29 / 35
第29話
しおりを挟む
「おじゃまします……」
花梨はおずおずと玄関に入る。すっきりとした玄関の前には廊下が左右に伸びており、左に行くと寝室、右に行くとリビングや客間があると颯斗が教えてくれた。
とりあえず買ったものを冷蔵庫に入れたいので、キッチンのあるLDKへと案内してもらう。
「どうぞ」
颯斗がリビングのドアを開いた瞬間、目の前に爽やかな景色が広がった。
「わぁ……素敵な眺め……」
LDKの一面がすべて掃き出し窓になっており、そこからの眺望がこの上なく素晴らしかった。桜浜の町が一望できるだけでなく、海や水平線まで見ることができるのだから、贅沢極まりない。
しばらくの間きれいな景色にうっとりとし、それから花梨はキッチンの使い方をざっと教わる。
ペニンシュラキッチンの後ろ側に備えつけられている冷蔵庫には、颯斗が用意してくれた夕食の材料が沢山入っていた。けれど中を見渡してみたところ、普段はほとんど食材が入っていないのだろうと花梨は思った。飲み物と出来合いの惣菜の残りとバターとジャムくらいしか見受けられない。
花梨は振り返り、後ろに立っている颯斗に尋ねる。
「颯斗さん、自炊はしたことないんですか?」
「いろいろと忙しくてな」
「その割には、うちのお店にはよく顔を出してましたけど?」
意地悪い笑みで、花梨は颯斗をチラリと見る。
「自炊する時間があれば、少しでも花梨の顔が見たいから」
「……っ」
あまりにも普通にさらりとそう言われ、言葉に詰まる。頬は少し熱くなった。
花梨は買ってきたものを冷蔵庫にしまうと、一旦キッチンを出る。リビングは何畳あるのか分からないくらい広く、また颯斗らしいと言うべきか、実にシンプルな内装だった。テレビとシアターラック、ローテーブルにソファくらいしか見当たらない。その他のものは壁に備えつけられたクローゼットに収納されているのだろう。
唯一目を引いたのは、クローゼットの隣の壁一面に掲げられた『マグネット』だった。白い壁に大きな白いマグネットシートが貼られていて、その上にはさまざまなご当地マグネットがびっしりと貼られている。
近づいてみると、それらは海外の観光地で売られているものだった。数は優に二百は超えているだろう。ニューヨーク、ロサンゼルス、パリにロンドンにシドニー、ヘルシンキ、カイロ、カンクン――世界中のマグネットでひしめき合っている。
花梨はそれらを一つ一つ指で辿っていく。
「……これ、全部颯斗さんが行った場所ですか?」
「うん。初めて行ったところは必ず買うようにしているんだ。裏には行った日付を書いたシールも貼ってある」
颯斗の許可を得て、試しに一つ剥がして見てみる。裏には白いシールが貼ってあり、そこには彼の言う通り、日付と『出張』と書かれている。おそらく観光で行った場合と区別するためにそう記しているのだろう。
こんなところにも颯斗の思い出を大切にするところが表れていて、花梨の心は温かくなる。
「こうやって記録に残してるんですね……素敵です」
剥がしたものをそっと元の場所に戻すと、花梨はバッグからヘアゴムを取り出し、髪を後ろにまとめる。柚羽にアレンジしてはもらっていたが、緩くしばるだけなのでそれほど影響はないはずだ。そしてさらにエプロンを取り出した。いつも家で使っているものを洗ってきた。
「夕食の準備、しますね。キッチンで手を洗っちゃって大丈夫ですか?」
「ハンドソープが置いてあるからそれを使って。……何か手伝うことはある?」
「颯斗さんはテーブルのセッティングをしていてもらえますか? 食器類も出してくれたら助かります。パスタ用と、サラダ用と、ピザ用と」
「了解」
花梨は再びキッチンへ入り、冷蔵庫から必要なものを取り出して料理を開始した。そこから見渡せるダイニングテーブルに、颯斗は木製の薄いランチョンマットを置き、そこにフォークとナイフ、ワイングラスに紙ナプキンをセットしてくれている。
それから花梨はずっと料理に集中していたが、パスタを茹でる段になりふと見上げると、キッチンの向こう側で、颯斗がスマートフォンをこちらに向けていた。どうやら撮影をしているようだ。
「っ、ちょ……っ、颯斗さん、何してるんですか!」
「花梨が料理をしている姿が可愛いから」
颯斗は撮るのを止めることなく、スマホを向けたまま答える。
「え、ずっと撮ってたんですか?」
「ずっとじゃない。ほんの五分、十分」
「結構長い……! もう、恥ずかしいからやめてください」
