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第弐部-Ⅳ:尼嶺

158.萩花 尼嶺の魔法

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「あじろ、あっち!うさぎ!うさぎーーーー」
「わ、本当だ!ひー様、追いましょう、」
「うさぎー、まてー、」

一週間ぶりに離宮に帰ると、裏庭から日向様と亜白(あじろ)様の賑やかな声が聞こえて、張りつめていたものが一気に解けた。
この声を聞くと、いつも安堵する。

「あ、はぎな!おかえり!うさぎ、うさぎ、いた!」
「ただいま戻りました、日向様。お手伝いはいりますか、」
「だいじょぶ!あじろとあずまと、つかまえる!」
「お怪我なさいませんよう、」
「わかった!」

声に導かれるままに裏庭に足を運ぶと、日向様はすぐに私の気配に気づく。
胸のあたりまで伸びた草の中から、黄色の麦わら帽子がひょっこりと覗いて、水色の瞳がこちらを見ると、不思議とすべての疲れが流されて、体が癒える気がした。

日向様の癒しの魔法だろうか。
もちろんそれもあるだろうが、それだけじゃないと私自身がよく知っている。
何の邪もなく、ただ私が帰って来たことが嬉しいと言うように迎えてくれるのが、胸を温かくさせた。
同じくらい、日向様が無邪気に跳ねまわる姿を見られることが、私もただただ嬉しい。

しばらく、草の中をぴょこぴょこと跳ねる黄色の麦わら帽子を眺めた。
姿が見えなくても、うさぎを見つけてはしゃいだり、逃げられて嘆いたりする声が心地よくて、ずっと聞いていたくなる。


本当に、尼嶺の人間とは違う。


つい数時間前まで、私の前に日向様と同じ水色の瞳と髪をした人間がいた。
人か、とつい目を疑うほどの美貌は、確かに日向様に似ている。
それだと言うのに、表情も、仕草も、言葉も、態度も、何一つ日向様と同じところはなくて、ただただ腹立たしさばかりが募った。

思い出すだけで肩が重くなる。
それは気のせい、じゃない。

日向様と紫鷹殿下の婚約の協議のために、何度か尼嶺の王族に対面した。この一週間は、尼嶺の王宮を訪ねて、毎日のよう接触したから、今は確信がある。
日向様の傍にいて、日向様の魔法を感じているからこそ、余計に、そうだ、と思った。


―――尼嶺(にれ)の魔法だ。


この不快感も、言いようのない疲労感も。
意図的にもたらされているのだ。

そのことに思考を巡らせると、脳裏で、日向様と同じ水色が、日向様と似ても似つかない表情で私を見た。
その視線に、腹の奥底でふつふつと煮えた怒りが思い出される。

あの水色。
こちらを試すように、蔑むように見下ろす水色。
日向様を悪し様に言い、ただの駒のように呼んだ。
それでいて、仮面のような笑みで日向様と殿下の婚約を喜んで見せる。

不快感と、嫌悪感、敵愾心、憎悪―――様々な感情を沸かせた水色。


「はぎな、うさぎ!あずまが、つかまえた!みて!」


記憶の中の嫌悪に引きずられそうになった時、弾けるような声に名前を呼ばれて意識を戻す。
見ると、草の間からぱっと飛び出した水色が、きょとんとした顔で私を見ていた。視線が合うと、よたよたと草をかき分けてこちらへと駆けて来る。すぐ目の前までやってくると、小さな手で私の手を握り、透き通った水色で私を見上げた。

「はぎな、お疲れ?」
「……申し訳ありません、少し考え事を、」
「尼嶺のせい、ごめんね、」
「日向様が謝られることはございませんよ、」
「でも、僕の、」
「日向様と殿下の婚約を、私も早く見届けたいんです。これくらい何ともありません、」

本当?と不安げに見つめる水色に、胸の中の翳りが洗われていく。
手の握った場所からはポカポカと温もりが広がって、背中にのしかかるような疲労感も、脳裏を埋めた嫌な記憶もゆるりとその温もりの中に溶けていった。

