父の仇に許された

はに丸

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第三部

隣人の佇まい

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 さて、いくつかの粗描そびょうをしたいと思う。
 まず、士会しかいの妻子や魏寿余ぎじゅよの妻子についてである。士会の妻子はしんが責任をもって晋へ送り届けたことが、史書に描写されている。その際、一部の氏が秦への残留を望み、帰化してりゅう氏となっている。
 魏寿余の妻子についてであるが、史書に言及はない。が、当然のことは記録せず、凶事を残すことが多いため、帰国したとは思われる。秦公しんこうおうにとっては、はらわた煮えかえることであったろう。魏寿余の妻子に八つ当たりをしたいと思ったに違いない。が、そこは繞朝じょうちょうが止めた。彼は秦ではかなり教養がある知恵者だったようで、このような時に中原の作法をさとしたであろう。妻子に責はなく、送り返すべきであると。そうして、士氏と共に氏も帰国したのではないであろうか。そうなれば、繞朝がその後、処刑される説得力も強くなる。
 ただ、史書には記載が無いため、魏寿余の妻子は殺された可能性も、もちろんある。魏寿余も己を含め命を賭けた策ということはわかっていたであろう。では、妻子が戻ってこなかったとき、策を命じた郤缺げきけつと家族を失った魏寿余はどうするのか、である。
 想像するに、郤缺は心底詫び、魏寿余の心に寄り添い労るであろう。魏寿余も妻子の命を儚み悲しみ哭くに違いない。そうして、郤缺は魏寿余の格に会わせた妻妾を用立て、魏寿余も受けて終わる。現代人から見て想像を絶するこの感覚は、当時の絶対的な家父長制がわからないと理解に苦しむ。娘は親の所有物であり、嫁いでも夫よりは親を優先する。その上で妻や妾は夫の付随物である。子は親を生まぬが親は子を生むため、子は親の犠牲になるのが当然である。日本の家父長制度から見てもいっそ嘔吐感さえ覚える激しさであった。郤缺も魏寿余も家族を愛しており、妻子を大切にしているであろうが、この絶対的価値観は変わらない。この価値観をもって、郤缺や魏寿余を人でなしと言い切ることはできまい。
 ともあれ、郤缺の計略により士会は戻った。魏寿余の家族がどうなったのかは、読者のお好みでよいかと思う。
 士会が戻れば胥甲しょこう夷皋いこうの傍に仕えることとなった。趙盾ちょうとんにいいなりのにくわえ、儀にうるさい男が増えたのである。夷皋の精神はさらにすり切れそうであった。傅の教えを聞きながら
「おそれいります、我が君。姿勢が乱れております」
 などと胥甲にちゃちゃを入れられる。確かに君主こそが儀礼正しくみなの上に立つべきであり、他国もそうしているであろう。が、十三才の少年にとっては苦しいだけであった。この苦痛から解放されれば、趙盾が
 本日の議です
 と、朝政の内容を告げに来る。その長い時間、夷皋はかしこまって聞かねばならぬ。ぬかずきながら、延々と細かく語られるそれは、夷皋にとって価値は無い。全て趙盾が差配し決定しているのである。夷皋は頷くだけであり、疑問を呈することもできぬ。何より、いくら知識を詰め込まれても、政治の機微などわからぬ。よって、わからぬ演説を淡々と聞かされているようなものであった。
 趙盾から解放されても、夷皋は何をしてよいかわからない。弟はとっくに他国へ出されており、遊び相手などおらぬ。当時は娯楽の書はなく、物語は劇である。が、趙盾がそのような道化を許すわけがなく、夷皋の日常は無味乾燥であった。これは、趙盾が夷皋を虐待しているわけではなく、この宰相は暇つぶしの娯楽ということがわからないのである。趙盾は全ての時間を研鑽に使った、ある意味気がおかしい少年であった。ゆえに、夷皋の虚しさはわからぬ。彼から見れば、夷皋は最上の環境にいるのであろう。
 母の穆嬴は、趙盾の言うことを聞いて立派な君主になりなさい、と言うだけである。幼児のように甘えれば受け入れてくれるが、非生産的であり、最後に
 あの人の言うことを聞かねば追い出される、殺されてしまうかもしれない
 などと付け加えるため、やはり夷皋の心は削がれていく。
 その日、夷皋は宮城の外壁の上を歩いていた。宮城は最後の砦でもあり、外壁は兵が弓を射られるよう、道幅がある。万里の長城などを考えれば良い。ただ、当時は石造りではなく土作りである可能性はあった。そのような道を夷皋は俯き、落ちている石を数えながら歩いていた。そのうち、石を蹴り、他の石に当たる遊びを始める。そのうち、石と石が当たることに嬉しくなってきた。子供がなんとなくしてしまう遊びでよくあることであろう。