「……仕方ないな」
彼はしぶしぶといった様子で停止スイッチをタップした。
「颯斗さんは、オーブンの方見てください。そろそろピザが焼けます」
「分かった」
花梨の指示の通り、颯斗はオーブンを覗く。タイマーはすでに三十秒を切っており、彼はそのままそこで待機してピザを取り出し、カッティングボードに載せた。
そうしてすべての料理ができあがり、二人がテーブルについたのは、五時半を回った頃だった。
「少し早いですけど、冷めちゃいますからもう食べましょうか」
最後に花梨は冷蔵庫からバースデーケーキを出して、テーブルの真ん中に置いた。フルーツがたくさん盛りつけられたラウンドタイプのケーキにはチョコレートで作られたプレートが載っており、そこには『Happy Birthday HAYATO』とホワイトチョコで書かれていた。
「なんだか照れくさいな」
颯斗が呟く。
「颯斗さん、二十九才ですよね。さすがにそれだけろうそく立てられないので、三本だけ入れてもらいました」
そう言って花梨がろうそくを立て、家から持参したライターで火をつけた。
そして彼女は控えめな声音で誕生日の歌を歌う。その姿を颯斗はまた撮影しようとしたが、花梨は断固止めた。なんとか歌い終えると、彼は嬉しそうにろうそくの火を吹き消した。
本当はここでプレゼントを渡した方がいいのだろうが、パスタが伸びてしまうし冷めてしまうので、後で渡すことにした。
「食べましょうか」
いざ乾杯をして食事開始、となったところで、花梨ははたと気づく。自分のワイングラスには白ワインが注がれているのだが、颯斗のそれを見ると、どうも違うものが入っている。
颯斗が掲げたグラスをまじまじと見つめ、花梨は尋ねた。
「あの、颯斗さんは何を飲むんですか……?」
「ん? ……あぁ、これは水だ」
そう言って颯斗は傍らにあったミネラルウォーターのペットボトルを指差した。
「え……ワイン飲まないんですか?」
花梨が知る限り、颯斗は下戸ではないはずだ。夕食を一緒に食べに行った時にアルコールを飲むこともしばしばあったから。それなのに、今日に限って自分は水でいいだなんて、何かあったのだろうかと彼女は心配になった。
花梨はおずおずと玄関に入る。すっきりとした玄関の前には廊下が左右に伸びており、左に行くと寝室、右に行くとリビングや客間があると颯斗が教えてくれた。
とりあえず買ったものを冷蔵庫に入れたいので、キッチンのあるLDKへと案内してもらう。
「どうぞ」
颯斗がリビングのドアを開いた瞬間、目の前に爽やかな景色が広がった。
「わぁ……素敵な眺め……」
LDKの一面がすべて掃き出し窓になっており、そこからの眺望がこの上なく素晴らしかった。桜浜の町が一望できるだけでなく、海や水平線まで見ることができるのだから、贅沢極まりない。
しばらくの間きれいな景色にうっとりとし、それから花梨はキッチンの使い方をざっと教わる。
ペニンシュラキッチンの後ろ側に備えつけられている冷蔵庫には、颯斗が用意してくれた夕食の材料が沢山入っていた。けれど中を見渡してみたところ、普段はほとんど食材が入っていないのだろうと花梨は思った。飲み物と出来合いの惣菜の残りとバターとジャムくらいしか見受けられない。
花梨は振り返り、後ろに立っている颯斗に尋ねる。
「颯斗さん、自炊はしたことないんですか?」
「いろいろと忙しくてな」
「その割には、うちのお店にはよく顔を出してましたけど?」
意地悪い笑みで、花梨は颯斗をチラリと見る。
「自炊する時間があれば、少しでも花梨の顔が見たいから」
「……っ」
あまりにも普通にさらりとそう言われ、言葉に詰まる。頬は少し熱くなった。
花梨は買ってきたものを冷蔵庫にしまうと、一旦キッチンを出る。リビングは何畳あるのか分からないくらい広く、また颯斗らしいと言うべきか、実にシンプルな内装だった。テレビとシアターラック、ローテーブルにソファくらいしか見当たらない。その他のものは壁に備えつけられたクローゼットに収納されているのだろう。
唯一目を引いたのは、クローゼットの隣の壁一面に掲げられた『マグネット』だった。白い壁に大きな白いマグネットシートが貼られていて、その上にはさまざまなご当地マグネットがびっしりと貼られている。
近づいてみると、それらは海外の観光地で売られているものだった。数は優に二百は超えているだろう。ニューヨーク、ロサンゼルス、パリにロンドンにシドニー、ヘルシンキ、カイロ、カンクン――世界中のマグネットでひしめき合っている。
