上 下
41 / 50
破局への転調

2

しおりを挟む
 十数分後、千晶は家の近くにあるカフェで、アンジェロと向き合っていた。
 アイスグレーのシャツと黒のデニムという地味な格好ながら、居合わせた客たちがチラチラと視線を向けてくる。
しかし当のアンジェロは、いったいどういう表情をすればいいのか迷っているように見えた。
 話があるからと呼び出されたのだが、エスプレッソを注文した後はずっと俯いたまま黙っている。

「元気そうでよかった」

 千晶もそう口にしたものの、その後は言葉が見つからない。

 ――どうしてここがわかったの?
 ――私に話って何?

 訊きたいことはいくつもあったが、すでに答えはわかっていた。
 実家の住所を教えたのは、健診センターの看護師長である田崎だろう。
 辞職願を出した時、彼女にだけは本当の理由を打ち明けたが、退職そのものにも、逃げるような別れ方にも強く反対された。千晶の気持ちは理解できるが、ちゃんと話し合って決着をつけるべきだというのが、田崎の主張だった。
 また千晶はアンジェロに内緒で、マネージャーの西村にも別れの手紙を託していた。演奏旅行の日程が無事に終わったら渡してほしいと頼んだのだ。
 最後のリサイタルが四月三十日だったから、アンジェロはそれを読み、帰国して早々に千晶を訪ねてきたのだろう。
 ツァーの間、彼からの手紙やメッセージは何度となく届いた。一方の千晶は母の介護のために仕事を辞めることを伝え、それを理由に返事もあまり書かなかった。
 しかし今日、アンジェロは両親の元気な姿を目にしている。もう二人のことを別れの言いわけにするわけにはいかなかった。

「千晶は……僕が嫌いになったの?」

 運ばれてきたエスプレッソが冷たくなりかけたころ、アンジェロが目を伏せたまま言った。

「だから別れたいの?」

 まるで五歳の順がするような、あまりに真っ直ぐな質問で、千晶は思わずたじろいだ。

「わ、私は……」

 彼の来訪も、交わされる会話も想定していたはずなのに、まともな答えが返せない。
 アンジェロは顔を上げ、千晶を見据えて、「違うよね」と呟いた。

「だったら、僕は千晶のそばにいたい」
「アンジェロ!」
「嫌われていないのなら、何度でもここへ君を迎えに来る。もちろん順も」

 アンジェロが立ち上がって、手を差し出してきた。

「一緒にメイプルパークに帰ろう、千晶」

 数か月前にはいつもつないでいた、あたたかくなつかしい手――しかし今の千晶には、それを握り返す勇気がない。

「無理よ」
「どうして?」

 アンジェロがツァーで各地を回っている間、千晶はネットでその様子をチェックしていた。
 簡単な英語以外はよくわからなかったが、彼のリサイタルや有名オーケストラと共演したコンサートは、みな絶賛されているようだった。SNSでもたくさん取り上げられていたし、多くの写真も載せられていた。それも一緒にいるのはよく知られた俳優やモデルなどで、中には各国の王室関係者もいた。
 そんな情報を目にするたびに、二人の立ち位置の差を嫌というほど思い知らされたのだ。

 ――でも恋愛と結婚は違うわ、三嶋さん。アンジェロが相手なら、なおのことよ。

 西村は正しかった。年上で、幼い順と暮らす平凡な自分は、彼の隣にいるべきではない。
 メディカルプラザにいた時はたまに採血センターに手伝いに行かされるほど採血や点滴が得意だったし、今の職場でも千晶が担当だと知ると安心する患者が多かった。たまに「あんたは笑うとかわいいよ」と言ってもらえるし、後輩だった里奈にも「ツンデレちゃん」とよくからかわれ、千晶の長所を理解してくれる人もいる。順のことだって一生懸命育てていて、おそらく周囲からそれなりの評価はもらえるだろう。
 けれど、それでは全然だめなのだ。

