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第十六話 わずかな勝機

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 この、春秋しゅんじゅう史から見ればまことに小さな、史書にも数行しかない戦争が何時から行われたのかわからない。

 ただ、古代の戦争行為はたいして長い時間行われない。春秋左氏伝しゅんじゅうさしでんによると、夜――夜半ではなく、日没程度ではないだろうか――に戦争が終わっている。そうなると、早くても昼すぎに開戦した可能性はある。

 初春とはいえ、身も凍るような寒さである。体力は想像以上に奪われていく。

 よく陘庭けいていのものどもを追い払い、混ざっていた曲沃きょくよく大夫たいふを射殺すことはできたが、これ以上戦うことはできぬ。いかに薄い場所をついたとしても、疲弊はする。が、曲沃はほとんどが無傷である。それを相手取ることなどできぬ翼軍は、ここから駆け、去らねばならない。

「頃合いです」

 欒成らんせいは旗を振って、こうに呼びかけた。進軍の太鼓を叩いていた光はすぐに気づき、旗を上げさせ、撤退の太鼓を叩く。

 この空いた空間から走り去り、陘庭をかすめて北へ戻る。そこまでして、ようやく翼は勝ったと言えるのだ。

 冬は日が短い。そろそろ、陽もかなり傾いていた。欒成の兵車が駆け、光がさらに続いたその時であった。横合いから、猛烈な勢いで兵車へいしゃの群がぶつかってきた。そのかまえ、御者の巧みさは特徴的である。

趙氏ちょうしか!」

 かつて趙氏は周王しゅうおうに御者の一族として寵愛された。しゅうからしんへ亡命し、文侯ぶんこうに仕えたのは趙叔帯ちょうしゅくたいという、やはりぎょの名人である。馬の特徴をつかみ、御する趙氏の軍はやはり兵車が強い。

 欒成は他の氏族うじぞくに合図をして当たらせる。

 この、趙氏の後ろにしょうがいるはずがない。彼は、常に前にいる。欒成はすかさず光を守るべく手勢を差配した。

 趙氏の圧力と、最前衛の欒成が光の盾になろうとしたことで、翼に若干の乱れが生じた。どこに駆けていけばよいか、わからなくなったのである。

「足を止めるな、走れ!」

 光が太鼓をたたきながら、兵車を走らせる。走り、生き残ることがすでに作戦であった。

 一瞬戸惑った大夫も兵も、目指す方向へ駆けていった。

 そこを、どうぞと快く通すほど曲沃はお人好しではない。

 称の本隊は、翼の意図をとっくに読んでおり、道を塞ぐように突出、押し出していく。自然、翼は本来の進路からずれながら、走った。

 欒成は押し戻すべく奮闘するが、勢いに削がれ、光の進む先はどんどん外れていく。

 とうとう、汾水ふんすいのほとりにまで押し込まれた。

 川の音がごうごうと聞こえる中、川岸から逃れようと翼軍はあがいた。光の兵車も、わずかな隙間でも良いからこじ開けようと果敢に動き、進もうとした。

 光という少年は、先細りする翼を背負うべく生まれた。

 幼少のころに父は急死し、わけがわからないまま、悲壮な覚悟をつきつけられた、なかなかに運の無い君主である。運の無い君主というものは、名君にならない。

 ――彼はほとほと運が無かった。

 四頭立ての馬車のうち、中の二頭はそえ馬とされている。方向は両側の馬を御し、内側はそれに合わせて動くというわけである。

 そのそえ馬一頭が、倒れた兵に足を取られ、止まった。そうなれば、他の馬との均衡が崩れる。御者がなんとか押さえ、倒れ落ちることは防いだが、光の兵車は完全に止まってしまった。
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