 ふと、宮城の外を見た。ほど近い場所に、人が歩いていた。馬車もある。夷皋はなんとなしに石を拾い、投げつけると、偶然、一人の男に当たった。誰かは知らぬそのものは、どこから飛んで来たのかといぶかしみ、周囲を見渡し、当たった肩を労るように撫でていた。
 その時、夷皋に去来した感動を、人は責められぬ。彼は生まれて、己で成した達成感に打ち震えていた。自分は、人に対して何かしらの影響力があるのだと、胸が熱くなる。常に圧迫され削られていた夷皋にも、人に痛みをあたえることができたのである。それは身を隠すような場所で、石を投げて当てる、という極めて卑怯な行いであるのだが、夷皋にはどうでもよかった。
 数え十四才の少年は、人に石つぶてを当てることが趣味になってしまった。当初はこそこそ隠れて行っていたこの馬鹿馬鹿しくも危険ないたずらは、どんどん大胆になり、堂々と石を投げるまでにいたる。彼は見つかれば怒られる、ということさえ忘れ――もしくはその恐怖さえ興奮し――人を狙い石をぶつけた。
 むろん、見つかった。目立つ行動であるため、当然であろう。
 朝政ちょうせいのあと、宮城を散歩していた欒盾らんとんが偶然見かけてしまったのである。欒盾は、良き家庭人の面を持っている。当然、
「おそれいります、我が君。お声かけお許しを。民は宝、国の礎、君公くんこうの鏡です。それに石を投げるはおよそ君子くんしの行うことではございません。いずれ己に返ってまいります。おやめください」
 と柔らかくさとした。
らん家には関係ない」
 夷皋はそっぽを向いて悪態をついた。彼は、欒盾の名を呼ばなかった。夷皋にとってとんは趙盾のみである。欒盾をどう呼んでよいかわからず、家で呼んだ。欒盾は気を悪くした様子もなく、
「申し訳ございません、お言葉がすぎました」
 と、あっさり退いた。欒盾は何度も言うが家庭人として優秀であり、己の息子が同じことをしていれば怒鳴りつけ折檻をしていたであろう。おおよそ大夫たいふのすることではない、と。他家の子供がしていても、きつく忠告し、やめさせようとしたであろうし、すぐさま父親のところにひったてたに違いない。子が間違えていれば躾をする、という意味では誠実な大人である。
 が、夷皋にはしなかった。欒盾は政治的な才能を欒枝らんしから受け継ぐことはできなかったが、心得は受け継いでいた。二心なく貞節をもって仕えよ、貞節は欒家の誇りである。そして、晋公に心許すな、欒家の敵である、という毒も身に溶かしていた。ゆえに、義務として夷皋を諫め、権利として放置した。彼は悪意なく夷皋を見捨てたのである。ただ、欒盾は本当に誠実な男であるため、趙盾に全て伝えた。もちろん、趙盾は長々と夷皋を諫め、説教をしたあと、
「私が不徳ゆえ、君公を惑わせたこと、申し開きもございません。ご容赦を。我が君は徳深い君主になられるのです。ご研鑽を」
 と、死体蹴りをくらわせた。夷皋はひきつった笑みをうかべ、許す、と言うしかなかった。
 夷皋のいたずらを聞いた胥甲も、説教をした。が、夷皋の暗い顔に憐れみを感じ、励ましたくなった。このあたり、理屈屋であっても胥臣しょしんの子である。趙盾に比べ、よほど人の機微がわかる。それは俗っぽさでもあるが、人間は少々俗っ気があったほうが、社会的に生きていけるものである。
「……我が君。もし、息を抜きたいのであれば、ともだちがよろしいでしょう。私が連れて参ります」
 そう言って、胥甲が翌日に連れてきたのは子犬であった。夷皋はもちろん、間近で犬を見たことはない。彼は、この愛らしく忠実な生き物に夢中になった。
 夷皋の初めてのともだちは犬となった。彼は、大型犬を飼っていたことが史書に記されている。この子犬であるかは定かではない。
 そのような、小さな出来事はありつつ、士会が夏に戻りそろそろ秋にさしかかっていた。士会は前述したが理解に苦しむほど切りかえの早い男である。下軍の佐に任じられ、朝政につくと今までずっといたかのように、発言をする。趙盾はそのような士会を極めて便利であると評しており、郤缺はその部分も含めて士会の天才性を認めている。荀林父じゅんりんぽが戸惑ったのは最初だけであり、文公の御者であったときに士会の異常性を目の当たりにしていたため、すぐに馴染んだ。
 未だ困惑しているのは欒盾である。彼は士会が鞍替えしたことに惑っているわけではない。欒盾はいたって普通人であり、士会に怯えているのである。その士会を受け入れているけいを見て、途方にくれながら、己は政治がわからぬためだ、と見当違いの自己嫌悪に陥っていた。自然、発言も減り、気もそぞろとなっていく。
