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第八話 身長差とコンビニ

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 梅雨入り前なのだが、ここ数日雨が続けて降っていた。工場の片隅に干した雨合羽がユラユラと風に揺れている。
 つい数日前に初任給を受け取っていた。四月末入社だったので勤務日数が少ない分、何か買おうと思えるほどの金額ではなかったが、それでも十分嬉しかった。そして今月分こそは満額支給されるはずだ。

 一人でできる仕事はまだ雑用ばかりしかないが、最近は発注などの事務作業もやらせてもらえるようになっていた。
 警備主任のアッシュにも顔を覚えてもらい、さらに最近では秋月さんの仕事を手伝わせてもらう事も増えていた。まぁ、手伝うと言っても重いものを持つ時に呼ばれる程度だが、それでも働いているという実感が伴っていた。

 実は、車を二柱リフトで持ち上げて下に潜る作業を補佐する際に、すごく気を使うことがある。秋月さんと僕の身長差は二十センチほどあるのだが、それでどうしても車の持ち上げる高さが合わないのだ。


 そして厄介なことに、秋月さんは自身の身長に少しコンプレックスを感じているようで、僕がうっかり「高さが」と口にしてしまうものなら、表情が一気に消えてスンッとなるのが判るのである。僕はそんなに低いとは思わないのだが、彼女なりに色々苦労があるのだろう……。

 社長曰く、整備の腕はまだまだ序の口らしいのだが、僕なんかよりはるかにスキルを持っている。
 普段乗っている、あの古いクロカンタイプの軽自動車も、常連さんが廃車か部品取り用にと持ってきたボロボロのものを譲ってもらい、やはり直しながら乗っているのだそうだ。

 そうこうしているうちに、ゴールデンウィークも手伝ってか、早いもので一カ月が経とうとしていた。
 整備も社用車のメンテナンスなどを練習兼ねて、そろそろ一人でやらせてもらえる事になっている。もちろん、秋月さんが後ろで監督しているのが条件だが……。


「持ち上げるな、腰に乗せろ。腰いわすぞ」

「スパナなんか使うな! Tレン使え!」

「お前、こんなボルトも緩めらんねぇのか! このヘナチョコが!」

 早速だが、社用車の点検作業中に後ろにいる監督から叱咤を受ける。秋月さんは口が悪い。食事のマナーなどを見る限り、決して育ちが悪いなどというわけではないようなのだが、基本男言葉を使う。
 しかし、秋月さんの口調が厳しくなるのには理由があった。整備士という職業は、お客さんの、そして作業中の自分自身の安全に係わる仕事だからだ。一つのミスで大怪我をしたり命を奪ってしまうことも十分にあり得るのだ。

 一方で、年上の女性からお前呼ばわりされることに最初は面食らったが、最近では何というか、その、新しい感情が僕の中に芽生えつつあった。


 数日前の雨が嘘みたいに空が澄んでいた、ある日のお昼休み直前のことだった。

「おい、チョコ。お前コンビニ行くか?」

 チョコとは僕のことだった。
仕事のできなさっぷりから「ヘナチョコ」、「ヘボチョコ」と秋月さんに呼ばれるようになり、ここ数日で「チョコ」とまで略されるようになっていた。

「コンビニ、行くよな?」

 ここは田園風景が広がる田舎町だが、幸い会社の斜め向かいにコンビニがあった。
今日行くつもりはなかったが、やや威圧気味に言う秋月さんの中では、僕は行くことになっているらしい。

「お前ちょっとライターガス買ってこい。あとガムな」

 一時間ほど前から妙に工具箱やら休憩室のロッカーやらを漁っているなぁと思っていたが、どうやら少し前にライターがガス切れを起こしたらしい。タバコはあっても火がつけられないので、ニコチン切れで苦しんでいたようだ。
 「ガスレンジで火をつけたらいいのでは?」と言ってみたが、「うるせぇ、買ってこい」と一蹴されてしまった。「じゃあ、そのまま禁煙したらどうですか?」とも言おうかと思ったが、ニコチン切れでイライラしている所に迂闊なことを言えばグーパンされるかも知れなかったので言葉を呑んだ。
 しょうがないので渋々コンビニへ向かう。ついでだから僕も適当なお菓子でも買ってこようかと思う。

 コンビニに行っている間に葉子さんが弁当を届けてくれていた。
 僕が買ってきたライターガスをポケットから取り出すと、まるで飢えたライオンが肉に食いつくかのような勢いで僕の手からガスボンベを奪い、取り出したライターにガスを補充していた。やはりタバコとは恐ろしいものである。

 弁当を食べ終わったあと、テーブルの上に買ってきたお菓子を広げ、静かにスマホを見ていると秋月さんが教習所のことを聞いてきた。

「そういえばお前、教習所はちゃんと行ってんの?」
「行ってますよ。そろそろ仮免許です」
「マジか。さっさと取れよ。……まさか、オートマ限定じゃないだろうな?」
「違いますよ、マニュアルです」
「そうか。そういえば原付免許は持ってたよな?」
「はい」
「バイクに乗れないわけじゃないんだろ?」
「ええ。母のスクーターをたまに借りてますけど?」

 秋月さんは何か考えごとしているかのような表情で視線を逸らすと、「ふーん」と気の抜けた返事をした。


 梅雨が近づいているのか、空気が湿気を帯び始めていた朝、いつも通り出社する。
 裏口の重い金属製のドアを開けようとしたとき、小屋の中にいるアッシュが視界に入った。アッシュはもともと子犬の頃に、近くで捨てられていたのを社長達が保護したのだそうだ。
 最初の頃は僕が出社すると尻尾を振って出てきたが、ここ数日は小屋の中で伏せたままで出てこなくなった。
 「おはよう、アッシュ」と声を掛けると、眼だけちらりとこちらを見るが、すぐにまた目を閉じてしまう。
 体調でも悪いのだろうかと心配したが、どうやらそうではないようだ。何故なら今朝、秋月さんが出社したときは尻尾を振って出迎えているのが見えたからだ。そして葉子さんがお弁当を持ってきた時も同じだった。

 つまり僕だけ塩対応なのである。アッシュの中で僕は社内ヒエラルキー最下位なのだろう。いや、ひょっとするとこいつは人間の女性が好きなんじゃないだろうか……?
 社長へのリアクションが確認できていないので、はっきりとわからないが、そんな気がしてきた。

 僕は確実に、社内での最底辺ポジションを確立しつつあるようであった。そして今日もまたお昼休みにコンビニへと向かう。
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