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2章 バイト先で偶然出逢わない
2章02 4月28日 ②
しおりを挟む教室の戸を開いて現れたのは、希咲 七海だった――
「――どうしたの? 七海」
「てゆーか、早かったね。帰って来るの」
クラスメイトの日下部 真帆と、早乙女 ののかが彼女へと声をかける。
突然勢いよく開いた戸が大きな音を立てたために教室内の喧騒は一旦止んだが、しかしただそれだけのことだ。
そうして現れたのが見慣れたクラスメイトだったのだから、そのこと自体に違和感を持つ者は誰も居ない。
俺もそうだ。
それにこのシチュエーションにも珍しさはない。
朝のHR開始直前のギリギリに慌てて誰かが教室に飛び込んでくる――この2年B組に於いて、その状況は割と定番と呼べるようなものだったからだ。
「あ、ていうか、おはよう」
「ビックリして挨拶するの忘れてたんだよ。おはよー、七海ちゃん」
だから朗らかに笑みを浮かべながら日下部さんや早乙女が挨拶をし、そしてそれに続くように他のクラスメイトたちも希咲へ挨拶を投げかける。
これはよくあるシーンだと、彼女たちは憶えているからだ。
希咲からの返礼はない。
だが、正確には、“定番”と云える程にはこの現象がこれまでに起きた回数は多くない。
このクラスはまだ編成されて一ヶ月も経っていないから。
だからこれから定番になるのだろうなと思わされるものがあり、そして本当ならその通りに定番となるはずだったものだ。
だが、実際にそうなることはなく。
そして、今朝こうして現れた者も、本来キャスティングされるはずだった演者ではない。
先述の通り、現在教室に居る生徒たちは皆、クラスメイトだった水無瀬のことを忘れてしまっている。
だがこれまでに記憶した水無瀬に纏わる全ての物事までも、同様に忘れてしまっているわけでもない。
これまでにも同様の現象があったが、例えば――
俺と水無瀬の間であった会話や出来事を、俺と希咲の間で起きた出来事として思い違いし、そのまま記憶違いをするということがあった。
だからもしかしたら、彼らや彼女らは、朝のHR前に希咲 七海が慌てて登校してくる――というのを、このクラスにおける定番の光景だと思っているのかもしれない。
本当はそれをしていたのは水無瀬だ。
だが、もう誰も彼女のことを思い出せない。
代わりに今、観衆の視線を集めているのは希咲 七海だ。
本来この舞台のスポットライトを浴びるはずだった少女の、親友。
何とも皮肉なことだな。
そんな揶揄が本人に伝わると非常に面倒なことになるので、努めて表情に出さないようにする。
「またまた“てゆーか”だけど、どうしたの?」
「うんうん。帰って来るのってG.W終わった後だったよね?」
そう――
始業ギリギリに誰かが飛び込んでくることも、それが希咲 七海であることも問題ではない。
そんなことはどうでもいい。
「あはは、いきなりだったからビックリしちゃったよ」
今、野崎さんが発言した通り――
帰って来るのが突然で、そして早すぎる。
それが非常に忌々しき問題だ。
本来なら今其処に水無瀬が立っていたはずだったように、希咲もまた本来今居るべきだった場所がある。
そのはずだった。
希咲は現在幼馴染でありクラスメイトでもある紅月 聖人たちと旅行に行っている予定だったはずだ。
G.W開始前に休学し、そのままG.Wが終わるまで紅月家所有の何処かの別荘へ出かける。
学生の行動として眉を顰める部分はあるが、しかし所詮は個人の自由の範疇だ。
俺は風紀委員で生徒の生活態度を取り締まる仕事に就いてはいるが、これに関しては特別咎めるようなことにはならない。
成績や進級に支障が無ければ、他人がどうこう言う程の問題でもないだろう。
だから、それ自体は別に構わない。
問題なのは何処かへ行ったことではなく、帰って来たことだ。
それもこんなに早く。
そのことが俺にとってこの上なく不都合なことなのだ。
しかし――
だからといって、それについても本人にクレームを申し立てることは出来ない。
