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破局への転調
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十数分後、千晶は家の近くにあるカフェで、アンジェロと向き合っていた。
アイスグレーのシャツと黒のデニムという地味な格好ながら、居合わせた客たちがチラチラと視線を向けてくる。
しかし当のアンジェロは、いったいどういう表情をすればいいのか迷っているように見えた。
話があるからと呼び出されたのだが、エスプレッソを注文した後はずっと俯いたまま黙っている。
「元気そうでよかった」
千晶もそう口にしたものの、その後は言葉が見つからない。
――どうしてここがわかったの?
――私に話って何?
訊きたいことはいくつもあったが、すでに答えはわかっていた。
実家の住所を教えたのは、健診センターの看護師長である田崎だろう。
辞職願を出した時、彼女にだけは本当の理由を打ち明けたが、退職そのものにも、逃げるような別れ方にも強く反対された。千晶の気持ちは理解できるが、ちゃんと話し合って決着をつけるべきだというのが、田崎の主張だった。
また千晶はアンジェロに内緒で、マネージャーの西村にも別れの手紙を託していた。演奏旅行の日程が無事に終わったら渡してほしいと頼んだのだ。
最後のリサイタルが四月三十日だったから、アンジェロはそれを読み、帰国して早々に千晶を訪ねてきたのだろう。
ツァーの間、彼からの手紙やメッセージは何度となく届いた。一方の千晶は母の介護のために仕事を辞めることを伝え、それを理由に返事もあまり書かなかった。
しかし今日、アンジェロは両親の元気な姿を目にしている。もう二人のことを別れの言いわけにするわけにはいかなかった。
「千晶は……僕が嫌いになったの?」
運ばれてきたエスプレッソが冷たくなりかけたころ、アンジェロが目を伏せたまま言った。
「だから別れたいの?」
まるで五歳の順がするような、あまりに真っ直ぐな質問で、千晶は思わずたじろいだ。
「わ、私は……」
彼の来訪も、交わされる会話も想定していたはずなのに、まともな答えが返せない。
アンジェロは顔を上げ、千晶を見据えて、「違うよね」と呟いた。
「だったら、僕は千晶のそばにいたい」
「アンジェロ!」
「嫌われていないのなら、何度でもここへ君を迎えに来る。もちろん順も」
アンジェロが立ち上がって、手を差し出してきた。
「一緒にメイプルパークに帰ろう、千晶」
数か月前にはいつもつないでいた、あたたかくなつかしい手――しかし今の千晶には、それを握り返す勇気がない。
「無理よ」
「どうして?」
アンジェロがツァーで各地を回っている間、千晶はネットでその様子をチェックしていた。
簡単な英語以外はよくわからなかったが、彼のリサイタルや有名オーケストラと共演したコンサートは、みな絶賛されているようだった。SNSでもたくさん取り上げられていたし、多くの写真も載せられていた。それも一緒にいるのはよく知られた俳優やモデルなどで、中には各国の王室関係者もいた。
そんな情報を目にするたびに、二人の立ち位置の差を嫌というほど思い知らされたのだ。
――でも恋愛と結婚は違うわ、三嶋さん。アンジェロが相手なら、なおのことよ。
西村は正しかった。年上で、幼い順と暮らす平凡な自分は、彼の隣にいるべきではない。
メディカルプラザにいた時はたまに採血センターに手伝いに行かされるほど採血や点滴が得意だったし、今の職場でも千晶が担当だと知ると安心する患者が多かった。たまに「あんたは笑うとかわいいよ」と言ってもらえるし、後輩だった里奈にも「ツンデレちゃん」とよくからかわれ、千晶の長所を理解してくれる人もいる。順のことだって一生懸命育てていて、おそらく周囲からそれなりの評価はもらえるだろう。
けれど、それでは全然だめなのだ。
「私と……アンジェロは住む世界が違うの。だから一緒に暮らすなんて無理」
「住む世界って何? どういう意味?」
どこまでもひたむきな視線を受け止められず、千晶は俯いた。
ずっと気持ちを整理しようとしていて、少しずつ成功しているつもりだった。けれどもこうしてアンジェロの前にいると、心が波立って、どうすることもできない。
(私は、今でもアンジェロが好き)
本当はすぐにでも差し出された手を取りたかったが、千晶はかぶりを振って顔を上げた。
「どうして……私なの? あなたなら、もっとお似合いの相手が見つかるはずよ」
責めるような口調になってしまったのに、アンジェロは柔らかく微笑んだ。
「それは……うまく言えないけれど、君を守ってくれる人がいない気がしたからなんだ。千晶はちゃんと順を守ってあげているのに」
「守る?」
「僕がその役目を引き受ける。千晶には、いつも心から笑っていてほしいから」
真摯な声に嘘がないことも、アンジェロが自分を想ってくれていることもはっきり伝わった。しかしだからこそ千晶は最後まで彼を拒み続けた。
アイスグレーのシャツと黒のデニムという地味な格好ながら、居合わせた客たちがチラチラと視線を向けてくる。
しかし当のアンジェロは、いったいどういう表情をすればいいのか迷っているように見えた。
話があるからと呼び出されたのだが、エスプレッソを注文した後はずっと俯いたまま黙っている。
「元気そうでよかった」
千晶もそう口にしたものの、その後は言葉が見つからない。
――どうしてここがわかったの?
