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第弐部-Ⅲ:自覚

133.紫鷹 日向の変化

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ぅあー、と遠くで泣く声がした。
ああ、日向が泣いている。
今の今まで幸せそうにふにゃふにゃと笑っていただろう。
怖い夢を見たか?できない、とまた何か不安になったか?

ぼんやりとした頭で、早く日向を甘やかしてやらないと、と思った。
思って、急激に背中が冷えて、覚醒する。


「日向!?」


跳ね起きて、瞬時に水色を探した。
隣にいるはずの水色がいない。
それなのに、泣き声は確かにした。

ベッドの脇。
布団の塊が小さく丸まって落ちていた。
その下から、か細く赤ん坊のような泣き声がする。

「日向、」

心臓がバクバクと脈打つのがうるさい。
俺に縋るでもなく、隠れ家に籠るでもなく、ただ布団に包まって泣いているのが、意味がわからなかった。具合が悪くてベッドから起き上がれなかった時以外に、こんな泣き方をしたことはないだろう。
ベッドから落ち怪我をして動けなくなったか、と血の気が引いた。

「日向、どうした。布団を取るぞ、」

言うより早く、布団に手はかかる。
けれど、それを拒むように布団は内側へと巻き込まれていった。
その内側で、今も日向は声をあげて泣いている。

「日向。頼む、顔を見せて。」

焦る気持ちを押し込めて、できるだけ優しく声をかけた。ーーつもりだったが、上擦ってうまくいかない。
代わりに、小さな布団の山を覆うように抱きしめて、少しでも日向の近くで声をかけた。

「怖かったら出て来なくていい。ただ、怪我をしていないか、教えてほしい、」
「…し、ない、」

泣き声の合間に、小さく声がして少しだけ安堵する。
それでも何がなんだかわからなくて、また腹の底がそわそわと落ち着かなくなる。

「どこか痛むか?」
「な、い、」
「怖い夢を見た?」
「なぃ、」
「…なんで泣いてるか、話せるか、」

そう尋ねた瞬間、泣き声が激しくなって、思わず強く布団を抱きしめる。
扉の外に気配が増えたから、従僕と侍女と護衛にも異様な状態だとわかるのだろう。俺に任せるべきか逡巡しているに違いなかった。

なあ、日向。どうした。

しばらく、ただ布団を抱きしめて、日向が落ち着くのを待った。
ひとしきり泣くと、力尽きたように布団を巻き込む力が弱くなっていく。
本当は待つべきだったかもしれない。日向が自分から布団を開いて顔を見せるまで、辛抱強く。

でもなあ、お前の泣き声で目覚めた頭は堪え性がなかったよ。
日向を暗い場所で1人で泣かせたくなくて、日向の意思を確かめもせずに布団を剥いだ。

びくりと大きく震えて、そのまま、体が固まったな。
俺が丸まった小さな体を抱き上げると、奥底から込み上げた震えが全身に広がって、頭も肩も手も足も小刻みに震えた。

何が怖い、日向。

「ここが離宮だってのは、わかるか、」
「わか、る、」
「怖いのは、俺?」
「ちが、ぅ」
「なら、俺はここにいるよ。日向を抱いてるから、ゆっくりでいい、」
「ごめ、ん、」

手も足も小さく折りたたんで、ギュッと丸くなっているせいで、顔が見えない。
隠れ家の中でもこんな風に丸くなっているんだろうな。小栗ができるだけ手足を伸ばしてやりたいと言っていたのにな、と働かない頭で考えて切なくなった。

寝巻きから覗いた手足に怪我はない。
頭を胸の方に縮こめているせいで剥き出しになった首にも、古傷以外にはなかった。頭も寝癖の外は昨晩と変わらない。服の上から触れた背中もこれと言って何か異常があるわけではなかった。


ふと、日向の小さな手が、大腿の当たりを握っているのに気づく。
寝巻きの下衣を強く引いて、そこに体を丸めている気がした。


足か、と焦る。
未だに長く歩く術を持たない日向の足は、簡単に腫れて痛むから、それかと。

だが、その足を撫でた時、下衣が汚れているのに気づいた。
濡れて、乾いて、白くなっている。

それが何か、俺は男だから、すぐに分かった。


「ひな、た、もしかして、」


喉が酷く乾いて、声が割れる。初めからうるさかった鼓動は、さらにうるさくなって、頭が沸騰する気がした。目が熱い。
無意識に手が伸びる。気がつくと、俺の手は、日向が強く握りしめた拳を捕まえていた。


「ゃ、だ、しぉ、」


固まっていたはずの体が、ぶるぶる震えながら、ぎゅうとさらに小さく縮こまっていく。
声が、ほとんど悲鳴のようになって行くのが、苦しかった。

血の気を失うほど強く握られた小さな拳。
多分、服の下の皮膚に爪を立てている。
それを解きたくて、冷たくなった甲を撫でた。


「……日向、大丈夫だから。これは悪いものじゃない、」
「や、だ、」
「日向が成長した証だよ。大丈夫、」
「ぃら、なぃ、」
「怖かったら、俺にしがみついて、お願い、」


