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第壱部-Ⅵ:尼嶺の王子

66.藤夜 友の生まれが変わらぬように

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いつもなら日の出前に始まる鍛錬が、今日はなぜか朝食後になると知らせがあった。

何がどうしたのかと向かえば、何か、すごいことになっていた。
萩花がひなの護衛になって、朝の鍛錬に参加するようになってから、身体の鍛錬も魔法や剣の鍛錬も格段にレベルが上がったと感じていたけれど。
今日の鍛錬は、鍛錬というか、何かの懲罰かと思った。


「…お前、何してくれてんの、」


屍のように椅子に沈み込んだ紫鷹がうらめしい。
この馬鹿皇子のせいで、俺までとばっちりを受けた。
董子殿下の執務室で、俺はお前みたいに屍になれないんだよ。理不尽が過ぎる。

「お前も座れ、」

腹立たしさで屍を叩くが、ぴくりともしない。
鍛錬の直後はほとんど引きずるように部屋に戻して、従僕に世話を任せた。
何とか身なりを整えさせて、執務室に連れてきたが、もう役に立たないだろ、これは。



「あらまあ、紫鷹さんはどうしたのかしら、」


執務室に入ってきた菫子様が問うが、言葉の割に大して心配しているようにも見えなかった。
紫鷹以外の面々が、一礼して、菫子様の合図で着席する。
お気になさらず、とかろうじて返答した紫鷹は、ほとんど無視された。


「日向さんは大丈夫なの?」
「ええ。今日は厳しい稽古の予定があると前もってお伝えしておりましたから、備えられたようです。先ほど確認しましたら、魔力の制御も問題なくお過ごしのようでした、」
「あらまあ、それは良かったわねえ、」

菫子様の心配に、萩花が涼しい顔で答える。
さっき俺は、この年上の友人の鬼のような姿を見たんだが、気のせいだっただろうか。

聞くところによると、昨晩、ひなが紫鷹を風呂に誘ったのだと言う。
もちろん侍女や護衛がうまく防いだが、この馬鹿皇子はひなに誘われた事実によほど興奮したのだろう。風呂から出たひなに甘えて、やらかしたらしい。

詳細は知らない。
友のそういう事情まで知りたくはない。

ただ、ある程度は紫鷹のひなへの態度を許容している萩花が、怖い笑顔で紫鷹をぶちのめしていたから、押し倒すかそれに近いことをしたのだろうと推測した。
ひなは昨晩、夕食も摂れずにぐったりと眠ったという。


「ちゃんと日向さんの気持ちを尊重なさいね、紫鷹さん。」


母親に何を言わせてんだ、お前は。
屍もさすがにびくりと反応するが、董子様が気にも留めないので、起き上がる様子はなかった。
萩花の扱きはもちろんしんどかったのだろうが、何となく精神的なダメージがでかい気がする。お前は本当に、何をしでかしてんだ。

「それで、日向さんは、最近外に出ているようだけれど、」
「ええ、青巫鳥(あおじ)と裏庭で遊んでおります。」


「そう…、なら少しはマシかしらねえ、」


マシとは。


董子様らしくない、と思った。
同時に、何となく嫌な感覚がして、体に力がこもる。
そもそも、この執務室に入った時から、何となく嫌な感じがあった。

紫鷹の侍従である俺が、董子さまの執務室に呼ばれるのはさして珍しくない。
だが、いつもは紫鷹と2人で呼ばれるところに、今日は萩花と畝見(うなみ)がいた。

間違いなく、ひなについて、何か重要な話があるのだと察せられる。



「春の式典だけれど、」



菫子様がそう口にされ、やはり、と眉が寄る。
椅子の上に沈んでいた屍もわずかに動いた。

「皇帝陛下から、日向さんの参加を望むとお達しがあったわ、」
「は?なぜ、今更、」

あらまあ紫鷹さん、起きたの、と菫子様が笑う。心なしか元気がないように感じた。
紫鷹はそんなことに気付く余裕もないだろうが。

「陛下は半色乃宮(はしたいろのみや)に任せると仰られたはずです、」
「朱華(はねず)さんが何かを言ったのでしょう。ここのところ陛下は、体力が落ちたのを自覚されて、朱華さんを頼る傾向がありますから、」
「いや、でも、日向を参加させたところで、なんのメリットがあると言うんですか、」
「陛下になくても、朱華さんにはあるでしょうね、」