この4月に新学期が始まってからの短い付き合いの中で何度かそうしたように、彼女本人に対して直接文句をつけることは出来ない。
それをやったらもっと不都合なことになってしまう。
そしてそれは致命的なことになる。
希咲が今この場に居ることは大変不都合だが、しかしそれはまだ致命ではない。
俺にとって致命的なことは――
『俺が今不都合を感じている』
――それを希咲に悟られることだ。
だから、そのことはおくびにも出さず、俺も他の生徒のように彼女の早い帰還を訝しむような、そんな態度をとって黙って状況を見守る。
「もしかして何かあったの……?」
「あの……、七海ちゃん……?」
ここに至るまで、希咲は一言も口をきいていない。
勢いよく教室の戸を開いた割に、ずっと黙ったままだ。
何かを堪えるようにして。
日下部さんや早乙女が希咲の顔色を窺うようにかけた言葉にもまだ答えない。
それは何故――というのは、ようやく俯けていた目線を少しあげた、彼女の顔を視ればすぐにわかる。
答えられないのだろう。
彼女は――
希咲は、見て取れるほどに憔悴していた。
希咲はこのクラスに於いて、所謂カーストトップと謂われるような中心人物だ。
俺と一対一で話しているとキャンキャンと喧しいクソガキだという印象が勝つが、普段クラス内で過ごしている間の彼女は全体に目を配って細やかに気を利かせる――そんな印象の生徒だ。
そして俺と話しているよりも、そうして過ごしている時間の方が圧倒的に多い。
だから、希咲 七海という人物は本来そういう人物なのだ。
しかし――
今の彼女には、常にあるようなそんな余裕が全く無い。
長い睫毛は怯えるように震え、その奥の瞳は不安に揺れる。
目線も何処か置き処を探すように定まらず、いつもは彼女の存在の強さを表すように色鮮やかに輝いている虹彩はどこか弱弱しい。
クラスメイトたちの呼び掛けに答えられないのはきっと――
声が出ないのではなく、言葉が出ないのだろう。
不安に駆られ、勢いでここに飛び込んできたが、その先を考えていなかった。
そんな風にも見受けられる。
今もひとつ瞬いた睫毛の先を見つめ、俺は舌打ちが出そうになるのを堪えた。
そして、そんな希咲の様子は、俺のような人間失格が視ても様子がおかしいと気付くのなら、善良で正常であり、敏感な年頃のクラスメイトたちも容易に気が付く。
彼ら、彼女らも、俄かに顔色を変えた。
能天気に希咲に話しかけていた早乙女も、今は心配そうな顔に変わっている。
日下部さんや野崎さんも気遣わしげな顔をしており、舞鶴も怪訝そうにしている。
俺はただ、黙って視る。
そんな中で、そんなクラスメイトの誰とも絡ませることのなかった希咲の視線がある一点に向く。
それは俺の座る席――
――その左隣。
現在空席と為っている誰のモノでもない座席。
希咲はその席を見つめ、その表情の悲痛さを強めた。
俺は咄嗟に彼女と眼を合わせないようにした。
希咲が表情を歪めたのも一瞬のこと。
彼女はグッと奥歯を噛み締め、何かを堪え、それから意を決したようにもう一度顔を上げた。
そしてようやく希咲の唇が動く。
いつものような血色の良さが少し損なわれているように視えた。
「誰か――」
希咲は心配するクラスメイトたちの気遣いにも構っていられないようで、言葉を返すのではなく、自分の用事を口にする。
突拍子もないことを。
「――誰か……、愛苗のこと知らない……っ⁉」
“誰にも”意味が伝わらない言葉。
教室がまたシンと、鎮まった――
すぐに戸惑いの空気が蔓延する。
先程よりも色濃い不審と困惑。
文字面だけならば、希咲は別に何もおかしなことを言っていない。
彼女はクラスメイトであり、自身の親友でもある少女のことを聞いただけだ。
しかし、この場では違う。
今のこの『世界』ではそれは違う。
何故なら、希咲以外の誰も、その『愛苗』という人物のことを知らないのだから。
そしてそれも正確ではない。
知らないのではなく、思い出せない。
憶えていないのではなく、思い出せない。
全ての人の記憶の中に記録されている『水無瀬 愛苗』という意味は、この『世界』からもう失われてしまったのだから。