「私と……アンジェロは住む世界が違うの。だから一緒に暮らすなんて無理」
「住む世界って何? どういう意味?」

 どこまでもひたむきな視線を受け止められず、千晶は俯いた。
 ずっと気持ちを整理しようとしていて、少しずつ成功しているつもりだった。けれどもこうしてアンジェロの前にいると、心が波立って、どうすることもできない。

(私は、今でもアンジェロが好き)

 本当はすぐにでも差し出された手を取りたかったが、千晶はかぶりを振って顔を上げた。

「どうして……私なの? あなたなら、もっとお似合いの相手が見つかるはずよ」

 責めるような口調になってしまったのに、アンジェロは柔らかく微笑んだ。

「それは……うまく言えないけれど、君を守ってくれる人がいない気がしたからなんだ。千晶はちゃんと順を守ってあげているのに」
「守る?」
「僕がその役目を引き受ける。千晶には、いつも心から笑っていてほしいから」

 真摯な声に嘘がないことも、アンジェロが自分を想ってくれていることもはっきり伝わった。しかしだからこそ千晶は最後まで彼を拒み続けた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

狡くて甘い偽装婚約

本郷アキ
恋愛
旧題:あなたが欲しいの~偽りの婚約者に心も身体も囚われて~ エタニティブックス様から「あなたが欲しいの~偽りの婚約者に心も身体も囚われて」が「狡くて甘い偽装婚約」として改題され4/14出荷予定です。 ヒーロー視点も追加し、より楽しんでいただけるよう改稿しました! そのため、正式決定後は3/23にWebから作品を下げさせて頂きますので、ご承知おきください。 詳細はtwitterで随時お知らせさせていただきます。 あらすじ 元恋人と親友に裏切られ、もう二度と恋などしないと誓った私──山下みのり、二十八歳、独身。 もちろん恋人も友達もゼロ。 趣味といったら、ネットゲームに漫画、一人飲み。 しかし、病気の祖父の頼みで、ウェディングドレスを着ることに。 恋人を連れて来いって──こんなことならば、彼氏ができたなんて嘘をついたりしなければよかった。 そんな時「君も結婚相手探してるの? 実は俺もなんだ」と声をかけられる。 芸能人みたいにかっこいい男性は、私に都合のいい〝契約〟の話を持ちかけてきた! 私は二度と恋はしない。 もちろんあなたにも。 だから、あなたの話に乗ることにする。 もう長くはない最愛の家族のために。 三十二歳、総合病院経営者 長谷川晃史 × 二十八歳独身、銀行員 山下みのり 切ない大人の恋を描いた、ラブストーリー ※エブリスタ、ムーン、ベリーズカフェに投稿していた「偽装婚約」を大幅に加筆修正したものになります。話の内容は変わっておりません。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

伯爵令嬢の秘密の愛し子〜傲慢な王弟は運命の恋に跪く

コプラ
恋愛
♡ドラマティックな愛憎劇の果ての超絶溺愛ハッピーエンド♡ たまにはこんな王道ラブロマンスで世界観に浸ってみてはいかがでしょう♡ ★先行ムーンにて日間連載ランキング最高位3位→2位(new❣️) お気に入り500new❣️ありがとうございます♡ 私の秘密は腕の中の可愛い愛し子にある。 父親が誰なのか分からない私の愛する息子は、可愛い笑顔で私を癒していた。伯爵令嬢である私はこの醜聞に負けずに毎日を必死で紡いでいた。そんな時に現れたあの男は、私が運命だと幼い恋を燃え上がらせた相手なの? 愛し子を奪われるくらいなら、私はどんな条件も耐えてみせる。夢見がちな私が一足飛びに少女から大人にならなくてはならなかった運命の愛が連れてきたのは、元々赤の他人同然の正体を明かされた大人の男との契約結婚生活だった。 燃え上がった過去の恋に振り回されて素直になれない二人のその先にあるのは?

