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第弐部-Ⅲ:自覚

145.誰か 僕の妖精

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きゃー、と黄色い歓声が上がった。
見ると、ご令嬢たちが中庭につながる石畳の上ではしゃいでいる。

その先から、紫色と水色の人影が歩いてくるのが見えて、僕の胸は高鳴った。
たまらず、木陰に根を張りかけていた腰が浮く。


日向様だ!
尼嶺(にれ)から来た水色の妖精。


その妖精が、皇子殿下の腕に抱かれて、令嬢たちに手を振っている。
黄色い歓声があちらこちらから上がるのを横目で見ながら、少しでいいからこちらを見ないかな、と期待した。

その期待が伝わったのだろうか。
そんなはずないと頭ではわかるのに、なぜかそうだと思わせる引力が、あの方にはある。
小さな手が、こちらに向かって振られた

いや、僕だ!
僕に向かって、日向様が手を振った!

きゃー、と黄色い歓声が上がるのに混じって、僕も歓喜の雄たけびを上げた。





「日向様、ものすごい人気ですね…、」
「救護室が大変なことになってましたよ!もう日向様の魅力に卒倒する方が続出です!」
「演習場への道も大混雑でした。日向様を一目見ようと、すっごい人だかり!」
「ひぃ……、で、殿下、お怒りでは……、」

普段なら人気のない演習場への道が、群衆ですごいことになっていた。
その波をかき分けてようやく辿り着いた竹林の中で、利狗(りく)と若葉(わかば)、萌葱(もえぎ)、稲苗(さなえ)の声が聞こえる。

稲苗が日向様に声をかけていただいたのをきっかけに、いつの間にか日向様の取り巻きのようになった四人組だ。
今日も竹の枝葉で日向様が傷つかないように道を作りながら、日向様とともに演習に参加している。

うらやましい。
正直、滅茶苦茶うらやましい。

「……僕が王子をやったら、しおうは、いっぱいしっと、になった、」
「萌葱、お前のせいだからな、」
「え、私ですか!?」
「……もえぎは、いい。しおうが、悪い、」
「何でだよ。おい、こら日向。今日は俺といる約束だろ。」
「ひな、しおうは俺に任せて、行っておいで、」
「……もえぎ、行こ、」

ギャーと、皇子殿下が喚くのが聞こえたけれど、僕は日向様と萌葱に釘付けだ。
あんなに親し気にお話しされるのもうらやましいのに、萌葱は日向様と手をつないで竹林の中を歩きだす。
ぴょん、と黄色い麦わら帽子が跳ねると、僕も殿下に負けないくらい嫉妬でいっぱいになった。

春に日向様が初めて学院にいらした時、僕は妖精が舞い降りたのかと思った。
水色の髪と瞳の、美しい妖精。
紫色をまとった皇子殿下が抱かれなければ、日の光に溶けて、すぐにも見失ってしまいそうな程透き通った方だった。


一目ぼれだった。


勉学にしか興味がなくて、授業で組む以外には他の学生に興味のなかった僕が、初めて人に目を奪われた。
勿論、その妖精が皇子殿下のご婚約者様だと知って、すぐに失恋したけれど、以来、僕の学生生活は景色が180度変わった。


「……さなえ、あれは?」
「あの竹ですか?うん、節の間隔も整ってますし、色も綺麗ですね。いいと思いますよ、」
「……あれに、する、」
「わかりました。利狗、頼む、」
「はい、」

鋸を抱えた利狗が、日向様の選んだ竹に歯を入れる。
うん、さすが日向様、お目が高い。実にいい竹だ。

惹かれたのは、その美しい容姿であったけれど、運よくご一緒させていただいている生態学の演習で、日向様の目敏さに幾度も驚かされた。

とにかく目がいい。
蜘蛛でも、アメンボでも、魚でも、誰より多く見つけた。
今日は加工するための竹を選別して伐採する演習だけど、こういう時に良いものを選べるのも、日向様のすごいところだ。

失恋はしたけれど、日向様を知るにつけて、ますます惹かれる。


ああ、日向様がその小さな手に鋸を握られた。
大丈夫だろうか、怪我をされないだろうか、力が必要だけど、日向様にできるだろうか。
不安で見守っていたら、若葉が日向様の手に自分の手を添えて一緒に鋸を引いたから、僕の胸の中はまた嵐のように荒れた。


「……真っすぐ?」
「はい、利狗が倒す方向を考えて切り込みを入れてくれましたから、そこから竹に対して真っすぐに歯を入れます。それで引く、」
「……切れた!」
「ふふ、切れましたね。これを繰り返したら歯がどんどん竹に入っていきます。頑張れますか?」
「……やる!」


ぴょんと跳ねたのを、危ないですよ、と稲苗がたしなめれば、日向様は、ごめんね、と謝り鋸に集中する。
鋸に喜んだお姿は、もうずっと眺めていたいほど可愛らしかった。それが、真剣な眼差しに変わると、この竹林に舞い降りた日陽の妖精かと思わせるほど、美しいお顔をされる。

ああ、若葉。君の場所を代わりたい。
それが無理なら、稲苗に変わって、日向様をお守りしたい。
萌葱は何かしでかしたようで、さっきから殿下に睨まれているが、お側に寄れるならそれだって構わない。
利狗は少し離れて眺めているけれど、君が日向様をよく見られる位置を陣取っていることに僕は気づいているぞ。そこを代われ!

