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1章 魔法少女とは出逢わない

1章64 這い寄る悪意 ⑦

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 グスグスと鼻を鳴らす音に忸怩たる思いをする。


 ここのところ、泣いている女をあやす機会が増えたなと、弥堂は自身の業に対する倦厭の情を持て余す。

 しかし、やることはやらねばならない。だから口を開いた。


「おい、もういいだろ」

「なんッスかその言い草は! オマエが悪いんだろ!」


 足元からメロが抗議の声をあげると、当の本人である水無瀬はぱちぱちとまばたきをして、不思議な生き物を見るような顔をした。

 悪意は何もないのだろうが、だからこそ余計に弥堂は屈辱を感じる。

 反射的にまた頭突きを入れそうになる自身の身体を強く戒めた。


「つーか、結局オマエなにが言いたかったんッスか?」

「あ?」

「珍しく長々とクッチャべってたッスけど、オマエがマナを泣かしたせいで全部すっ飛んだッス」

「別に」

「お? お? なんだァ? マナー、こいつスネてるッスよ」

「いじわる言っちゃダメだよぅ。私は弥堂くんがいっしょうけんめいお喋りしてくれて嬉しかったよ?」

「だからお前が一番俺をバカにしてんだよ」


 気を取り直して訊かれたことに答えることにした。


「俺が言いたいのは、他人に“いい人”なんていい加減な判子を押して、相手の人格を判断することに手を抜くなということだ」

「はんこ……?」

「一回“いい人”だと判断したら、その後は特に考えずにその人物の言うことを信用する。それは手抜きだと言っているんだ」

「変わっちゃうこともあるから?」

「そうだ」


 弥堂は頷いて続ける。


「それもあるが、そもそもお前は最初の判定から甘い。初対面で愛想よく笑いながら話しかけてくる奴は全員嘘つきだと思え」

「で、でも……」

「何か得があるから媚びてくるんだよ。それを隠したまま上っ面だけいいことを喋るカスは詐欺師だ。まず全員疑え。常に疑え。信用して裏切られれば損害を被るが、とりあえず疑っておけば騙されることはない。損害は実質ゼロだ。全ての他人がお前の生命と財産を狙っていると思え」

「う、う~ん……」
「マナも確かに信用しすぎなんッスけど、オマエもオマエで逆方向に極端なんッスよ……」


 二人の感触はあまりいいものではなかったが、とりあえず自分は言うべきことは言ったので、伝わるかどうかは相手の問題だから、そこまでは自分が関知することではない。

 そのように考え、弥堂はこの話題は終了したことにした。


 そして水無瀬の様子を確認する。


 彼女へ言うべきことはまだあと何点かあるのだが、彼女の精神状態次第ではそれを諦める必要もあると考えていた。


 一応現在は泣き止んではいる。

 しかし、先程から何度か繰り返されているとおり、何か彼女の涙腺に触れるものがあれば、途端にまた泣き出すだろう。

 見た目ほどには、今の彼女のメンタルは安定していない。


(やはり、ここまでにしておくか)


 そう考えたところで、水無瀬がパっと笑顔を向けた。


「ねぇねぇ弥堂くん。じゃあ今度はななみちゃんのお話する?」

「…………」


 弥堂は慎重に彼女の顔を視返した。


「それは、何故だ……?」

「え? さっきメロちゃんと『あとでななみちゃんのお話しよーね』って約束してなかった?」

「そのような事実はない」

「あるだろッス。ジブン確かに言ったッス」

「俺は応じていない。つまり、約束していない」

「うぇっ? や、やくそくって言ったのに……。ひぐっ……」

「その約束は別の約束だろうが」


 このままでは彼女が兼ねてより切望していた『ななみちゃんの好きなとこ言いっこ大会』が催されかねない。

 そのことを危惧した弥堂は、水無瀬のことを慮って言うのをやめた話を敢行することにした。


「それよりも、お前は魔法少女についてどう思ってるんだ?」

「え?」

「いちいち聞き返すな。なんで一回で伝わらねえんだよ」

「ご、ごめんなさい……」

「謝らなくていいから答えろ」

「オマエはいちいち詰めるのやめろよッス!」


 自称・ネコ妖精の抗議を無視して弥堂は水無瀬の答えを待つ。


「えっとね、私は魔法少女が大好きっ」

「…………」


 しかし彼女から出てきたのは自身が求めるようなものではなかった。

 そんな彼女へ胡乱な瞳を向けてみても、不思議そうに首を傾げられるだけだった。


「……わかった。俺の聞き方が悪かった。お前はいつから魔法少女をやっているんだ?」

「いつからだっけ……? 1年ちょっと……? 2年は経ってないよねメロちゃん?」

「んー、あー……、そッスね……」


 曖昧な回答に弥堂は眼を細める。


「そうか。生まれつきではないんだな?」

「え? うん、そうだよ」

「お前自身が魔法少女になろうと思って為ったのか? それとも何か突発的な出来事によってある日そう為ったのか?」

「え、えっと……」

「しょ、少年、その話は――」

「――お前は黙っていろ」


 以前と同じように、この話題自体を避けようとするメロを睨みつけて黙らせる。

 そして再び水無瀬の答えを待った。


「あのね? 私ね……」


 言い淀みながら、水無瀬は切り出す。


「私ずっと病院にいたの……」

「……?」

「小学校の途中から具合悪くなっちゃって、学校通えなくなっちゃって……」


 悲しそうに、そしてどこか後ろめたそうに、そう打ち明けられた。

 しかし、それは弥堂がした質問の答えにはなっていない。


「……最初はお家から病院に通ってたんだけど、でも入院しなきゃいけなくなって、それからお家に帰れなくなっちゃったの……」

「……いつまで入院してたんだ?」

「えとね……、中学が終わる少し前まで……、でも普通の生活に戻る練習しなきゃいけなかったから……」

「じゃあ、お前は……」

「うん。私、中学校は行けなかったの……」

「そうか」

(なるほど。そういうことか)


 相槌を打ちつつ、内心で納得する。


 実のところ、今彼女が語っている情報は、弥堂にとっては既に知っている情報だった。彼女と出遭った去年の段階でとっくに非合法な手段で調査済みだ。

 しかし、それから約一年、彼女と教室を共にし、そのことで知った彼女という人物。

 その時間の中で、彼女の人格面においてずっと抱いていた疑問があった。


 書面上の字面で得られた情報と相違のないものであったが、こうして彼女の口から直接聞くことによって、より真実の像に近しいものとなり、その疑問の答えに行き着いた。


 だが、やはり弥堂が訊いたことの答えでは全くなかった。

 彼女なりに答えているつもりなのか、それとも身の上話を聞いて欲しくなっただけなのか、その判断を下すのに今しばし様子を見ることにした。


「本当はね……、私は死んじゃうはずだったの……」

「はず、だった……?」

「うん……」


 それは弥堂の見た情報にはなかった記述だ。


「手術しなきゃいけなくって。すごく、難しい手術。お金もいっぱいかかっちゃうし、他の人のを貰わなきゃいけなくて……。順番もなかなか回ってこなくて大変なんだって……」

(ドナーか……)

「それで結局順番が回ってくる前に、私の方がダメになっちゃって……」

「死ぬはず、だったと……?」

「うん」

「だがお前は生きている」

「……うん。私ね? 自分でもわかってないんだけど、奇跡が起きたんだって」

(そんなものはない)

「疲れちゃって、眠くなっちゃって……、もう起きれないんだろうなって思って目を瞑ったんだけど……」

「何故か回復したと?」

「そうなの」


 もしもそれがドラマや映画の話なら、恐らく感動のシーンなのだろう。

 だが、弥堂はそれに激しく違和感を抱いた。


「……確認だが」

「うん」

「いよいと死ぬってところまで身体が弱って、手術を敢行してそれが奇跡的に成功した――そういうことではないんだな?」

「うん。手術は出来なかったから……」

(なんだそりゃ)


 眉間に皺が寄る。


「絶対に手術が必要な病気で、手術をせずに何故か治った。そんな奇跡が起きた。そういうことか?」

「そうなのっ」

「……医者やお前の親は何て言ってた?」

「えっと、先生は信じられないって。お父さんとお母さんはよかったって言ってた」

「ただの感想じゃねえか。何故死ななかったのか。何故治ったのかって話は聞かなかったのか?」

「わかんないんだって。みんなで不思議だねーってお話したの」

(そんな馬鹿な話があるか)


