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第31話

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 今日の夏樹くんは心ここにあらずの状態だ。
 ぼんやりと別のことを考えている。さっき、私のことを考えていた、と言われた時は思わずときめいてしまったけれど、きっとその考えの大元となっているのは春妃さんなんだろうな。
「あ」夏樹くんの声で、私ははっとする。「雨が降ってきた……」
 天気は晴れている。雨なんて降るはず――。ぽつり、と鼻先に雨が落ちた。天気雨だ。
 太陽の光で落ちてくる雨が輝いてい見える。光がそらから降ってきたかのようだった。
 夏樹くんが着ているシャツの肩部分が雨に濡れて青色から紺色へ変わっていた。
「私、折り畳み傘持ってる」
 取り出そうと鞄の中を漁る。
「別にいいよ、すぐ止むだろうし」
「ダメだって」
 小さな一つの傘に、二人で入る。腕と肩がぶつかった。持っていた傘を夏樹くんが取り上げると、私の方に傾けて差してくれた。
 夏樹くんは物思いにふけりながら空から落ちてくる雨を見つめている。その顔が春妃さんと重なって、私は夏樹くんから傘を奪い取った。
「おい、萩村が傘を持つと俺の頭に傘があたるんだけど」
「私が傘を持ちたいの。夏樹くんは前だけ向いてて」
 歩きにくいのに、と夏樹くんがぶつぶつと言う。その隣で私は空を見上げない夏樹くんにホッとしていた。
 いつまでこうして歩いていただろう。雨がだんだんと弱まってきて、止みそうになっていた。でも私は知らないふりをする。まだ、この小さな傘に夏樹くんと肩をならべていたいから。だから――私はまだ傘を差し続ける。


 季節は秋へと移り始めていた。時折吹く涼しい風が秋を知らせてくれる。
 秋雨前線の影響で相変わらず雨が多い毎日だった。差している傘の露先から雨露が落ちる。
 仕事を終えた俺は、足元を雨に濡らしながら歩いていた。
 すると、前から歩いていた人が足を止めた。気になった俺はその人物の顔に目をやる。
「……姉さん」
 思わず、口に出していた。
「夏樹……久しぶり」
 こうして顔を合わせるのはケンカした日以来だった。姉さんは何から話しだせばいいのかわからないようで、ぎこちなさそうにしていた。
 尚も雨が降る。見ると姉さんの服が、足元が雨で濡れていた。
「――っ」
 ズキリ、と頭が痛んだ。
「夏樹、大丈夫?」頭を押さえた俺に姉さんが声を掛ける。「具合が悪いなら早く帰って休みなよ」
 このまま姉さんのペースで会話を進めていくと、そのまま別れることになりそうだった。
 嫌だ。もっと姉さんと一緒にいたい――。
 そんなふうに思うのは仲直りしたいがためか、それとも他に理由があるのか。気付けば俺の口が勝手に動いていた。
「寮がここの近くにあるんだ。良かったら来ない?」

 夏樹に誘われるまま私は寮へお邪魔する。
 男の一人暮らしで散らかっているかと思ったけれど、綺麗に片付けられていた。
 私と夏樹は横に並んで床に座る。目の前に掃き出し窓があって、降り注ぐ雨がベランダの欄干に当たって音を鳴らしていた。
「この前は酷いことを言ってごめんなさい。記憶がない夏樹が一番辛いというのに、あたってしまって」
「そんな、謝らないでよ姉さん。酷いことを言ったのは俺も同じだし」
 そこで私と夏樹は黙り込む。お茶の入った湯呑から湯気が立つのを意味もなく見ていた。
「俺、どうしてかわからないけど雨が気になるんだ」
 その言葉に、私は湯呑から夏樹へ視線を移した。夏樹は私と視線を合わすことなく、ただ前を、窓越しに降る雨を見ていた。
「熱くなるんだ、ここが」夏樹が自分の胸を叩く。「姉さんなら、その理由を知っている?」
 夏樹が私を見る。夏樹の薄茶色をした瞳が私を捉えている。その瞳に、吸い込まれそうになる……。どちらともなく、私と夏樹は顔を近付ける。まるで、このままキスをするかのように――。
 あと少しで唇が触れ合う、という時に私と夏樹のスマホが同時に鳴った。着信音にびっくりして肩が跳ねた。
 私と夏樹は気まずそうに下を向くと、お互いに電話に出る。
 電話の相手は柊さんからだった。柊さんの声を聞いた瞬間、私はが鮮明に頭に浮かんでしまって上手く話すことが出来なかった。あの日以来、私は柊さんと会っていなければ声も聞いていない。
 とりあえず話がしたい、と言う柊さんに私は今から会うことにした。電話を切ると、その数秒後に夏樹も電話を切った。
「夏樹。私帰らなきゃ」
「え、何か用事?」
 私は立ち上がると、帰る準備をしながら答える。
「柊さんに呼ばれて」
 私のことを忘れている夏樹に、柊さんの名前を出しても覚えていないかもな、なんて思いながら私は置いてたバッグを手に取った。
 すると、夏樹に腕を引っ張られた。
「ど、どうしたの……?」
「あれ、何でだろ……ごめん」
 夏樹は自分の行動に解せぬまま首を傾げると、私の腕を放した。
「今度、私のマンションに遊びに来てよ」
「うん、わかった」
 
 バタン、と音を立てて玄関の扉が閉まると、俺は両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
 顔が熱くなっているのがわかる。
 俺、姉さんにキスをしようとしていた――。もし、あのまま電話が鳴らなかったらどうなっていたのだろうか。それに、どうしてさっき俺は姉さんのことを引き留めようとしたのだろうか?
 “柊さん”という名前を聞いた途端、俺は焦燥感に駆られ気付いたら姉さんの腕を引っ張っていた。現に今でも身体がソワソワとして心が落ち着かない。
 今からでも、姉さんを追いかけよう――。俺は玄関を飛び出した。

 
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