僕のコイビトと12の嘘

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本編

2話「ピンクムーン」

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 やがて日が暮れ始める。
 俺が顧問のバスケットボール部は、全員後片付け中だ。
 部員たちは、各々帰宅し始めていた。
「お疲れ様でした!」
「気をつけて帰るんだぞ」
「先生、今日なにかいいことあったの」
 二年生の部員が数名俺に訊ねて来た。
「えっ、……なんで」
「珍しくよく笑って――」
 俺はいたって普通。『いいこと』なんて、そんなことあるハズが……。
「気のせいだろ! ほーら、遅くなるぞ! 明日から新入生部員の勧誘についての件、みんな少し話させてくれ、ヨロシク」
 半ば強引に話題をすり替えてしまった。
 ひょっとして俺、揶揄われてる?
 むふふ、とした表情をしている生徒たちの視線が妙に気になって、少しだけ顔が火照っていた。

「よし、と」
 男子部員たちが続々と下校する姿を見送ると、職員室に戻った。
 書類や次の授業に必要な準備を行い、キリの良いところで帰宅しようかと考えていた。
 俺の自席は、グラウンドがちょうど見渡せる位置にあるのだが――。
 半分カーテンが開いていた大きな窓越しに、白い『何か』が、スゥッと上から落ちてきたような気がした。
「えっ」
 あまりにも一瞬の出来事で、俺は目の錯覚だろうと思うようにしていたが、どうしても気になって落ち着かず、窓越しの花壇のあたり、茂みをその場から凝視してみた。
「うーん、暗くてよく見えないな……」
 ちゃんと確かめなければ気が済まなかった。玄関を後にし、落下場所へ向かってみる。
 ――
 確か、この辺りだったような。
 薄暗い中を探してみるが、結局何も見付けることはできなかった。
「やっぱり――気のせい、だよな」
 そして何気なく視線を上に向けたその時、俺は言葉を失った。
 誰かが屋上に、いる。
 屋上のフェンス越しにこちらを覗いていた黒い人影のようなものが、スウッと引っ込み。隠れてしまった。
「嘘だろ」
 まさか――。最悪な自体が頭の中に過ぎりつつも俺は、
「待て! そこから動くな!」
 と屋上へ向かいながら叫んでいたような気がする。
 廊下を走り抜け一度職員室へ戻り、屋上の鍵を手に取った。
「高谷先生?」
「生徒が、上に!」
 そのただならぬ雰囲気に、帰宅準備を始めていた教員達も事態を察したのか、自席を立ち上がり、廊下へと出てきたようだった。
 階段を駆け上がり、屋上の扉の前へと辿り着いた。
 おかしな話だ。鍵が閉じているのなら、生徒はいつから屋上にいたんだ?
 この気温の中?
 しかもそれなりに高さのあるフェンス『越し』に誰かが覗くなんて……そんなことに気付いたりもしたが、どうでもよかった。
 気のせいであってくれ!
 震える手でやっと解錠すると、屋上の扉を勢いよく開ける。冷気と静けさが俺を一瞬で包み込んだ。
 そこには、人がいた。
 俺に背を向ける形でフェンスの手前に立ち尽くしていた。
「誰だ、何してる! 下校時間はとっくに過ぎてるぞ」
「……」
 声に反応するかのように、俯き気味だったその人物が、顔を上げるのが分かった。
 心臓が、バクバクしている。口から出そう。気付くと冷や汗がこめかみの辺りを伝っていた。
「ぼく…………え……の」
 何か言葉を発したようだが、よく聞こえない。
「何年何組だ? こっちに来なさい」
 不可思議な状況。静かな夜。大きな満月の明かり。
 俺は、気が動転しつつも、平静を装いながらその生徒へ声を掛け続けた。確実にこれはもう保護者へ連絡だな、と考え始める。
 何故か足は一歩も踏み出すことができない。それに気付くと同時に全身の皮膚がピリピリするのを感じた。
 ――なんだ、この初めての感覚は。
「僕が、見えるの」
 そう聞こえた。そして俺の方へ背を向け続けていた彼が、ゆっくりとこちらを振り返り、月明りではっきりと見ることができた。
「当然だろ、見えるさ」
 仄かな月明かりに照らされたその青年、その姿を見て、俺は唖然とした。
 制服が、明らかに本校のものではないのだ。
 ブレザーではなく、半袖のスクールシャツだった。春先、まだ夜は寒さが残る季節であるにも関わらず、だ。
 そして、見覚えがない生徒。新入生という可能性を考えてもやはり辻褄が合わず、不可解な目の前の状況に、俺は混乱した。
 まさか、不審者なのでは――と、一瞬頭を過る。
 そんな意識に囚われている間に、目を一切逸らしていなかったはずのその青年が、いつの間にか俺の目の前まで来ていた。
「あ」
 血の気が引いた。
 次、瞬きをするとどうなってしまうのだろう。
 俺に向けられた瞳。
 少し紫がかった漆黒の大きな瞳孔の中へ吸い込まれてしまいそうな不思議な錯覚に陥ってしまい、俺はこの得体の知れない青年の存在が、とてつもなく怖ろしくなった。
 だが、それはこの一言で覆された――。
「やっと、会えた。会えたよ」
 青年がそう言い、俺の首元に両腕を回し抱き付いたかと思うと、突然唇を重ねてきた。
 彼の前髪が、俺の鼻を少し掠める。