意味の存在しない言葉は何事にも印象が紐づかない。
どんな記憶も呼び起さない。
だから思い出せず、誰にも希咲の言っていることがわからない。
これは水無瀬の魔法少女のチカラの影響によるものだ。
正確には魔法少女に為ったことの副作用のようなもの。
もう少し詳細に言えば――
彼女の心臓に“生まれ孵る卵”と呼ばれる自我の存在しない悪魔が寄生し、それによって水無瀬は魔法少女として魔法を使えるようになった。
そして彼女が魔法を使い、その魔力活動によって活性化した周囲の魔素を心臓と同化した悪魔が喰らい、それは成長し、やがて新たな悪魔として母体ごと生まれ孵る。
――それが水無瀬に起こったことの真実だ。
見た目は水無瀬のまま変わらずとも、彼女の人格が変わらなかったとしても、しかしそれはもう違う別のモノなのだ。
結局紆余曲折あり、最終的に俺が彼女の心臓を適当にぶった切って寄生した悪魔と切り離したことで、なんかよくわからんが上手いこといい感じになって、彼女は何故か人間に戻れてしまった。
実際どの程度戻れたのかはまだ経過を観察中だが、見た目や種族上は人間に戻れても、他人が彼女を元の彼女として認識できるかという点については元には戻らなかった。
それはつまり――
(――より正確には、戻ったわけではないのだろう)
“生まれ孵る卵”に因ってニンゲンでなくなって悪魔に為り、そして俺の手によってさらに悪魔ではなくなってニンゲンに為った。
もう一度生まれ孵っただけで、決して元の位置に戻れたわけではないのだと思う。
ただ、水無瀬のそれは予想出来ていたことなので、俺に驚きはなかった。
そして――
今現在の希咲の“これ”も、起こる時期が早かったとはいえ、いずれこうなることは予想出来ていた。
そして、こうなったことで新たに得られた情報もある。
それは、希咲 七海は水無瀬 愛苗のことを憶えている――
――ということではない。
そのことは既に俺も知っていた。
昨日その旨が知れるメッセージが、他でもない希咲自身から俺のスマホに送られてきたからだ。
ちなみに返事はせずに俺はそれを既読無視している。
なので、今回得られた情報というのは、希咲が水無瀬のことに言及をしても、それによって誰も水無瀬を思い出せたりはしない――
――ということだ。
先週に、希咲が水無瀬の名前を出すことで、突然他の者も水無瀬のことを思い出す――彼女のことを正しく認知出来るようになるという現象があった。
それは存在の影響力によるものだと俺は考えている。
この『世界』に存在するあらゆる存在には“影響力”というモノがある。
それは個体によって強かったり弱かったりする。
存在する力の強いモノ――魂の強度が高いモノからの影響を、それが弱いモノは逃れることが出来ない。
自分より上位のモノに言われれば従う外ないのだ。
それこそ、存在していなかったはずのモノの存在を認知するまでに。
これは悪魔により顕著に見られる傾向だ。
強いモノには逆らえない。
それは習性のようなもので、だからこそ俺は悪魔であるメロのことを一切信用しない。
とはいえ、それは俺たちニンゲンも同じようなもの。
より上位のニンゲンに言われれば否と言えないのだ。
そして希咲 七海は、その上位の存在と云える。
純粋に彼女と、彼女の仲間たちは、その存在の強度が一般人よりも高い。
遥かに上だ。
ただ見た目が優れているから、文武に秀でているからというだけの理由ではない。
そういったステータスで優劣を決めるのは人間の中だけの基準であり、『世界』にはそんなことは関係ない。
だからそうではなく、彼女たちの魂は生まれながらに優れており、それは彼女たちの“魂の設計図”がそうデザインされているからだ。
そしてその条件を満たすことで彼女たちはこの『世界』で、強固な魂を持つ存在として、強い影響力を持つことが出来る。
だからこそ、彼女たちはこの学園という箱庭の中だけではなく、この『世界』で一際輝いているのだ。
輝いていることになっており、『世界』がそうしているのだ。
しかし、そんな希咲の影響力も、現状を変えるまでには及ばないようだ。
