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第273話 始まりのアンドリュー

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「ったく…あいつはいつもやかましい。俺は好きにやるだけだ。」

 森の中、一人の男が釣竿とバケツを持って歩いている。それだけを見れば男が森の中へ釣りに向かっていることがわかる。しかしその男はさらにリュックサックを背負い、腰には長剣を携え、鎧を着込んでいる。男は兵士でもあるようだ。

 実は男は訓練をサボり、支給品の鎧と武器を勝手に持ち出して森の中へ釣りに向かっているのだ。戻ったら厳罰は間違いなしだろうがそんなことは御構い無しだ。今日も同じ部隊の仲間の兵士に止められたのだが、うまいこと巻いてここまでやって来た。

「街で聞いた綺麗な湖っていうのは…確かこっちであっているはずだけどな。かれこれ半日は歩いているぞ。」

 男は以前、軍の買い出しの際に小耳に挟んだ美しい湖の話を聞いて、是非とも釣りをしたいとやって来たのだ。男は貧しい村の出身で、毎日毎日釣りをして暮らしていた。そんな釣りは男の生きる術でもあり、心安らぐ唯一の時でもあった。

 それは口減らしのために村を追い出され、生きるために兵士に志願することになった今でも変わらない。やがて男は歩き続けた末に日も暮れ出した頃になってようやく目的地にたどり着いた。

 そこは森の中でこんこんと湧き出る美しい泉であった。大きさはそこまででもないがチラチラと魚影が見える。早速釣りを始めようと考えたが、もう日も沈む。暗くなる前に野営の準備をしてしまうことにした。

 背負っていたリュックサックからテントと寝袋などを取り出し、野営の準備を済ませると薪を拾い火を起こす。食料は軍の食料庫から盗んで来た干し肉とカチカチのパンだ。物足りない気はするが、明日は魚を釣って食えるのでそれまでは我慢する。

 翌朝。男は日の出とともに起き、早速釣りを始めた。餌は地面を掘って出て来た虫だ。なんとも手軽なものだが、釣りを開始してものの10分ほどで1匹目を釣り上げた。その後も釣りを続け、朝食の時間には5匹の良い型の魚を釣り上げていた。

 男は一度休憩してその魚を全て焼いて食べてしまう。昨日の夕食が少なかったのでこれでもまだ足りないくらいだ。どうせなので森の中で食えそうな食材を見つけ出し、再び釣りを始める。これで次釣れた魚はただの丸焼き以外で食えそうだ。

 その後も釣りを続けていると背後の茂みが揺れ動いた。視線を向けるとその茂みからゴブリンが数体出て来た。こんな森の中で魚を焼いて匂いを出せばモンスターも寄ってくる。ゴブリンは男に気がついてすぐに襲いかかって来た。

 しかし男はすぐさま脇に置いていた長剣を抜き放ち、手早く現れたゴブリンを片付けてしまう。そして何事もなかったように再び釣りを始めた。男は性格に難はあるが兵士として、戦いの才能はあるようだった。だからこそ今までも軍を抜け出して釣りをしてもクビにはならなかったのだ。

 その後も釣りを続けていると泉の対岸に四足歩行のモンスターが現れた。実力的にはC級といったところだろう。少し手強い相手だが男ならば倒せる。体も大きく、美味そうなそのモンスターにターゲットを絞り、釣竿を上げて長剣をその手に持つ。

「今夜は魚に肉か。随分と豪勢な食事になりそう…」

 するとその四足歩行のモンスターの背後の茂みがわずかに動き、突如巨大な蛇の頭が飛び出してそのモンスターを飲み込んでしまった。現れたモンスターは間違いなくA級クラスの強敵。男では勝てないその強敵を前に、男は即座に逃げる判断を下した。

 しかし逃げるにしても急に走り出してはダメだ。幸いなことに相手はちょうど食事中。つまりすぐには襲いかかってくる心配はない。男はゆっくりと背後に下がる。音を立てないように、相手に感づかれないようにゆっくり、ゆっくりと。

 するとその蛇も同じようにゆっくりゆっくりと泉に近づき水を飲み始めた。この調子なら問題なく逃げられる。そう思った時、蛇の背後を見た。蛇は未だに茂みの中に体の半分以上が隠れている。その背後の茂みが大きく揺れ出したのだ。その揺れは蛇の揺れとは思えないほど。

 やがてその蛇の全貌が現れた。正確に言えばそれは蛇ではあるのだが、蛇だけではなかった。鳥のように羽が生え、その胴体は巨大な肉食獣のような毛で覆われた凶悪な肉体を持っている。

「キマイラだと…」

 男は思わず声をあげてしまった。キマイラ。それは大地の魔力溜まりから発生する複数のモンスターが発生する際に混ざり合ってしまいできる怪物。現在まで確認された個体は全てS級以上の凶悪なモンスターだけだ。

 男は走り出した。本来走って逃げるというのはあまりにも愚かな行為だ。モンスターは走って逃げるものは興味がなくても追ってしまうことがある。しかしこのキマイラが相手ではそんなことは関係ない。

