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第二十八話(最終話)
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八月最後の日。
夏休み期間中に行われたイベントがほとんど終わったことや、新学期直前ということもあって『SSC』内にあまり人はいない。
雑然とした雰囲気が続いていたからか、こんな落ち着いた空気が流れるのは久しぶりな気がした。
美綾は、『青桜』関係のイベント資料をまとめたファイルを由功の部屋の書棚にしまうと室内を見回した。
自分がいない間に散らかっていた部分は片付けたし、次に誰がきてもわかるように引き継ぎ書も作った。由功が秘書代わりの人間を置くかどうかはわからないけれど、誰かが役立ててくれればいい。
『青桜』のイベントはトラブルもなく盛況のうちに終わった。実際の評価が下されるのはもう少し先だろうけれど、概ね『青桜』の新ブランドも『SSC』への見方も好意的だったように思う。
これがきっかけで次の仕事に繋がれば、この先も実績を積み重ねていけるだろう。
美綾にとってこの部屋が自分の居場所だった。由功が『SSC』を続ける限り、彼の隣で支え続けるのだろうと思っていたのに、まさか去る日がくるとは想像もしていなかった。
自らが下した決断なのに、明日からここに来ることがないなんて実感がわかない。
辞めることは公にしていなかった。手続きも由功にすべて一任している。
誰かに伝えて引き留められでもしたら決意が鈍りそうだったから。
由功からは『休暇扱いにしておくから、必ずいつか戻って来いよ』と、冗談とも本気ともつかない言葉を最後に言われたけれど、彼とは『SSC』でなくとも学校で会える。
美綾はソファに置いていた荷物を手にすると、後ろ髪ひかれそうな気持ちを押し殺して部屋を後にした。
廊下に出て窓の外を見れば、街路樹の緑が光に映えて輝いていた。今年の夏はお天気が続いたなと思う。そしてこの暑さはもうしばらく続くのだろう。
由功の部屋を出ればいつもこの景色があった。
道路を挟んだ向かいにあるフレンチテイストの雑貨屋さん。その隣のビルのショーウィンドウに飾られた服は、変わるたびにいつも憧れて見ていた。
エレベーターの前に着くと、壁にもたれて貴影が立っていた。
「御嵩くん……由功なら部屋にいないわ。少し前に出て行ったから」
「知っている。あいつからは今日が最後だって聞いた」
「そう」
黙っていてほしいと頼んだわけじゃない。
だから貴影が知っていても不思議じゃないけれど、由功のお節介に複雑な気分になる。
あれから、仕事で関わる以外二人きりにならないように気をつけていたのに、努力が無駄になった。
でもこれで彼と会うことはないのだと思えば、計らいに感謝すべきなのだろうか。
「司から君に渡してほしいって頼まれた」
美綾は貴影がさし出した紙袋を受け取ると中身を見た。
そこには臙脂色で桔梗柄の浴衣が入っていた。
「これ……」
「君にプレゼントだそうだ」
浴衣選びの時、貴影が美綾に選んだ浴衣だ。あの時は司も紫陽花柄の浴衣を選んでくれたのに、プレゼントしてくれたのがこれだなんて、あんな些細なやりとりに気づいていたのか。
「それからオレも」
ずっと持ち歩いていたかのように、貴影はズボンのポケットから小さなスティックを取り出す。美綾の手をそっと掴むと掌にのせる。
美綾は指先が震えそうになりながら、かわいらしいキャップをはずした。
――『彼が選ぶ彼女の口紅』
『青桜』本社で、彼が選んでくれたカラーだ。美綾自身は結局事前に頼まなかった。だとすればこれは貴影が準備してくれたものなのだろう。
「ありがとう……」
涙が出そうになるのを堪えながら、うつむいたままその言葉だけを紡いだ。うつむいてももう表情を隠してくれる長い髪はない。
最後の最後まで本当に……思わせぶりな態度を改めてくれなかった。
胸の奥が急激に熱くなる。
「じゃあ、行くね」
「下まで送る」
「ここでいい」
美綾は浴衣の入った紙袋の中に無造作に口紅をいれた。
貴影が選んだ浴衣と口紅。
それらはこれからの自分に何をもたらすのだろうか。
エレベーターのボタンを押す。
貴影は無言だった。ただ彼の視線を痛いほど感じる。
『SSC』がなければ、再会することがなかった人。
思い出の中に閉じ込めて、淡い想いを噛み締める程度で終われば良かったのに。
髪を切って忘れられるなら、どんな恋も苦しまなくてすむ。
一度抱かれて忘れられるなら、そんな簡単な手段はない。
離れて忘れられるのなら、最初からその結論を選んでいた。
そんな方法でこの気持ちを失くすことができるなら、こんなに苦しむことはなかった。
自分が出した結論が正しいかどうかなんて知らない。ただ、もうこの方法しか残っていなかった。
だから選んだ。
エレベーターが到着して扉が開く。
この場から去り、新たな世界へと飛び立つための扉。