その理由にも見当がつく。
それは希咲やその仲間たちよりも、水無瀬の方が圧倒的に存在として格上だからだ。
おそらく、水無瀬がまだ別のモノになりかけている状況なら希咲の影響力もかろうじて通用していたが、完全に別のモノに為ってしまった後ではもう及ばないのだろう。
では、その水無瀬に及ばない存在である希咲が何故他の者たちのように彼女を忘れていないかというと、それも希咲の存在の強度が高いからだと考える。
水無瀬以上に『世界』に影響することは出来なくても、自身のカタチを保つことは出来る。
影響をする力が強い者は、同時に他からの影響に抗う力も強い。
存在の強度が高いということは魂の強度が高い。
その魂のカタチを固定する力が強いということになる。
だから希咲は他人に水無瀬を思い出させることは出来ずとも、水無瀬を憶えておくことだけは出来ているのだろう。
そしてそれは、そのまま俺にも当て嵌まる。
俺が水無瀬を憶えていられたのもきっと同様の理由だ。
水無瀬とは比べるべくもないし、希咲たちと比べても格下――それでも一般人よりはマシ。
それが俺の程度だ。
一度は水無瀬のことを忘れてしまったこともあり、それは死んだら治ったが、それでもまぁ、腐っても勇者――ということなのだろう。
以上の理由から、希咲 七海は水無瀬 愛苗のことを憶えているまま、今、俺の前に立っている。
さらに、希咲が“そう”なら、彼女の仲間たち――“紅月ハーレム”とかいう如何わしいコミュニティに所属する連中も同様だと考えるべきだ。
このことが、俺にとって途轍もなく不都合だ。
現在述べた希咲が水無瀬を忘れていない理由――所詮これは後付けの理屈に過ぎない。
俺は希咲も忘れていると思っていた。
そう思い込んで、その前提で、予定を組んでいた。
だがこうなった以上、それらは全て台無しになり、組み直さねばならない。
クソギャルめ。
どうあっても俺の邪魔をしやがって。
静まった教室の中、俺はまた舌打ちを堪える。
俺がそうして口を噤んでいるように、他のクラスメイトたちも声を発しない。
誰もが戸惑い、顔色を窺い合っている。
希咲はこのクラスで影響力の強い中心人物だ。
その彼女がいくら素っ頓狂なことを言い出したとはいえ、無碍な態度は取りづらい。
ふざけている時ならばともかく、今の希咲はどう見ても真剣で、そしてどう見ても冷静でなく、余裕がない。
迂闊なことを言えば彼女を本気で怒らせかねない。
だから、誰も希咲の問いに答えられない。
「誰だか知らない」「誰のことかわからない」
そんな正当な返答すら出来ないでいた。
だからといって、黙っていても希咲が居なくなってくれるわけでもない。
希咲は周囲の反応に焦燥をしながら、教室内を見回している。
だが、彼女にもこの状況はわかっていたのだろう。
そこに困惑は無かった。
だけど、もしかしたら、誰かひとりでも――
希咲が実際にそう考えているかはわからないが、お先真っ暗の絶望の中でたった一つの希望を探すように、クラスメイトたちの顔を一人ずつ見ている。
残念だが、朝は『世界』で共有されているものだ。
お前の為だけの希望など存在しない。
希咲は焦りながらも丁寧に生徒たちの顔色を確認している。
俺が以前に似たようなことをしたように、水無瀬の名前を出してみて、もしも知っている者が動揺して表情に出さないか――それを探しているのかもしれない。
そんな彼女の顔を間接視野に入れながら、俺は視線を何もない宙空へと浮かせた。
これは以前に俺の上司であり所属する部活動の長である廻夜 朝次部長から教わった技法である。
もしもクラス内で突然ギャルがわけのわからないことを言って騒ぎ出した時に、目をつけられないようにする気配の殺し方だ。
視線を俯けて目を逸らすのは悪手らしい。
「あ、コイツ弱ってるな」と見てわかるような態度をとると、余計に目をつけられてとことん足元を見られるらしい。
だから視線を自然な位置に置き、限りなく自我を薄めて、自分という存在をこの『世界』から消すのだそうだ。
俺はそれは理に適っているなと感じた。
先程説明した“存在の強度”や“影響力”の仕組みに通ずるものがある。