 キマイラは普通のモンスターと比べてもいつも飢えている。複数のモンスターが混ざり合ったことにより本来の数倍の食料を必要とするのだ。だからキマイラの出現情報が出ると即座に討伐命令が出る。討伐しなければキマイラの生息する一帯から生物が消え去ってしまうからだ。

 キマイラは逃げる男を追った。人間などこのキマイラの巨体では大した食料にはならないだろう。それでも食料になることには変わりない。だから追うのだ。

 男は森の中を一直線に走った。ジグザグに走って逃げることなどキマイラを前にしたら意味がない。今も木々をなぎ倒しながら男を追ってくる。

 男はキマイラと出会ったことで自身の愚かさを恨んだ。街で聞いた美しい泉の話というのはその泉周辺でキマイラを見たという情報だったのだろう。その情報を中途半端に聞いてしまったためこんな目にあっているのだ。

 男が生き残る方法は2つ。一つはキマイラを討伐するための部隊に出くわすこと。そしてもう一つは巨大なモンスターを見つけて、キマイラの狙う対象を変えること。前者はキマイラの情報が正しく伝わり、すでに部隊を編成している場合のみ可能だ。だから確実性で言うのならば後者だろう。

 男は必死に周囲を見てモンスターを探した。しかしこんな時に限って何もモンスターが見当たらない。いや、見当たらないのは今も木々をなぎ倒しながら追ってくるキマイラの轟音のせいだろう。これでは他のモンスターは音を聞いて逃げてしまう。

 するとキマイラから突如突風が吹き荒れた。それは背中に生える飛ぶためとは思えない小さな鳥の羽から撃たれた風魔法だ。男はその魔法から身を守るために咄嗟に振り向いて長剣を盾がわりにした。風魔法が男にぶつかると盾にした長剣は儚くも折れ、鎧も砕き、男を吹き飛ばした。

「あがぁ…う、うぅ……」

 幸いなことに男は生きていた。咄嗟に盾にした長剣のおかげで致命傷にいたらずに済んだのだ。しかし重症なのは間違いない。男はその場から立てずに木を背にしながら迫り来るキマイラを見ていた。

 キマイラが迫り来る恐怖の中で男はこれまでの人生を思い返していた。そしてふっとため息をつき、キマイラを見据えた。

「もう少し釣りしていたかったな…」

 男が最後に思ったこと。それはただ釣りをしたいという男らしい欲望。そしてキマイラから伸びてきた蛇の頭が大口を開けて男に迫り、そして…

「ぬん!!」

 突如現れた何かによって蛇は頭と胴体を切り分けられた。切り落とされた蛇の頭は地面を転がりながらも男を食おうと思ったのか口の開閉を繰り返している。男はその様子をただ呆然と眺めていた。

 男の前に現れたそれは獣人であった。なかなかの高齢なのかその顔はシワがいくつも刻まれており、体毛も白かった。その獣人は何も言わずにそのままキマイラと戦闘を始めた。

 男の前で繰り広げられる戦闘はそれは凄まじいものであった。剣で切り、魔法で焼き焦がせ、腕でキマイラの目をえぐる獣人の戦い方は獣のようであった。その獣人はかなりの実力者である。魔王クラス、それも上の方の実力だ。

 しかしキマイラをなかなか殺しきることができない。再生力に特化したキマイラのようで切り落とされた蛇の頭も、抜き取られた目玉もすぐに再生してしまった。これは持久戦を強いられることになる。

 そして持久戦を強いられることになった獣人には徐々に疲労の色が浮かんできた。実力は間違いなく獣人の方が上であるのだが、高齢であるため体力が衰えているのだ。やがて疲労により立ち回りがぎこちなくなっていく獣人の体には徐々にキマイラから受けた傷が増えていった。

 やがて日も沈んだ頃、キマイラと獣人の戦いに決着がついた。勝者はキマイラの上に立つ獣人だ。獣人のその体からは今も血が流れ、右腕は食いちぎられている。それでも獣人は確かに勝ったのだ。獣人はそのまま力尽きたようにキマイラの上に倒れた。

 男は魔力による自然治癒によってすでに動けるくらいまで治った。すぐに獣人の元へ駆けつけると獣人はすでに虫の息であった。

「しっかりしろ!今できる限り治療を…くそ!血が止まらん!死ぬな!命の恩人であるあんたが死んだら…回復魔法くらい使えるだろ!すぐに治療を…」

「無駄だ…人の子よ……傷は蛇の毒で…塞がらん……今も死なぬように魔力で血を作って延命するので精一杯だ……私はここまでのようだ…」

「諦めるな!そ、そうだ!ポーションが…ああくそ!リュックの中だ!待っていろ!今とってきて……」

 走り出そうとした男の腕を獣人ががっちりと掴んだ。その力はいまにも死にそうなこの獣人からは考えられないものだ。

「待て…最後に…私の愚痴を聞いてくれ……頼む…」

「……わかった…命の恩人の頼みだ。聞こう。」

「私は…白獣と呼ばれる…獣人だ……私の一族は…預言を…託された預言を成し遂げるために…生きてきた……」

「だったら…だったらまだ死ねないはずだ!だから頑張って…」

「だがその役目は父が果たした……父は託された使命を…未来を変えてみせたのだ……父は満足して死んだ…しかし私は…何も為せていない……私は…未来を変えたかった…私も…彼らのように…偉業をなして死にたかった……父は私に…自由に生きろと言った…しかし私の…生きたい道は父に取られた…私は…何もできなかった……」

