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25 奇跡
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地面に倒れたヴィルヘルムへとシリカは駆け寄った。
肩から腹部にかけて深い切り傷が走っている。
鮮血が次々に溢れ出していた。
元聖女であったシリカにはすぐにわかった。
これは致命傷だと。
シリカは即座にスカートを切り裂き、ヴィルヘルムの傷を止血した。
「く……」
圧迫すると、ヴィルヘルムが小さく悲鳴を上げる。
力なく、そしてか細い声だった。
このままだと彼は死ぬ。
焦りと過剰なほどの恐怖がシリカを襲った。
ヴィルヘルムは自分を庇ったのだ。
その事実にシリカは泣きそうなほどの激情に駆られた。
涙を堪え、止血のために力を加える。
しかし傷の範囲が広すぎる。
誰かに手伝ってもらっても完全に止血はできないだろう。
騒動の中で、住民たちは何事かと集まり、いつの間にかシリカたちを取り囲んでいた。
喧騒の中で悲鳴がそこかしこに生まれる。
彼らの視線の先には、血に塗れたシリカとヴィルヘルムがいた。
「これが正義だ! 搾取する王への罰だ!!」
シリカの後方では興奮した様子で叫ぶレオの姿があった。
すぐに守衛たちがレオを抑え込んだ。
レオは顎を強かに打ち付けながらも、歪んだ笑みを浮かべ続けている。
「い、医者は!? 医者はいないのですか!?」
シリカの声に応える者はいない。
国民たちはただ顔を見合わせるだけだった。
「我が国には……医者は……おりません……」
いつの間にかクラウスが傍に佇んでいた。
クラウスは赤色で滑っていた剣を、カランと地面に落とした。
地面に膝をつき、力なく項垂れる。
「おぉ……わ、我が主が……な、なんという……」
クラウスはわなわなと震え、涙を流した。
聖女は世界に一人しかいない。
そのため誰もが聖女から治癒を施されるわけもなく、基本的には医者や薬師が病人や怪我人の治療をする。
ただその数は非常に少ない。
小国で貧しいロンダリアにはいないと、以前ヴィルヘルムが言っていたことを思い出した。
落胆をする暇などない。
どうにかしなければ。
そうでなければヴィルヘルムは死んでしまう。
こんな時、聖女の力があればすぐに治せるのに。
「け……」
「喋ってはいけません! 傷口が……」
ヴィルヘルムは絞り出すように声を漏らす。
シリカの泣きそうな顔を見上げると、ヴィルヘルムは僅かに目を細めた。
「……怪我、は?」
一気に体温が上がり、涙があふれた。
シリカは唇を震わせ、顔をしかめた。
己の身よりも、シリカを案じている。
今にも命が潰えようとしているというのに。
「わ、私は……無事です」
「そ、うか……」
激痛で話すことさえ困難なはずなのに、ヴィルヘルムは構いもせずに言葉を紡いだ。
「……すまな、かった」
「な、なにを」
「余は……そなた、を……傷つけた……。そなたの、気持ちも、考えず……一方的に……」
「そ、そんなこと気にしてません」
ヴィルヘルムは透き通るように澄んだ瞳をシリカに向けた。
それはシリカの嘘を看破しているようだった。
「余は……醜い」
呻くように呟いたヴィルヘルムの言葉に、シリカは驚きを隠せなかった。
「幼少から、他者にそう言われ続けた。……そんな余の妻に、そなたを迎えるなど……許されないと……せめて……不自由ない生活を、してもらおうと……」
「だから……王妃としての仕事をしなくてもよいと」
ヴィルヘルムは緩慢に頷いた。
「離婚も、そのため……そなたを縛るわけにはいかない……だが、そなたは……悲しんだ。余はただ……そなたに……幸せになってほしいと……」
