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不機嫌天使の降臨
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流れてきたのはショパンのエチュード(練習曲)第十三番、別名『エオリアン・ハープ(牧童の笛)』だ。
穏やかな波間をゆらゆら漂うようなピアノ曲は、アラーム音にはあまりふさわしくない。それでも三嶋千晶はこの優しい旋律を聴きながら、少しずつ目覚めていくのが好きだった。奏者が大好きなピアニスト、アンジェロ・潤・デルツィーノだからかもしれない。
アンジェロはクラシック界でも指折りの美形だが、千晶が愛してやまないのは、その指先が紡ぎ出す透明で繊細な音色だった。そう、いつまでも身を委ねていたくなるような――。
セットした時間は午前六時。クリーム色のカーテン越しの光はぼんやりしているから、今朝は曇っているのだろう。
もう少し寝ていたいけれど、アラームを止めて身を起こす。
「……おはよ」
毎朝一番に目に入るのは、クイーンサイズのベッドの反対側で眠る愛しい男……の子だ。
すべすべしたピンクの頬、長いまつ毛。お気に入りのクマのぬいぐるみを抱いて、小さな寝息をたてている順は、女の子と言っても通りそうなくらいかわいらしい。
千晶は微笑んで、柔らかなくせ毛をそっと撫でた。
もうすぐ五歳になるから、そろそろ子ども部屋で寝かせなければとも思うが、つい甘やかしてしまう。順は今でも、ときどき夜中にうなされるからだ。
「さてと」
順が目覚める前に身支度を済ませて、朝ごはんを用意しなければ。
素直でおとなしい子だが、起きていれば、やはりそれなりに手がかかるのだ。
「えっと、今日は十月一日で木曜だから……給食の日よね」
千晶がカレンダーを見て呟いた時、眠そうな声が「うん」と返事した。
「おはよ、ちあちゃん」
「やだ、順。起きちゃったの?」
まだ眠いらしく、順は目元をこすりながら「えへへ」と笑う。
「今日はおべんと、いらない日だよ」
「はあい、了解」
本当は着替えも化粧も済ませ、朝食をテーブルに並べてから順を起こしたかったが、目を覚ましてしまったものはしかたがない。
「じゃあ、一緒に歯みがきしよっか」
「うん、わかった!」
順は笑顔で頷くと、ベッドから身軽に飛び降りた。
二重の大きな目は姉の美雪に、形のいい鼻は義兄の昭によく似ていて、千晶は思わず唇を噛む。そうしないと、涙ぐんでしまいそうだったのだ。
数ヵ月前の事故さえ起きなければ、順は独身の叔母ではなく、優しい両親のもとで大切に育てられていたのだから。
「どしたの、ちあちゃん?」
なかなか動こうとしない千晶をいぶかしく思ったのか、順が首を傾げている。
「ううん、何でもないよ。行こう、順」
千晶は急いで口角を上げ、順の小さな手を握った。
幼い甥に泣き顔は見せられないし、今は亡くなった姉たちのことを悲しむ余裕などない。
「歯みがきが終わったら、お着替えね」
「りょうかい!」
今朝もいつものように、二人の忙しい一日が始まった。
順が通う『わかば保育園』から、千晶の職場がある複合タウン、メイプルパークビレッジまでは車で十五分ほどかかる。
ビレッジ内にもナーサリースクールがあって、同僚の中にも子どもを預けている者がいるが、千晶は地元の小さな保育園の方が好きだった。
それにナーサリースクールの保護者は医師や弁護士、芸能人や会社役員などが多く、小学校受験用の特別クラスもあって、保育料もかなりの額になる。
セレブリティが集うハイエンドタウン――そんなコンセプトのもとに建設されたメイプルパークビレッジにはタワーマンションがそびえ、オフィスビルやホテル、ショッピングモールなどすべて最高レベルの施設が設けられている。
千晶が勤める総合病院『メイプルパーク・メディカルプラザ』も例外ではなかった。
「あ、そうか。もう十月なのね」
今朝もカレンダーを見たはずなのに、ビレッジに足を踏み入れた千晶は大きく目を見はった。
「さすが――」
メイプルパークビレッジではその名にちなんで、各所にシンボルツリーの楓が植えられているが、そのどれにもさりげなくハロウィンのデコレーションが施されていたのだ。モチーフはありふれたカボチャや黒猫なのに、大人っぽく洗練されている。
