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35 おかえりなさい、ただいま

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 少し前に、新しく部長として入ってきた男が、全てを崩してしまった。
 典型的な七光りのコネ入社であり、評判は最初から悪く、いつかはやらかすのではないかと陰口を叩かれていた。
 その『やらかし』が、予想以上に早く巻き起こってしまった。
 当たり前のように発生した大きなトラブルを、誰もフォローできないまま、あっという間に取り返しのつかないレベルにまで達したのだ。その男は必死にフォローしようと動いたらしいが、所詮は単なる悪あがきに過ぎなかったという。

「――ここ一ヶ月で、それが思いっきり露呈したみたいなんスよ」

 謙一がやれやれと肩をすくめながらため息をつく。

「そもそも先輩の話を聞く限り、よくバレなかったなぁと思ったんスけど、案の定でしたね。裏で完璧にフォローしていた人がいたらしいッス」
「そのフォロー役がいなくなったから、一気にガタガタと崩れ落ちたと?」
「そんな感じみたいッス。マンガみたいな話ッスよね」

 最初聞いたときは信じられなかった――そう語る謙一に苦笑しながら、猫太朗は心の中で思う。

(多分それは、前にめいさんが話してくれた人のことなんだろうな……)

 成瀬川真彦の名前を、猫太朗はよく思い出せなかった。ついでに言うと思い出すのも面倒であった。
 とりあえずそれは置いておくことにした。他に気になることはたくさんある。

「それで? そこから崩れ落ちたままってことはないんでしょ?」
「えぇ。その七光りのミスをカバーしていた人が、明らかになったらしいんス。誰かまでは教えてもらえませんでしたけど」
「流石に全部は無理だったか」
「ですね。先輩曰く、この事情を教えるだけでも大サービスらしいッスから」

 むしろ一切教えないという方向性も十分にあり得るだろう。企業のマイナス面を後輩に話すメリットはないに等しいのだから。

「もっとも俺の見立てでは、その先輩はマジで苛立ってる感じでしたね。後輩のことを考えてじゃなく、ただ単に愚痴を言いたかっただけみたいな?」
「……なるほど」

 謙一の言葉に猫太朗は苦笑する。それはそれで、確かにあり得そうだと思った。

「で、そのミスをカバーしていた人の話に戻るんスけど……その人の存在が、どうやらメチャクチャ大きかったらしいんスよね」

 今までは彼女を『生け贄』のようにしか見えていなかった。しかしそれは大きな間違いであったと、今更ながら気づいたのだという。
 役員もようやく重い腰を上げた。
 このままでは彼女が会社を去るのは時間の問題だと、ようやく思ったのだ。
 彼女を失うことは、会社の大きな損失に繋がりかねない――と。

「何でもその人、少しの間だけ有休の消化をしていたらしいんスけど、それは表向きの話で、本当は体を壊して入院してたとかで……」
「そりゃ大変だね」
「でしょー? そのおかげで、その会社の上層部は大慌てだったらしくて……」

 謙一の口調は完全に呆れ果てているそれであった。本人も改めて、これは流石にないだろうと思っているのだった。

「その人も遂に我慢の限界を越えたらしく、退職届を出したそうッスよ」

 しかもそれは、人事部部長や部署の本部長のいる前での出来事だったらしい。七光りの上司だけだと、握り潰されるかもしれないと恐れたからだろう――社内ではそう予測されているとのことだった。

「先輩曰く、本部長が自らその人に頭を下げて願ったらしいんスわ」
「なんとか考え直してくれないか、とか?」
「えぇ。けどその人は、笑顔でそれを拒否ったらしいッスよ。提出したのが退職願じゃなく『届』という時点で、察してほしかったって」
「……ん? それってなんか違うの?」

 尋ねてきたのは莉子だった。フロアを動き回っていた彼女も気になってはおり、耳を傾けていたのだ。
 謙一もそれについて何も思うことはなく、自然と振り向きながら頷く。

「あぁ。『願』のほうはあくまで希望しているだけ。だからなんやかんやと理屈を付けて拒否られる可能性もあるんだ。それに対して『届』のほうは、もう決めましたという意志表示であって、基本的に相手は受け入れるしかないって感じだな」
「へぇー」
「ちなみに『辞表』ってあるだろ? あれは役員とか公務員の人が、仕事を辞めるときに出す物なんだよ」
「なるほどねぇ。色々と違いがあるんだ」

 興味深そうに莉子は頷く。かくいう猫太朗も黙ってこそいたが、気持ちとしては妹と同じであった。
 謙一も知識を披露できて気分がいいのか、笑みを浮かべながら続ける。

「とにかくまぁ、そんな感じで……名前こそ伏せられてましたけど、恐らくその女性社員は、めいさんなんじゃないかって、俺は思ってます」
「……でしょうね」

 考えるまでもないと言わんばかりに、莉子がため息をついた。

「周りがどんなに頭を下げても、頑なに聞く耳を持たないめいさんの姿が、容易に想像できちゃうわ」
「あぁ。先輩曰く、実際そうだったらしいぞ? 七光りの父親も自ら出てきて、必死に頭を下げたらしいからな」
「え、マジ?」
「多分な。先輩の口振りからして、ウソを言ってるようには思えなかったし」

 あくまで半信半疑の域は出てないけどな、と謙一も肩をすくめる。

「その七光りは、海外の子会社へ下っ端として追放させたらしいけど……」
「めいさん的なその人は、考えを改めることはなかったと」
「らしいぜ」

 苦笑いする莉子に、謙一も改めて深いため息をつく。

「――先輩から聞いた話では、大体こんな感じだそうです。俺も最初は、その会社を受けようかと思ってたんスけど、今じゃもう候補から外してる感じッスよ」
「それが賢明だろうね」

 ここで、黙って聞いていた猫太朗が口を開いた。

「一体何をどうしたら、会社全体に響くほどのダメージを背負うのか、っていう疑問もあるけど」
「えぇ。それは俺も思ったので聞いてみたんスけど……返事はなかったッスね」
「流石にそこまでは応えられなかったか」

 むしろ喋り過ぎているのではと、猫太朗は思えてならない。しかし所詮は他人事に過ぎないのだから、気にしても仕方がないと割り切るしかないだろう。
 残っていたカフェオレを飲む謙一も、同じ気持ちを抱いていた。

「とにかくまぁ、先輩からいい話を聞けたおかげで、俺も企業選びは慎重にしないとなって思えましたよ」
「それはなによりなことだね」
「えぇ。ちゃんとした会社に入って稼いで……莉子とも身を固めたいですし」

 おやおや、と猫太朗は心の中で呟きながら目を見開いた。まさかこんなところでカミングアウトをしてくるとは思わなかった。
 そしてなんとなく、妹のほうに視線を向けてみると――

「なっ、なななな何言ってんのよ! 急に変なこと言わないでよ!!」

 顔を真っ赤にしながら、持っていたシルバートレイで、スパーンと彼氏の頭を叩きつけるのだった。

「っだぁ~っ!」

 謙一は突然の衝撃に頭を抑えながら、恨みがましい目つきを彼女に向ける。

「何すんだよ、いきなり~?」
「アンタが変なこと言うからでしょーが!」
「変なことじゃないだろ。お前も喜んでたじゃないか。小田切莉子ってちょっと言い辛いけど仕方がないとか言っておきながらよー!」
「わーっ! わーっ! わーっ!!」

 必死に誤魔化そうとしているようだが、もはや何の意味も成していない。
 クロベエとマシロは、何やってんだかと言わんばかりに、口を大きく開けて欠伸をしていた。
 いつもの賑やかで明るい喫茶店の光景は、今日も変わらないかと思われていた。
 しかし――

「にぅっ!」

 マシロの鳴き声が、その空気を断ち切らせる。そしてクロベエとともに、ドアの元へ急いで駆け寄っていた。
 どうしたのだろうかと思いながら、猫太朗がそこへ向かってみる。
 すると、カランコロンという音ともに、入り口のドアがゆっくりと開かれた。

「ごめんくださーい」

 その瞬間、店内の空気が一気に変わったような気がした。
 一ヶ月くらいしか離れていなかったのに、とても懐かしく思える声が、猫太朗の表情を自然と笑顔にさせてくれる。
 少しくたびれたスーツ、そして肩にかけているビジネスバッグ。
 疲れている全体像にさほど変わりはないが――その表情は晴れやかであった。最初に出会った時とは、全然比べ物にならないほどに。

(はは……僕もなんだかんだで、待ち侘びていたってことか……)

 ようやく本当の意味で気持ちを自覚しつつ、猫太朗は優しい表情を向ける。

「おかえりなさい、めいさん」
「――はい! ただいま帰りましたっ!」

 そう言って見せる彼女の笑顔は、とても眩しく感じられるのだった。

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