――私に話って何?
訊きたいことはいくつもあったが、すでに答えはわかっていた。
実家の住所を教えたのは、健診センターの看護師長である田崎だろう。
辞職願を出した時、彼女にだけは本当の理由を打ち明けたが、退職そのものにも、逃げるような別れ方にも強く反対された。千晶の気持ちは理解できるが、ちゃんと話し合って決着をつけるべきだというのが、田崎の主張だった。
また千晶はアンジェロに内緒で、マネージャーの西村にも別れの手紙を託していた。演奏旅行の日程が無事に終わったら渡してほしいと頼んだのだ。
最後のリサイタルが四月三十日だったから、アンジェロはそれを読み、帰国して早々に千晶を訪ねてきたのだろう。
ツァーの間、彼からの手紙やメッセージは何度となく届いた。一方の千晶は母の介護のために仕事を辞めることを伝え、それを理由に返事もあまり書かなかった。
しかし今日、アンジェロは両親の元気な姿を目にしている。もう二人のことを別れの言いわけにするわけにはいかなかった。
「千晶は……僕が嫌いになったの?」
運ばれてきたエスプレッソが冷たくなりかけたころ、アンジェロが目を伏せたまま言った。
「だから別れたいの?」
まるで五歳の順がするような、あまりに真っ直ぐな質問で、千晶は思わずたじろいだ。
「わ、私は……」
彼の来訪も、交わされる会話も想定していたはずなのに、まともな答えが返せない。
アンジェロは顔を上げ、千晶を見据えて、「違うよね」と呟いた。
「だったら、僕は千晶のそばにいたい」
「アンジェロ!」
「嫌われていないのなら、何度でもここへ君を迎えに来る。もちろん順も」
アンジェロが立ち上がって、手を差し出してきた。
「一緒にメイプルパークに帰ろう、千晶」
数か月前にはいつもつないでいた、あたたかくなつかしい手――しかし今の千晶には、それを握り返す勇気がない。
「無理よ」
「どうして?」
アンジェロがツァーで各地を回っている間、千晶はネットでその様子をチェックしていた。
簡単な英語以外はよくわからなかったが、彼のリサイタルや有名オーケストラと共演したコンサートは、みな絶賛されているようだった。SNSでもたくさん取り上げられていたし、多くの写真も載せられていた。それも一緒にいるのはよく知られた俳優やモデルなどで、中には各国の王室関係者もいた。
そんな情報を目にするたびに、二人の立ち位置の差を嫌というほど思い知らされたのだ。
――でも恋愛と結婚は違うわ、三嶋さん。アンジェロが相手なら、なおのことよ。
西村は正しかった。年上で、幼い順と暮らす平凡な自分は、彼の隣にいるべきではない。
メディカルプラザにいた時はたまに採血センターに手伝いに行かされるほど採血や点滴が得意だったし、今の職場でも千晶が担当だと知ると安心する患者が多かった。たまに「あんたは笑うとかわいいよ」と言ってもらえるし、後輩だった里奈にも「ツンデレちゃん」とよくからかわれ、千晶の長所を理解してくれる人もいる。順のことだって一生懸命育てていて、おそらく周囲からそれなりの評価はもらえるだろう。
けれど、それでは全然だめなのだ。
「私と……アンジェロは住む世界が違うの。だから一緒に暮らすなんて無理」
「住む世界って何? どういう意味?」
どこまでもひたむきな視線を受け止められず、千晶は俯いた。
ずっと気持ちを整理しようとしていて、少しずつ成功しているつもりだった。けれどもこうしてアンジェロの前にいると、心が波立って、どうすることもできない。
(私は、今でもアンジェロが好き)
本当はすぐにでも差し出された手を取りたかったが、千晶はかぶりを振って顔を上げた。
「どうして……私なの? あなたなら、もっとお似合いの相手が見つかるはずよ」
責めるような口調になってしまったのに、アンジェロは柔らかく微笑んだ。
「それは……うまく言えないけれど、君を守ってくれる人がいない気がしたからなんだ。千晶はちゃんと順を守ってあげているのに」
「守る?」
「僕がその役目を引き受ける。千晶には、いつも心から笑っていてほしいから」
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