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第1章

11 ヴィネ ⚠

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 ややあって、ノックの音がした。

 凌遅がドアを開けると、

「ゴメンね、遅くなっちゃって」

 場違いなほど明るい声がした。かすんだ目でそちらを見遣る。そこには若い女性が立っていた。

 20歳前後くらいか。ミルクティーカラーのミディアムボブが印象的な彼女は、おっとりとした雰囲気の美人だ。両手に白っぽいビニール袋をいくつも提げている。

「在庫探したんだけど、なんか変なのしかなくて」

「別に構わない。どうせ間に合わせなんだ。着られればいい」

 手荷物の中身は私の着替えのようだ。

「あらら、汚れちゃったね。大丈夫?」

 女性は私を見て、気の毒そうな顔をした。

「タオルと着替え持ってきたから、シャワー室行こ?」

 優しい言葉に、私の心は解れた。

「そうそう、“りょおちん”指定のブツはこっちの袋。ここ置いとくからね」

「ああ」

 凌遅は女性が持参した袋の中から牛乳パックを取り出し封を開けた。

 彼が何かを摂取している姿は初めて見る。ある意味貴重な光景なのかも知れないが、気分が悪くてとても直視できない。

「あれっ、ちょっと!」

 女性が声をあげる。

「なんで“予備品リザーブ”使ってるの? せっかく段取り整えたのにどういうこと?」

「素材が大き過ぎたんだ」

 凌遅が返すと、女性は不服そうに言った。

「何それ。りょおちんが頑張って持ち帰れば済んだ話じゃん」

「こっちも不本意なんだよ。だが限られた時間の中、推定80キログラムの肉塊を担いでオフロードを走る自信はない」

「せいぜい数十メートルでしょ? 見かけ以上に体力ないんだから」

「……君は、理科の勉強をし直した方がいいな。それより彼女をどうにかしてくれ」

 凌遅は女性の追及をかわすと私に一瞥いちべつを投げ、すぐに牛乳パックへ視線を戻した。

「も~、りょおちんのもやしっ子!」

 彼女はふくれっ面で溜息を吐くと、腰につけた鍵束の中の一本で私を解放してくれた。

「すみません……」

 嘔吐えずきつつ何とか立ち上がった私は、謎の女性に支えられながら部屋を後にした。
 
 廊下の隅のシャワー室には、洗面台や収納棚を備えた更衣室が併設されていた。

「まずはシャワー浴びてくるといいよ。その間に着替え出しておくから」

 女性に促され、私は着ていた服を脱ぎ捨てると、シャワーブースへ入った。蛇口を捻ればすぐにあたたかいお湯が出る。

 不意に漏れ出た息が震えていた。それを抑えるかのように、私は両手でお湯をすくい、何度も顔を洗った。

「気持ち悪くなるのも無理ないよ」

 女性は、シャワーブースから半身を覗かせる私にバスタオルを手渡しながら苦笑を浮かべ、「りょおちんの作品はエグいからね」とつけ加えた。

「服、あんまりカワイイのじゃなくてゴメンね。下着も備品の中から適当に持ってきたヤツだから、サイズ合わなかったら教えて」

 彼女は荷物の中身を出し、軽く首を傾げて見せた。

「すみません……」

 私は再び頭を下げた。見ず知らずの美人の前で、汚物にまみれた最低な姿を曝した恥ずかしさと、着替えを手伝わせている申し訳なさでいっぱいになる。

「いいんだよ。こうして会うのは初めてだけど、一緒に一仕事済ませてきた仲だしね」

 洗面台の前でドライヤーを片手に女性が言った。

「着替えたら、ここ座って。髪、乾かしてあげるから。て言うか、髪長いねー、カワイイ♡」

 ふと冷静になる。

「もしかして、さっき……?」

「そうそう」

 女性は嬉しそうに両目を輝かせた。

「上から警察への通報と現場の攪乱かくらんを仰せつかって、りょおちんのヘルプに入ってました。小道具用意したり、効果音鳴らしたり、爆発物作動させたり、いろいろ頑張ってたんだよ。なのに、なんで無駄にしちゃうかなあ、もったいない……」

