60 / 301
朱鷺色の人がそこにいた。
しおりを挟む
歴史をひもといても見当たらないにせよ、当時たしかに存在したであろう境塀水結という浮世絵師は、外にあまりでない仕事柄どちらかと言えば白い肌をしていたが、それほど世俗に鍛えられてるわけでもないためか紅潮しやすい人であった。それゆえに、その肌の色を例えるならば朱鷺色が相応しいのだが、彼の回りには朱鷺を知るものが居なかった。
「そいで、せんせーは上手いね、なんでも描ける」
煙草を飲む人でありながら、浮世絵師の前では遠慮しているのは、せんかた知り合った「墨の里の者」となのる肌の濃い男だった。境塀は照れ臭くなり、いつもように紅潮した肌で、思わず鼻をこすりこすり答える。
「へへ、描けなかったものは観られないように隠してら 」
「ちげぇねぇ、そりゃそうだ」
墨の里の者も境塀も、軽快に笑った。相変わらず、お互いの事情は詳しく知らないが、やれ好きな芝居だの絵巻だのと話は尽きず、浮世絵師はこんな相手が人知れずどこかの里にいたということに舌を巻いた。地方を葉かにするではないが、彼は長崎は出島の生まれで舶来品や外国人とふれあってきたという意味では江戸の者よりも時代を先へ進んでいた。しかし興味の方向性の問題か、どちらかといえば流行もなにも知らぬ田舎者である。対して里の者は、どこともしれぬところから来ているにも関わらず(むしろそれゆえに、旅で見識が深まっているのか)境塀がこれまで話した誰よりも先進的で理知的で、本から抜け出たのかと思うほどであった。
「境塀さん、」
墨の里の者、つまり君は名乗らない。ただ、美しい声で境塀を呼ぶ。ある日、君は境塀のことを金平糖のような声だと言った。そんなことを言われたこともなければ、そうした喩えを誰かにする感性は、それこそ境塀自信しか境塀のまわりには居なかった。おまけに…おまけに、金平糖といわれて当たり前に反応する境塀をみてから「さすがご存じで」とにっこり笑う様など、知らなければ知識を披露したのか、知っている確信をもってそんなことをいったのかは判らない。ただ、掴み所のない君は、境塀の心結を確りと掴んでいた。
試しているのかなんなのかわからない、するすると知識がただの世話話として出てくる世界が、なんと心地よいことか。境塀はもちろんだが、墨の里の者もそれまでの日常にはいなかった人間と邂逅したからには、心地よい時間を過ごすようになっていた。
ともなると、お互いに気になることがひとつあった。
境塀は君を観るうちに、描きたい気持ちが込み上げて込み上げてまともに動かない体にたいし苦しさが沸き上がっていた。一方で、墨の里の者である君は誰もが必ず自分に聞いてくる質問、つまり名を彼が聞いてこないことを気にし始めた。今まで当然のように尋ねられることが習慣のようになったとはいえ心地よくはないものを、はじめて尋ねられないことに、相手は自分に興味がないのかという不安に刈られるようになった。お互い、相手と知り合うことで自分に対して揺らぐものが生まれるようになった。という話である。
さて、その話題が動くのは浮世絵師がいないとある仏滅の夕時であった。その日は火から出したばかりの鉄をカツンカツンチンと叩いていくうちにすこしばかり冷めて黒くなり、金槌でたたくところあたりだけが、赤と金色のまざった光を宿したときのような、そんな空をしていた。曇天にぎらつく夕日、いってしまえばそれだけのことである。
「そういやぁ、おめぇ、うちとこのアレとずいぶんなかよくしてくれてるね」
「境塀さんのことですかい?そりゃ、あの人は私より大人ですから、面倒みてくれてるんでしょうよ」
「どっちが面倒みてるやらハハハ、あいつは人懐っこいいいこだよ」
店主の与平であるが、煙管を火鉢にかんっとあてると、鼻から煙を切なく吐き出した。
「でもなぁ」
その声色を眺めるようにして、君は目を細めた。
