね除けろ、お前はお前でそれ以外の何者なんかじゃない。何かを助けていなければ気がすまないのであれば、私を助けてくれ」
「俺は──」
勇者としての力は、ある日突然手に入れた。
対して信仰もしていなかった神に昔からの習慣だからだと惰性で祈りをささげるために教会へ行ったとき、その教会にいた神父様に勇者だと言われあれよあれよというまに前線に立つことになった。
初めのうちは他人を助けられることがうれしかったが、徐々に力が増すごとに周りから人が減っていった。
力を頼りにしてくる人間は増えたが、かつていた背中を預けるにたる人間はどこにもいなくなっていたのだ。
そしてある日、魔物に襲われている人を助けたときのこと。
『大丈夫ですか、間に合ってよかったです』
『――ば、化け物……!?』
あのあとその言葉を口にした人はすぐに謝ってくれたが、とっさに口から出た言葉は彼の真意だったはずだ。
人という枠組みから自分が外れていることは分かっていた。
誰もわかってくれないと、そう思っていた。
だけどいま目の前にいるのは、全力を賭してもなを死ななかった存在。
唯一自分を受け入れてくれる対等な存在。
勇者が心の底から欲していたが、どうやっても手に入れられなかった宝物。
もう勇者でなくなってしまったけれど、君もきっと魔王で無くしてしまったけれど。
そんな自分を肯定してくれるのなら、どうか隣にいてほしいと初めて勇者は願う。
「俺はもう勇者でいたくないっ……っ……俺は俺として生きていたい……!」
「それでいいんだよ勇者。私を、よろしく頼むよ」
かくして物語は幕を開ける。
最強となった元勇者と魔王がどのような人生を歩むのか。
それは誰にもわからない。
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