「で、では陛下は……私を疎んじては……」
「……初めてそなたに会った時……目を奪われた……そなたの美しさ……真っすぐさに……そして、己の醜さに、罪悪感を抱いた……」
シリカは理解した。
すべては自分のためだったのだと。
公務や勉学をする必要がないと言ったのは、離婚するのだから意味がないと突き放されていたとシリカは感じていた。
一方的に突き放され、拒絶されたと思っていた。
しかし違ったのだ。
シリカを思ったゆえの行動。
そして自分の容姿に自信を持てなかったがゆえの対応だったのだ。
その言葉は真実であると、シリカは知っている。
身を挺して守ってくれた人を、疑う余地などなかった。
「すまなかった……シリカ……余は、そなた、を……幸せ、にでき……な……」
「へ、陛下!!」
ヴィルヘルムの目は閉じられ、体からは力が失われた。
意識がない。血を失いすぎたのだ。
脈をとる。
とくんとくんとなっていた音が、徐々に失われ。
そして心臓さえも動きを止めた。
クラウスもシリカと同様に、ヴィルヘルムに触れると、わなわなと震えだした。
「そんな、馬鹿な……へ、陛下が……お亡くなりに……」
クラウスはむせび泣き、地面を何度も叩き続けた。
無力感に打ちひしがれるシリカは、命を失ったヴィルヘルムの顔を見つめる。
彼は死んだ。
聖女だった時に何度も見てきた、人の死。
間違いなくヴィルヘルムはこの世を去った。
シリカはヴィルヘルムを見つめた。
そして何を思ったか、震える手を合わせた。
もう彼の命はない。もうどうしようもない。そう思うのに……諦めたくなかった。
シリカは縋るように胸中で呟く。
(どうか……お願いします、聖神様。どうか彼を……ヴィルヘルムを助けてください。私はどうなっても構いません、すべて差し上げます。ですからどうか……ッッ! お願いします……)
献身的な祈り。
だがそれは誰にも届かない。
聖女の時に感じた暖かな光も、内から溢れる強い生命力も何もかも存在しなかった。
もう聖女ではないのはわかってる。
聖女であったとしても死んだ人間を生き返すことなどできない。
けれど、それでも縋るしかなかった。
それ以外にもうヴィルヘルムを助ける手段はなかったからだ。
一度ならず、何度もシリカは祈った。
必死に。
健気に。
すべてを捧げてもいいという覚悟をもって。
ひたすらに祈り続けた。
その時、野次馬から現れた、別のレオの仲間たちが守衛たちを蹴り飛ばした。
レオは再び立ち上がり、民衆へと向き直った。
「無能で醜い愚醜王は死んだ! これでロンダリアは解放されたんだ!! 今後は俺がこの国の王として導いてやる!」
無知な男の咆哮は、王都に響き渡った。
解放などされない。
むしろヴィルヘルムが守っていたのだ。
それを知らず、一方的に憎み、身勝手な正義の名のもとにレオはヴィルヘルムを殺した。
その上、自らの欲求を露呈させた。
結局は己が王になりたかったという、その欲求を。
クラウスの顔が悪鬼のごとく歪んでいった。
剣を手にレオへと向かっていく。
レオが正義面をしながら激昂した。
「殺せッッ! 殺せぇッッ!! 悪はすべて殺せぇッッ!!!!」
手下たちに指示を出し、レオは後ろへと下がっていった。
身構え、レオたちに対峙していた守衛たちを追い越し、クラウスは駆け出した。
流れるように手下たちの首を切り裂く。
「あが?」
「がぁは……!」
手下たちは地面に伏した。
それは瞬きさえ許さない、一瞬の出来事だった。
守るものがない彼は圧倒的な力を見せつける。
あまりの出来事にレオが怯えながら、剣を構える。
レオの身体は震えていた。
「く、来るんじゃねぇ!!」
「悪が善を騙るな」
地の底から聞こえるような低い声だった。
