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第八話 慟哭

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 晋公しんこうこうというべきか、翼主よくしゅこうというべきか。彼の成人一年目は勝利の初陣で飾られたが、その年の後半は苦渋というべきものとなった。

 曲沃きょくよくが、よく傘下の各ゆう耕作地を荒らすためだけに攻めてきたからである。数と機動力の高い曲沃の動きに翼はついていけず、全てに対処できなかったのだ。

「全てに対処すれば、疲弊するだけです」

 欒成らんせいは、地勢として重要な場所を守ることで手一杯であり、ちまちまとした嫌がらせ全てに対応できぬ、と隠さず言った。その厳しい顔が状況の悪さを如実に伝えていた。

 光が己の非力さに、こぶしを握る。この少年は、ではこのように、という考えが思い浮かばない。ただ、現実に打ちのめされまいと虚勢をはるしかできぬ。

 このところ朝政ちょうせいは重苦しいものとなっている。実りを潰された各邑は、公室の倉を開放してほしいと訴えてきている。

 が、翼も余裕があるわけではない。今しのいでも、先が細い。何より、曲沃が秋の間暴れ続ければ、民心も離れるであろう。欒成は場当たりに守る以外に献策できぬ己が、不甲斐なかった。

 窓からふわりと、秋の風が流れてくる。雨期の夏が終わり、柔らかく優しい空気には、熟れた香りがあった。この豊穣を国も民も喜ぶこの時に、翼は憂いに覆われている。

欒叔らんしゅくに申し上げる。末席でございますが、おそれながら言上つかまつりたい」

 隰叔しゅうしゅくが柔らかく拝礼し、声をあげた。この男は落ち着いた所作と品格を持っており、発言すると場がふっと軽くなるところがあった。

 末席という自称は、異姓かつ晋に帰化して三代しか経っていないからである。欒成は頷き、言葉を促した。

「曲沃の勢い、秋で終わるとも限りませぬ。我らしん軍全てで応じても、追い払うことは難しいでしょう。かくに頼ることを進言いたします。虢はしゅう王さまの衛士えじの国、我らは周王さまの叔父の国です。先代も虢に助けてもらいました。周王さまに願い出て、虢にお越しいただくのが、理に適うことでしょう」

 政堂に動揺が走った。それは、思いも寄らなかったことを言われた困惑ではなく、誰も言い出せなかったことを、という驚愕であった。

 欒成も、最も有用であると思ったが、言い出せずにいた。その理由は光の顔を見れば一目瞭然である。
 光は、悔しさを滲ませ、隰叔を睨み付けていた。

 隰叔は欒成に進言したのであり、光に正式には問うていないこととなっている。が、目の前で繰り広げられたのである、当然ながらしっかり耳に届いていた。

「これは、我が晋の内側のこと……。虢に頭を下げて、たかが分家を追い払ってくださいと、私はせねばならぬのか!」

 甲高い声が広くもない政堂に響き渡った。光は、怒りを散らすように、床に拳を叩きつけた。自然、下を向き背を丸めることとなる。まるで、大人たちを拒絶しているかのような姿であった。

「我が祖である文侯ぶんこうは虢と敵対し、一歩もお引きにならず、それどころか優位に立っておられた。時の周王さまも力添えした文侯をよみし、祀りと軍事の賜り物をくださった。栄えある我が晋が、虢に借りを作らねばならぬのか、また、作る、のか」

 史書によると、虢が曲沃を伐ったその年に、従軍した光の父は国に戻れないまま、消息を立っている。翼はこの先君をあきらめ、若すぎる光を君主とした。おそらく帰ることもないまま、若くして死んでしまったのであろう。

 先代、先々代が殺され、翼に削られ続け、とうとう虢に対応を頼んだ末である。心労がたたったゆえの、客死ではないか。

 光も、父にとって虢の力を借りることが、屈辱であり恥辱であったのだと思っている。父は文侯の直系として、口惜しく申し訳なかったのであろう。

 欒成は、光の悔しさと、少年らしい潔癖に優しく声をかけたくなった。君公のおっしゃるとおりです、我が翼は本家の矜持と共に曲沃をうち払いましょう、と言いたかった。が、臣としても、そして光の師としても、現実から目を背けるわけにはいかぬ。

「率爾ながら申し上げます、我が君。隰叔のお言葉を漏れ聞いた様子、改めての言上せず、私見を述べさせていただきます。隰叔の申し上げること、理がございます。虢は周王さまが認める衛士、虢公は代々要職についておられる。我が晋の乱をおさめるに相応しい方です。また、虢は我らと同じく周室からわかれた姫姓きせいの国です。甥が苦難に陥っているのを見捨てる伯父などおりますまい」

「文侯は伯父と戦った、と申すか」

 欒成の言葉に光が低く唸るように言った。例え言葉にへりくつで返すようなものであったが、彼なりの抵抗であろうし、そもそも腹に収められるような話ではない。

 光にとって文侯そのものが存在証明のようなものであり、いっそ神聖である。己の祖だから、というわけではない。瀕死の翼を背負って光は立っている。

 晋の源流は周室から分かれた王弟であるが、翼の源流は文侯である。その事績に傷をつけるような言動は、たとえ師であり宿将である欒成でも、許しがたい。その忿懣ふんまんを感じながら、欒成はさらに言上する。

「文侯と時の虢公には、行き違いもあったのです。しかし、それも虢公があやまちを認め、文侯も周王さまの元、水に流された」

 正確には、周室の跡目争いで虢と晋が争い、晋の支援する王が立ったのである。虢は晋に屈し、新たな周王に服した。その虢が翼のために曲沃をうち払うわけであるから、皮肉でもある。むろん、対価も生じる。翼の疲弊は虢への進物の負担があった。

 光が意地で虢に縋りたくない、と思っていたと同時に、みな財政への負担から頼りたくないと思っている。隰叔もそんなことはわかっていたが、今をしのげなければ先は無い。

 先のやりくりは後で考えるしかないほど、翼は追い込まれている。

 欒成は己が決断すべきかと迷った。光が成人する前は、責を課すわけにはいかぬと欒成が決めたことを奏上していた。が、光が成人した以上、欒成が決めるのは僭越である。文侯直系晋公こそが唯一決定権を持っている。それを揺るがせば、曲沃のありかたを認めるようなものであった。

 欒成は静かに息を吸って吐いた。己が教導した君主である。潰れそうな責の中で立とうとしている君主でもある。近臣の己が信じなければどうするのか。深い瞳を光に向けて、言葉をじっと待つ。隰叔含め、臣たちは欒成の言葉を待っていたが、欒成だけは光の声を信じていた。

 は、と光が強く息を吐き出した。

「……そなたらの言うこと最も。周王さまに願い出て、虢公にご足労願おう」

 数え十二才の、声変わりもしていない少年が、ぽつぽつと呟いた後、火がついたように泣いた。彼は悲しみを抑制できるほど、成熟していない。その少年を慰めることもできず、大人たちは静かに拝礼した。

 光は正しいからこの結論を選んだわけではない。欒成以下、大人たちの言葉に従っただけである。それを、政堂にいるものみな、わかっていた。

 泣いた子供であるが、それでも幼児ではない。我に返りながら泣き止んでいく。そうなれば、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。すかさず欒成は傍に近寄り、拝礼した。

「我が君は立派な決断をいたしました。屈辱の英断です、口惜しさが出ても羞じることはございません。臣として誇りでございます」

 欒成の本気の声に、光が照れくさそうに小さく笑った。
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