「浮世絵師連中はどいつもこいつも難しいからねぇ、おまけに手があんなだろ。おめぇが遊びに来てくれるようになるまでは、空元気でうごく人形みてぇでな、」
心配だったんだよ、という言葉を飲み込んだのはその場にいた刷り師の平治と君にもわかった。これは、井戸端会議のふりをした、境塀水結の復活についてを画策する会議だった。
「先生は本当に、そうだね前から明るい人ではあったけど、なんだか変わったよね」
平治は自分を重用してくれる境塀に対して、尊敬と信愛をもっている。
「墨のひとのお陰だろうなぁ、あんたのはなしするときは女みてぇに顔赤くしやがるの。でも、あんたのはなしばっかりだよ」
平治はケタケタと笑ってから、与平と同じようにカンカンと煙管をならす。そうすると、まるで一言のべてはカンカンならすのが決まりの遊びよようになり、君はくすりと嗤ったのだった。
「赤いなぁ、」
朱鷺みたいに、といいかけた言葉がなぜか喉の奥へ帰っていく。そして、先生はスイカの妖怪なのかねとおどけてから場をあとにした。ためらわずに言葉の取捨選択をしてきた君は、なぜか今だけは「通じるだろうか」という迷いを生じさせた。
通じるのだろうか、境塀みたいに通じて言葉を返すだろうか。
その考えに至ると、あらためて名前を聞かれない違和感と不安が訪れたとあとから漏らす。このときのいつもとかわらない姿をみて、笑顔をみて、誰が彼の辛さを想像できたろうか。できるわけがない、完璧な笑顔を。その完璧な擬態のまま、墨の里から来た君は、境塀の住まいへ駆け出した。
「おや、ちょうどよかった、ちょうどいい」
突然の来訪に驚く様子は一瞬のもので、当たり前のように中にとおす浮世絵師も浮世絵師だが、それに慣れている様子の妻もなかなかのもので、お茶と漬け物を出すと貧乏の村外れ暮らしが幸いした広い庭へ出ていった。声の聞こえないところから、何かあったときは駆けつける距離を保つ、彼女のそんな身軽さがなければ、商売人たちに修羅とよばれる絵師達の妻は勤まらないのかもしれない。
「話がある」
「うん、聞く条件として目を閉じるか背中を向けて、どうかこちらをみないでおくれ」
あまりの言葉に、さすがの君も鶏の卵のはいるような口を開けた。
「話を聞く態度かそれが」
「そうしてもらわないと困る理由でもなければ、そんなことは言わないよ」
しばらく沈黙が続き、君はまぶたを閉じた。
「あんたは境塀さん、浮世絵師の先生だ」
「そうだね」
「じゃぁ、私が誰か言えますかね」
「墨の里の者と名乗ってくれた」
「それだけだよ」
町へ出ていた烏たちは、夕時に茂みに帰ってくる。
「聞かないのは、知ってるか、知る必要がないからだ。興味がないってことだ、私に」
「出された茶を茶だと言わなくても、ものは消えねぇよ」
「消えないけど、呼ぶことがどうでもいいのか?」
声をあらげても、目は開けない君は、本当に
「妻の名前は、人に話すためだけにある。一緒にいるときは、ほかのひとがいたとしても、彼女に話しかけていると伝わるから、呼ばなくていい。でもね、妻のことは本当に好きなんだ」
烏の声に混ざって浮世絵師はつづけた
「適当にしてる訳じゃなくて、通じると信じてるから。じゃあそれは夫婦だからかっていうとそれもちがってね。知り合った頃からさ、あんまりに好きで好きで、名前を呼ぶだけでほら……わかるだろあんたなら」
「まさか……恥ずかしくて赤くなるから呼べないとか、まさか、そんなこと言わんよな」
「言うさ、さすがわかってるじゃねぇか。てことは、名前を聞かない理由もわかったろう」
「……アホ臭い、そんな話があるかよ」
墨の里の者は呆れたように鼻をすすったが、たしかにこの男ならありえるとも思った。この声の上擦りかたは、いつものあの朱鷺色の頬になってしまったときの声だ。
