恋するあなたに花束を

沢渡奈々子

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第30話

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「この後、車に乗る予定があるからな」
「颯斗さん、この後どこか出かけるんですか?」
「ん? 花梨を送っていくだけだけど」
 颯斗がこともなげに答えた。
「え? ……あ」
 彼は二人での誕生日パーティが終わったら、花梨を家まで送り届けるつもりなのだ。酔わせて……だとか、雰囲気に任せて……だとか、そういったことは露ほども考えていなくて、
『花梨が俺を好きになってくれたら』
 をちゃんと守って待ってくれているのだ。それこそ番犬のように。
 それが分かった瞬間、彼女は胸が痛くなった――それは悪い意味ではなく。
(もう……どこまでも優しいんだから)
 ただひたすら切なくて……そして、愛おしくて。
 花梨の心の奥底にわずかに残されていた迷いのようなものが、あとかたもなく消え去った。
 口の中で「うん」と呟いて。それから大きく息を吸った。
「颯斗さん、大丈夫ですから、颯斗さんもワインで乾杯しましょ?」
「いや、一人で帰すのは心配だから送ってく」
 花梨が言う「大丈夫」の一言を「一人で帰れるから」という意味で受け取ったのだろう。颯斗は薄く笑い、かぶりを振った。それにかぶせるように花梨も首を振る。
「そうじゃなくて。私……今日、帰りません、から」
 少し躊躇いがちに、そう言った。
「え、帰らないって……」
「だから……そういう意味、で――」
 花梨は頬をほんのりと染めて、一旦言葉を切った。この先を継ぐのに、もうちょっとだけ勇気が要るから。それを今、心に溜めている。
 颯斗は真剣な表情で、花梨が何かを言いたそうにしているのを待っている。
「と、とにかく、ワイン飲みましょ! ほら、パスタも伸びちゃうし! 続きは後で!」
 彼の顔を見ていたら急に照れくさくなり、花梨は立ち上がって食器棚から同じグラスを取り出し、颯斗のそばに置く。そしてワインをこぼさないように注いだ。
「……本当にいいのか?」
 その言葉が一体何を意味しているのか……花梨はあえて尋ねないまま、颯斗とグラスを合わせたのだった。
 