花梨はそれらを一つ一つ指で辿っていく。
「……これ、全部颯斗さんが行った場所ですか?」
「うん。初めて行ったところは必ず買うようにしているんだ。裏には行った日付を書いたシールも貼ってある」
颯斗の許可を得て、試しに一つ剥がして見てみる。裏には白いシールが貼ってあり、そこには彼の言う通り、日付と『出張』と書かれている。おそらく観光で行った場合と区別するためにそう記しているのだろう。
こんなところにも颯斗の思い出を大切にするところが表れていて、花梨の心は温かくなる。
「こうやって記録に残してるんですね……素敵です」
剥がしたものをそっと元の場所に戻すと、花梨はバッグからヘアゴムを取り出し、髪を後ろにまとめる。柚羽にアレンジしてはもらっていたが、緩くしばるだけなのでそれほど影響はないはずだ。そしてさらにエプロンを取り出した。いつも家で使っているものを洗ってきた。
「夕食の準備、しますね。キッチンで手を洗っちゃって大丈夫ですか?」
「ハンドソープが置いてあるからそれを使って。……何か手伝うことはある?」
「颯斗さんはテーブルのセッティングをしていてもらえますか? 食器類も出してくれたら助かります。パスタ用と、サラダ用と、ピザ用と」
「了解」
花梨は再びキッチンへ入り、冷蔵庫から必要なものを取り出して料理を開始した。そこから見渡せるダイニングテーブルに、颯斗は木製の薄いランチョンマットを置き、そこにフォークとナイフ、ワイングラスに紙ナプキンをセットしてくれている。
それから花梨はずっと料理に集中していたが、パスタを茹でる段になりふと見上げると、キッチンの向こう側で、颯斗がスマートフォンをこちらに向けていた。どうやら撮影をしているようだ。
「っ、ちょ……っ、颯斗さん、何してるんですか!」
「花梨が料理をしている姿が可愛いから」
颯斗は撮るのを止めることなく、スマホを向けたまま答える。
「え、ずっと撮ってたんですか?」
「ずっとじゃない。ほんの五分、十分」
「結構長い……! もう、恥ずかしいからやめてください」
「……仕方ないな」
彼はしぶしぶといった様子で停止スイッチをタップした。
「颯斗さんは、オーブンの方見てください。そろそろピザが焼けます」
「分かった」
花梨の指示の通り、颯斗はオーブンを覗く。タイマーはすでに三十秒を切っており、彼はそのままそこで待機してピザを取り出し、カッティングボードに載せた。
そうしてすべての料理ができあがり、二人がテーブルについたのは、五時半を回った頃だった。
「少し早いですけど、冷めちゃいますからもう食べましょうか」
最後に花梨は冷蔵庫からバースデーケーキを出して、テーブルの真ん中に置いた。フルーツがたくさん盛りつけられたラウンドタイプのケーキにはチョコレートで作られたプレートが載っており、そこには『Happy Birthday HAYATO』とホワイトチョコで書かれていた。
「なんだか照れくさいな」
颯斗が呟く。
「颯斗さん、二十九才ですよね。さすがにそれだけろうそく立てられないので、三本だけ入れてもらいました」
そう言って花梨がろうそくを立て、家から持参したライターで火をつけた。
そして彼女は控えめな声音で誕生日の歌を歌う。その姿を颯斗はまた撮影しようとしたが、花梨は断固止めた。なんとか歌い終えると、彼は嬉しそうにろうそくの火を吹き消した。
本当はここでプレゼントを渡した方がいいのだろうが、パスタが伸びてしまうし冷めてしまうので、後で渡すことにした。
「食べましょうか」
いざ乾杯をして食事開始、となったところで、花梨ははたと気づく。自分のワイングラスには白ワインが注がれているのだが、颯斗のそれを見ると、どうも違うものが入っている。
颯斗が掲げたグラスをまじまじと見つめ、花梨は尋ねた。
「あの、颯斗さんは何を飲むんですか……?」
「ん? ……あぁ、これは水だ」
そう言って颯斗は傍らにあったミネラルウォーターのペットボトルを指差した。
「え……ワイン飲まないんですか?」
花梨が知る限り、颯斗は下戸ではないはずだ。夕食を一緒に食べに行った時にアルコールを飲むこともしばしばあったから。それなのに、今日に限って自分は水でいいだなんて、何かあったのだろうかと彼女は心配になった。
0
お気に入りに追加
515
あなたにおすすめの小説
社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる