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第5章

32 デトックス ① ⚠

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 部屋に着くや否や、私はバスルームへ向かった。腹部と脚には、まだクエマドロの血液が残っているような気がするし、一刻も早く、全身に纏わりつく不快さを洗い流してしまいたかったからだ。

 頭からたっぷりと41度の湯を浴びる。伸びきった髪が身体に張りつくのが鬱陶しい。

「……邪魔、だなぁ」

 思えば母が死んでからずっと伸ばしっ放しだった。おしゃれとか自分なりのこだわりではなく、ただ漫然と伸びるに任せていた。
 私の髪を切るのは手先の器用な母の担当だったから、母をうしなった後、自分でどうこうしようなどとは思いもしなかった。

 5年経って割り切ることができたと思っていたが、私は未だに母の死の呪縛から逃れられていないらしい。

 それだけではない。髪も料理も、父とも、自分とすら、きちんと向き合えていなかった。


「ねえ、伊関さん。もう少し広い視野で進路を考えてみてもいいんじゃない?」

 父が殺された日に行われていた個人面談で、教師に言われた。

「貴女の学力ならもっと上の大学も十分狙えるよ。今はお父さんのそばから離れる気になれないようだけれど、ずっとというわけにはいかない。いつかは貴女も家を出ていく日が来るんだから」

 教師の立場もアドバイスの正当性も理解できたので反論はしなかったが、内心、余計なお世話だと思った。

 私はずっと父のそばにいるつもりだ。結婚などする気はないし、仮に縁あって良い人と巡り会えたとしても、そのために父を独りにはしない。
 だから第一志望の欄に、電車で3駅のFラン大の名前を書いた。元々、行きたい大学はおろか探究したい学問すらないので、わざわざ県外の大学を目指す理由がなかった。

 むしろ高校を出たら近場で適当な働き口を見つける予定だったのに、父が「余計な心配をしないで、好きな大学に行きなさい」と言うから、苦し紛れにそうしたに過ぎない。

 私にできることは限られている。しかし父にはもう何も失って欲しくない。母の抜けた穴は、時間をかけて私が塞いでいかなければならない。父とも、もっと話さなければならない。そう思っていたのに……。

 無性に苛ついた私は早々に洗身を切り上げ、浴室を出ると、普段通り玄関前に詰めていた凌遅に訊ねた。

「ハサミ、ありますか」

「あるにはあるが、何に使う気だ」

 彼は眺めていた携帯端末を伏せると、怪訝そうにシザーケースを探り、一挺のハサミを取り出した。それはグリップを握り込むようにして切断するタイプの万能ハサミで、しかも私は彼と利き手が逆だったため、欲していたものとはかけ離れていた。が、この際、贅沢は言っていられない。

 黙ってそれを受け取り、私はその場で自分の髪を切り始めた。グニグニ、ザキザキという鈍い感触と音に、妙な高揚感が湧き上がる。

「…………」

 突っ立ったまま、無造作に髪を切り取っていく私の姿に、凌遅は少々面食らったような表情を浮かべている。

 セルフカットくらいなんだと言うのか。人体を切り刻む趣味を持つあなたが、そんな顔をする意味がわからない。
 まさか「髪は女の命」などと本気で信じているわけではあるまい。あんなものは単なるイメージだ。その証拠に、見ろ。いくら切っても何ともない。何も、感じない。

 彼に見せつけるように、私は重く湿った髪の束を切り取っては床に捨てていく。水気を含んでいるので広範囲に散らばることはないが、何とも湿っぽい光景だったに違いない。

 興奮の波が引き、少し冷静になった頃、「気は済んだか」と凌遅が声をかけてきた。
 私が何も言わずにいると、彼は私の手からハサミを引ったくった。そして、「来な。整えてやるから」という意外な台詞を吐いた。

 促されバルコニーに行くと、彼はダイニングチェアを引っ張り出して私を座らせ、適当な手つきで髪にハサミを入れ始めた。毛先を揃える程度であれば大して時間はかからないだろうと踏んでいたが、しばらく解放してもらえなかった。

 凌遅は掃除や感染症対策など、あらゆる面において丁寧な仕事をする。標的の解体スキルと繊細なディスプレーを売りものにする彼にとって、ガタガタに切り落とされた私の髪は目に余るのだろう。

「君は時々、思い切ったことをするよな」

 作業の合間に凌遅がつぶやく。

「見ている分には愉しいが、理解に苦しむ」

「見世物じゃないんですけど」

 吐き捨てる私に、彼は「先に俺の目を引いたのは君だ」と臆面もなく返した。

 髪をすくい上げる時、顔に落ちた細かい毛を払う時、凌遅の指が私の頭皮や頬に触れる。
 バランスを見るため、ガラス玉のような目が至近距離に迫る。恐怖と憎悪の対象でしかなかったはずのそれが、今は不思議と気にならなかった。
 むしろ、彼の首元に滲む赤色の方が目に付いて仕方なかった。

 少し経って、
「こんなもんかな。一度、鏡を見て感想を聞かせてくれるか」

 そう言われて、私はのろのろと立ち上がった。何故か唐突に不安を覚える。

 洗面所に戻り、そっと覗き込んだ鏡の中にいたのは、どこか懐かしい雰囲気を纏う自分だった。
 母が生前、「やっぱり椋にはこの長さが一番似合うね」と言っていた髪型だったので、軽く驚く。

 しばらく鏡を見つめ続けていたら、いつの間にか背後に来ていた凌遅に声を掛けられた。

「感想は?」

「……何だか、懐かしいです」

 そう返すと、彼は軽く笑み、「俺も、その方が君らしい気がする。修正が必要ないなら、もう一度シャワーを浴びるといい。顔と背中が毛くずだらけだ」と言って出て行った。

 バスルームにいたのは1時間ほどだっただろうか。髪が短いと、洗うのも乾かすのもあっと言う間だ。ただ何となく首の辺りの違和感が拭えず、シャワーを浴び続けてしまった。

 母が死んでからというもの、私は腰より深いお湯につかれなくなった。それどころか、浴槽の中に入ること自体に抵抗を感じるようになっていた。
 だが、ここのバスルームは間取りの割には広くて明るく暖房が効くので、シャワーだけでも十分リラックスできる。だから盛んに出入りし、つい長居してしまう。
 同居人と顔を合わせずに済む貴重なプライベート空間という点も、大いに関係しているだろう。

 シャワーを止め、小さく息を吐く。短くなった左右の毛先から、ポタポタと水滴が落ちるのが見える。
 心身の濁りが浄化されるにつれ、別の思いが浮かび上がってくる。
 先ほどの私はどうかしていた。大騒ぎして、駄々を捏ねて……まるで赤ん坊じゃないか。物心がついてこの方、私は親の前ですらあんな態度をとったことはなかった。感情を押し殺すのは得意だったはずなのに……。

 ふと、浴室鏡に目が行く。水滴の向こう側に佇む自分の姿を見た途端、ルームミラーに映ったガラス玉のような両眼と血の滲んだ頸部が心中を掠めた。

 何故か羞恥を覚え、私は勢いよく湿ったバスタオルを羽織った。

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