 趙盾は欒盾が無能であり数合わせと割り切っているため、発言や態度含め、全く気にしない。郤缺も政治が滞りないのであれば、政治的無能者に期待しない男である。欒枝への拘りを差し引けば、じょう公への渇いた感情に近い。欒盾が声をかければ優しく相談に乗るが、わざわざ手を伸ばさぬ。士会は適所におらぬ欒盾を少々哀れんでいたが、家名の義務であろうとも思っていた。荀林父のみが欒盾を気にしていた。荀林父も政治的な人間ではあるが、和の人間でもあり、常識的な気遣いの男である。些細なことで人間関係が壊れ、政治が乱れるよりは、円満なほうがよい、という考えの持ち主でもあった。
 雨期独特の湿気が薄まっていたある日、郤缺は荀林父に相談を受けた。邸に通せば、おずおずと話しだす。一言でまとめれば以下である。
「秋に六卿で、狩りに行くのはいかがでしょうか」
 驚くほど、しょうもない相談であり、郤缺は呆れた。が、そのような顔を見せず、笑みを浮かべながら、それはいかがでしょうか、と婉曲に否定する。荀林父は郤缺の拒絶を感じたが、萎縮せず再び口を開いた。
「我らは東国にて歓待を受けることもございます。その歓待に狩りがあること、そうに狩りのもてなしを命じたことでもおわかりかと思います。しかし、そのような場で、作法を間違えおろそかにし、覇者と言っても礼を知らぬひなの国と噂されれば、軽重が問われます。ゆえ、みなで狩りをし、儀礼を改めて確かめてはいかがでしょう。それに、その、欒伯らんぱくが朝政の空気についていけず、議に関しても鈍いのです。あの方は確かにまつりごとが不得手なれど、我らの気づかぬことを口にすることがございます。……民や一大夫の意見を垣間見ることもございます。そのお悩みを、政堂で伺うのは難しいでしょう。しかし、わたくしごとの場所なら、お話を伺うことができるのではないでしょうか」
 建前だけを言うなら、郤缺は荀林父を追い出していたであろう。が、建前と本音をきっちり言う男である。建前の、狩りの儀礼を確認する、ということは悪くはないが、弱い。しかし、本音はどうでもいい話だが、強い。郤缺は笑みを浮かべながら考えた。欒盾が周囲に鬱憤を振りまく人間だとは思えず放置しているが、人はどう変わるかわからぬ。暗さを汲みとり、手に乗せ転がすほうが良いであろうか。しかし、そこまでせねばならぬほどの男か、と迷った。――別に欒枝の子であるために冷たいわけではない、と余計な言い訳まで考えた。
「さて……。東国の方々に恥ずかしい姿を見せぬよう、というのはわかります。欒伯がお元気でないため、お力になるのも、良きことです。しかし、趙孟ちょうもうが許さぬでしょう。あの方は儀礼を完璧に心得ているかた、狩りの儀礼を確かめるなど些事と思われましょう。そして欒伯のお悩みは余事と思われる。全てがまつりごと、晋のためだけに生きてらっしゃる。無駄がお嫌いです」
 郤缺は、己の考えをひっこめ、趙盾の答えを用意した。おおむね間違っていない。趙盾は六卿全てが己と同じく一日中、いや年中、晋のためだけに生きていると思い込んでいる。思い込んでいるという言葉が幼ければ、当然であると思っている、としようか。荀林父が、そうですね、と頷いたあと、秘策があります、と強く言った。荀林父のめざとさを評価している郤缺は興味が出て、促した。
「東側で、狩りをするのです」
 荀林父が示したのは、ていに極めて近く、えいにもほど近い場所であった。当時の狩りは個人一人が赴くものではなく、手勢を率いて楽しむ娯楽である。それを晋の大臣たちが行えば、なかなかに騒々しいであろう。鄭は今、晋を捨て楚についた。衛もふらついている可能性がある。軍事行動ではないが、それに近い恫喝である。荀林父が郤缺に話を持ってきたのは、郤缺が相談しやすい人間である、というのが第一義であろうが、外交担当である、というところも大きかった。
 郤缺としても、鄭に関して動きたいところであった。が、あまりつついて楚が暴れだしても困る。楚王商臣しょうしんが倒れているとしても、大臣どもは動けぬわけでもない。しかし、六卿――臾駢ゆべんは格の上で来ぬであろうから正確にいえば五卿である――が、個人的に鄭の近くで狩猟を楽しむぶんには、わたくしごとである。鄭がどう思うかは知ったことではないが、圧力にはなる。郤缺は頷き口を開く。
「それはなかなかに良い場所です。正卿に議を出し、お話を通しておきましょう」
 荀林父が嬉しそうに笑った。このリスは善意を通すために能を発揮する。彼は一生懸命考えたのであろう。そして郤缺は議に上げる、ではなく通すと言った。郤缺は趙盾の思考をある程度把握している。彼は無駄を嫌うが、必要なことであれば取る男である。鄭の帰趨きすうは晋にとって極めて重要であり、つまりは趙盾にとっても重要事項である。
「秋は狩りをするに最後の季節。山々も美しく彩っている。楽しみですな」
 郤缺はにこりと微笑んだ。
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