「あずまが、捕まえましたか、」
「うさぎ、はぎなも、見たら、元気になる、」
「そうですねえ、」
「抱っこ、」
「ええ、もちろん、」

強請られるままに抱き上げると、小さな体がぎゅうとしがみ付く。
途端に、呼吸が楽になって、体が軽くなった。

「おかえり、はぎな、」
「ええ、戻りました、」

その瞳で、全身で、包み込む温かさに、自然と笑みがこぼれる。

あの冷たい氷のような水色ではない。
この水色が私の帰る場所だと思った。

同時に、この場所を守るために、闘わなければならない、と。






妃殿下の執務室で、重い沈黙が流れる。
妃殿下の呼び声で招集されたのは、紫鷹殿下、藤夜、晴海(はるみ)、紫鷹殿下の護衛長の幸綺(こうき)、妃殿下の護衛長の枝折(しおり)、草の二名、騎士団長、それに日向様の魔法指南役の燵彩(たついろ)と灯草(ひぐさ)だ。
すでに話を通してあった妃殿下と晴海は一同の反応を伺っている様子だったが、今日初めて聞かされた面々は、一様に険しい顔をして言葉を失くしていた。

その沈黙を破ったのは、殿下だ。
絞り出すような声は、少し震えていたように思う。

「……つまり、尼嶺の王族は、癒しの魔法を意図的に使っていると?」
「はい、今回の接触で確信しました。尼嶺の王族は、癒しの魔法を操ることで、人心掌握の技としています、」

再び絶句。
言葉を失くして、紫鷹殿下の紫色の瞳が私を見る。
衝撃と疑念、困惑、そしておそらく不安が殿下の胸の中を荒らしているのだろう。
言葉を紡げなくなった殿下の代わりに尋ねたのは藤夜だった。

「……それは、大使も含めて?」
「ええ、以前、貴方も大使と対面した際に、強い不快感を感じたと言っていましたね、」
「あれは…、ひなへの言動が気に障ったのだと思っていたけど…、」
「勿論それもあります。ですが、それにしても、感情の制御が難しいと言う違和感がありました、」

日向様と紫鷹殿下の婚約を正式に申し込むために、尼嶺の大使に対面したのは、もう随分と前だ。
あの時は、私もまだ違和感を覚えた程度だった。
尼嶺の大使が常に癒しの魔法を発動しているのは感じていたが、日向様のそれと変わらなかったから、気には留めても警戒するほどではないかと思っていた。

だが、婚約の協議を重ねる中で、王族と接する機会が増えるうちに違和感は増していった。

「王族、あるいはそれに近しい者に接触するたび、不快感と強い疲労感を感じました。私の場合、思考を邪魔するほどではないのですが、気分を害するというか、感情を左右される感覚が常にありました、」
「それが癒しの魔法だと?」


「そもそも、我々は尼嶺の魔法を『癒し』の魔法と捕らえていましたが、そこが間違いでした、」


訳が分からない、と言うように紫鷹殿下の顔が歪む。
私自身、その確信を抱くまでに時間がかかった。
尼嶺の癒しの魔法は有名だが、魔法そのものは門外不出で、尼嶺の王族以外には扱える者がいない。私も実際にその技を体感したのは、日向様が初めてだった。

日向様は、『癒し』の為に、その魔法を使う。


「仮に『癒し』の魔法と呼びますが、その癒しの力は一側面です。日向様は常に癒しの方向へ魔法を発動させていますが、尼嶺の王族はその逆、不快の方向へも癒しの魔法を発動させることができると推測しています、」
「逆…、」
「我々はすでに、日向様が魔力を隠された時に、癒しの魔法の不在が心情に与える影響を体験しています、」


魔力鍛錬で、日向様が魔力を抑制した瞬間、私は自分の体が重くなるのを感じた。
日向様が常に癒しの魔法を発動されているから心地よさに慣れていたが、いざ失われると少々の不快感を感じる程にあの魔法の影響力は強い。
日向様が癒しの方向へ働かせていた魔法を、ゼロにしてそれだ。