 そうは思うが、恐らく彼女にそう言っても首を傾げられてしまうだけだろうと、口を噤んだ。


「私一回心臓止まっちゃったの。それで寝ちゃって、でも起きたら元気になったの」

「……ところで、お前の病気は?」

「えっと、心臓が悪かったの」

「そうか」


 それは弥堂の知る情報と同じだった。

 心臓の成長が遅れ、機能が低下していき、日常生活が困難なため入院。

 移植手術をする予定で、入院しながらその順番を待っていた。

 そして回復した。


 弥堂が知っている情報ではそうなっていた為、てっきり手術に成功して回復したものだとばかり考えていた。


(移植が必要なほどの心臓の病で、手術なしで突然完治する。そんなことがあり得るのか……?)


 弥堂は医学に明るいわけではないが、しかしそんなことは不可能だと思えた。

 それに――


(――そんな奇跡が起きたとして。医者どもがそれで『不思議だねー』で済ますわけがない)


「医者はその後お前の身体を調べたりはしなかったのか? 手術をしようと言われなかったか?」

「え? ううん。最初はおっきな機械で調べたりとかしたけど、手術はしてないよ? 今はたまに検査に行くくらいで」

「そうか」


 到底納得のいく話ではない。

 だが、これ以上は彼女に聞いても真相を知れるようなものは出てこないだろう。

 それよりも――


「――ところでお前。俺のした質問はなんだったか覚えてるか?」

「え? 『なんの病気?』ってお話じゃなかったっけ?」

「ちげえよ。それは今したばかりの話だろ」

「あ、そっか」


 ナメているのかと引っ叩きたくなるが、彼女には悪意はない。

 一応弥堂の質問に答えようとはして、その為に必要な前提情報を説明している内に何の話をしているのかわからなくなってしまったのだろう。


 それなりに付き合いがあるせいで彼女に関する解像度が上がってしまい、それが理解出来てしまった弥堂は呆れの溜息を吐くに留まった。


「俺が訊いたのは『お前がいつから魔法少女をやっているか』だ」

「そうだった!」

「もういい。俺から訊く。予想だが、お前が魔法を使えるように、魔法少女に為れるようになったのは、病気の回復後なんじゃないのか?」

「そうなのっ。すごいね弥堂くん、よくわかったね!」

「それをわかるようにするために病気の説明をしたんだろ。どうでもいい。それよりも、確認だ」

「あ、はい」

「お前は一度死んで、生き返り、そうしたら魔法少女に為っていた――そうだな?」

「えっと……、うん」

「そうか」


 訊くことは訊いたので水無瀬のことは一旦放置し、自身の記憶を探る。


 そのような事例は聞いたことがない。

 何か該当する情報が先代が残した知識にないか、記憶の中の記録から探し出す。


(……そんな知識は無い)


 しかし、何も見つからなかった。


 もしも自然とそうなったのだとしたら――


(死の際で『加護ライセンス』に目覚めた……?)


