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第二部
策謀の季節
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「父上、お喜びください。冀邑が我らの手に戻りました」
郤缺は、目の前に座する父、郤芮に言った。これは、夢であると分かっている己と、父と対座する己の意識は混ざっており、分かれている。
「戦場では良い働きだったと聞く。わしは汝が息子なのが誇らしい」
少々獰猛な笑顔は、祖父も父も同じであり、きっと己も同じ笑みを浮かべるであろう。郤氏という一族は、戦いにこそ花咲く血を持っている。
「そういえば、史官が戻ったと聞いたぞ、郤主」
夢であると断じてる己は驚き、対峙している自分は笑顔で返す。
「ええ、欒伯。史官は周王都にて、郤氏の情報をさぐっていたそうです。王都に全ての情報は入りますから。ただ、私が卿になってから周王さまに奏上となりましたので、ようやく知れたと。郤氏のもの二十名と共に戻って参りました」
それはめでたい、と欒枝が笑う。二十名の人間が戻るのではなく、二十の家が戻ってくる。それぞれ付随するものを考えれば、二百名ほどの入植となる。――かつてあった会話を己は夢でくり返している。
「しばらく冀邑は君公預かりの土地、民と税を取り立てるものたちの間はしっくり来ておりませんでした。これからは、少々風とおしが良くなるでしょう」
「わざわざ調べたのか」
多くの所領を持つ欒枝はいちいち邑の詳細まで調べない。優秀な邑宰を派遣し、効率よく治めている。郤缺はそれを察して、うっそりとした笑みを返した。この時、己は少々嗜虐的な気持ちになったのであろう。
「調べておりませぬ。私の体験です。私は数年、あの地で民と同じくらしをしておりました。いつだったか。平伏している私の態度が気に食わぬと引きずり出され、意味もなく何度も殴られ蹴られ、最後に小便をかけられた次第」
さらりと言う郤缺に欒枝がこわばった顔を見せた。彼は戦場も知っており、粛正による処刑も見ているが、一見意味のない不毛で下品な暴力など知らないのだ。ここで、『小便をかけられたのではく、口にぶちこまれました』と言えば、この名門貴族は叫びだすに違いない。ゆえに、比較的穏便な表現をしている。
「わ、我が邑も調べた方が……」
蒼白になり震える声で声を絞り出す欒枝に、郤缺は柔らかい笑い声と共に口を開く。
「無駄ですよ。調べても出てきやしませんし、きっと我が邑を管理する下役のものの、似たようなことをはじめます。これは、儀式です。まあ、私が受けたものは少しやりすぎだと思いますので、締めますが」
「儀式?」
嫌悪感をあらわにする欒枝は本当にわかっていないようであった。
「民を考えさせないようにする、取り立てる下役は目の前の民を同じ人だと思わぬようにする、儀式です。これ以上、欒伯は考えないように。まあ、目に余る酷吏がいないか程度は時々確かめるのは良いでしょう、民が逃げ出すこともありますから」
農民に身をついやし、想像を超える屈辱を味わった郤缺に民たちは優しく声はかけてくれた。喉に指をつっこんで、げえげえと嘔吐する男を優しく撫で
『よくあることだ、運が悪かったね』
と、同病相憐れむ顔で慰めてきた。郤缺は、目の前の民がおぞましい生き物に見え、悲鳴をあげそうになるのを堪えた。このようなことを、その言葉で受け入れてしまえる精神が汚い、と生理的嫌悪で鳥肌が立つ。今で言う差別意識であるのだが、このあたり郤缺は貴族であり選民思想であった。
このような思考停止した民と距離を置くために下役は虐待をしているのだと気づいた。もし、心砕きあわれみを持てば、彼らから税を搾り取ることなどできなくなる。
ここまでを欒枝に伝えるほど郤缺は悪趣味ではない。
「史官の話でしたのに、妙な流れになりましたな」
ぎこちない空気を払拭するように明るく言えば、欒枝がほっとした顔を見せた。その顔が妙にかわいいと思い、己は手を伸ばし、頬を触る。欒枝がその手の平にまかせるように顔を沿わせ、優しく笑んだ。そうして、己は、この郤缺は。
「……酷い夢だ」
