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第一章

第二十話

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時間が欲しい、と智晃は思っていた。
  悠花のことを知ってから、彼女の過去をどう受け止めるかも、自分がこれから先どうしていくかも、もう少し慎重にゆっくり考えたほうがいい、と。
  彼女の調査をしたことや、それによって自分が知ったという事実を説明するのか、それとも知らないままこれまでと同じように接していくのか。どういうスタンスでいくか決めかねている間に時間は過ぎて、強引に自分が約束を取り交わした日が近づく。
  「会うのを最後にしたい」と言った彼女を引き留めたのも「会わない選択はしないでほしい」と言ったのも智晃の方だ。そして過去に彼女が言った言葉を蒸し返して、「一緒に花見に行こう」と約束させたのも。
  彼女に会いたくないわけじゃない。今はただ会ったときどういう態度をとればいいか決めかねているだけだ。
  彼女を調査した三住が出した結論は、智晃にとって衝撃が大きかった。
  偶然の出会いと、小さなおせっかいをきっかけに「会いたい」を続けて、かわいがりたい、甘やかしたい、一緒にいたい、そこから少しずつ惹かれていった。過去の相手に気持ちを残していることも囚われていることも、救われたいとあがいているのも同じだったから余計に。
  だから、本当の名前を知って呼んで、知らないことを少しずつ教え合って、そういう普通の恋人同士が辿る過程を歩んでいけばいいと思っていた。
  「はじめまして」そう言ったのは、新たに関係をはじめられればいいという気持ちの表れだった。
  名前を教え合う、たったそれだけのことが、彼女の過去と自分の素性のせいで壊れてしまうことになるなんて思いもしない。
  智晃は地下駐車場から車を出しながら、青すぎる空に目を細めた。絶好のお花見日和のお天気。風もおだやかで日中はむしろ暑くなるかもしれない。彼女が作ってくれるといったお弁当が最初の手料理になってきっとそれを口にしながら、毎日食べる日々を想像する。仮初ではない名前を呼びあおう、と彼女が未来を示唆したとき、智晃も甘い時間になるだろうと思っていた。
  心は決めかねていても、約束を違えるわけにはいかない。智晃はメールを送ることができなくなって、彼女からはもちろんこない。あの日教えてもらうはずだった携帯の番号も結局聞き忘れた。
  結論が出ないまま待ち合わせの駅へ向かいながら、先週とはまた違った澱みを心は抱えている。
  出会った過去をなかったことにしたほうがいいのか、未来をこれからも一緒に歩んでいくのか。それを現在決めなければならない。素性を知ったせいで、曖昧に続けられるほど容易な関係でなくなった今、何らかの結論を出す必要があった。そして智晃の素性を知った彼女は早々に「会わない」という選択をした。
 「はるか……か」
  「名月悠花」と名を聞いたとき、彼女が「ナツ」ではなく「ハル」と名乗っていたらどうだっただろうかと一瞬頭を過った。
  晴音と同じ音をもつ「ハル」を自分は簡単に呼べただろうかと。
  「ハル」と呼びながら彼女を抱けただろうか、と。
  呼ぶたびにもし「晴音」を思い出していたら……会わなかった選択をした可能性はあるのか、と。
  胸ポケットの中でふるえはじめた携帯に智晃は、彼女からのメールかとどきっとした。やっぱり会うのをキャンセルされたかと思った予想ははずれて、振動が続く。電話だと気が付いて智晃は車を端に寄せて一旦停車した。
 「はい、もしもし」
 「智くん!!姉ちゃんが、晴音が倒れて!今、救急車で運ばれたっ」
 「ソウ?」
 「なんかいつもと違って……オレにもよくわからないっ。とにかく病院にきて!」
  晴音に何かあった場合は、どんな状況でも連絡するように双子の弟たちには言ってきた。たとえそれがいつもの貧血でも、些細な体調不良でもどんなことでも入院することになったときは教えるようにと。言い方は悪いが、そういう意味では晴音が救急車で運ばれることなど彼らは慣れているはずだった。こんなに動揺して話すのは初めてのことで、智晃も晴音の身に何かが起こったのだと察する。叔父の会社に通うようになって、晴音たちの試作のお弁当を食べる機会も失い顔を合わせていない。暖かい日と寒い日が交互に訪れる季節の変わり目は晴音が一番体調を崩しやすい時期でもある。
 「わかった。すぐに向かう。理人の病院でいいんだな」
  智晃は電話を切ると、悠花にメールを送る。とにかく行けなくなったことを伝える必要がある。まさかキャンセルをするのが自分の方になるとは思わず……これで彼女が何を想像するか考えて、少しだけ迷ったけれどすぐに振り払った。