クラウスは僅かに手を動かすだけで、レオの喉を剣で貫いた。
無駄のない的確な一撃。
レオは何もできず、喉から濁った血を流し、倒れた。
痙攣していたレオは、すぐに動かなくなる。
凄惨な情景に、野次馬も守衛も動けない。
そんな騒動の中、一人だけ動じない人物がいた。
シリカだ。
シリカはひたすらに祈り続けていた。
何が起きても微塵も狼狽えず、ただただ祈り、ただただヴィルヘルムを想った。
(どうか聖神様……彼を、陛下を……ヴィルヘルムをお救いください)
聖女だった時も祈りは日課だった。
その時も、毎回のように献身的な姿勢を崩さなかった。
しかし己の願いを祈ることは一度もなかった。
人を癒すことができる聖女にとって、救いを求められることはあっても、自分が救いを求めることはない。
初めてのことだった。
誰か一人のために祈ることは。
静謐な雰囲気がそこにはあった。
血が流れ、荒々しさに支配された場所のすぐ近くで、聖域とも思えるほどの厳粛たる空気が漂っていた。
その空気に次第に周囲の人間たちも気づく。
シリカの纏う神聖な空気が、一人また一人と人々の心奪う。
採掘場にいた連中がいつの間にかやってくる。
いつまでも来ないレオやシリカを探しに来たのだろう。
「な、なんだ?」
「何が起こったんだ?」
倒れているレオや取り巻き、周囲に集まる数十人の野次馬、そして中央にいるヴィルヘルムとシリカ。
野次馬たちはなぜか倒れているレオたちではなく、シリカとヴィルヘルムに目を奪われていた。
そんな情景を前に採掘場の労働者たちは戸惑った。
理解はできなかった。
しかしなぜか、野次馬たちと同じようにシリカに視線を移した。
張り詰める空気の中に、包み込むような温かいものを感じる。
それは次第にシリカの中で大きくなっていく。
(どうか。どうか! どうか、ヴィルヘルムをお救いください)
シリカは目を閉じ、必死に祈り続けていた。
何が起こせるとも思っていない。
ただ必死だった。
自分にできることなど、祈ることだけ。
だから祈った。縋った。願った。
溢れ出しそうな激情を祈ることに注ぐ。
そして――奇跡は起きた。
光。
小さな光の粒が。たった一つの光が、シリカの手元から生まれた。
それは一つ二つと増えていき、やがてシリカやヴィルヘルムの周囲を埋め尽くした。
呆気にとられた民衆たちは、ただ見つめることしかできない。
光はヴィルヘルムへと収束していく。
ヴィルヘルムの胸元に走った傷を覆うように。
シリカが触れることなく、ヴィルヘルムの傷はみるみる内に塞がっていく。
そして、シリカの手には聖印が刻まれていった。
それは聖女の証。
世界に一人しか存在しないはずの、癒しの巫女の持つ、聖神との鎹(かすがい)。
シリカの白銀の髪と瞳は徐々に色を変える。
銀から青へ。
美しく染まる空のように澄んだ青はキラキラと輝き、光を放つ。
あまりに幻想的な光景に、民衆は息を呑んだ。
シリカから溢れる光の粒子。
光に包まれたヴィルヘルムの傷が癒えていく。
「あ、あれ、俺……」
民衆の一人が呟く。
大人の男。彼は泣いていた。
「ど、どうして……」
その横の女性も、子供も、老人も、誰もが涙を流していた。
そして。
ヴィルヘルムの傷は完全に癒え、ゆっくりと目を開けた。
「…………余は……一体……」
彼の心臓は動き出した。
死んだはずのヴィルヘルムはシリカによって『蘇生された』のだ。
シリカはヴィルヘルムの姿を虚ろな瞳で見つめる。
それはまるで普段のシリカとは違う、何か清浄なる存在であるかのようだった。
神聖で、優美で、聖女然とした姿。
神々しさの象徴そのものだった。
不意に一人の民が膝をついた。
そして一人、また一人と跪き始める。
主への敬愛を示すように。
