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第一章
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私と竹中はすぐに踵を返し退室した。その動作はほとんど反射に近く、細かい判断やら記憶やらがすっかり消えていた。戸を背にし、何があったかわけもわからない私は、出るときの竹中が力いっぱいに引っ張った左腕の痛みだけがはっきりしていた。
若武だけが部屋に居座っていた。私は嵐の気配を感じとったが、予感は外れて、ややもすれば神妙に父親は廊下に出てきた。若武はわれわれに謝って、娘は着替え中だったから、あと十分待ち、それから私ひとりだけ入るように言った。
着替え中、というのがおかしな言い訳であったのは誰にでもわかった。裸の小百合は、着替えの服を持つのでもなく、奇妙なほどの行儀のよさでソファーに座っていた。それは自分の裸を見せつけるような、あるいはその裸を見せるという行為の違和を楽しむような意地の悪い出迎え方だったが、私も竹中もそれを指摘はしなかった。
われわれは気まずい沈黙で待機の十分を過ごした。そうして時間が経つとまず若武がノックをし、なかをたしかめて、小百合に服があるのがわかってから私を通した。
私は今度は寝間着姿の小百合と再度相対することになった。小百合はその第一声から、病人らしからぬはっきりとした嘲笑の調子があった。
「ねえ、どうだった、お父さんの顔。嫌な顔をしていたでしょう?」
私は小百合の父親のほうに同情を傾け、質問には答えずに尋ねた。
「なんであんなことをしたんだい」
「毎日じゃないわよ、ああいうことは。日頃おとなしく振舞って、もっともしてはいけないときにするのが良いの」
「だからなんでそんなことをしたんだい」
私の再度の問いかけに小百合は答えなかった。小百合はソファーのひじ掛けに肘を乗せ、手の甲で小さい顎を支えながら、ずっと嗤いをこらえたようなにやついた表情で、そういう自分の何もかもを見下す無礼な印象を私に見せつけるように永い無言を貫いた。私が部屋の荒んだ様子に気づいたのはそのときである。一点の陰りもつくらないような照明の発光のもとで、この女だけが永遠の陰、薄くも濃くもならない陰のように沈んだ存在だった。日にあたり慣れていない蒼白の頬のえくぼが物語の悪質な魔女のそれのように深く刻まれ、唇は挑発的に紅く、化粧をつけているのかと思われた。薄い花柄の寝間着は下品だった。それは無論、素材の貴賤ではなく、さっきまでの小百合の裸が、その薔薇の花弁のあちこちや棘の生えた枝のあいだの白地の空間から透けて現れたからである。
小百合は私を無視して、思うがままにくつろいでいた。まず細い指先でテーブルの上を探り、ティーカップの縁にあたると、その取っ手をまた探し、ゆったりと絡ませて口元に運んだ。姿勢はだらけ、ちょうどこの島の上空からの眺めとおなじ、あの娼婦絵のそれだった。小百合はティーカップをもどすとき、その受け皿にうまくはまらずカップごと絨毯に転げ落ちた。小百合は濡れたウールを始末することなく、ただ邪魔なものをどかすように象牙色のカップを足先で蹴り飛ばした。
「私はいちばん悪い病人になるの」
と小百合は言った。無言がもうすこしのところで軽くなり、延々とつづけられるかと思われたときだった。
若武だけが部屋に居座っていた。私は嵐の気配を感じとったが、予感は外れて、ややもすれば神妙に父親は廊下に出てきた。若武はわれわれに謝って、娘は着替え中だったから、あと十分待ち、それから私ひとりだけ入るように言った。
着替え中、というのがおかしな言い訳であったのは誰にでもわかった。裸の小百合は、着替えの服を持つのでもなく、奇妙なほどの行儀のよさでソファーに座っていた。それは自分の裸を見せつけるような、あるいはその裸を見せるという行為の違和を楽しむような意地の悪い出迎え方だったが、私も竹中もそれを指摘はしなかった。
われわれは気まずい沈黙で待機の十分を過ごした。そうして時間が経つとまず若武がノックをし、なかをたしかめて、小百合に服があるのがわかってから私を通した。
私は今度は寝間着姿の小百合と再度相対することになった。小百合はその第一声から、病人らしからぬはっきりとした嘲笑の調子があった。
「ねえ、どうだった、お父さんの顔。嫌な顔をしていたでしょう?」
私は小百合の父親のほうに同情を傾け、質問には答えずに尋ねた。
「なんであんなことをしたんだい」
「毎日じゃないわよ、ああいうことは。日頃おとなしく振舞って、もっともしてはいけないときにするのが良いの」
「だからなんでそんなことをしたんだい」
私の再度の問いかけに小百合は答えなかった。小百合はソファーのひじ掛けに肘を乗せ、手の甲で小さい顎を支えながら、ずっと嗤いをこらえたようなにやついた表情で、そういう自分の何もかもを見下す無礼な印象を私に見せつけるように永い無言を貫いた。私が部屋の荒んだ様子に気づいたのはそのときである。一点の陰りもつくらないような照明の発光のもとで、この女だけが永遠の陰、薄くも濃くもならない陰のように沈んだ存在だった。日にあたり慣れていない蒼白の頬のえくぼが物語の悪質な魔女のそれのように深く刻まれ、唇は挑発的に紅く、化粧をつけているのかと思われた。薄い花柄の寝間着は下品だった。それは無論、素材の貴賤ではなく、さっきまでの小百合の裸が、その薔薇の花弁のあちこちや棘の生えた枝のあいだの白地の空間から透けて現れたからである。
小百合は私を無視して、思うがままにくつろいでいた。まず細い指先でテーブルの上を探り、ティーカップの縁にあたると、その取っ手をまた探し、ゆったりと絡ませて口元に運んだ。姿勢はだらけ、ちょうどこの島の上空からの眺めとおなじ、あの娼婦絵のそれだった。小百合はティーカップをもどすとき、その受け皿にうまくはまらずカップごと絨毯に転げ落ちた。小百合は濡れたウールを始末することなく、ただ邪魔なものをどかすように象牙色のカップを足先で蹴り飛ばした。
「私はいちばん悪い病人になるの」
と小百合は言った。無言がもうすこしのところで軽くなり、延々とつづけられるかと思われたときだった。
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