お前を必ず落として見せる~俺様御曹司の執着愛

ラヴ KAZU
恋愛
まどかは同棲中の彼の浮気現場を目撃し、雨の中社長である龍斗にマンションへ誘われる。女の魅力を「試してみるか」そう言われて一夜を共にする。龍斗に頼らない妊娠したまどかに対して、契約結婚を申し出る。ある日龍斗に思いを寄せる義妹真凜は、まどかの存在を疎ましく思い、階段から突き落とす。流産と怪我で入院を余儀なくされたまどかは龍斗の側にはいられないと姿を消す。そこへ元彼の新が見違えた姿で現れる。果たして……

鬼上司は間抜けな私がお好きです

碧井夢夏
恋愛
れいわ紡績に就職した新入社員、花森沙穂(はなもりさほ)は社内でも評判の鬼上司、東御八雲(とうみやくも)のサポートに配属させられる。 ドジな花森は何度も東御の前で失敗ばかり。ところが、人造人間と噂されていた東御が初めて楽しそうにしたのは花森がやらかした時で・・。 孤高の人、東御八雲はなんと間抜けフェチだった?! その上、育ちが特殊らしい雰囲気で・・。 ハイスペック超人と口だけの間抜け女子による上司と部下のラブコメ。 久しぶりにコメディ×溺愛を書きたくなりましたので、ゆるーく連載します。 会話劇ベースに、コミカル、ときどき、たっぷりと甘く深い愛のお話。 「めちゃコミック恋愛漫画原作賞」優秀作品に選んでいただきました。 ※大人ラブです。R15相当。 表紙画像はMidjourneyで生成しました。

同期の御曹司様は浮気がお嫌い

秋葉なな
恋愛
付き合っている恋人が他の女と結婚して、相手がまさかの妊娠!? 不倫扱いされて会社に居場所がなくなり、ボロボロになった私を助けてくれたのは同期入社の御曹司様。 「君が辛そうなのは見ていられない。俺が守るから、そばで笑ってほしい」 強引に同居が始まって甘やかされています。 人生ボロボロOL × 財閥御曹司 甘い生活に突然元カレ不倫男が現れて心が乱される生活に逆戻り。 「俺と浮気して。二番目の男でもいいから君が欲しい」 表紙イラスト ノーコピーライトガール様 @nocopyrightgirl

甘やかしてあげたい、傷ついたきみを。 〜真実の恋は強引で優しいハイスペックな彼との一夜の過ちからはじまった〜

泉南佳那
恋愛
植田奈月27歳 総務部のマドンナ × 島内亮介28歳 営業部のエース ******************  繊維メーカーに勤める奈月は、7年間付き合った彼氏に振られたばかり。  亮介は元プロサッカー選手で会社でNo.1のイケメン。  会社の帰り道、自転車にぶつかりそうになり転んでしまった奈月を助けたのは亮介。  彼女を食事に誘い、東京タワーの目の前のラグジュアリーホテルのラウンジへ向かう。  ずっと眠れないと打ち明けた奈月に  「なあ、俺を睡眠薬代わりにしないか?」と誘いかける亮介。  「ぐっすり寝かせてあけるよ、俺が。つらいことなんかなかったと思えるぐらい、頭が真っ白になるまで甘やかして」  そうして、一夜の過ちを犯したふたりは、その後…… ******************  クールな遊び人と思いきや、実は超熱血でとっても一途な亮介と、失恋拗らせ女子奈月のじれじれハッピーエンド・ラブストーリー(^▽^) 他サイトで、中短編1位、トレンド1位を獲得した作品です❣️

【R18】優しい嘘と甘い枷~もう一度あなたと~

イチニ
恋愛
高校三年生の冬。『お嬢様』だった波奈の日常は、両親の死により一変する。 幼なじみで婚約者の彩人と別れなければならなくなった波奈は、どうしても別れる前に、一度だけ想い出が欲しくて、嘘を吐き、彼を騙して一夜をともにする。 六年後、波奈は彩人と再会するのだが……。 ※別サイトに投稿していたものに性描写を入れ、ストーリーを少し改変したものになります。性描写のある話には◆マークをつけてます。

処理中です...