「逆方向、つまり、負の方向へ癒しの魔法を働かせた場合、周囲の人間の気分や感情に大きく影響するものと考えます。尼嶺が交渉に長けるのは、この技の影響もあるかと。」
「交渉相手の気分を操作しているのか…、」
「正と負の感情を自在に操れるのであれば、交渉を有利に運ぶことは楽でしょうね。実際、同行した官吏が予想外に声を荒げたり、譲歩したりする場面がありました、」

精神に干渉するような魔法は、魔力が強いほど影響は少ない。
私は立場上、身体守護や加護の魔法を装備しているし、感情制御の術も身に着けている。魔法の発動を感知することもできるから備えることができた。何しろ、日向様と普段接しているおかげで癒しの魔法は馴染み深い。

だが、宮城の官吏はそのどれもなかった。
草出身の者でさえ、気分が動くのを感じたという。

「婚約の協議が進まないのは、これが原因かと思います。日向様との婚約を了承しながら、未だに他の王族の入る余地を模索しているのかと、」
「……気分を操作できる者を内側に送れば、操りやすいもんなあ、」
「ええ、」

だからこそ、日向様が人質だったのだとも思った。
人心掌握の術は知られないからこそ、意味がある。門外不出にするためにも、尼嶺の王族を帝国の人質には取られたくなかったはずだ。
尼嶺の王族が口をそろえて無能だと言う王子なら、人質にしても構わなかったのだろう。

そのおかげで日向様が笑うのなら、感謝はする。

だが、同時に多くの問題も抱えた。
険しい表情をした紫鷹殿下には、分かっただろう。
この方は、無能な皇子ではない。

「そんな魔法があると知れたら、まずいんだな、」
「……帝国が備えるためには、明らかにすべきとは思いますが、日向様のお立場が悪くなります、」
「朱華(はねず)辺りは、日向を寄越せと言うだろうなあ、」
「正式な婚姻、せめて婚約が済んで、日向様のお立場が確約された後であればとは思いますが、」
「それまでは、隠したまま、備えを立てろと言うことだな、」
「はい、婚約の儀には、両殿下も参列されるとなれば、影響を受けないように手立てが必要かと、」
「うん、」
「尼嶺の魔法は、癒しの魔法だけではありませんから、」

治癒の魔法。
ご自身の、あるいは殿下の傷を治すために、日向様は治癒の魔法を使った。

けれど、もし、その逆が可能であれば。
人知れず、人を害することが可能であれば。

そのような魔法が存在する場所へ、妃殿下や紫鷹殿下をお連れするわけにはいかない。
勿論、日向様も。


「日向との婚約が…こんなに大変だとは、」


紫鷹殿下はうなだれて頭を抱えたが、辞めますか?とは誰も聞かなかった。
初めからその選択肢が殿下にないことは誰もが知っている。

なら選ぶ道は一つだ。

「魔法への対処にも関われるか、萩花(はぎな)、」
「他におりませんでしょう、」
「今も相当負担をかけているのに、すまない。晴海、草からも頼む、」
「すでに萩花様に必要な人材を選出していただくよう、お願いしております。草からはいくらでもどうぞ、」
「那賀角(なかつの)も必要だな、」
「手配しておきます、」
「頼む、」

紫鷹殿下が妃殿下を振り返ると、妃殿下は頷いて応えられた。

「あとは、……日向か、」
「できる限りご負担にならないようにとは考えておりますが、協力は不可欠になると思います。よろしいですか、」
「……俺から話す、」

できることなら、尼嶺とかかわることに日向様を巻き込みたくはなかったのだろう。
だが、尼嶺の魔法を知る者は、日向様の他にいない。
その事実に、殿下は痛みをこらえるように苦悶の表情をされた。

ここが正念場です、殿下。
どんなに望んでも、日向様が尼嶺の王子であることに変わりはない。
切っても切れない縁を少しでも遠ざけるために、私たちは尼嶺を知らなければならない。

日向様を半色乃宮の日向様にするために。
殿下の伴侶とするために。


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