 それなら決して無い話でもなく、『加護ライセンス』持ちの人間がそれに目覚めるパターンとしては珍しい事例でもない。

 実際に弥堂の保護者のような存在であった女――ルビア=レッドルーツもそれに該当する。


 それならば特に問題はないのだが――


 弥堂はチラリとメロに眼を遣った。


「……そいつは?」

「え?」

「そのネコはいつから飼ってる?」

「あのね弥堂くん。メロちゃんはお友達だから飼ってるわけじゃないんだよ?」

「言葉の表現方法などどうでもいい。答えろ。そいつはいつからお前の近くに居る? まさかペットショップで買ってきたとは言わないだろ?」

「あ、うん……」


 その問いには水無瀬が答える。

 メロは居心地が悪そうに耳を伏せていた。


「メロちゃんはね、私が病院で寂しそうにしてたら来てくれたの」

「……どういう意味だ?」

「えっとね、ある日窓から来て、話しかけてくれたの」

「…………」


 眼を細めて彼女の話を聞く。


「その時はもう病気がだいぶ悪くなっちゃってた時で、私もうダメなのかなぁって落ち込んじゃってた時で、またお友達とお外で遊びたいなーって考えたら泣いちゃったの……」

「……それで?」

「そしたらね『どうしたんッスか?』って声が聴こえて。誰だろってお部屋を見回したら窓にメロちゃんが居たの。ネコさんがお話してるーって、私びっくりしちゃって」

「気持ち悪いと思わなかったのか?」

「え? なんで? 素敵だなーって思ったよ?」

「そうか」


 適当に返事をして弥堂はメロに眼を向ける。


「お前は何の目的でこいつに近づいた? どこから来て、何の為に死にかけのガキに声をかけた?」

「ジ、ジブンは、声を聴いて……」

「へぇ。こいつのか?」

「くるしい、いたい、かなしい、さみしいって……」

「それだけか?」

「あと、生きたい、って……」

「そうなの。メロちゃんはネコさん妖精だから、そうやって泣いてる子のところに会いに来てくれるんだって!」

「そうか。それは素晴らしいな」


 メロから目線を切って水無瀬の方へ向く。


「それから?」

「お父さんとお母さんがお見舞いに来てくれてたけど、でも二人ともお店も忙しいから、私ずっとひとりぼっちの時間が多くって……。でも、それからはメロちゃんがずっと一緒に居てくれたの!」

「へぇ」

「一緒にご本読んだり、プリメロも一緒に観てたんだよ!」

「そうか。それで結局その妖精様が病気を治してくれたのか? 奇跡の代わりに何か取引でもしたのか?」

「え? どういうこと?」


 メロの様子を視界に入れながら、水無瀬へ問う。


「病気を治してやるから、その代わりに魔法少女になれ。そう言われなかったか?」


 ジッと眼に力を入れて彼女らを視る。


 だが――


「ううん。言われてないよ?」

「なんだと」


 その予測は否定された。


「妖精さんでも病気は治せないんだって。だからメロちゃんが『ごめんッス』って言ってて、私は『気にしないでー』って」

「……そうか」

「それで、結局私、お喋りする元気もなくなってきちゃって……」

「そのペンダントは?」

「あ、うん。メロちゃんがくれたの。私が元気なくなって、死にそうになっちゃったら、これを持ってお願いすると叶うかもって。私にくれたの」

「そうか……」


 魔法少女とは何か。


 その問いの答えは、今彼女から聞いた話にカラクリがありそうだが、それを解くにはその手前の問いを解かねばならない。


 その問いとは――


 弥堂はメロに眼を向ける。


――ネコ妖精とは何か。


『お前はなんだ?』と問いかけようとして、弥堂は口を閉ざした。


(訊いても意味がないか)