真夜中に飛び起き、息を吐く。隣で寝ていた妾がぱちりと起き、どうなさいましたか、と細い声で尋ねてきた。新しい妾で、嫁というよりは娘に近い年である。正直そそるものではないが、男の生理はきちんと機能するものだった。
「いや、なんでもない。お前は寝てなさい」
若い妾は頷くと、寝入ってしまった。慣れぬ新しい家で疲れているのであろう。郤缺は眉と眉の間を指で押さえ、ため息をつく。欒枝が死してもう一ヵ月経とうとしている。そろそろ年を越す。ようやく心が落ち着いてきたと思った矢先に、酷い夢であった。郤芮に報告するという、浅ましい甘えと、それが欒枝にすりかわり、やはり浅ましく試し甘える日々である。よくよく考えれば、郤缺本人の視界ではなく俯瞰の目線であるため、記憶はすでに歪んでいるのであるが、この男は己の愚かさに歯がみし、気づいていない。
「……まったく。影を足踏みしてても仕方があるまい。今は正念場だ」
息を吐いて郤缺は己を叱咤する。過去に学ぶは前に進むことに繋がるが、過去を追いかけるのは停滞に身を委ねることである。それは死ぬ直前にすることで、今ではない。
郤缺はそのまま起き上がり、室を出た。外を見れば、まだ暗い。が、月の位置を見るに夜明けが近いようであった。どうせすぐ参内の準備をするのである。寝る必要はあるまい。そろそろ家宰も起きてくるころであった。
もうすぐ春、つまり翌年を控えたこの時、四人の卿がいなくなった穴をめぐって、水面下で争いがあった。まず、驩が惑っていたことが大きい。が、それは仕方がない。今まで驩を補っていた、経験のある四人が一気に死んだのである。彼らは文公の遺産でもあった。それに比べ、己の手駒はどこか浅い。ゆえに、誰をいれ、どのような席次にするか、大いに迷う。また、誰に相談すべきかもわからず頭をかかえた。これは驩を責められぬ。きっとどの時代の、どの国の君主も頭を抱えるであろう。いまだ官僚制度もなく、諮問機関もない。そのような、未熟な君主制の時代なのだ。
そのような驩へ最初に助言したのは先氏の傍系、先都であった。この男が先氏の中でどのような位置であったのか、史書ではわからない。先都は
「亡き先主の嗣子は成人したて、まだお若くまつりごとをこれから学ぶ身です。先氏の名代として私がしばらく席を預かり、箕子と共に我が君や正卿をお支えしたい所存です。また、中軍の将である正卿ですが、司空である士伯こそ相応しいと申し上げます。晋の根本を見直し、法を整える時。かの大司空の孫である士伯は法を良く知り広くものごとを見ております。その佐は司空を支えていたものがおりますのでそれを当てるのがよろしいでしょう」
と、奏上した。驩は、戸惑った。箕鄭以外の三名は今まで卿をしていない。それを一気に上席にするのはためらわれる。が、確かに恵公以降、法は整えておらず、税の取り立ても滞っている。元々、現行の法は士氏が作ったものであり、士縠が改めて差配するのは自然に感じられた。
「それでは、そのようにいたそう」
驩の悪い癖が出た。熟考せず、独断で即決である。驩は武に優れていたようで、その活躍は史書に記されている。が、政治的な判断は苦手な君主だったらしい。先の文嬴の命乞いに頷き、捕らえた秦将を解き放ったことも、この人事も、
それが正しいのか
とよく考えずに頷いてしまうところがあった。
ただ、この人事は流れた。同じ日に、先且居の息子である先克が、殯を終え跡を継いだと挨拶に来たのである。驩は先都が先克の後見人になっていると思い込んでいた。
「都が亡き且居の名代になったと聞いている。上軍の佐となる。克も励むがいい」
と、言祝ぎと共に伝えると、先克が狼狽し、それは聞いておりません、と叫んだ。さて、先克と先都の関係はどうであったのか。史書ではうかがい知れぬが、傍系の先都は先且居の弟だったのではないだろうか。であれば、先克を差し置いて上席を願いでるのは自然であったろう。趙衰のように傍系の己が力を持つよう画策していたのやも知れぬ。ここでは先都を先且居の弟、すなわち叔として話を進めよう。
もちろん、先克は寝耳に水であった。驩はぽかんとして先克を見た。先氏の中で決まったことがらではなかったのか。