おそらく、眠っている間か、起きがけに吐精したのだと思う。
昨晩、俺が散々に甘やかして、日向を溶かしたせいかもしれない。

多分、日向にとって、初めてだ。

成長するための栄養も環境も無かった体が、ようやく大人へと育つことを始めた。
そのことは、間違いなく喜ばしいことで、俺の胸の内にあるやましい心は、それを喜んでいる。


だけど、それだけじゃないことを俺は知っている。


「日向、」


今度は、俺の頭は辛抱強く耐えてくれた。
日向の肩から手までゆっくり撫でて、小さな体が自分から力を抜いていくのを待つ。


「大丈夫、俺がいる。大丈夫だよ、」


喉の奥から泣き声とともに、嫌だ、と繰り返す日向をただひたすら待った。


大丈夫だよ、日向。
ここには、お前を傷つける者は誰もいない。
小さかったお前に、無理矢理、欲をぶつけた男も、誰もいない。


「草」が記した報告書の中に、日向が受けた仕打ちがあった。
いかに草が優秀であっても日向の15年の全てを知れるわけではないから、ほんの一部だろうけれど。
その中に、性的な暴力が含まれていたのを俺は知っている。

日向の風呂の世話が、宇継(うつぎ)以外に許されないのは、そのためだ。日向の身の回りの世話を従僕でなく、侍女に任せるのも、日向に刻み込まれた恐怖に配慮してのことだった。
大人たちが、俺に暴走するなと言うのも。


「大丈夫、大丈夫、」


何度も繰り返して、日向の腕を撫でる。
長い時間をかけて、日向の爪を細い大腿から、俺の腕に移した。ぴりっと痛みが走るが、そのことがむしろ俺を安堵させる。

それでいい。
怖いのは、俺にちょうだい。
頼むから、1人で泣くな。


腕から少しずつ、日向の体を解いた。
起きてからどれだけの時間が経ったかはわからない。それくらい長い時間をかけて、ようやく上半身を腕の中に抱くことができた。


「…ぃら、ない、」


もう体を強張らせる力もないのかもしれない。
腕の中で、ガクンと力が抜ける感覚があり、焦った。
同時に聞こえた声が、あまりに弱々しい。
覗き込んだ水色が虚ろだった。

「日向、」
「いら、ない、大きく、なら、なぃ、」

身長が3センチ伸びたと、あんなに喜んだのにな。
できないことだらけでも、できることが増えて、確かに成長しているのが、あんなに嬉しかったのにな。

なぜ日向から、その喜びを奪うんだ。

「こぁい、」
「うん、」
「ぃゃだぁ、しぉ、こぁい、」
「側にいるよ、日向、」
「こわ、い、」

「たす、けて、」

ぎゅうと、強く腕を握られた。
鋭い痛みを感じたその直後に、虚ろながらも俺を見ていた水色が光を失って、頭を落とす。

意識を失くしてようやく足が解け、日向の恐怖を晒した。

ほんの小さな染み。
たったそれだけのものに、こんなにも怯えるのか。
一体、どれだけの恐怖を、植え付けられたんだ。


「殿下、」


扉のところで、萩花(はぎな)が俺を呼ぶ。
日向を抱いたまま、いつの間にか泣いていたことに、その時になって初めて気がついた。

「日向様は、」
「…夢精したらしい、それで混乱した、」
「そうですか、」
「宇継を呼んでくれ、」
「ええ、」

宇継が来るまで、青白い顔を眺めた。

ずっと、この小さな王子を俺のものにしたかった。
口づけだけじゃ足りなくて、肌を重ねて、一つになりたいと、何度も何度も邪な思いを抱いた。
だけど、日向の中に巣食う恐怖を思うと、いつも尻込みした。


なあ、日向。
どうしたらいい。
どうしたら、お前をその恐怖から救ってやれる。

日向は多分、俺が触れるのは嫌がらないと思う。
俺のすることと、尼嶺の従兄弟がしたことは違うと分かっていると思う。

でも、日向にとって、やはり、それは恐怖の対象だ。

俺は、お前を幸せにしたいんだよ。
繋がることが許されるなら、そんな恐怖もなく、ただただ気持ちよく幸福の中に浸からせたい。

大きくなりたくないなんて、言わせたくない。
成長することを恐れさせたくない。
日向自身の精を、お前を傷つけた者たちと同じだと思わせたくない。



宇継が来て、深い眠りに落ちた日向を風呂に連れて行った後も、頭の中ではずっと日向の青い顔を見ていた。


お前が、本当に笑えるようになるには、どうしたらいい。


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