包み隠しもせずに言う。
菫子様は真っすぐ、狼狽える息子を見た。

半色乃宮の力は、朱華殿下の脅威になるから。そういうことだろう。
皇室の中で、民の人気が1番高いのが菫子様だと言うのは、周知の事実だ。外交力が高く、現宰相を兄にもつ菫子殿下は、国内外への発言力が高い。国民の中には、董子様の発案と言うだけで、諸手を叩いて賛同するものも少なくなかった。

まだ公に国政へ参加しない紫鷹とて、朱華殿下にとっては変わらないのだろうと思う。
菫子様の人気によって、紫鷹の人気も上がる。皇位継承順位は低いとはいえ、紫鷹は他の皇子や皇女よりも後ろ盾が強い。その紫鷹を押さえておきたいだろうことは、容易に推測できた。


朱華殿下が興味があるのは、ひなじゃない。
半色乃宮であり、董子さまや紫鷹だ。

「俺や離宮のために、日向を差し出す気はありません、」
「私も同じ気持ちですよ、」

でもねえ、と菫子様は続ける。


「日向さんは、尼嶺の王子なのよ、」


紫鷹が息を呑むのが聞こえた。
萩花と畝見は、微動だにしない。
俺はどうっだっただろう。

とっくに知っていたはずの事実に、胸が痛む。


「紫鷹さんに、皇子として果たすべきお役目があるように、日向さんにもあるの。その役目を果たせなかった時の責を負うのは、日向さんよ。」

「です、が、」
「ええ、日向さんは王子としての教育も、礼儀や作法も学んでいないわ。王家に生まれた恩恵さえ、受けてはいないわね。…それでもねえ、日向さんが尼嶺の王子であることは変わらないの、」


「日向が、壊れます、」


泣き出しそうな友の声が、苦しかった。

ひなが小さな体で泣く姿が、ありありと浮かぶ。ベッドの上にぐったりと横たわり、いつ命が途絶えるかと不安になった姿も。隠れ家の中で、怯えて震えていた姿も。

紫鷹さえ折られた重荷を、ひなが背負えるとは俺だって思えない。


「日向さんを引き受けたことで、帝国の事情に巻き込んでしまうことは、分かっていました。それでも、尼嶺に置くより、日向さんには良いと。私とてできることなら、日向さんには何の苦痛もなく暮らしてほしいわ。」


だけど、ひなは王子だ。
一介の市民なら、隠して育むこともできただろうが、ひなにはそれが叶わない。

ひなが王子として生まれたことは変えられない。
紫鷹が皇子であるように。生まれた時から責務を負うように。
ひなにも負うものがある。


ひなは、望まれればその責務を果たさなければならない。
人質としてこの帝国へ来たように。


「式典への参加は可能な限り拒めるよう動いています。ですが、もし日向さんがその責務を負わねばならないのならば、全力でその重荷を軽くすることが、私の役目だと考えています。」


尼嶺の王子である。
そのことも含めて、ひなだ。

ひなを、守るということは、ただ慈しみ育むことじゃない。


「そのために皆の力が必要です。」


紫鷹と同じ紫色の瞳が、優しく強く瞬いていた。
萩花と畝見は、すでにうなずいた。
2人は元より、ひなを守るためだけにここにいる。

俺は紫鷹を見る。
お前はどうする。

心は決まっているが、主を待った。


「…俺は、ひなを守れるなら、何でもします。」
「そう、」
「でも、俺はまだ弱くて、たぶん足りない。」
「そうね、」

「母上の力を貸してください、」

紫鷹が言わずとも、董子様はそうしたろう。
でもきっと、お前の母君は、お前の言葉を待っていたんだと思うよ。
少し前なら、こんな風に待ちはしなかった。でも、ひながお前を変えた。

ひなの一挙手一投足で、お前は心を乱すし欲にも溺れる。
その一方で、ひなを守るためなら、すくむ足を前に進めることができるようになった。

その変化を、誰よりも董子さまは分かっているのだろう。

「もちろんです、」

董子さまが慈母の微笑みでうなずく。
それから、俺を見た。

俺も少し変わった。
ひなのおかげかもしれないし、紫鷹のせいかもしれない。

紫鷹を守るのが俺の役割ではあるけれど、俺とてひなを守りたい。
同時に、ひなを守ることが、紫鷹を守ることでもあるとも。
だから心は決まっている。

紫色の瞳にうなずくと、董子さまは、また慈母のように微笑まれた。

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