 そう判断してこの件についてはここで放り出すことにする。

 すると――


「オイ、少年ッ!」


 そのメロから呼びかけられる。


「……なんだ?」

「なんなんッスか⁉」

「なにがだ」

「マナがヘビーな話を打ち明けたってのに、オマエの態度はなんなんッスか!」

「意味がわからんな」


 それは本当に意味がわからなかったので、怪訝な眼で彼女を視た。


「オマエもっと親身に聞いてやれよッス!」

「聞いただろ」

「どこがッスか! すごく大変だったって言ってんのにオマエときたら『そうか』しか言わねえじゃねえッスか! 興味なさそうに無表情で!」

「それがどうした? 事実確認をして、聞いた話に『了解』の意を返す。それ以外に何が必要だ」

「もっと人間味を持てよッス! 感情を見せろよッス! 泣いてみせろとまでは言わんッスけど!」

「もしかして同情をしろと言ってるのか?」

「言い方が気に食わねえッスけど、大体そうッス!」


 下らないと溜息を吐いた。


「どこに同情をする必要がある」

「ハァッ⁉ オマエはなにを聞いてたんッスか⁉」

「聞いていたからこそだが。今の話は、一回死ぬほどの重い病気に罹っていたがそれを乗り越えたという話だろ? 既に問題が解決しているのに何に同情する必要がある?」

「な、なんて身も蓋もない……」


 ドン引きするネコさんから興味をなくし、水無瀬に聞いてみる。


「お前は俺に同情して欲しいのか?」


 水無瀬は少し考えてから答えた。


「ううん。私ね、みんなと同じがいいから……。だから同情っていうか、気を遣って欲しくなくて……」

「そうか」

「だから病気のことは誰にも言ってなかったの……」

「あいつは?」

「え?」

「希咲にも言ってないのか?」


 そう聞くと彼女は気まずげに、しかし嬉しそうに笑った。


「ななみちゃんは知ってるの」

「そうか」

「私は言えなかったんだけど、ウチにお泊りに来た時にお母さんがななみちゃんにお話ししたみたいで……」

「なにかあったら――ってところか」

「うん。お薬のこととかもあるから。何かあったらお願いって」

「それであいつは?」

「お母さんが『迷惑だったらごめんなさい』って言ったら、ななみちゃんは『全然大丈夫です!』って。それで私は『そんな大事なこと何で言わないのよ!』って怒られちゃった……、えへへ」

「…………」


 容易に想像がつくやりとりだったので、特に何も言うことはなかった。


「それより、薬と言ったな? 今持ってるか?」

「あ、うん。これなんだけど……」

「貸せ」


 水無瀬から薬をふんだくり、弥堂はそれを視る。

 ドクンと心臓を跳ねさせて眼に力をこめた。


「なんなんッスか、その取り方は。オマエはホントダメなヤツッスね。それに比べてナナミはマジでいいヤツッスよ。少しは見習えよッス」

「……俺にしては十分好待遇だと思うが?」

「……それに関してはマジで感謝なんッスけど……」

「けど、なんだ?」

「その、いちいち詰めるのやめて欲しいッス。ジブン、少年のそれマジでコワイんッス。その目……」

「詰めてるつもりはないんだがな」


 適当にメロの相手をしながら水無瀬へ薬を返してやる。


「もういいの?」

「あぁ」


 何の薬かはわからなかったが、特に問題は視られなかった。

 弥堂的にはもう話は終わった気でいたが、メロの方はまだ続いているようだ。


「いやいや、尋問以外のナニモノでもないッス。生き物を見る目じゃないんッスよ!」

「一回俺が本気で誰かを詰めているところを見せてやろうか? 違いがわかると思うぞ」

「カンベンッス! 犯罪に付き合わされるのはまっぴら御免ッス!」


 鬱陶しいネコを突き放していると、先程も聞いた『きゅるるぅ~』という音が鳴る。

 水無瀬の腹の音だ。


「えへへ……」

「腹減ってんならこれを食え」


 弥堂は残り3ブロックになった“Energy Bite”を渡してやる。

 彼女は一回「うっ」と渋い顔をして、それから「いただきます」と眉を下げながらそれを口に持っていった。


「あ――」


 すると今度は、


「あまーいっ!」


 嬉しそうに顔を綻ばせた。


「甘味ブロックに当たったようだな」

「これブロックごとに味が違うの?」

「そうだ。基本味というものを知っているか? 甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つだ。“Energy Bite”は一つ一つのブロックがその基本味をそれぞれ凝縮しているんだ」

「そうなんだぁ……、あ、今度はしょっぱい……」

「“Energy Bite”は必要な栄養素を摂取できるだけではなく、調理において重要なこの5つの基本味も同時に表現している。同時にだ。それは別々にではないということになる。一回でいい。つまり、効率がいいんだ。わかるか?――」