「じゃあ、処刑人の方ですか」

 思わず訊くと、本部の者だと返された。

連絡員リエゾンのヴィネだよ。本部と処刑人の連絡調整とか、いろいろやってます。これからよろしくね」

「私は……」

 何と名乗るべきか考えあぐねていたら、

「知ってるよ。バーデン・バーデンの処女ちゃん、でしょ?」と彼女は笑った。

「でもちょっと呼びにくいよね、あなたのHNハンドルネームって。ねえねえ、“バーにゃも”と“バデしょむ”、“ババみゃろ”と“デンたん”なら、どれが好き?」

 この頃になると、私はすっかり彼女の独特な雰囲気に飲まれてしまっていた。

「じゃあ、最後ので……」

 ニックネームはとりあえず一番マイルドなものを選んでおく。

「おっけー。ヴィネは“ババみゃろ推し”だったんだけど、まあいっか。そうだデンたん、今度一緒に服見に行こうよ。ヴィネがもうちょっとカワイイの買ってあげるから」

「え、でも外出は……」

 意表をつかれた私に、ヴィネは何でもないことのように語った。

「平気平気。基本はりょおちん同伴なんだけど、本部の人間がつき添えば大丈夫。何でもいいから、一つユニフォームみたいなの作っといた方がいいよ。ほら、りょおちんてさ、いつも紙袋被って黒いブーツ履いてるでしょ。ああいう風に何か個性を発揮するアイテム入れとくと、キャラも立つしオンとオフの切り替えきくんだよね。現場の気持ち引き摺ったまま帰るの、嫌じゃない?」

「ああ……はい」

 私はうなずいた。

「でしょ? じゃ、そのうちお誘いかけるね」

 髪が乾くと、ヴィネは隣の部屋に私を導いた。カーペット敷きで、会議室のような雰囲気の部屋だった。

 ヴィネは新しいタオルと一緒に小さなビニール袋をくれた。中にはお茶とゼリー飲料、菓子がいくつか入っていた。

「落ち着くまでここで休んでるといいよ。タオル敷いて少し横になってたら? どうせまだしばらくかかるだろうし。りょおちんには、全部片付けた後、お迎えに来てあげてって言っとくから。
あ! 手錠、外れてるからって勝手にいなくなったりしないでね。まあ、出入り口封鎖してるし、どっちみち逃げれないけど」

「あ、あの……」

 あっさり立ち去ろうとするヴィネを私は思わず呼び止めた。狂人の集まりであるLR×Dに引き込まれて以来、ようやく出会った話のわかる同性だ。何となく別れがたかった。

「大丈夫だよ」

 私はよほど切羽詰った顔をしていたのだろう。励ますように彼女は言った。

「またちょいちょい様子見に来るから心配しないで。それにね、りょおちんのこと、何考えてるかわかんなくて怖いって思ってるかも知れないけど、あれでけっこうデンたんのこと気に入ってるみたいなんだから」

「え?」

 ぽかんとする私に、「でなきゃ、生かしといたりしないって」とヴィネは続けた。おどけた言い振りだったがまったく笑えなかった。

 ヴィネが去った後、私は壁にもたれ放心していた。そして同時に悔やんでいた。凌遅の件を耳にした時、微かだが胸に愚かな感情が湧いたことを。
 肉親の仇である真性の異常者に気に入られたと聞いて、一瞬とは言え満更でもない気持ちになるなんて……馬鹿か、私は。

 呑まれるものか。

 私は拳を握り締めた。じくりと右手が痛んだ。



 凌遅が現れたのは、本当にしばらく経った頃だった。

「帰るぞ」

 わずかに開いたドアから顔を出しそれだけ言うと、彼は音もなく踵を返した。

 私はよろよろと立ち上がり、仕方なくその後を追う。床に座りっ放しだったこともあり、身体が固まって思うように動けない。お茶はもう半分になっているのに、もらった袋がやけに重く感じられた。

 凌遅の片手には道具袋と鍵束が揺れている。もう一方には飲みかけの牛乳パックが携えられていた。

 黒いエンジニアブーツとシザーケースはそのままだったが、彼の衣服が変わっていた。仄かに漂う石鹸のような香気からして、彼もシャワーを浴びたのかも知れない。

 時間の経った血液のにおいは強烈なので助かるのは言うまでもないけれど、その妙に生活感のある柔らかな香りに私はむしろ寒気を覚えた。彼の身体中に染み付いた不吉な気配は、もはや何をしても隠しきれないところにまで来ているらしい。

 撮影はどうなったのだろう。ヴィネから預かった荷物、大量の廃棄物はどこへやったのだろうか。気にはなるが、また忌々しいイメージが浮かんではたまらないので、努めて考えないようにした。

 エレベーター前の部屋では、まだ宴が続いている。笑い声に混じって名状めいじょうしがたい音が響いていたが、憔悴した私はそれらをぼんやりと聞き流していた。

「考えていたんだが――」

 エレベーターの中で凌遅がぼそりとつぶやいた。

「――君は時々、不思議なタイミングで泣くよな」

 何だ、急に。

 私が顔を上げると、発言者はこちらを見ながら続けた。

「他意はない。ただ、頸動脈に刃物を当てられても冷静でいた君が、俺との会話や解体の最中に何の前触れもなく泣いたのが気になった」

 実に彼らしい疑問だ。

「……わからないでしょうね、あなたには」

 私は足元に視線を落とした。

「“怖いから”だけが泣く理由にはなりませんよ」

「もっともだ」

 凌遅は少し思案してから、

「牛は屠殺される時、涙を流すらしい」

 妙な例を引き合いに出した。

「自分の番だとわかるんだそうだ」

 片手の牛乳がとぷんと揺れる。

「君の言う怖さ以外の感情も引き金になっているのかも知れない。そう言えばこんな言葉があった。“絶望のなかにも焼けつくように強烈な快感があるものだ。ことに自分の進退きわまったみじめな境遇を痛切に意識する時などは尚更である”。死刑寸前で命拾いした作家の見解だったかな。これは、どう思う」

 私は黙ったまま、彼の持つ牛乳パックを見つめた。
 言わんとすることはわからないでもない。しかしそれも程度の問題だろう。

「所詮は後付けでしょう、そんなの」

 私は思った通りを口にした。

「少なくとも、絶対に逃れられない状況下で殺されるのを待つだけの牛とは比べられません。それに“絶望と嘆く人はまだ本当に絶望していない”っていうのは誰の見解でしたっけ」

「シェイクスピアかな。確か、件の作家自身もそう言っていた」

「そちらの方が真理なんじゃないですか。心から絶望している人間には、自分が絶望してるかどうか判断できるほどの余裕なんてないと思いますよ」

「それは君の経験則か」

 凌遅の声音は平淡だ。興味や関心から訊いたとも思えない。

 けれどこの機会に、私は彼に対して一つの覚悟を告げることにした。

「さあ……いずれにせよ私は、黙って絶望に浸るつもりも、それに酔う気もありませんから」

 言った後になって後悔した。少々クサかったかも知れない。

 隣の男は何とも言えない表情を浮かべ、残っていた牛乳を喉奥に流し込んだ。

 駐車場に戻って車に乗る。これからあの部屋に帰るのだ。そしてベッドか部屋の隅に座したまま、夢うつつで夜を越す。

「予定より遅れた。渋滞に嵌らなけりゃいいが」

 凌遅が言った。彼の指がオーディオへと伸び、曲を再生し始めた。耳慣れない洋楽だったが、今の私には都合がよかった。知らない言語なら考えずにいられる。現実から乖離できる。

 いっぺんにいろいろなことが起こり過ぎた。神経を張り詰め続けているのにも限界はある。

 車が発進する。薄暗くなり始めた町へ出る。

 私は膝を立て、ヴィネのタオルに顔を埋めた。少しでいいから眠りたかった。


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