  ***




  こうして病院に向かい廊下を歩いている間に、智晃はいつも覚悟を決めていた。どんなことを聞かされても受け止める、そういう覚悟だ。最初に晴音が倒れたときは、動揺するだけで何もできなかった。晴音からは「あまりに心配し過ぎるなら、智くんには連絡しないようにする」とまで言われたこともある。「いつものことだから、私を優先したりしないで」とも。
  理人との結婚が決まってから、彼が注意深く彼女の病状をコントロールしはじめて、そういうことは減ってきていた。でも、改めて智晃は思う。
  彼女がいつ消えるかなんて誰にもわからないということを。
  自分の足音がやけに耳につく。ひんやりした白い廊下は、日常と切り離されていて智晃を別世界に誘う道に見える。晴音がいつも運ばれる特別室へ向かうと、廊下の椅子に座っている弟たちが見えた。一人はうつむいて泣いているようで、一人は泣かないように天井を仰いでいた。
 「晴音ちゃんは?」
 「智くん……ごめん。姉ちゃん、大丈夫だった」
  天井を仰いでいたソウが智晃に気が付いて申し訳なさそうに言う。智晃もほっと肩をおろして息を吐き出した。
 「大丈夫なら、よかったよ。晴音ちゃんは、中?」
 「いや……今は検査中」
  智晃はうつむいたままのユウを見て、ソウに目で問う。大丈夫だったのなら、なぜユウは泣いているのか、と。
 「姉ちゃん……妊娠しているって。本人も知らなかったみたいで、急に出血したからオレたちも慌てて。流産の可能性もあるからしばらく入院する」
 「…………」
  智晃は言葉に詰まって、口元を手で覆った。理人と結婚をしたのだから、その可能性は当然ある。けれど、晴音のそういったことはあまり想像できなかったせいで、反応が鈍った。
 「……そうか」
 「理人さんは、もう少し慎重な人なんだと思っていた!なんで、なんで妊娠なんて!」
  ユウが震える声で吐き出したその内容に、智晃はわずかに驚いた後、再度ソウを見た。ユウがなぜ悲しんでいるのか、その理由が垣間見える。ソウはユウほど否定的ではないのか、複雑な表情だけを浮かべていた。
  晴音にとっては性行為自体リスクの高いものだった。急な緊張による過度なストレスが血圧にどう影響するかわからなかったからだ。理人はきっとゆっくりと慎重に晴音との関係をすすめてきただろう。その結果の妊娠は本来なら喜ばしいことだ。
  だが、妊娠は健康な女性にも負担を強いる。ホルモンバランスの変化、つわりや流産の危険性、それらが晴音にどう影響するかは未知だ。彼らの様子を見ていればリスクが高いことなのだとわかる。
 「姉さんが妊娠や出産に耐えられるかわからないのに!!もしこれで、姉さんを失ったら……」
 「ユウくん、大丈夫よ」
  声の方を向くと車いすに座った晴音と、それを押す理人の姿が目に入る。
  晴音の顔色はよくない。でも表情は……ものすごく穏やかで慈愛に満ちている。背後の理人とは対照的なその様子に、智晃は昔晴音が語った夢を思い出した。
  ソウもユウもそして理人も、複雑な胸中を隠せずにいる。晴音だって不安を抱えているはずだ。でも彼女はそれ以上にきっと、この事実を受け入れ喜んでいる。
 「智くんも来てくれたの?ごめんね、心配かけて」
  にっこりとほほ笑む晴音に、智晃は腰をおろして目線を合わせた。彼女が倒れた連絡を受けるたびにしていた覚悟、そして彼女の顔をこうして確認して、生きていることを実感して安心する。
  ああ、晴音は生きている。まだ会うことができる。
 「晴音ちゃん……妊娠したんだってね。おめでとう」
  晴音が大きな目をさらに大きく見開いて智晃を見る。そこにはみるみる涙が浮かんだ。
 「晴音ちゃんの夢が、またひとつ叶ったね。大好きな人との結婚、大好きな人との子ども。絶対叶わないってあきらめていた晴音ちゃんだったのに……頑張って叶えてよかった」
 「……っ!智くんっ、智くん!!」
  晴音が感極まって、智晃に手を伸ばしてくる。智晃は抱き付いてくる晴音を受け止めるべく近づいて、その細い肩を背中をそっとなでた。理人は食い入るように智晃を見つめ茫然としている。
 「あ、ありがとっ!誰も、誰もおめでとうって、言って……くれなくて。私嬉しかったのに、すごく嬉しいのに!理人さんとの子ども、私の赤ちゃん、ここに来てくれて嬉しいのに、喜んでもらえなくて……っ」
  そう、彼らはきっと晴音に「おめでとう」と言えずにいる。この世に出てきていない存在よりも晴音のほうが大切だから、失うかもしれない可能性に怯えている。それは彼らが彼女の身内で、家族であるが故の不安。
 「こいつらは戸惑っているだけだよ。大丈夫……晴音ちゃんの夢が叶ったんだ。無事出産するまで全力でサポートしてくれるよ。男の子でも女の子でも晴音ちゃんに似ている子が生まれてくるんだ。喜ばないわけがない。僕ももちろんサポートするから、晴音ちゃんは自分の体とお腹の赤ちゃんのことだけ考えればいい」
  ひっく、ひっくと泣く晴音はめずらしい。彼女は声を殺して泣くことの方が多かったから。こんな泣き方ができるようになっただけ彼女は気持ちを表に出せるようになったのだと思う。背中をなだめていると看護師が慌てて寄ってきて晴音を落ち着かせるべく、病室に連れて行った。
 「ユウ!姉ちゃんの夢だ、全力で応援するぞ!」
 「……ああ」
  ソウとユウも病室に入り、廊下には智晃と理人が残される。白衣を着た理人は顔色も含めてさらに白く見える。彼の抱えるものは智晃と比べ物にならないほど重い。そのことは智晃も承知している。
  智晃は休憩スペースに理人を誘った。



 「うらやましいよ、おまえが」
 「僕は晴音ちゃんの家族にはなれなかった。だから見えることも言えることもある。おまえが言えない気持ちも……わかるよ」
  休憩スペースにはいくつか丸テーブルが置かれているほかに、窓際にソファタイプの椅子が並んでいる。理人は糸の切れた人形のようにそこに腰をおろして項垂れていた。智晃は立ったまま外を見下ろす。
  ここから見える中庭には、土曜日のせいか入院患者を見舞いにきた家族連れがおのおの過ごしていた。ベンチに座っている人もいれば、芝生に寝転がっている人もいる。そして木々には桃色の花びら。病を抱えていても晴れやかに見えるのは、開花した桜のおかげかもしれない。
 「めでたいなんて思えなかった。妊娠には気を付けていた……正直、子どもは必要ないとさえ思っていた。だからさすがに今回のことは、オレにはきつくてたまらない」
 「リスクが高いんだな」
 「きっと晴音か子どもか選ぶことが増える。最悪これで両方失ったら……オレは晴音を抱いたことを、結婚したことさえ後悔するかもしれない!」
  ここまで弱音を吐く理人を見るのは初めてだった。医師として冷静に判断していたはずの男は、今は冷静ではいられない。もし逆の立場だったら嘆いているのは智晃のほうだったし、理人はもっと冷徹に智晃を見たに違いない。
 「悩めよ……悩んで、苦しめ。晴音ちゃんを手に入れたんだ。それぐらい抱えろ!
 晴音ちゃんは……おまえを悩ませたくなくて、苦しめたくなくて身をひこうとしていたんだ。それを留めたのはおまえだ。僕から彼女を奪って手に入れた代償を払えよ、理人」
 「きっついな、おまえ」
 「きつくなるのは晴音ちゃんだ。おまえや家族の心理的負担をなくすために……彼女につらい決断をさせるようなことはしてほしくない。あの子はこれまでだっていろんなものをあきらめてきた。それでも僕たちにいろんなものを与えてくれた。
あの子の夢が叶うんだ。僕は全力でサポートする……理人、おまえも覚悟を決めるべきだ」
 「晴音の……夢か」
 「そうだ。おまえとの結婚、おまえとの子ども。女性なら誰でも夢見るごく普通のことを彼女は命がけで叶えてきた……。晴音ちゃんの笑顔を守ってくれ」
  智晃は言葉を連ねながら悠花のことを思い出す。最初に会ったときに彼女に感じた印象。
  悠花は晴音にとてもよく似ていた。それが気になった一番のきっかけ。
  そう、悠花は似ている。
  智晃を悩ませたくなくて、苦しめたくなくて「会わない」と身をひこうとしている。
  彼女もきっといろんなものをあきらめてきた。そして怖がってきた。時折見せるはかない笑みが、泣きそうな目が、消えゆくものに見えて放っておけなかった。
  命は、永遠に続くものではない。いつ、どんな些細なことで途切れるか、わからないものなのだということを智晃は晴音に教えられてきたはずだった。
  先延ばしにしていた願望を。
  曖昧に濁していた覚悟を。
  そんな猶予、本当は誰の人生にもない。
  もし今悠花の身に何か起きれば、智晃はひどく後悔する。
  あんな物憂げな表情しかさせられず、支えることもできず、さらに逃げようとした自分を。
 「智晃……たまには愚痴っていいか」
 「もちろん。おまえが晴音ちゃんを支えるなら、僕がおまえを支えるよ」
 「……ありがとう。晴音におめでとうと言ってくれて」
  これから先、理人もそして晴音ももがき苦しんで選択していくことになるのだろう。その都度悩み、間違った答えを選んでは、また別の答えに導かれていく。
  正しい答えだけを選択して生きていけるわけじゃない。間違えながら後戻りしながら、後悔しながら生きていく。それはきっと無駄じゃない。
  なにひとつ……無駄ではないのだ。
 「理人、僕も覚悟を決められる相手に出会った。いつか……おまえと晴音ちゃんに会わせたい」
  理人の目が大きく開く。いつも冷静な彼が今日はいろんな表情を見せてくれるなと智晃は笑みを浮かべた。理人はなんだか泣きそうに目を細めて瞬いた。
  支えて、支えられて人は生きていく。
  それは弱さじゃない。
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