「通じる人だから、わかってくれるから、て甘えてたんだなぁ、ごめんよ。名前を聞かない、か」
「いや、こちらこそ、はじめからずっと知ってたみたいに懐かしくて、なんか、混乱したんだ。はじめましてで名前を聞かれるいつもの流れもないし、なんか、なんなんだろな」
「同じだよ、聞き忘れてたんだ、それで呼ぼうとしたときに今さら気づいて、でも恥ずかしくて聞けなくてな」
境塀は姿を見せたくなかった。そこでなにかをしているのだが、それは何なのかは本人にしか見えないことである。
「呼ばないじゃなくて呼べないか」
「笑ってくれていいよ、我ながらみっともない」
「いいって。私もね、名乗らなかったのは名乗れなかったからで、だからいつも聞かれることが面倒だった。聞かないあんたは居心地がよかったはずなのになぁ」
「聞かないことに腹ぁ立ててた奴が何いってんだか」
墨の里の者は、ぽつりぽつりと自分のことを話始めた。かの里は、難題も前の優れた職人が築いた。里の者はすべてその思想と技術を受け継ぎ、もはや始祖の一部といえるところまで高まっていた。里の全員が一人の人間なのだ。だから名前も始祖のひとつしかないし、里のなかではそれこそ一人一人という概念がなく「おい」「誰か」「そこの」で済ませていた。そうすると、里の外との繋がりに差し障り、始祖の名を出して彼の使いであると名乗っても、やはり誰もが名前を尋ねはするものだ。その状況で場を乱さずに名乗らずに済ませようとするうちに、墨の里の者となのる君は、人当たりの良い青年に育った。若くして里の外と関わってきた賜物であるし、外にでないものには身につかなければ必要にもならない技術ではあった。
「境塀さん、」
「なんだね」
「あんたは、呼ぶとき赤くなるからっていうけどさ、呼ばれても赤くなるじゃないか」
それならば、やっばり呼ばれてみたいと思ってはいけないだろうか。そう思った瞬間、無意識にまぶたを上げてしまった墨の里の者の目に飛び込んできたのは、画板のそばに珍妙な姿勢で倒れている境塀の姿だった。そしてそこには、満足に動かないてで描いたなにがしかの絵のようなものがある…あの手で描くための、おかしな姿勢で書いていたのだろう。そして無理が来て倒れかけたところに、絵をかばってさけようとしたところで、肘をついて体をねじれさせた妙な体勢になったのだ。
「なにしてんだよ、おっさん」
「あー!目を開けたな?あけてるな?」
「開けてるに決まってんだろ、アホめ」
さきほどまでの感情はどこへやら、ずかずかと歩み寄って上体をかかえ、易々と壁にもたれかかる姿勢に座らせ治した。よほど神経をすりへらしたのだ、境塀は短時間でやつれてはいたが、満足げな色を残しつつ、悪戯のばれた子供のようなばつのわるげな顔をしていた。
「で、人に目ぇつぶらせといて、無茶な姿勢で何してたんだ怪我人、回復の遅い中年、説明しろぃ」
「見りゃわかんだろ」
「わかってるよ、でもさぁ、」
必死にかかれたそれは、墨の里の者の姿だった。
「おまえだよ、おまえさんだよ、いや君だ。君を描きたくて描きたくて体が動かなくて、どうしようもなくて落ち込んでるとこに、家を教えてないはずの君が来た」
浮世絵師の妻はまだ畑にいる。
「描かなくてはならない、いまやらなきゃ、そういうことなんだな、と息巻いたはいいものの、まともな姿勢じゃかけなくて」
境塀は片ヒザでしゃがみこみ、左手を腰の後ろから右肘にまわして固定し、裏手で筆をもつ仕草をする。墨の里の者は、その額をペチリとたたいて「だから、それやめろ」と苦笑いで辞めさせた。
「見られたくないっていうか、こんな姿で見つめられても気持ち悪いだろ。知らぬが仏だなーとおもってさぁ」
「目ぇ閉じろって段階で気持ち悪いだろ、気付けよ、最初から不味いよ」
「げ、そうだったのか」
「だめだこいつ…」