祈り、首を垂れ、平伏していく。
何を言われるまでもなく、誰もが気づいたのだ。
目の前で『新たな聖女が誕生した』のだと。
肩から腹部にかけて深い切り傷が走っている。
鮮血が次々に溢れ出していた。
元聖女であったシリカにはすぐにわかった。
これは致命傷だと。
シリカは即座にスカートを切り裂き、ヴィルヘルムの傷を止血した。
「く……」
圧迫すると、ヴィルヘルムが小さく悲鳴を上げる。
力なく、そしてか細い声だった。
このままだと彼は死ぬ。
焦りと過剰なほどの恐怖がシリカを襲った。
ヴィルヘルムは自分を庇ったのだ。
その事実にシリカは泣きそうなほどの激情に駆られた。
涙を堪え、止血のために力を加える。
しかし傷の範囲が広すぎる。
誰かに手伝ってもらっても完全に止血はできないだろう。
騒動の中で、住民たちは何事かと集まり、いつの間にかシリカたちを取り囲んでいた。
喧騒の中で悲鳴がそこかしこに生まれる。
彼らの視線の先には、血に塗れたシリカとヴィルヘルムがいた。
「これが正義だ! 搾取する王への罰だ!!」
シリカの後方では興奮した様子で叫ぶレオの姿があった。
すぐに守衛たちがレオを抑え込んだ。
レオは顎を強かに打ち付けながらも、歪んだ笑みを浮かべ続けている。
「い、医者は!? 医者はいないのですか!?」
シリカの声に応える者はいない。
国民たちはただ顔を見合わせるだけだった。
「我が国には……医者は……おりません……」
いつの間にかクラウスが傍に佇んでいた。
クラウスは赤色で滑っていた剣を、カランと地面に落とした。
地面に膝をつき、力なく項垂れる。
「おぉ……わ、我が主が……な、なんという……」
クラウスはわなわなと震え、涙を流した。
聖女は世界に一人しかいない。
そのため誰もが聖女から治癒を施されるわけもなく、基本的には医者や薬師が病人や怪我人の治療をする。
ただその数は非常に少ない。
小国で貧しいロンダリアにはいないと、以前ヴィルヘルムが言っていたことを思い出した。
落胆をする暇などない。
どうにかしなければ。
そうでなければヴィルヘルムは死んでしまう。
こんな時、聖女の力があればすぐに治せるのに。
「け……」
「喋ってはいけません! 傷口が……」
ヴィルヘルムは絞り出すように声を漏らす。
シリカの泣きそうな顔を見上げると、ヴィルヘルムは僅かに目を細めた。
「……怪我、は?」
一気に体温が上がり、涙があふれた。
シリカは唇を震わせ、顔をしかめた。
己の身よりも、シリカを案じている。
今にも命が潰えようとしているというのに。
「わ、私は……無事です」
「そ、うか……」
激痛で話すことさえ困難なはずなのに、ヴィルヘルムは構いもせずに言葉を紡いだ。
「……すまな、かった」
「な、なにを」
「余は……そなた、を……傷つけた……。そなたの、気持ちも、考えず……一方的に……」
「そ、そんなこと気にしてません」
ヴィルヘルムは透き通るように澄んだ瞳をシリカに向けた。
それはシリカの嘘を看破しているようだった。
「余は……醜い」
呻くように呟いたヴィルヘルムの言葉に、シリカは驚きを隠せなかった。
「幼少から、他者にそう言われ続けた。……そんな余の妻に、そなたを迎えるなど……許されないと……せめて……不自由ない生活を、してもらおうと……」
「だから……王妃としての仕事をしなくてもよいと」
ヴィルヘルムは緩慢に頷いた。
「離婚も、そのため……そなたを縛るわけにはいかない……だが、そなたは……悲しんだ。余はただ……そなたに……幸せになってほしいと……」
「で、では陛下は……私を疎んじては……」
「……初めてそなたに会った時……目を奪われた……そなたの美しさ……真っすぐさに……そして、己の醜さに、罪悪感を抱いた……」