存在として強いモノはやはり自我が強い。
それはつまり逆に言うならば、自我を薄めれば『世界』に対する影響を弱めることが出来るということだ。
以前に俺の師のような存在であった女――エルフィーネに気配の殺し方を教わった時もそれっぽいことを聞いた。
そして異世界に魔王として君臨していた男の遺したノートに書いてあった『世界』の理。
それらと併せても何も矛盾がない。
さすがは部長だ。
彼はきっと、俺が今日この状況に陥ることも見越してこの技術を伝えてくれていたに違いない。
やはり彼は神算鬼謀であり、千里眼のような――
「――っ⁉」
そこまでを考えたところで俺の心臓がドキリと跳ねる。
教室内を彷徨った希咲の目が俺に向いたからだ。
バカな。
「……ねぇ、弥堂――」
「――ふぁるそ……ッ、ぐぅっ……!」
「え……?」
危なかった。
反射的に『世界』から自分を引き剥がす技を使いそうになった。
ただでさえこいつには一度アレを見せている。
疑われている状態でもう一度見せるわけにはいかない。
それをするとしたらこいつを殺す瞬間だ。
「は? ふぁーる……? え? なんて?」
うっかり反応してしまったからには仕方がない。
つい数秒前までの悲愴感を何処かへやってしまったかのように目を丸くして首を傾げる希咲へ、俺は諦めて眼を向けた。
すると、俺の視線を受けた希咲も表情を元のものに戻す。
そして彼女は改めて口を開いた。
「え、えっと、弥堂あのさ――」
「――おはよう希咲」
「え? あ、うん。おはよ。ねぇ、それより――」
「――聞いていたよりも随分早い帰還だな。どうした?」
「は? えっと、そうなんだけど……」
言葉は途切れ、希咲の俺を見る目が僅かに細められる。
クソが。
なんなんだよこの女。
言われたとおり挨拶をしても、しなくても、どのみち機嫌を損ねるとかどうなっているんだ。
ふざけやがって。
希咲は一度瞼を閉じてすぐに開く。
そうして改めた瞳にあるのは、怒りでも、疑心でもなかった。
その瞳にはほんの一縷の希望に縋るような、そんな光が揺れていた。
「――ねぇ、弥堂。愛苗のこと何か知らない……?」
「…………」
今度は俺が沈黙することになる。
だが――
もうこうなっては黙ったままやり過ごすことは不可能だろう。
俺は真っ向から彼女の視線と言葉を受け止め、口を動かす。
心の置き処は、最初から変わっていない。
「――お前はさっきから何の話をしている」
「――っ⁉」
彼女は息を呑み、目を大きく見開いた。
裏切られたと――
――実際に彼女がそう感じたかはわからないが、しかし、これまでに俺が裏切ってきた人間たちと似た表情だなと思った。
彼女はそんな顔をした。
三度目――
俺は舌打ちが出そうになるのを努めて抑制した。
成功。
「な……、あんた、なに、言って……」
「『なに』? それはこっちの台詞だ。お前がなんの話をしている」
「だって、あんた……、愛苗が……」
「それは人物名か? 誰の話だ?」
「誰って……! そんな……、ふざけないでっ!」
「ふざけているのはお前だ。俺とお前は友達か? 俺たちの共通の知人はこのクラス内の生徒くらいだろ。突然お前の知っている誰かの名前を出されても、俺にわかるわけがない」
「ウソよっ! だって、そんな……、ちょっと前まで覚えてたじゃない……っ!」
「……お前、大丈夫か? もしかして本気で言っているのか?」
俺は演技をする際に表情を造るのがあまり得意ではない。
演技でなくても得意ではない。
だが、顔を顰めて険しくする。
不機嫌で不快そうな顔をする。
それだけは得意だ。
演技ではなく、俺はいつでも不愉快だから。
「な、なんで……、まさか、あんたまで……」
「希咲。いい加減にしろよ」
「あんたがいい加減にしてよ。どうせいつもみたいにイジワルしてんでしょ……?」
「あのな。子供のようなことを言うな。いいか? お前はただでさえ休暇期間中でもないのに遊びに行っていたんだ。その予定を勝手に早めて帰ってきて。そしてさらにこうしてわけのわからないことを言って他の者を困らせる。はっきり言うぞ。迷惑をかけるな」