 獣人の男は泣いた。彼は英雄の国の子供たちが英雄に憧れるように、使命を果たし未来を変える役目を果たす偉業を成し遂げたかったのだ。しかしその夢は父が叶え、彼には決して叶えることができないことが決定されてしまった。

 彼は夢を奪われ、ただただ途方もなく生きてきた。夢を忘れ結婚して生きることもできた。そういう幸せを得ることもできた。しかし彼は夢を叶えたかったのだ。子供の頃から描いたその夢を忘れることができなかった。不器用な人生だったのだ。

 そして死の間際でさえも何もできなかったと泣いて悔やんでいる。男はそんな彼を見て自然と口が開いた。

「何もできなかったわけじゃない。あんたは…俺を助けてくれた。あんたがいなかったら俺は死んでいた。間違いなく死んでいた。あんたはこの世界で俺が生きているという未来を作り出したんだ。あんたは未来を変えたんだよ。」

「…そうだな。そんな些細な未来の変化だけでも…私は…」

「些細じゃねぇ!俺は…いや俺だけじゃねぇ!俺の子供が、孫が!きっとすげぇ偉業を成し遂げる!あんたの親父さんが変えたっていう未来よりもはるかにすげぇ未来に変えてやる!」

「はるかに…すごいか…?」

「ああ!とんでもねぇ偉業を成し遂げてやる!だからあんたは…そうだ!あんたの名前はなんていうんだ?」

「私か?私は……」

 男は獣人の口元に耳を近づけた。もう獣人の男は意識も朦朧としてきた。声も出すのがやっとになってしまった。きっともう目も見えていないだろう。それでも男は獣人の男の名前を聞き取った。

「いい名前だな。それじゃあその名前を俺にくれ。その名前を家名として…俺たち一族は生き続ける。あんたの意思を…あんたの思いを継いで俺たちは生き続ける。いつか偉業を成し遂げるその時まで…」

「そうか……私は……未来を…変えたんだな………あぁ…最悪な人生かと思ったが……最後の最後に…良い人生であった………父さん…私は…僕も未来を…変えたよ……」

 獣人の男は笑顔であった。その笑みはまるで子供のような、優しく無邪気な笑みであった。苦しくて、もがいても何もできなかった彼は死の間際も泣いて悔やんでいた。だが最後の最後に彼は使命を果たせたと、幸せな人生であったとその生涯を終えた。

 翌日の昼。男は一つの兵団に出会った。それは男の行方を心配した男の同僚の兵士が上官に頼み編成した兵団であった。その兵団から一人の男が飛び出してきた。それは男の同僚の友人の兵士であった。

「馬鹿野郎!この森にはキマイラが出現している可能性があるっていう情報が上がっているんだぞ!それなのにお前は……おい。鎧と武器はどうした。それに釣竿も…お前何も持っていないじゃないか!何があった!」

「うるせえな。キマイラなら昨日出会ったよ。今は森の中に転がっているから回収しな。」

「キマイラが!?まさかお前が……」

「んなわけないだろ。助けられたんだよ。…ただその人は相打ちで亡くなった…」

「そ、それは……キマイラを倒せるなんてすごい御仁だったんだろうな。隊長に報告する。ちょっと待っていろ。」

 キマイラの討伐情報を報告すると上官は急いでその場所へ向かっていった。キマイラの素材は高く売れる。だから腐る前に急いで回収する必要がある。男のことはその同僚の友人に任せられた。

 男は二人でゆっくりと帰る。会話もなく、ただ歩いているとやがて男が口を開いた。

「……なぁ。家名持つためには貴族になる必要があるんだよな?」

「あ?…まあ騎士になれば家名持てるぞ。お前みたいな村出身のやつはそれが一番楽だな。まあ国によっては平民でも家名持てるが…家名が欲しいのか?」

「約束したからな。一族として語り継ぐってな。」

「…そうか。じゃあ手助けくらいはしてやる。とりあえず次の戦争で武功を上げるしかないな。ちなみにどんな家名だ?」

「あ?お前のファルードンなんて名前よりかはるかに立派な名前だよ。」

 男は立ち止まり天高く拳を握りあげた。その様子をファルードンはただ見ている。

「俺の家名はアンドリュー。俺はアンドリュー・ジャゼルだ!覚えとけファルードン!いずれこのアンドリューの一族は世界を変えるようなすげぇ一族になるぞ!」

「っけ!お前が世界を変えるだぁ?どうやってだよ。」

「別に俺が変える必要はない。そうだな…俺の子供……孫かひ孫くらいまで行けばきっと成し遂げる。どうやって世界を変えるかは……釣りをしながら考える!」

「なんだそりゃ…」

 アンドリュー・ジャゼル誕生の日。そして彼の一族、アンドリュー一族が世界を変える数十年前の話である。
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