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第弐部-Ⅳ:尼嶺

170.水蛟 愛され王子

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日向様と紫鷹殿下のお部屋を掃除していると、キィと音がして、隠れ家の扉が開いた。

「おはようございます、日向様。良いお天気ですよ、」
「…抱っこ、」

あらまあ、また怖くなってしまわれたかしら。

今日は学院もお仕事もない休息日だけど、殿下が宮城へお出かけになったから、朝食の後はずっと隠れ家に篭ってしまわれた。
うなされてはいなかったと思う。
でも最近夢見が悪いようだから、怖い夢を見たかもしれない。

急いで駆けつけ抱き上げると、ひどい汗をかいてプルプルと震えていた。

「ここは、離宮、蔵、じゃない、」
「ええ、離宮ですよ。水蛟(みずち)が日向様を抱っこしております。わかりますか、」
「わかる、」
「じゃあ、忘れないようにしっかり捕まっていてくださいね、」
「うん、」

背中を撫でると、安心したように息を吐かれる。
けれど同時に、ぎゅっと体を小さくして首にしがみついてくるから、やはりお辛いのだろう。

夢見が悪いせいか、目覚めて離宮だと確かめることが増えた。
時々、夢現のまま混乱して、どこにいるのかわからなくなることもあるみたい。ひどい時には、起きていても白昼夢のように恐ろしいものを見て呼吸も怪しくなることがあったから、それに比べると今日は随分といいけれど。

笑顔を見せてくださる時間が減って、水蛟は少し寂しいです。
でも、隠れ家で一人で怯えるのでなくてこうして縋ってくださることは嬉しい。

掃除は他の者に任せて、しばらく日向様の背中を撫でながら部屋の中を歩いた。
歩くほどに、腕の中の小さな王子様は落ち着いていかれたようで、少しずつ強張った体から力が抜けていく。
ちょうど窓辺の餌台に青巫鳥(あおじ)も来てくれて、日向様を慰めてくれた。

「ごめん、ね、」

ようやく体の震えが治まって、汗まみれの体を拭いていると、日向様はぽつりとつぶやかれる。
見ると、眉を下げて心底申し訳なさそうな表情をされていた。水色の目がゆらゆらと揺れていて、さっきまでとは異なる不安で今にも泣きだしそう。

「何も謝られることはないでしょう、」
「みずちの仕事、じゃました、」
「私のお仕事は、日向様のお世話ですよ。他にこれ以上大事な仕事なんてありません、」
「…うん、」
「それに、大好きな日向様を独り占めできる時間ですもの、誰にも譲りませんよ、」

本心から告げると、日向様はきょとんとされた後、不器用に笑われる。
伝わったかしら。

近頃の日向様は、色んなことをご自分でされるようになったし、私たちと遊ぶよりも亜白様やご学友と過ごされる時間が増えてきたから、こんな風に日向様をお世話できる時間は、本当に大事。
侍女の数も増えたし、紫鷹殿下の従僕の皆さんも、日向様のお世話にまで手を出してきちゃうんだもの。取り合いですよ。
今も、遊び道具を抱えて入って来た青空(そら)が、悔しがっているのが分かりますか。

成長は嬉しいけれど、さびしくもある。
だからって、こんな風に甘えてくれるのだとしても、怯える日々に戻ってほしいとは微塵も思っていない。
笑って、すくすくと育って、時々振り返ってくれたら嬉しいんです。

お着替えを済ませた後は、東(あずま)さんも呼んで、皆で加留多(かるた)遊びをした。
少し前までお部屋での遊びと言えば、積み木やボール遊び。それが、加留多のような複雑な遊びができるようになってきたのはやっぱり成長の証だと思うの。
トランプやパズルもお好きだけど、普段から字の練習や読書に一生懸命な日向様は、加留多がお得意。

体の動きは鈍いけれど、読み札を探し当てるのは誰よりも早くて、調子がいい時には東さんと良い勝負になるから、ちょっとびっくりしてしまう。
でも今日はいつも以上に体の動きが悪くて、手が届かないことが何度もあった。

「あずま、何枚、」
「半分以上取りましたから、僕の勝ちです、」
「もう一回、」
「次も僕が勝つと思いますけど、」
「もう、一回、」
「はいはい、」

相変わらず、東さんは日向様に対して気安くて、護衛なのにと思っちゃう。
だけど、日向様はそんな東さんに対しては何だか対抗意識があるみたいで、負けず嫌いになるから、いい刺激なのかしらとも思う。東さんの方が年下だから、負けたくないのかしら。
三戦終わったところで日向様の体が震え出して小休憩をはさんだけれど、落ち着くとまた東さんに勝負を挑んで、結局は昼食まで一度も隠れ家に変えることもなく遊んでいられた。


「お昼をご一緒してもよろしいでしょうか、」
「あじろ、」


お昼には亜白様がいらしてくださった。
最近の日向様は、めっきり食が細くなってしまったから、亜白様は特に心配されていて、時間の許す限りこうしてお部屋を訪ねてくださる。