「そんな……! だって違うじゃん……! あんたは違うじゃん……っ!」
「意味がわからんな……、おい。お前まさか薬物に手を出したんじゃないだろうな? どうなんだ」
「うっさい! またそうやってバカにして! マジメに言ってんの!」
「そうか。それはこちらも同じだ。お前があまりにわけのわからないことを言うから、俺は真面目にお前の正気を疑っている」
希咲は涙を滲ませた目で、キッと俺を睨んだ。
俺は怒りを返すことはせず、ただ侮蔑の眼差しで彼女を視た。
「ねぇ……っ! 今なら怒らないから、ホントのこと言って……! あんたはホントに、あんたも忘れちゃったの……⁉」
「忘れる、忘れない以前に、俺はお前が何を言っているのかが本当にわからない。俺だけじゃなく、他の生徒たちも同じだ」
「他の人のことはいい! 今はあんたのこと聞いてんのっ!」
「そうか。だが、答えは変わらない」
「ウソっ! だって、あんたは他の子と違う……! あんたは特別で……、普通じゃないじゃん……っ! 愛苗は今どこにいるの⁉」
ある意味蔑ろにされたようなカタチにもなる他の生徒たちが僅かに漏らす騒めきに目もくれず、希咲は真っ直ぐに強い目で俺を見てくる。
その魂に、俺は影響されない。
「――俺は普通の高校生だ。そんな奴のことは知らない」
「――っ⁉」
希咲は再び絶句し、そして――
「――約束したのに……」
「なんのことだ」
譫言のようにそんな呟きを漏らした。
そんな彼女を俺は即座に切って捨てる。
すると、希咲の涙目に、また怒りの色が宿った。
「――ウソつきっ!」
シンプルにそう叫んでから、彼女は弾かれたように踵を返した。
「――え? あれ? 希咲さん⁉」
希咲が教室を飛び出していくタイミングで、ちょうど担任教師である木ノ下 遥香が現れた。
希咲は教師の呼びかけに止まることなく、そのまま廊下を駆けて行った。
「あれ? 遥香ちゃん?」
「今日は教室来るの早くない?」
「え? あ、はい。学校の再開のことで説明がありますので、今日は少し早くHRを始めますね?」
「えー」
希咲のことでの戸惑いは残しつつも、生徒たちは教師に促されて渋々席に着いていく。
誰も希咲のことを追わない。
普段の彼女とクラスメイトとの関係性を考えれば酷く不自然な現象だ。担任教師も特に彼女への言及をすることもない。
とても不自然だが、今の『世界』ではこれが自然なのだろう。
希咲を追って、彼女から話を聞けば、また水無瀬の名前が出てくる。
この『世界』に存在しない意味を広められる。
この世に神は存在しなく、ただ『世界』が在るだけだ。
『世界』に意思などはないが、仮にそれがあったとしたら――
――一度無かったことにしたモノを喚かれるのは酷く都合が悪いだろうな。
そんなことを考えながら、俺はまた宙空に視線を浮かばせる。
『――ウソつきっ!』
記憶の中に記録されたものを再生するまでもない。
たった今言われたばかりの言葉。
――わかっているじゃないか。その通りだ。
というか、わかっていただろう。
何をいまさら。
確かに俺は彼女と取引をした。
それを勝手に約束と言い換えられても特別に見逃してやろう。
だが、俺は希咲に望まれたことを大体やってやった。
一つ、水無瀬を守ること。
一つ、水無瀬を4月20日の月曜日は甘やかすこと。
一つ、水無瀬の様子を希咲に求められたら報告すること。
彼女とした三つの約束。
それは概ね履行した。
だから、この件に関しては“ウソつき”呼ばわりされる筋合いはない。
何より――
この約束の有効期間は、『希咲が旅行から帰るまで』だ。
お前はもう帰ってきた。
だから――お前との約束は既に終わっている。
だから――お前に水無瀬のことを訊かれても答える筋合いはもうない。
そして――
水無瀬を守る。
お前などに言われるまでもなく、俺は彼女を守る。
俺のやり方で、お前に関係なく、いつまでも。
だから――
お前を――お前らを、決して彼女に近づかせはしない。
その為の手段は選ばない。
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