「じゃあ……」
最後に伝える言葉なんかなくて美綾は軽く頭を下げた。
エレベーターに乗り込もうとした瞬間強く腕がひかれる。その勢いで手にしていた荷物が床に落ちる。
窓から差し込む光が白いシャツに反射して、眩しさに目を細めると、唇にやわらかなものが触れた。
堪えきれずに涙が落ちる。
「好き……」
「ああ」
「まだ好き。ずっと好き」
「ああ、わかっている」
貴影の手が美綾の頬を包んだ。額をくっつけて目も鼻もこれ以上はないほど近づく。
そのまま啄むようにキスを交わした。
言葉の代わりに想いを伝えあうように。
意味を無くしたエレベーターの扉が背後で閉まった。
「ごめんね。まだ好きで」
「オレも、好きだ」
美綾は背伸びをすると貴影にしがみついた。貴影の腕もさらうように美綾の背中に伸びて抱き寄せる。そのまま深く唇を合わせると、どちらともなく舌を伸ばして絡め合った。
どこまでも近づいた夜が蘇る。
髪を切っても、離れることを選んでも、結局胸の中の火は消えなかった。
互いを求めることに抗えない。
「美綾、いつか……」
かすれた声音が縋るように名前を呼ぶ。
「いつか、必ず……」
――いつか……
気持ちが重なっても叶わない恋がある。
今の自分たちでは叶えることができない恋。
いつか――叶うことを願ってもいいのだろうか。
「うん……」
だから今は離れる。
自分たちが出会った一瞬。
すれ違ってきた時間。
一度噛み合わなかった歯車が元に戻るためにはきっと時間が必要で。
いつか重なることができるのなら……そんな未来を夢見てもいいのか。
唇が離れると同時に、互いの腕から力が緩んで離れた。
貴影が床に落ちた荷物を拾って手渡してくれる。
美綾はエレベーターのボタンを押すとそれを受け取った。
扉は待っていたかのようにすぐさま開く。
一歩を進めた。
彼はもう止めなかった。
振り返って貴影の姿をじっと見上げると、最後に美綾は涙をふいた。
「「さようなら」」
笑顔がつくれただろうか。
最後に彼に笑顔を見せられただろうか。
二人で同時に発したさようならを未来につなげられるのなら、その言葉が今度は新たな出会いへの希望になる。
九条美綾、八月三十一日をもって『SSC』を退職。
火はまだ心の中にあった。
それは残り火のようにくすぶるものでなく、真摯に燃えつづける蝋燭の火のように。
それはゆっくりと優しく煌めく。
未来への道しるべになるべく。
夏休み期間中に行われたイベントがほとんど終わったことや、新学期直前ということもあって『SSC』内にあまり人はいない。
雑然とした雰囲気が続いていたからか、こんな落ち着いた空気が流れるのは久しぶりな気がした。
美綾は、『青桜』関係のイベント資料をまとめたファイルを由功の部屋の書棚にしまうと室内を見回した。
自分がいない間に散らかっていた部分は片付けたし、次に誰がきてもわかるように引き継ぎ書も作った。由功が秘書代わりの人間を置くかどうかはわからないけれど、誰かが役立ててくれればいい。
『青桜』のイベントはトラブルもなく盛況のうちに終わった。実際の評価が下されるのはもう少し先だろうけれど、概ね『青桜』の新ブランドも『SSC』への見方も好意的だったように思う。
これがきっかけで次の仕事に繋がれば、この先も実績を積み重ねていけるだろう。
美綾にとってこの部屋が自分の居場所だった。由功が『SSC』を続ける限り、彼の隣で支え続けるのだろうと思っていたのに、まさか去る日がくるとは想像もしていなかった。
自らが下した決断なのに、明日からここに来ることがないなんて実感がわかない。
辞めることは公にしていなかった。手続きも由功にすべて一任している。
誰かに伝えて引き留められでもしたら決意が鈍りそうだったから。
由功からは『休暇扱いにしておくから、必ずいつか戻って来いよ』と、冗談とも本気ともつかない言葉を最後に言われたけれど、彼とは『SSC』でなくとも学校で会える。
美綾はソファに置いていた荷物を手にすると、後ろ髪ひかれそうな気持ちを押し殺して部屋を後にした。
廊下に出て窓の外を見れば、街路樹の緑が光に映えて輝いていた。今年の夏はお天気が続いたなと思う。そしてこの暑さはもうしばらく続くのだろう。
由功の部屋を出ればいつもこの景色があった。
道路を挟んだ向かいにあるフレンチテイストの雑貨屋さん。その隣のビルのショーウィンドウに飾られた服は、変わるたびにいつも憧れて見ていた。
エレベーターの前に着くと、壁にもたれて貴影が立っていた。
「御嵩くん……由功なら部屋にいないわ。少し前に出て行ったから」
「知っている。あいつからは今日が最後だって聞いた」
「そう」
黙っていてほしいと頼んだわけじゃない。
だから貴影が知っていても不思議じゃないけれど、由功のお節介に複雑な気分になる。
あれから、仕事で関わる以外二人きりにならないように気をつけていたのに、努力が無駄になった。
でもこれで彼と会うことはないのだと思えば、計らいに感謝すべきなのだろうか。