 急に早口で意味不明なことを語りだした弥堂の講釈を「ふむふむ」と頷きながら聞きつつ、愛苗ちゃんはブロックをモグモグする。

 そして、『あれ? 5つの味なのになんでブロックが6個……?』と疑問を浮かべたところで、ちょうどその6つ目を口に入れる。

 そしてそれを噛み砕いた瞬間――


「――ぴっ⁉」

「マナ――ッ⁉」


 突然奇怪な声をあげて白目を剥き、カクンと首を垂れた。

 慌ててメロが飛びつく。


「マナ⁉ マナ……ッ⁉ どうしたんッスか⁉」

「ふむ……」


 弥堂は冷静に彼女の容態を見た。


「オイ、オマエ! まさか毒を――」

「――馬鹿なことを言うな」

「じゃあなんでいきなりマナは……」

「あぁ、これはな――」


 取り乱すご家族の方に冷静に患者さんの状態を伝える。


「――これは泣き疲れて寝たんだ」

「は……?」

「あれだけピーピー喚いていたからな。そろそろ寝るんじゃないかと思っていた」

「え……? いや、泣き疲れたって、これ……? えぇ……?」


 困惑するメロを放って弥堂は水無瀬を抱き上げたまま席を立つ。

 そして寝室へ彼女を連れていってベッドの上に寝かせた。


「ホ、ホントに寝てるだけッスか……? マジで大丈夫なんッスか? 白目剥いてるッスけど……⁉」

「気のせいだ。お前らも寝てる時よく白目になってるだろ」

「で、でも……、えぇ……?」

「呼吸もちゃんとしている。問題ない」


 水無瀬に適当に毛布をかけてやり、弥堂はキッチンへ向かう。


 メロは混乱しながらその様子を見ていた。


 弥堂は流しの上の戸棚を開けて、舌打ちをしてからすぐに閉める。


 ダイニングテーブルに戻ってきて、自分の鞄を開けて中から必要な物を取り出す。


「お、それマナに貰った財布ッスね? それジブンも一緒に選んだんッスよ。感謝しろッス」

「そうか」

「って、財布なんか出して、どっか出かけるんッスか?」

「そうだ」


 端的に答える弥堂をメロは呆れた目で見た。


「オマエなんでそんなに自由なんッスか? マナがこんななってんのに……」

「そいつのためでもある」

「え?」

「メシが気に入らねえんだろ? とりあえず起きた後と朝食用に弁当でも買ってくる」

「お? いいとこあるじゃねえッスか」


 喜びの声をあげてメロが近寄ってくる。


「ジブンにもエサ買ってくれッス!」
「そのへんで虫でも捕まえて食ってろ」

「ジブン家猫様なんッスよ⁉ そんなもん食えねえッス!」
「駅前まで行ってくるから少し時間がかかる」

「ん? もっと近くにコンビニあったッスよ?」
「いつも使ってるコーヒー豆が切れた」

「はぁ?」
「それ以外のコーヒーは飲みたくないんだ。駅前の店で特注している」

「まぁ、お前の家だから文句は言えねえッスけど。あ、それとマナの下着買ってきてくれッス」


 図々しく要求を続けてくる野良猫に弥堂は軽蔑の眼を向けた。


「女モノの下着屋なんかもう開いてねえだろ」
「コンビニで売ってるッスから。パンツは適当でもいいッス。上はスポブラみたいなのがなかったら、多分カップ付きのキャミがあるはずだからそれ買ってきてくれッス」

「あ?」
「下はM、上はLでたぶん行けるッス。一応上のMも買ってみてくれると嬉しいッス。あとあれな? 歯ブラシとかシャンプーとかお泊り用の売ってるから適当に買ってくれッス。洗顔料も」

「面倒だが、わかった。それより――」


 適当に返事をしながらバッグから出した少し厚みのある封筒をテーブルに置く。


「――ここに100万円入っている」

「え――?」

「俺にとって、すぐに使い途があるわけでもなく、無くなったとしても別に困窮するわけでもない金だ」

「な、なにを……」

「別に。ただ、それをここに置いておく。ただ、それだけの話だ」

「…………」

「あと、駅前でコーヒーを買った後、帰り道でいつも寄る場所に立ち寄る。だから俺は小一時間ほどは帰らないだろう」


 言われていることの意味がわからず、固まったまま封筒を見るメロを置いて弥堂は玄関へと向かった。


 下駄箱を開けてチラリと視線をダイニングに遣る。


 テーブルの上にお座りをしたネコが封筒を呆然と見ている。


 弥堂は下駄箱に手を突っ込み、スマホの電源を切ると中にあった靴の中に入れる。いつも使っているボイスレコーダーも録音状態にして同じ靴の中に入れる。

 そして別の靴の中から小瓶を取り出し、手の中に仕舞った。


 それからさらに別の靴をとって床に置く。

 その靴に履き替えて、玄関の扉を開けて外に出る。


 扉を閉める直前、同じ姿勢のままのメロが見えた。

 特に声をかけることもなく、弥堂はあっさりと扉を閉めた。
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