墨の里の者はそういうと、にっこりと笑った。描けているではないか、それもよりにもよって自分が描かれるなどと思いもしなかったのにと。境塀はもちろん、彼に突き動かされない限りなにかを描こうと腕が動くことはなかったろうと、ますます心を震わせていた。
「おまえさんが、君が、描かせてくれたんだなぁ」
しみじみと呟く金平糖に、冷やし飴がぽつり。
「うーん…なぁ、境塀さん、ひとつ思ったことがある」
「なにさ」
「あってあたりまえの風景でな、木や川は有無で語られるけど、空気はあるかないかさえ論じられることはそうないなって」
「そうだね、あんたの居る居ないは気にしてるけど、居なくても目に浮かぶし、名前は呼ばないけど、なんていうか……特別な人だ」
境塀は夕暮れの冷えを感じて着物の裾を正しながら、そろそろ妻も庭から戻ってきて何か作り始めるだろうと思った。そして、二人分でも三人分でも、余っても明朝美味しく食べられるものを作ってくれることがわかっているので、にやりと口許がほころんだ。あぁ、素敵な人が何人も居てくれる人生の尊いことよ。
「…朱鷺がね」
「ん?」
「見てみたいなと思ってるわけですよ」
「どこに居るんだろね」
「やっぱり知ってる」
「や、どこにって、しらないよ?」
「朱鷺が何かさ」
「あー…知らない人は多いのかもね、話題にも上がらないからわかんないや」
「そ、会話にでない、存在しないかのように、それがなんか不思議な感じでさぁ」
「朱鷺かぁ」
「そう、朱鷺色の、」
境塀さんの顔のいろと同じだよと言うか言わないか迷いながら、墨の里の者は自分を見つめる金平糖男を見つめ返した。
「 」
金平糖の声が呟きなおしたとき、墨の里の者は何故か当たり前のように自分が呼ばれたと感じた…感じたことすら自覚しないうちに、返事をしていた。
「さぁさぁ、そろそろお夕飯にしましょう」
「あぁそうだねタツミ、それから紹介が遅れたね、こちらはこの境塀さんの友人、」
トキさんだよ
「そいで、せんせーは上手いね、なんでも描ける」
煙草を飲む人でありながら、浮世絵師の前では遠慮しているのは、せんかた知り合った「墨の里の者」となのる肌の濃い男だった。境塀は照れ臭くなり、いつもように紅潮した肌で、思わず鼻をこすりこすり答える。
「へへ、描けなかったものは観られないように隠してら 」
「ちげぇねぇ、そりゃそうだ」
墨の里の者も境塀も、軽快に笑った。相変わらず、お互いの事情は詳しく知らないが、やれ好きな芝居だの絵巻だのと話は尽きず、浮世絵師はこんな相手が人知れずどこかの里にいたということに舌を巻いた。地方を葉かにするではないが、彼は長崎は出島の生まれで舶来品や外国人とふれあってきたという意味では江戸の者よりも時代を先へ進んでいた。しかし興味の方向性の問題か、どちらかといえば流行もなにも知らぬ田舎者である。対して里の者は、どこともしれぬところから来ているにも関わらず(むしろそれゆえに、旅で見識が深まっているのか)境塀がこれまで話した誰よりも先進的で理知的で、本から抜け出たのかと思うほどであった。
「境塀さん、」
墨の里の者、つまり君は名乗らない。ただ、美しい声で境塀を呼ぶ。ある日、君は境塀のことを金平糖のような声だと言った。そんなことを言われたこともなければ、そうした喩えを誰かにする感性は、それこそ境塀自信しか境塀のまわりには居なかった。おまけに…おまけに、金平糖といわれて当たり前に反応する境塀をみてから「さすがご存じで」とにっこり笑う様など、知らなければ知識を披露したのか、知っている確信をもってそんなことをいったのかは判らない。ただ、掴み所のない君は、境塀の心結を確りと掴んでいた。
試しているのかなんなのかわからない、するすると知識がただの世話話として出てくる世界が、なんと心地よいことか。境塀はもちろんだが、墨の里の者もそれまでの日常にはいなかった人間と邂逅したからには、心地よい時間を過ごすようになっていた。