「司から君に渡してほしいって頼まれた」
美綾は貴影がさし出した紙袋を受け取ると中身を見た。
そこには臙脂色で桔梗柄の浴衣が入っていた。
「これ……」
「君にプレゼントだそうだ」
浴衣選びの時、貴影が美綾に選んだ浴衣だ。あの時は司も紫陽花柄の浴衣を選んでくれたのに、プレゼントしてくれたのがこれだなんて、あんな些細なやりとりに気づいていたのか。
「それからオレも」
ずっと持ち歩いていたかのように、貴影はズボンのポケットから小さなスティックを取り出す。美綾の手をそっと掴むと掌にのせる。
美綾は指先が震えそうになりながら、かわいらしいキャップをはずした。
――『彼が選ぶ彼女の口紅』
『青桜』本社で、彼が選んでくれたカラーだ。美綾自身は結局事前に頼まなかった。だとすればこれは貴影が準備してくれたものなのだろう。
「ありがとう……」
涙が出そうになるのを堪えながら、うつむいたままその言葉だけを紡いだ。うつむいてももう表情を隠してくれる長い髪はない。
最後の最後まで本当に……思わせぶりな態度を改めてくれなかった。
胸の奥が急激に熱くなる。
「じゃあ、行くね」
「下まで送る」
「ここでいい」
美綾は浴衣の入った紙袋の中に無造作に口紅をいれた。
貴影が選んだ浴衣と口紅。
それらはこれからの自分に何をもたらすのだろうか。
エレベーターのボタンを押す。
貴影は無言だった。ただ彼の視線を痛いほど感じる。
『SSC』がなければ、再会することがなかった人。
思い出の中に閉じ込めて、淡い想いを噛み締める程度で終われば良かったのに。
髪を切って忘れられるなら、どんな恋も苦しまなくてすむ。
一度抱かれて忘れられるなら、そんな簡単な手段はない。
離れて忘れられるのなら、最初からその結論を選んでいた。
そんな方法でこの気持ちを失くすことができるなら、こんなに苦しむことはなかった。
自分が出した結論が正しいかどうかなんて知らない。ただ、もうこの方法しか残っていなかった。
だから選んだ。
エレベーターが到着して扉が開く。
この場から去り、新たな世界へと飛び立つための扉。
「じゃあ……」
最後に伝える言葉なんかなくて美綾は軽く頭を下げた。
エレベーターに乗り込もうとした瞬間強く腕がひかれる。その勢いで手にしていた荷物が床に落ちる。
窓から差し込む光が白いシャツに反射して、眩しさに目を細めると、唇にやわらかなものが触れた。
堪えきれずに涙が落ちる。
「好き……」
「ああ」
「まだ好き。ずっと好き」
「ああ、わかっている」
貴影の手が美綾の頬を包んだ。額をくっつけて目も鼻もこれ以上はないほど近づく。
そのまま啄むようにキスを交わした。
言葉の代わりに想いを伝えあうように。
意味を無くしたエレベーターの扉が背後で閉まった。
「ごめんね。まだ好きで」
「オレも、好きだ」
美綾は背伸びをすると貴影にしがみついた。貴影の腕もさらうように美綾の背中に伸びて抱き寄せる。そのまま深く唇を合わせると、どちらともなく舌を伸ばして絡め合った。
どこまでも近づいた夜が蘇る。
髪を切っても、離れることを選んでも、結局胸の中の火は消えなかった。
互いを求めることに抗えない。
「美綾、いつか……」
かすれた声音が縋るように名前を呼ぶ。
「いつか、必ず……」
――いつか……
気持ちが重なっても叶わない恋がある。
今の自分たちでは叶えることができない恋。
いつか――叶うことを願ってもいいのだろうか。
「うん……」
だから今は離れる。
自分たちが出会った一瞬。
すれ違ってきた時間。
一度噛み合わなかった歯車が元に戻るためにはきっと時間が必要で。
いつか重なることができるのなら……そんな未来を夢見てもいいのか。
唇が離れると同時に、互いの腕から力が緩んで離れた。
貴影が床に落ちた荷物を拾って手渡してくれる。
美綾はエレベーターのボタンを押すとそれを受け取った。
扉は待っていたかのようにすぐさま開く。
一歩を進めた。
彼はもう止めなかった。
振り返って貴影の姿をじっと見上げると、最後に美綾は涙をふいた。
「「さようなら」」
笑顔がつくれただろうか。
最後に彼に笑顔を見せられただろうか。
二人で同時に発したさようならを未来につなげられるのなら、その言葉が今度は新たな出会いへの希望になる。
九条美綾、八月三十一日をもって『SSC』を退職。
火はまだ心の中にあった。
それは残り火のようにくすぶるものでなく、真摯に燃えつづける蝋燭の火のように。
それはゆっくりと優しく煌めく。
未来への道しるべになるべく。
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ia さん
それぞれの登場人物にあたたかいお言葉ありがとうございます。
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お話を読んでくださり感想まで、ありがとうございました。