 ん……んんん!?

 驚いた俺は、今の状況が何一つ分からないまま、頭の中が真っ白になってよろめき、背後から倒れ込んでしまった。
「痛ったあ!」
 冷たいグレーのコンクリートに尻餅をついて、おまけに背中を強打。
 ガンッと鈍い音と衝撃が背中と後頭部に伝わる。
 むちゃくちゃ痛い。
 目をカッと見開き、青年の方へ視線を向けた。
「大人を揶揄うんじゃない! いい加減にしないと、警察を……よ、ぶ――」
 俺の周辺にキラキラした無数の蛍のような発光した粒子が、不規則に曲線を描きながら瞬き、消えていった。まるで、光の粒一つ一つに何か意思が宿っているような光景。
 そして、その場には、俺一人だけ。
 抱きつかれた感覚や唇の感触、体温のぬくもりがまだ、体にしっかりと残っていた。
 立ち上がり、屋上を見渡すが、誰も居ない。
 今まで目の前に居た青年が、一瞬で消えてしまった。


 その後、警察へ突き出そうにも本人がおらず、青年が居たという事実を他の教員にも伝えるものの、皆口を揃えて『きっと疲れているのだろう』と嘲笑を浮かべ相手にしてもらえなかった。
「高谷先生、見間違いですよ。屋上は長い間開錠させてないんですよ」
 他の教員が少し呆れたような口調で言う。
「た、確かにいたんですよ」
 いたんだ、信じてくれ。
「誰も居なかったんですよね。警察に連絡しようにも、話しになりませんって。私達も隅々まで確認しましたが、それらしい人物は誰もいなかったじゃないですか」
「……」
「高谷先生……。今日はもう、帰りましょう」
 平河先生までもが、怪訝そうな表情で俺を見つめていた。
 現実的に考えて、そりゃそうだよな、と。

 もやもやとした気持ちのまま、荷物をまとめて校舎を後にし、駐車場へ向かった。
 停車場所で何か視線を感じたような気がして、俺は改めてその場所から校舎の屋上に視線を向けたが、『人影』のようなものが再び現れることは無かった。
「うううっ」
 背筋がぞわぞわしたような感覚が襲うと、俺は早々に運転席へと乗り込んだ。
 ノートパソコンの入った鞄や手荷物を助手席へ置き、車のエンジンをかけると自宅へと向かった。
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