穏やかな波間をゆらゆら漂うようなピアノ曲は、アラーム音にはあまりふさわしくない。それでも三嶋千晶はこの優しい旋律を聴きながら、少しずつ目覚めていくのが好きだった。奏者が大好きなピアニスト、アンジェロ・潤・デルツィーノだからかもしれない。
アンジェロはクラシック界でも指折りの美形だが、千晶が愛してやまないのは、その指先が紡ぎ出す透明で繊細な音色だった。そう、いつまでも身を委ねていたくなるような――。
セットした時間は午前六時。クリーム色のカーテン越しの光はぼんやりしているから、今朝は曇っているのだろう。
もう少し寝ていたいけれど、アラームを止めて身を起こす。
「……おはよ」
毎朝一番に目に入るのは、クイーンサイズのベッドの反対側で眠る愛しい男……の子だ。
すべすべしたピンクの頬、長いまつ毛。お気に入りのクマのぬいぐるみを抱いて、小さな寝息をたてている順は、女の子と言っても通りそうなくらいかわいらしい。
千晶は微笑んで、柔らかなくせ毛をそっと撫でた。
もうすぐ五歳になるから、そろそろ子ども部屋で寝かせなければとも思うが、つい甘やかしてしまう。順は今でも、ときどき夜中にうなされるからだ。
「さてと」
順が目覚める前に身支度を済ませて、朝ごはんを用意しなければ。
素直でおとなしい子だが、起きていれば、やはりそれなりに手がかかるのだ。
「えっと、今日は十月一日で木曜だから……給食の日よね」
千晶がカレンダーを見て呟いた時、眠そうな声が「うん」と返事した。
「おはよ、ちあちゃん」
「やだ、順。起きちゃったの?」
まだ眠いらしく、順は目元をこすりながら「えへへ」と笑う。
「今日はおべんと、いらない日だよ」
「はあい、了解」
本当は着替えも化粧も済ませ、朝食をテーブルに並べてから順を起こしたかったが、目を覚ましてしまったものはしかたがない。
「じゃあ、一緒に歯みがきしよっか」
「うん、わかった!」
順は笑顔で頷くと、ベッドから身軽に飛び降りた。
二重の大きな目は姉の美雪に、形のいい鼻は義兄の昭によく似ていて、千晶は思わず唇を噛む。そうしないと、涙ぐんでしまいそうだったのだ。
数ヵ月前の事故さえ起きなければ、順は独身の叔母ではなく、優しい両親のもとで大切に育てられていたのだから。
「どしたの、ちあちゃん?」
なかなか動こうとしない千晶をいぶかしく思ったのか、順が首を傾げている。
「ううん、何でもないよ。行こう、順」
千晶は急いで口角を上げ、順の小さな手を握った。
幼い甥に泣き顔は見せられないし、今は亡くなった姉たちのことを悲しむ余裕などない。
「歯みがきが終わったら、お着替えね」
「りょうかい!」
今朝もいつものように、二人の忙しい一日が始まった。
順が通う『わかば保育園』から、千晶の職場がある複合タウン、メイプルパークビレッジまでは車で十五分ほどかかる。
ビレッジ内にもナーサリースクールがあって、同僚の中にも子どもを預けている者がいるが、千晶は地元の小さな保育園の方が好きだった。
それにナーサリースクールの保護者は医師や弁護士、芸能人や会社役員などが多く、小学校受験用の特別クラスもあって、保育料もかなりの額になる。
セレブリティが集うハイエンドタウン――そんなコンセプトのもとに建設されたメイプルパークビレッジにはタワーマンションがそびえ、オフィスビルやホテル、ショッピングモールなどすべて最高レベルの施設が設けられている。
千晶が勤める総合病院『メイプルパーク・メディカルプラザ』も例外ではなかった。
「あ、そうか。もう十月なのね」
今朝もカレンダーを見たはずなのに、ビレッジに足を踏み入れた千晶は大きく目を見はった。
「さすが――」
メイプルパークビレッジではその名にちなんで、各所にシンボルツリーの楓が植えられているが、そのどれにもさりげなくハロウィンのデコレーションが施されていたのだ。モチーフはありふれたカボチャや黒猫なのに、大人っぽく洗練されている。
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