昼食の支度をしている間に震え出して唯理音(ゆりね)にあやされていた日向様も、亜白様の来訪は嬉しかったようで、ぎこちなくではあるが微笑まれた。
それが、亜白様の手に抱かれた小さな籠に気が付くと、目をまん丸にされる。

「かぶとむし、」
「カブトムシも食事の時間ですから、一緒にどうかと思って、」
「いいの、」
「紫鷹殿下もおられませんし、よろしいんじゃないですか?」
「しおう、いたら、泣くね、」
「……殿下は、そんなに苦手なんですか、」

亜白様のお見舞いは効果てきめん。

日向様の意識は完全にカブトムシに集中して、恐怖も不安もどこかに行ってしまったようだった。
唯理音の膝から身を乗り出して食いつく姿に、亜白様も表情を緩められる。

きっと、日向様を思って一生懸命考えてくださったんじゃないかしら。

「そろそろ卵を産む時期なので、もし見つけられたら、幼虫から育ててみようと思うです、」
「たまご、」
「羅郷(らごう)とは気候が違うので、上手く育てられるか分からないんですけど、日向様にも一緒にやっていただけると嬉しいです、」
「幼虫は、赤ちゃん、」
「はい、カブトムシの赤ちゃんです、」
「やる、」

昼食の席は、もっぱらカブトムシの卵と幼虫の話で盛り上がった。
お食事の席のお話としてはどうかと思うんだけど、日向様と亜白様なら仕方ないかしら。紫鷹殿下がいたら卒倒しそう。唯理音はにこにこ笑っていたけれど、私はちょっと食欲がなくなった。

でも、私も殿下もどうでもいい。
大事なのは、ご機嫌な日向様が、お昼のサンドイッチをほとんど召し上がられたこと。
最後の数口がどうしても喉を通らなくて残してしまわれたけれど、ここ数日では一番食べたんじゃないかしら。
亜白様も安心されたみたい。

お食事の後は、日向様がうとうとし出すまで、遊び場で図鑑を広げて、熱心におしゃべりをされた。
林檎にかじりつくカブトムシを眺めるうちに羨ましくなったのか、ご自分も林檎をおねだりされた時には、亜白様も唯理音も私も、嬉しくて顔を見合わせた。


「日向さんもよく頑張っているけど、皆さんも流石ね、」


おやつの後、寝落ちてしまった日向様の髪を撫でながら、董子殿下が仰る。
何のことかしら、と首を傾げると、妃殿下は嬉しそうにほほ笑まれた。

「紫鷹さんから聞いたときは、また隠れ家に戻ってしまうんじゃないかと心配していたのよ。でも、学院もお仕事も頑張っているそうじゃない、」
「どちらも日向様ご自身が、大切にされていますから、」
「そうね。でも、この子はまだ自分の気持ちだけじゃやり切れないことばかりでしょう。皆さんがしっかり支えてくれるからよ。本当に日向さんも、皆さんもよく頑張っているわ、」

仕事ですから、とは言わなかった。
妃殿下が本心から関心してくださっているのが分かるから、ちょっと恥ずかしい。素直にお礼を言ってお茶のお代わりを淹れたけど、顔が赤くなっているのを気づかれなかったかしら。

仕事だから――それも本当。
でも、何より、日向様が必死にもがいていらっしゃるから、どうしたって手を差し伸べたくなる。

指輪の混乱の時、私は魔法塔のお部屋で給仕をしていたから、日向様がどれだけひどく傷つかれたか知っている。指輪は直って一旦は落ち着かれたけれど、翌朝には再び混乱されて、一日中震えが治まらなかった。

それでもその次の日には、お仕事に戻ると仰っておられたんですよ。
お食事もろくに召し上がれなくなって、見るのも苦しいほど弱っていたのに、仕事だからやるんだ、と一生懸命に紫鷹殿下や萩花様に訴えられた。

今妃殿下のお膝で、小さく丸くなって眠る姿は、すごく弱弱しい。
怖い夢を見てプルプルと震えている時もそう。
ご自分の体を抱きしめて小さくうずくまるお姿は、痛々しくて見ているこちらが苦しかった。

そんなにお辛いのに、お仕事もお勉強もいつだって一生懸命。
重たい図鑑を引きずりながら運んで、手帳一杯に文字を書き連ねておられるのを見たら、お支えしたくなるのは当然だと思うの。


お時間が来て妃殿下が退室された後は、まだ眠っていらっしゃる日向様を抱いて部屋の中を歩いた。
隠れ家にお戻しした方が良いかしら、と迷ったけれど、最近は隠れ家よりも温もりに触れる方が安心されるようでもあるから、そういうことにしておいた。


だって、私は一分一秒でも長く日向様のお傍に侍りたいもの。
日向様が安心されるなら、とか、お支えしたい、とか、ちゃんと言い繕える理由も持ち合わせているけれど。
何より、私は日向様が大好きだもの。

お世話できる隙があるなら、見逃しません。


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