シリカは理解した。
すべては自分のためだったのだと。
公務や勉学をする必要がないと言ったのは、離婚するのだから意味がないと突き放されていたとシリカは感じていた。
一方的に突き放され、拒絶されたと思っていた。
しかし違ったのだ。
シリカを思ったゆえの行動。
そして自分の容姿に自信を持てなかったがゆえの対応だったのだ。
その言葉は真実であると、シリカは知っている。
身を挺して守ってくれた人を、疑う余地などなかった。
「すまなかった……シリカ……余は、そなた、を……幸せ、にでき……な……」
「へ、陛下!!」
ヴィルヘルムの目は閉じられ、体からは力が失われた。
意識がない。血を失いすぎたのだ。
脈をとる。
とくんとくんとなっていた音が、徐々に失われ。
そして心臓さえも動きを止めた。
クラウスもシリカと同様に、ヴィルヘルムに触れると、わなわなと震えだした。
「そんな、馬鹿な……へ、陛下が……お亡くなりに……」
クラウスはむせび泣き、地面を何度も叩き続けた。
無力感に打ちひしがれるシリカは、命を失ったヴィルヘルムの顔を見つめる。
彼は死んだ。
聖女だった時に何度も見てきた、人の死。
間違いなくヴィルヘルムはこの世を去った。
シリカはヴィルヘルムを見つめた。
そして何を思ったか、震える手を合わせた。
もう彼の命はない。もうどうしようもない。そう思うのに……諦めたくなかった。
シリカは縋るように胸中で呟く。
(どうか……お願いします、聖神様。どうか彼を……ヴィルヘルムを助けてください。私はどうなっても構いません、すべて差し上げます。ですからどうか……ッッ! お願いします……)
献身的な祈り。
だがそれは誰にも届かない。
聖女の時に感じた暖かな光も、内から溢れる強い生命力も何もかも存在しなかった。
もう聖女ではないのはわかってる。
聖女であったとしても死んだ人間を生き返すことなどできない。
けれど、それでも縋るしかなかった。
それ以外にもうヴィルヘルムを助ける手段はなかったからだ。
一度ならず、何度もシリカは祈った。
必死に。
健気に。
すべてを捧げてもいいという覚悟をもって。
ひたすらに祈り続けた。
その時、野次馬から現れた、別のレオの仲間たちが守衛たちを蹴り飛ばした。
レオは再び立ち上がり、民衆へと向き直った。
「無能で醜い愚醜王は死んだ! これでロンダリアは解放されたんだ!! 今後は俺がこの国の王として導いてやる!」
無知な男の咆哮は、王都に響き渡った。
解放などされない。
むしろヴィルヘルムが守っていたのだ。
それを知らず、一方的に憎み、身勝手な正義の名のもとにレオはヴィルヘルムを殺した。
その上、自らの欲求を露呈させた。
結局は己が王になりたかったという、その欲求を。
クラウスの顔が悪鬼のごとく歪んでいった。
剣を手にレオへと向かっていく。
レオが正義面をしながら激昂した。
「殺せッッ! 殺せぇッッ!! 悪はすべて殺せぇッッ!!!!」
手下たちに指示を出し、レオは後ろへと下がっていった。
身構え、レオたちに対峙していた守衛たちを追い越し、クラウスは駆け出した。
流れるように手下たちの首を切り裂く。
「あが?」
「がぁは……!」
手下たちは地面に伏した。
それは瞬きさえ許さない、一瞬の出来事だった。
守るものがない彼は圧倒的な力を見せつける。
あまりの出来事にレオが怯えながら、剣を構える。
レオの身体は震えていた。
「く、来るんじゃねぇ!!」
「悪が善を騙るな」
地の底から聞こえるような低い声だった。
クラウスは僅かに手を動かすだけで、レオの喉を剣で貫いた。
無駄のない的確な一撃。
レオは何もできず、喉から濁った血を流し、倒れた。
痙攣していたレオは、すぐに動かなくなる。
凄惨な情景に、野次馬も守衛も動けない。
そんな騒動の中、一人だけ動じない人物がいた。
シリカだ。
シリカはひたすらに祈り続けていた。
何が起きても微塵も狼狽えず、ただただ祈り、ただただヴィルヘルムを想った。
(どうか聖神様……彼を、陛下を……ヴィルヘルムをお救いください)
聖女だった時も祈りは日課だった。
その時も、毎回のように献身的な姿勢を崩さなかった。
しかし己の願いを祈ることは一度もなかった。
人を癒すことができる聖女にとって、救いを求められることはあっても、自分が救いを求めることはない。
初めてのことだった。
誰か一人のために祈ることは。
静謐な雰囲気がそこにはあった。
血が流れ、荒々しさに支配された場所のすぐ近くで、聖域とも思えるほどの厳粛たる空気が漂っていた。
その空気に次第に周囲の人間たちも気づく。
シリカの纏う神聖な空気が、一人また一人と人々の心奪う。
採掘場にいた連中がいつの間にかやってくる。
いつまでも来ないレオやシリカを探しに来たのだろう。
「な、なんだ?」
「何が起こったんだ?」
倒れているレオや取り巻き、周囲に集まる数十人の野次馬、そして中央にいるヴィルヘルムとシリカ。
野次馬たちはなぜか倒れているレオたちではなく、シリカとヴィルヘルムに目を奪われていた。
そんな情景を前に採掘場の労働者たちは戸惑った。
理解はできなかった。
しかしなぜか、野次馬たちと同じようにシリカに視線を移した。
張り詰める空気の中に、包み込むような温かいものを感じる。
それは次第にシリカの中で大きくなっていく。
(どうか。どうか! どうか、ヴィルヘルムをお救いください)
シリカは目を閉じ、必死に祈り続けていた。
何が起こせるとも思っていない。
ただ必死だった。
自分にできることなど、祈ることだけ。
だから祈った。縋った。願った。
溢れ出しそうな激情を祈ることに注ぐ。
そして――奇跡は起きた。
光。
小さな光の粒が。たった一つの光が、シリカの手元から生まれた。
それは一つ二つと増えていき、やがてシリカやヴィルヘルムの周囲を埋め尽くした。
呆気にとられた民衆たちは、ただ見つめることしかできない。
光はヴィルヘルムへと収束していく。
ヴィルヘルムの胸元に走った傷を覆うように。
シリカが触れることなく、ヴィルヘルムの傷はみるみる内に塞がっていく。
そして、シリカの手には聖印が刻まれていった。
それは聖女の証。
世界に一人しか存在しないはずの、癒しの巫女の持つ、聖神との鎹(かすがい)。
シリカの白銀の髪と瞳は徐々に色を変える。
銀から青へ。
美しく染まる空のように澄んだ青はキラキラと輝き、光を放つ。
あまりに幻想的な光景に、民衆は息を呑んだ。
シリカから溢れる光の粒子。
光に包まれたヴィルヘルムの傷が癒えていく。
「あ、あれ、俺……」
民衆の一人が呟く。
大人の男。彼は泣いていた。
「ど、どうして……」
その横の女性も、子供も、老人も、誰もが涙を流していた。
そして。
ヴィルヘルムの傷は完全に癒え、ゆっくりと目を開けた。
「…………余は……一体……」
彼の心臓は動き出した。
死んだはずのヴィルヘルムはシリカによって『蘇生された』のだ。
シリカはヴィルヘルムの姿を虚ろな瞳で見つめる。
それはまるで普段のシリカとは違う、何か清浄なる存在であるかのようだった。
神聖で、優美で、聖女然とした姿。
神々しさの象徴そのものだった。
不意に一人の民が膝をついた。
そして一人、また一人と跪き始める。
主への敬愛を示すように。
祈り、首を垂れ、平伏していく。
何を言われるまでもなく、誰もが気づいたのだ。
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