「どういうことだ」
と尋ね、先都の構想をべらべらと全て話した。先克は若年でありながら、静かに全て拝聴し、如何? と驩が話を締めて、ようやく口を開いた。
「狐氏、趙氏の先君に対する勲功をお忘れになってはいけませぬ。狐氏の主は今、我が君の車右で勇士、趙氏の主は名代ですが中軍の佐である次卿をされております。私は若輩ものですが、あえて申し上げます。この順を無視してまつりごとをするは上が軽く下が重くなり覇者として侮られる。中軍の将は狐氏、佐は趙氏、上軍の将は繰り上げで箕子がよろしいのではないでしょうか」
驩はなるほど、と頷いた。狐氏の主は狐偃の子、狐射姑である。この男は驩の車右であり、戦場において守り続け、時には戦術的な助言もする立場であった。狐氏の長らしく勇猛であり、年も先且居や郤缺に近かったと思われる。趙氏の長はもちろん趙衰の息子の趙盾である。この一年、趙衰の名代として代理の卿になり、様々な進言をしてきたこの嗣子は、言葉ひとつひとつが理に適っており、頼もしいほどであった。そうなると、先都の提示した人事は何やら弱々しい。
先克は先且居よりは先軫に似た男であったらしい。さらに攻めた。
「我が叔父、先叔は狄に対する備えの軍でございました。同じく狄に対する備えに荀伯、そして我が一族末席の先子がおります。覇者として東国のお世話をしなければなりませぬが、狄が我が国を食い荒らすことも重要事。この三人が下席になれば、上は外に睨みをきかし、下は内に睨みをきかせることができると、言上つかまつります」
目の上のたんこぶである先都をきっちりと卿にいれ、さらに己の一族傍系の男、先蔑をねじ込んだのである。荀伯というのは荀林父という男で、かつて文公の御者をつとめ、その後は狄への備えを任じられていた。先克としては、先氏だけを推挙するわけにはいかぬ、ということもあり、いわばおまけである。ついでに荀氏に恩を売れば一石二鳥ていどの目論見であった。先都を先蔑に見張らせつつ、狐氏、趙氏、荀氏へ恩を売ることができる。先克は頭の回転がはやいと言ってよい。
「林父の話は父から聞いておる。真面目で実直な男であるらしいな。それではそのようにいたそう」
朝に決めたことを昼に変えてしまうわけであるから、驩は確かに補佐が必要な君主であった。この人事に郤缺の名は一切入っていない。先克は郤缺を過去のものと見なしており、驩は郤缺に軍を渡すなという先達の言葉を愚直に守っている。
先都、士縠、箕鄭一同は己らの思惑が通ったと祝杯をあげ、先克は情報を伏すよう驩に念を押した。下手に開示すれば、また先都がすっとんでくる。そうして、泥沼になりかねなかった。
「私は卿になれるやもしれぬ」
士縠が士会に機嫌良く言った。春に向けての各邑の差配も兼ねて士会は本家に挨拶に来ていた。
「それは、めでたいことです。君公からお声かけいただいたのですね」
ウキウキとした士縠の言葉に士会も嬉しくなり、華やいだ声音で問うた。士縠が、いや、と首を振る。
「お声かけはこれからだ。だが、我らはそのように奏上している。これから忙しくなるぞ、会」
士会は、ただ頷き、拝礼した。これが兄ではなく他者であれば
「一度、きちんと確かめたほうがよい。物事は最後まで見届けなければ断言できぬ」
と助言したであろう。が、家長である兄にそれを言うのは憚られた。士会は我ながら身内に甘いと自嘲する。既に子は二人目であったが、一人目は生まれてすぐ死んだ。妻の嘆きを慰めながら、我が子をかまいすぎたのか、それとも放りだしすぎたのか、己でもわからない。兄に対しても妻に対しても、子に対しても、甘くしてしまう。そうでないと、全てを平坦に、物のように見る自分が浮き上がってくるからだ。まるで碁石を並べるように整頓し、効率よく差配する。適材を適所に置き、気持ち良く動いてもらうよう並べる。そうなれば『美しい』やもしれぬが、兄も妻も、そして友も、ただの物体に見えてしまうであろう。
ゆえに、士会は兄に、それはまやかしだ、とは言えなかった。もっと言えば、兄だからこそ、兄にだけ、言えず、常に黙って従った。
士会は、そのような弟を士縠がひそかに怖れていることに気づいていない。否、気づかないよう努めていると言うべきか。自分が恐ろしいほどの天才であることを、この男はわかっていなかった。そこに、この兄弟の不幸があった。
年明けの、春に向けて政堂は静かに準備を行っている。いまだ人事がわからぬまま、郤缺はきなくさい、と見ていた。箕鄭の空気が軽々しい。いまだ政道さだまらぬ中で、妙に浮かれている。
趙盾は相変わらずである。己が仮の次卿と自覚し、箕鄭や郤缺に準ずると口では言う。しかし、議になるとその鋭い思考を垂れ流し、驩は頷き、箕鄭は苦い顔をした。箕鄭にとって、齢三十を超えたばかりの若造が、調子に乗っているように見えるらしい。
「……君公は、腹を決めているのか、決めていないのか」
朝政が終わり、帰路につきながら郤缺はそっと呟いた。趙盾がいくら譲る姿勢を見せても、己は末席である。驩に問われないかぎり、
――春の揃いはどうされるので?
とは聞けなかった。
「やっかいなことだ」
いかに欒枝が郤缺の手足を支えてくれていたのか、今さらながら実感した。もうすぐ、年が明け、春になる。
郤缺は、目の前に座する父、郤芮に言った。これは、夢であると分かっている己と、父と対座する己の意識は混ざっており、分かれている。
「戦場では良い働きだったと聞く。わしは汝が息子なのが誇らしい」
少々獰猛な笑顔は、祖父も父も同じであり、きっと己も同じ笑みを浮かべるであろう。郤氏という一族は、戦いにこそ花咲く血を持っている。
「そういえば、史官が戻ったと聞いたぞ、郤主」
夢であると断じてる己は驚き、対峙している自分は笑顔で返す。
「ええ、欒伯。史官は周王都にて、郤氏の情報をさぐっていたそうです。王都に全ての情報は入りますから。ただ、私が卿になってから周王さまに奏上となりましたので、ようやく知れたと。郤氏のもの二十名と共に戻って参りました」
それはめでたい、と欒枝が笑う。二十名の人間が戻るのではなく、二十の家が戻ってくる。それぞれ付随するものを考えれば、二百名ほどの入植となる。――かつてあった会話を己は夢でくり返している。
「しばらく冀邑は君公預かりの土地、民と税を取り立てるものたちの間はしっくり来ておりませんでした。これからは、少々風とおしが良くなるでしょう」
「わざわざ調べたのか」
多くの所領を持つ欒枝はいちいち邑の詳細まで調べない。優秀な邑宰を派遣し、効率よく治めている。郤缺はそれを察して、うっそりとした笑みを返した。この時、己は少々嗜虐的な気持ちになったのであろう。
「調べておりませぬ。私の体験です。私は数年、あの地で民と同じくらしをしておりました。いつだったか。平伏している私の態度が気に食わぬと引きずり出され、意味もなく何度も殴られ蹴られ、最後に小便をかけられた次第」
さらりと言う郤缺に欒枝がこわばった顔を見せた。彼は戦場も知っており、粛正による処刑も見ているが、一見意味のない不毛で下品な暴力など知らないのだ。ここで、『小便をかけられたのではく、口にぶちこまれました』と言えば、この名門貴族は叫びだすに違いない。ゆえに、比較的穏便な表現をしている。
「わ、我が邑も調べた方が……」
蒼白になり震える声で声を絞り出す欒枝に、郤缺は柔らかい笑い声と共に口を開く。
「無駄ですよ。調べても出てきやしませんし、きっと我が邑を管理する下役のものの、似たようなことをはじめます。これは、儀式です。まあ、私が受けたものは少しやりすぎだと思いますので、締めますが」
「儀式?」
嫌悪感をあらわにする欒枝は本当にわかっていないようであった。
「民を考えさせないようにする、取り立てる下役は目の前の民を同じ人だと思わぬようにする、儀式です。これ以上、欒伯は考えないように。まあ、目に余る酷吏がいないか程度は時々確かめるのは良いでしょう、民が逃げ出すこともありますから」
農民に身をついやし、想像を超える屈辱を味わった郤缺に民たちは優しく声はかけてくれた。喉に指をつっこんで、げえげえと嘔吐する男を優しく撫で
『よくあることだ、運が悪かったね』
と、同病相憐れむ顔で慰めてきた。郤缺は、目の前の民がおぞましい生き物に見え、悲鳴をあげそうになるのを堪えた。このようなことを、その言葉で受け入れてしまえる精神が汚い、と生理的嫌悪で鳥肌が立つ。今で言う差別意識であるのだが、このあたり郤缺は貴族であり選民思想であった。
このような思考停止した民と距離を置くために下役は虐待をしているのだと気づいた。もし、心砕きあわれみを持てば、彼らから税を搾り取ることなどできなくなる。
ここまでを欒枝に伝えるほど郤缺は悪趣味ではない。
「史官の話でしたのに、妙な流れになりましたな」
ぎこちない空気を払拭するように明るく言えば、欒枝がほっとした顔を見せた。その顔が妙にかわいいと思い、己は手を伸ばし、頬を触る。欒枝がその手の平にまかせるように顔を沿わせ、優しく笑んだ。そうして、己は、この郤缺は。
「……酷い夢だ」
真夜中に飛び起き、息を吐く。隣で寝ていた妾がぱちりと起き、どうなさいましたか、と細い声で尋ねてきた。新しい妾で、嫁というよりは娘に近い年である。正直そそるものではないが、男の生理はきちんと機能するものだった。
「いや、なんでもない。お前は寝てなさい」
若い妾は頷くと、寝入ってしまった。慣れぬ新しい家で疲れているのであろう。郤缺は眉と眉の間を指で押さえ、ため息をつく。欒枝が死してもう一ヵ月経とうとしている。そろそろ年を越す。ようやく心が落ち着いてきたと思った矢先に、酷い夢であった。郤芮に報告するという、浅ましい甘えと、それが欒枝にすりかわり、やはり浅ましく試し甘える日々である。よくよく考えれば、郤缺本人の視界ではなく俯瞰の目線であるため、記憶はすでに歪んでいるのであるが、この男は己の愚かさに歯がみし、気づいていない。
「……まったく。影を足踏みしてても仕方があるまい。今は正念場だ」
息を吐いて郤缺は己を叱咤する。過去に学ぶは前に進むことに繋がるが、過去を追いかけるのは停滞に身を委ねることである。それは死ぬ直前にすることで、今ではない。
郤缺はそのまま起き上がり、室を出た。外を見れば、まだ暗い。が、月の位置を見るに夜明けが近いようであった。どうせすぐ参内の準備をするのである。寝る必要はあるまい。そろそろ家宰も起きてくるころであった。
もうすぐ春、つまり翌年を控えたこの時、四人の卿がいなくなった穴をめぐって、水面下で争いがあった。まず、驩が惑っていたことが大きい。が、それは仕方がない。今まで驩を補っていた、経験のある四人が一気に死んだのである。彼らは文公の遺産でもあった。それに比べ、己の手駒はどこか浅い。ゆえに、誰をいれ、どのような席次にするか、大いに迷う。また、誰に相談すべきかもわからず頭をかかえた。これは驩を責められぬ。きっとどの時代の、どの国の君主も頭を抱えるであろう。いまだ官僚制度もなく、諮問機関もない。そのような、未熟な君主制の時代なのだ。
そのような驩へ最初に助言したのは先氏の傍系、先都であった。この男が先氏の中でどのような位置であったのか、史書ではわからない。先都は
「亡き先主の嗣子は成人したて、まだお若くまつりごとをこれから学ぶ身です。先氏の名代として私がしばらく席を預かり、箕子と共に我が君や正卿をお支えしたい所存です。また、中軍の将である正卿ですが、司空である士伯こそ相応しいと申し上げます。晋の根本を見直し、法を整える時。かの大司空の孫である士伯は法を良く知り広くものごとを見ております。その佐は司空を支えていたものがおりますのでそれを当てるのがよろしいでしょう」
と、奏上した。驩は、戸惑った。箕鄭以外の三名は今まで卿をしていない。それを一気に上席にするのはためらわれる。が、確かに恵公以降、法は整えておらず、税の取り立ても滞っている。元々、現行の法は士氏が作ったものであり、士縠が改めて差配するのは自然に感じられた。
「それでは、そのようにいたそう」
驩の悪い癖が出た。熟考せず、独断で即決である。驩は武に優れていたようで、その活躍は史書に記されている。が、政治的な判断は苦手な君主だったらしい。先の文嬴の命乞いに頷き、捕らえた秦将を解き放ったことも、この人事も、
それが正しいのか
とよく考えずに頷いてしまうところがあった。
ただ、この人事は流れた。同じ日に、先且居の息子である先克が、殯を終え跡を継いだと挨拶に来たのである。驩は先都が先克の後見人になっていると思い込んでいた。
「都が亡き且居の名代になったと聞いている。上軍の佐となる。克も励むがいい」
と、言祝ぎと共に伝えると、先克が狼狽し、それは聞いておりません、と叫んだ。さて、先克と先都の関係はどうであったのか。史書ではうかがい知れぬが、傍系の先都は先且居の弟だったのではないだろうか。であれば、先克を差し置いて上席を願いでるのは自然であったろう。趙衰のように傍系の己が力を持つよう画策していたのやも知れぬ。ここでは先都を先且居の弟、すなわち叔として話を進めよう。
もちろん、先克は寝耳に水であった。驩はぽかんとして先克を見た。先氏の中で決まったことがらではなかったのか。
「どういうことだ」
と尋ね、先都の構想をべらべらと全て話した。先克は若年でありながら、静かに全て拝聴し、如何? と驩が話を締めて、ようやく口を開いた。
「狐氏、趙氏の先君に対する勲功をお忘れになってはいけませぬ。狐氏の主は今、我が君の車右で勇士、趙氏の主は名代ですが中軍の佐である次卿をされております。私は若輩ものですが、あえて申し上げます。この順を無視してまつりごとをするは上が軽く下が重くなり覇者として侮られる。中軍の将は狐氏、佐は趙氏、上軍の将は繰り上げで箕子がよろしいのではないでしょうか」
驩はなるほど、と頷いた。狐氏の主は狐偃の子、狐射姑である。この男は驩の車右であり、戦場において守り続け、時には戦術的な助言もする立場であった。狐氏の長らしく勇猛であり、年も先且居や郤缺に近かったと思われる。趙氏の長はもちろん趙衰の息子の趙盾である。この一年、趙衰の名代として代理の卿になり、様々な進言をしてきたこの嗣子は、言葉ひとつひとつが理に適っており、頼もしいほどであった。そうなると、先都の提示した人事は何やら弱々しい。
先克は先且居よりは先軫に似た男であったらしい。さらに攻めた。
「我が叔父、先叔は狄に対する備えの軍でございました。同じく狄に対する備えに荀伯、そして我が一族末席の先子がおります。覇者として東国のお世話をしなければなりませぬが、狄が我が国を食い荒らすことも重要事。この三人が下席になれば、上は外に睨みをきかし、下は内に睨みをきかせることができると、言上つかまつります」
目の上のたんこぶである先都をきっちりと卿にいれ、さらに己の一族傍系の男、先蔑をねじ込んだのである。荀伯というのは荀林父という男で、かつて文公の御者をつとめ、その後は狄への備えを任じられていた。先克としては、先氏だけを推挙するわけにはいかぬ、ということもあり、いわばおまけである。ついでに荀氏に恩を売れば一石二鳥ていどの目論見であった。先都を先蔑に見張らせつつ、狐氏、趙氏、荀氏へ恩を売ることができる。先克は頭の回転がはやいと言ってよい。
「林父の話は父から聞いておる。真面目で実直な男であるらしいな。それではそのようにいたそう」
朝に決めたことを昼に変えてしまうわけであるから、驩は確かに補佐が必要な君主であった。この人事に郤缺の名は一切入っていない。先克は郤缺を過去のものと見なしており、驩は郤缺に軍を渡すなという先達の言葉を愚直に守っている。
先都、士縠、箕鄭一同は己らの思惑が通ったと祝杯をあげ、先克は情報を伏すよう驩に念を押した。下手に開示すれば、また先都がすっとんでくる。そうして、泥沼になりかねなかった。
「私は卿になれるやもしれぬ」
士縠が士会に機嫌良く言った。春に向けての各邑の差配も兼ねて士会は本家に挨拶に来ていた。
「それは、めでたいことです。君公からお声かけいただいたのですね」
ウキウキとした士縠の言葉に士会も嬉しくなり、華やいだ声音で問うた。士縠が、いや、と首を振る。
「お声かけはこれからだ。だが、我らはそのように奏上している。これから忙しくなるぞ、会」
士会は、ただ頷き、拝礼した。これが兄ではなく他者であれば
「一度、きちんと確かめたほうがよい。物事は最後まで見届けなければ断言できぬ」
と助言したであろう。が、家長である兄にそれを言うのは憚られた。士会は我ながら身内に甘いと自嘲する。既に子は二人目であったが、一人目は生まれてすぐ死んだ。妻の嘆きを慰めながら、我が子をかまいすぎたのか、それとも放りだしすぎたのか、己でもわからない。兄に対しても妻に対しても、子に対しても、甘くしてしまう。そうでないと、全てを平坦に、物のように見る自分が浮き上がってくるからだ。まるで碁石を並べるように整頓し、効率よく差配する。適材を適所に置き、気持ち良く動いてもらうよう並べる。そうなれば『美しい』やもしれぬが、兄も妻も、そして友も、ただの物体に見えてしまうであろう。
ゆえに、士会は兄に、それはまやかしだ、とは言えなかった。もっと言えば、兄だからこそ、兄にだけ、言えず、常に黙って従った。
士会は、そのような弟を士縠がひそかに怖れていることに気づいていない。否、気づかないよう努めていると言うべきか。自分が恐ろしいほどの天才であることを、この男はわかっていなかった。そこに、この兄弟の不幸があった。
年明けの、春に向けて政堂は静かに準備を行っている。いまだ人事がわからぬまま、郤缺はきなくさい、と見ていた。箕鄭の空気が軽々しい。いまだ政道さだまらぬ中で、妙に浮かれている。
趙盾は相変わらずである。己が仮の次卿と自覚し、箕鄭や郤缺に準ずると口では言う。しかし、議になるとその鋭い思考を垂れ流し、驩は頷き、箕鄭は苦い顔をした。箕鄭にとって、齢三十を超えたばかりの若造が、調子に乗っているように見えるらしい。
「……君公は、腹を決めているのか、決めていないのか」
朝政が終わり、帰路につきながら郤缺はそっと呟いた。趙盾がいくら譲る姿勢を見せても、己は末席である。驩に問われないかぎり、
――春の揃いはどうされるので?
とは聞けなかった。
「やっかいなことだ」
いかに欒枝が郤缺の手足を支えてくれていたのか、今さらながら実感した。もうすぐ、年が明け、春になる。
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しかし、二人の前には幾多の試練が待ち受ける……。異なる人種の壁に阻まれながらも抗い続けるポカホンタスとスミスの行く末は!?
大自然の中で紡がれる伝説の物語、ここに開幕!
ポカホンタス(Pocahontas、1595年頃~1617年)は、ネイティブアメリカン・ポウハタン族の女性。英名「レベッカ・ロルフ」。本名はマトアカまたはマトワで、ポカホンタスとは、実際は彼女の戯れ好きな性格から来た「お転婆」、「甘えん坊」を意味する幼少時のあだ名だった(Wikipediaより引用)。
ジョン・スミス(John‐Smith、1580年~1631年6月21日)はイギリスの軍人、植民請負人、船乗り及び著作家である。ポウハタン族インディアンとの諍いの間に、酋長の娘であるポカホンタスと短期間だが交流があったことでも知られている(Wikipediaより引用)。
※本作では、実在の人物とは異なる設定(性格、年齢等)で物語が展開します。
暁のミッドウェー
三笠 陣
歴史・時代
一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。
真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。
一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。
そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。
ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。
日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。
その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
(※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)
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