「想像していたよりもずっと美味しかった。今度は和食が食べたいな」
 花梨がキッチンに備えつけてある食器洗浄機に食器を入れていると、その隣で颯斗が余ったケーキを冷蔵庫にしまいながら言った。
「ありがとうございます。じゃあ、今度は和食を作りますね」
 食洗機用洗剤を投入した後、扉を閉めてスイッチを押す。あとはシンク周りを拭けば後片づけは終わりだ。
「ピザもまさか生地から作ってくれるとは思わなかった」
「家のホームベーカリーで作っておいたのを持ってきただけですよ」
 颯斗の家についてから生地を仕込んでいたのでは時間がかかるので、家で生地を作りクーラーバッグに入れて持ってきた。それをここで伸ばしてピザクラストにしたのだ。ソースも家で作ってきた自家製だった。
 颯斗は花梨が作った料理をすべて「美味しい」と言って完食してくれた。彼の口に合うか不安もあったけれど、
『さすが料理教室に通っていただけあるな』
 颯斗は感心したように言ってくれたのだ。
 花梨の片づけを手伝いながら、颯斗がコーヒーを作ってくれた。花梨のはもちろん、カプチーノで。
 それをリビングのローテーブルに置き、颯斗はソファへ座った。花梨は持参したトートバッグを手に、彼の隣に座る。
「颯斗さん、これプレゼントです。改めて、おめでとうございます」
 バッグから箱を出すと、それを彼に差し出した。
「これ……プリザーブドフラワーだな」
「そうです。私が作ったんですよ」
 颯斗の誕生日のプレゼントを決めた日から、花を加工して準備していた。花を水揚げ、脱色、着色、乾燥をさせてからしつらえるので、時間がかかるのだ。
 白い木箱に、何種類かの青いバラを配置し、薄い水色のあじさいや白いスカビオサをアクセントに入れた。
 小さくも豪華な花畑が、そこに詰まっている。
「すごくきれいだ。ありがとう」
「あ、まだあるんです。……これ」
 花梨はバッグの中からエアキャップに包まれたボトルをそっと取り出した。そしてテープで留めてある部分を剥がし、中身を颯斗に差し出す。
「これは……?」
「ハーバリウムです。最近結構人気あるんですよ、これ。お花をオイルに浸けるんです」
「あぁ……これ、ブルーデイジーだな。俺のために?」
「そうです。ブルーデイジーはプリザーブドフラワーの方に入れると崩れちゃうかもしれないので入れられなくて。でもどうしても颯斗さんにブルーデイジーを贈りたかったから、ハーバリウムにしてみました」
 瓶にドライフラワーにしたブルーデイジーとかすみ草を入れ、オイルに浸して蓋をする。ブルーデイジーの青がオイルや光の効果できれいに輝く。いつまでも見ていられる美しさだ。
「ありがとう。最高のプレゼントだ」
 颯斗はプリザーブドフラワーとハーバリウムをローテーブルの上に並べ、嬉しそうに眺めている。その姿を見て、花梨も嬉しくなった。
 一つ目と二つ目のプレゼントは気に入ってもらえたようだ。
「花梨」
 颯斗が花梨の方へ向き直り、切り出した。
「はい?」
「さっき言ってくれたことだけど……無理はしなくていいから」
 花梨が「今日は帰らない」と告げたことだろうか。
「どういう……意味ですか?」
「プレゼントの話をした日、家に帰ってからものすごく後悔した。言い方は違うが俺の誕生日に身体を差し出せなんて……花梨を怖がらせてしまったんじゃないか、って」
 彼は薄く笑ってはいたけれど、そこには後悔の色が滲んでいた。
 あの時、花梨自身は面映ゆさは大いに感じたけれど、彼が垣間見せた欲の一片に対して怖いだなんてこれっぽっちも思わなかった。
 けれど当の本人はあの発言を悔いていただなんて。
(あ……もしかして……)
 はたと気づいた花梨は、颯斗の顔を覗き込む。
「……だから、つきあい始めた日以来、キスもしなかった……んですか?」
 あの日から、デートのたびに『キスをするには絶好のタイミング』という場面が幾度もあった。けれど颯斗は、一度もくちびるには触れてこなかったのだ。
「花梨とつきあうことができて、調子に乗っていたんだ。伊集院の見舞いのことでも君を傷つけてしまったし」
「あ、れは……もういい、って言ったじゃないですか。確かに少しは怒りましたけど、傷ついてなんていません。……私、そこまで弱くないです」
 花梨は頬を膨らませる。そんな彼女を見て、颯斗は苦笑した。
「俺はあまり感情を前面に出すタイプではないとよく言われる。……だけど花梨のことは本当に好きなんだ。会うたびにどんどん好きになって、好きすぎて、いざそういう時が来たら、きっとがっついて君を怯えさせてしまう。それが俺は怖いんだ。……だから、ゆっくりでいいと思ってる。君の心の準備が本当にできるまで待つつもりだ。でも、今日泊まってくれるのは大歓迎。明日まで一緒に過ごせるのはすごく嬉しいから」
(ほんとにこの人は……)
 その冷たい美貌を湛えた見た目からはあまり想像できないけれど、なんて優しくて、繊細な人なんだろう。
 家族に対する想い、柚羽に対する気遣い、そして、花梨に対する愛情……すべてが彼の温かさを裏づけている。
 どれもこれも、愛おしくてたまらなくて。
 花梨は颯斗の顔に手を添える。そして、あふれそうな気持ちをぶつけるように、くちびるを押しつけた。
 それはほんの数瞬だった。花梨のくちびるは、未練を残したままそっと離れていく。
「颯斗さん、好き」
 花梨が頬を赤く染めながら囁いた言葉に、颯斗は目を見開いた。言葉も出ない、といった様子の彼を尻目に、彼女は言葉を継ぐ。
「颯斗さんが、あれから全然キスをしてくれないから……私、すごく淋しかったんだから」
 彼がキスを避けるたびに、花梨のくちびるは寂寥感を覚えていた。その時は気のせいだと思っていたけれど、本当はずっと、キスをしてほしくて仕方がなかったのだ。
「花梨……」
「恥ずかしいけど、白状しますね。私、先月からずっと身体のお手入れ頑張ってきたんです。……全部全部、今日のためなんですよ?」
 人様に自慢できるようなスタイルではないと思うけれど、今夜のために全身にボディクリームを欠かさず塗り込んだり、スクラブでひじひざかかとの角質ケアもした。もちろんムダ毛の処理だって普段以上に気を遣った。
 颯斗への想いを自覚してからというもの、少しでもきれいに見せたくて、頑張ったのだ。
 セックスのために張り切ってると思われるのは顔から火が出るほど恥ずかしいけれど、それでも颯斗に今の花梨の心境を伝えたかった。
「……」
 颯斗は天を仰ぎ、そして大きく息を吐いた。それからクスクスと笑い出す。ひとしきり笑った後、甘い光を宿した瞳で花梨を見つめた。
「強くなったな、花梨。……それに、ますますきれいになった。眩しいくらいだ」
「だとしたら、それは颯斗さんのおかげ」
 颯斗と出逢う前の花梨は、男性に対して強がったり突っぱねたりすることはあっても、弱みを見せたり恥部をさらけ出したりなど決してしなかった。
 今みたいな告白をできるようになったのは、すべて颯斗のおかげなのだ。彼が花梨の弱さを見つけてくれて、認めてくれて、好きになってくれたから。前よりも強くなれた。
「――颯斗さんが大好きです。……だから、三つ目のプレゼント、もらってくれませんか?」
 花梨は颯斗の目をじっと見つめ、そう告げた。
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