「……かたい、」

遠目にも黄色い麦わら帽子の下のお顔が、汗を流されているのが分かった。
ここしばらく、体調のすぐれないであろう日向様には、やはり難しかったのではないだろうか。竹林の中は影が差して幾分涼しいとはいえ、もう夏だ。

「僕、やりましょうか?」
「……あずま、やらない。僕がやるの、」
「手、赤くなってるじゃないですか。やりますよ、」
「やらないの、あずま、あっち行って、」

はいはい、と東さんは日向様の視界からはずれる位置に戻る。
日向様の護衛だと聞いたけれど、気安すぎやしないか。
いや、それはどうでもいい。

東さんがお手伝いされないのであれば、僕がしましょうか。
日向様の代わりにいくらでも竹を刈って見せます。でも、きっと日向様はご自分でされたいのでしょうから、僕が手を取って、若葉に代わってお手伝いしましょう!

そうだ、僕でいいはずだ。
なんせ、日向様が手を振ってくださった。
僕の方を……僕を見て、射止めてくださった!


ならば、と足が動く。


でもその次の瞬間には、もう一歩も動けなかった。



「……かたーいぃ、」
「頑張ってください、日向様 !もう少しです!」


日向様の可愛らしい悲鳴が児玉するというのに、いつもの多幸感がなく、背筋が震えた。体の芯からガタガタ広がって、膝に力が入らなくなる。寒い。なのに、汗が止まらない。なぜか息が苦しくて、動悸がした。

「やっぱり、僕がやりますよ、」
「来ないの!あずま、あっち、」
「じゃあ、へばってないで頑張ってください。後少しじゃないですか 、」

日向様の視界の外で軽口を叩く東さんが、こっちを見ている気がする。
動くな、と声も聞こえた気がした。

「ひな、頑張れ。もうちょっとだよ、」

僕からは、藤夜様の背中しか見えないのに、やはり見られている。何故だ。

「日向、それが終わったら休憩な。汗をかきすぎだ、」

紫色の瞳と目が合った。
間違いない。
確かに、確実に、明確に、明らかに、疑いようもなく、僕は殿下の瞳に見られていた。

ミシッと音を立てて、竹が倒れる。
わー、と愛らしい歓声が上がったが、殿下の背中が黄色の麦わら帽子ごと隠してしまって、喜ぶ姿は見えなかった。

「……しおう、できた!」
「うん、できたな。さすが、俺の日向だ、」


俺の。
紫鷹殿下の。
帝国第8皇子殿下の。


その声が耳から身体中に広がって、僕を貫いた。

そうだ。
あの妖精は、皇子殿下の婚約者様だ。
殿下が慈しまれる愛し子。

僕の手が届くわけがない。
万が一届いてしまえば、僕に明日はないのだろうことが、一瞬で理解できた。

震える膝を叱咤して、一歩下がる。
その瞬間に、肌を刺すように痛んだ視線が消えたから、僕の理解は正しかったのだと思った。


「竹は俺達が運んでも構いませんか、」
「悪いな、稲苗。頼む、」
「……僕も、やる、」
「日向は休憩。…そんなに見つめてもダメだよ、」
「……さあらは、王子が見つめたら、うん、って言った、のに、」
「分かっててやってるんだもんなあ。本当に質が悪い。でも残念だったな。そんな風に見つめられたら、俺はますます日向を離せなくなる、」
「……しっぱい、」
「萌葱、お前のせいだからな、」
「えええええ、私!?」

はは、と皇子殿下の声がして、稲苗や双子、利狗の笑い声が広がる。
不満を訴えていた日向様は、諦めたように殿下の腕に抱かれていた。

雲上の出来事だ。
僕にできるのは、羨ましい、とその光景を眺めるだけ。
それで十分だと思うしかない。
運よく、生態学の演習でご一緒できただけでも、僕の人生で忘れえぬ思い出ができたのだ。そう思おう。


だけど、ふと水色がこちらを見た。
殿下の肩に顎を乗せ、水晶玉のような瞳をパチリと瞬かせて、僕を見る。
こてん、と頭を傾げたと思ったら、小さな手が、僕に向かって振られた。

「あ、こら。せっかく牽制したのに、また誑かすな、」

すぐに殿下が隠してしまわれたけれど、僕はもう天に昇った。

ああ、日向様。
僕の妖精。
僕の初恋。



そんななことが、竹林のあちこちで起きていたことは、後になって知った。



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