ともなると、お互いに気になることがひとつあった。
境塀は君を観るうちに、描きたい気持ちが込み上げて込み上げてまともに動かない体にたいし苦しさが沸き上がっていた。一方で、墨の里の者である君は誰もが必ず自分に聞いてくる質問、つまり名を彼が聞いてこないことを気にし始めた。今まで当然のように尋ねられることが習慣のようになったとはいえ心地よくはないものを、はじめて尋ねられないことに、相手は自分に興味がないのかという不安に刈られるようになった。お互い、相手と知り合うことで自分に対して揺らぐものが生まれるようになった。という話である。
さて、その話題が動くのは浮世絵師がいないとある仏滅の夕時であった。その日は火から出したばかりの鉄をカツンカツンチンと叩いていくうちにすこしばかり冷めて黒くなり、金槌でたたくところあたりだけが、赤と金色のまざった光を宿したときのような、そんな空をしていた。曇天にぎらつく夕日、いってしまえばそれだけのことである。
「そういやぁ、おめぇ、うちとこのアレとずいぶんなかよくしてくれてるね」
「境塀さんのことですかい?そりゃ、あの人は私より大人ですから、面倒みてくれてるんでしょうよ」
「どっちが面倒みてるやらハハハ、あいつは人懐っこいいいこだよ」
店主の与平であるが、煙管を火鉢にかんっとあてると、鼻から煙を切なく吐き出した。
「でもなぁ」
その声色を眺めるようにして、君は目を細めた。
「浮世絵師連中はどいつもこいつも難しいからねぇ、おまけに手があんなだろ。おめぇが遊びに来てくれるようになるまでは、空元気でうごく人形みてぇでな、」
心配だったんだよ、という言葉を飲み込んだのはその場にいた刷り師の平治と君にもわかった。これは、井戸端会議のふりをした、境塀水結の復活についてを画策する会議だった。
「先生は本当に、そうだね前から明るい人ではあったけど、なんだか変わったよね」
平治は自分を重用してくれる境塀に対して、尊敬と信愛をもっている。
「墨のひとのお陰だろうなぁ、あんたのはなしするときは女みてぇに顔赤くしやがるの。でも、あんたのはなしばっかりだよ」
平治はケタケタと笑ってから、与平と同じようにカンカンと煙管をならす。そうすると、まるで一言のべてはカンカンならすのが決まりの遊びよようになり、君はくすりと嗤ったのだった。
「赤いなぁ、」
朱鷺みたいに、といいかけた言葉がなぜか喉の奥へ帰っていく。そして、先生はスイカの妖怪なのかねとおどけてから場をあとにした。ためらわずに言葉の取捨選択をしてきた君は、なぜか今だけは「通じるだろうか」という迷いを生じさせた。
通じるのだろうか、境塀みたいに通じて言葉を返すだろうか。
その考えに至ると、あらためて名前を聞かれない違和感と不安が訪れたとあとから漏らす。このときのいつもとかわらない姿をみて、笑顔をみて、誰が彼の辛さを想像できたろうか。できるわけがない、完璧な笑顔を。その完璧な擬態のまま、墨の里から来た君は、境塀の住まいへ駆け出した。
「おや、ちょうどよかった、ちょうどいい」
突然の来訪に驚く様子は一瞬のもので、当たり前のように中にとおす浮世絵師も浮世絵師だが、それに慣れている様子の妻もなかなかのもので、お茶と漬け物を出すと貧乏の村外れ暮らしが幸いした広い庭へ出ていった。声の聞こえないところから、何かあったときは駆けつける距離を保つ、彼女のそんな身軽さがなければ、商売人たちに修羅とよばれる絵師達の妻は勤まらないのかもしれない。
「話がある」
「うん、聞く条件として目を閉じるか背中を向けて、どうかこちらをみないでおくれ」
あまりの言葉に、さすがの君も鶏の卵のはいるような口を開けた。
「話を聞く態度かそれが」
「そうしてもらわないと困る理由でもなければ、そんなことは言わないよ」
しばらく沈黙が続き、君はまぶたを閉じた。
「あんたは境塀さん、浮世絵師の先生だ」
「そうだね」
「じゃぁ、私が誰か言えますかね」
「墨の里の者と名乗ってくれた」
「それだけだよ」
町へ出ていた烏たちは、夕時に茂みに帰ってくる。
「聞かないのは、知ってるか、知る必要がないからだ。興味がないってことだ、私に」
「出された茶を茶だと言わなくても、ものは消えねぇよ」
「消えないけど、呼ぶことがどうでもいいのか?」
声をあらげても、目は開けない君は、本当に
「妻の名前は、人に話すためだけにある。一緒にいるときは、ほかのひとがいたとしても、彼女に話しかけていると伝わるから、呼ばなくていい。でもね、妻のことは本当に好きなんだ」
烏の声に混ざって浮世絵師はつづけた
「適当にしてる訳じゃなくて、通じると信じてるから。じゃあそれは夫婦だからかっていうとそれもちがってね。知り合った頃からさ、あんまりに好きで好きで、名前を呼ぶだけでほら……わかるだろあんたなら」
「まさか……恥ずかしくて赤くなるから呼べないとか、まさか、そんなこと言わんよな」
「言うさ、さすがわかってるじゃねぇか。てことは、名前を聞かない理由もわかったろう」
「……アホ臭い、そんな話があるかよ」
墨の里の者は呆れたように鼻をすすったが、たしかにこの男ならありえるとも思った。この声の上擦りかたは、いつものあの朱鷺色の頬になってしまったときの声だ。
「通じる人だから、わかってくれるから、て甘えてたんだなぁ、ごめんよ。名前を聞かない、か」
「いや、こちらこそ、はじめからずっと知ってたみたいに懐かしくて、なんか、混乱したんだ。はじめましてで名前を聞かれるいつもの流れもないし、なんか、なんなんだろな」
「同じだよ、聞き忘れてたんだ、それで呼ぼうとしたときに今さら気づいて、でも恥ずかしくて聞けなくてな」
境塀は姿を見せたくなかった。そこでなにかをしているのだが、それは何なのかは本人にしか見えないことである。
「呼ばないじゃなくて呼べないか」
「笑ってくれていいよ、我ながらみっともない」
「いいって。私もね、名乗らなかったのは名乗れなかったからで、だからいつも聞かれることが面倒だった。聞かないあんたは居心地がよかったはずなのになぁ」
「聞かないことに腹ぁ立ててた奴が何いってんだか」
墨の里の者は、ぽつりぽつりと自分のことを話始めた。かの里は、難題も前の優れた職人が築いた。里の者はすべてその思想と技術を受け継ぎ、もはや始祖の一部といえるところまで高まっていた。里の全員が一人の人間なのだ。だから名前も始祖のひとつしかないし、里のなかではそれこそ一人一人という概念がなく「おい」「誰か」「そこの」で済ませていた。そうすると、里の外との繋がりに差し障り、始祖の名を出して彼の使いであると名乗っても、やはり誰もが名前を尋ねはするものだ。その状況で場を乱さずに名乗らずに済ませようとするうちに、墨の里の者となのる君は、人当たりの良い青年に育った。若くして里の外と関わってきた賜物であるし、外にでないものには身につかなければ必要にもならない技術ではあった。
「境塀さん、」
「なんだね」
「あんたは、呼ぶとき赤くなるからっていうけどさ、呼ばれても赤くなるじゃないか」
それならば、やっばり呼ばれてみたいと思ってはいけないだろうか。そう思った瞬間、無意識にまぶたを上げてしまった墨の里の者の目に飛び込んできたのは、画板のそばに珍妙な姿勢で倒れている境塀の姿だった。そしてそこには、満足に動かないてで描いたなにがしかの絵のようなものがある…あの手で描くための、おかしな姿勢で書いていたのだろう。そして無理が来て倒れかけたところに、絵をかばってさけようとしたところで、肘をついて体をねじれさせた妙な体勢になったのだ。
「なにしてんだよ、おっさん」
「あー!目を開けたな?あけてるな?」
「開けてるに決まってんだろ、アホめ」
さきほどまでの感情はどこへやら、ずかずかと歩み寄って上体をかかえ、易々と壁にもたれかかる姿勢に座らせ治した。よほど神経をすりへらしたのだ、境塀は短時間でやつれてはいたが、満足げな色を残しつつ、悪戯のばれた子供のようなばつのわるげな顔をしていた。
「で、人に目ぇつぶらせといて、無茶な姿勢で何してたんだ怪我人、回復の遅い中年、説明しろぃ」
「見りゃわかんだろ」
「わかってるよ、でもさぁ、」
必死にかかれたそれは、墨の里の者の姿だった。
「おまえだよ、おまえさんだよ、いや君だ。君を描きたくて描きたくて体が動かなくて、どうしようもなくて落ち込んでるとこに、家を教えてないはずの君が来た」
浮世絵師の妻はまだ畑にいる。
「描かなくてはならない、いまやらなきゃ、そういうことなんだな、と息巻いたはいいものの、まともな姿勢じゃかけなくて」
境塀は片ヒザでしゃがみこみ、左手を腰の後ろから右肘にまわして固定し、裏手で筆をもつ仕草をする。墨の里の者は、その額をペチリとたたいて「だから、それやめろ」と苦笑いで辞めさせた。
「見られたくないっていうか、こんな姿で見つめられても気持ち悪いだろ。知らぬが仏だなーとおもってさぁ」
「目ぇ閉じろって段階で気持ち悪いだろ、気付けよ、最初から不味いよ」
「げ、そうだったのか」
「だめだこいつ…」
墨の里の者はそういうと、にっこりと笑った。描けているではないか、それもよりにもよって自分が描かれるなどと思いもしなかったのにと。境塀はもちろん、彼に突き動かされない限りなにかを描こうと腕が動くことはなかったろうと、ますます心を震わせていた。
「おまえさんが、君が、描かせてくれたんだなぁ」
しみじみと呟く金平糖に、冷やし飴がぽつり。
「うーん…なぁ、境塀さん、ひとつ思ったことがある」
「なにさ」
「あってあたりまえの風景でな、木や川は有無で語られるけど、空気はあるかないかさえ論じられることはそうないなって」
「そうだね、あんたの居る居ないは気にしてるけど、居なくても目に浮かぶし、名前は呼ばないけど、なんていうか……特別な人だ」
境塀は夕暮れの冷えを感じて着物の裾を正しながら、そろそろ妻も庭から戻ってきて何か作り始めるだろうと思った。そして、二人分でも三人分でも、余っても明朝美味しく食べられるものを作ってくれることがわかっているので、にやりと口許がほころんだ。あぁ、素敵な人が何人も居てくれる人生の尊いことよ。
「…朱鷺がね」
「ん?」
「見てみたいなと思ってるわけですよ」
「どこに居るんだろね」
「やっぱり知ってる」
「や、どこにって、しらないよ?」
「朱鷺が何かさ」
「あー…知らない人は多いのかもね、話題にも上がらないからわかんないや」
「そ、会話にでない、存在しないかのように、それがなんか不思議な感じでさぁ」
「朱鷺かぁ」
「そう、朱鷺色の、」
境塀さんの顔のいろと同じだよと言うか言わないか迷いながら、墨の里の者は自分を見つめる金平糖男を見つめ返した。
「 」
金平糖の声が呟きなおしたとき、墨の里の者は何故か当たり前のように自分が呼ばれたと感じた…感じたことすら自覚しないうちに、返事をしていた。
「さぁさぁ、そろそろお夕飯にしましょう」
「あぁそうだねタツミ、それから紹介が遅れたね、こちらはこの境塀さんの友人、」
トキさんだよ
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生
花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。
女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感!
イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる