太陽の島

丹羽嘉人

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第一章

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 けれども私の発熱的な企みは、翌日にも、さっそく頓挫しかかった。午後には出かけ、また少年の姿を拝もうとする私に、竹中は用事をことづけたのである。

「伊地知さんの息子さんがいたろ。そのひとがちょうど今頃奥さんと娘さんを迎えにいっているはずなんだが、もし着いたらそのふたりと会う約束をしてるんだ。というのも娘さんが小説家志望でね、まあいつまでつづくかはわからんが、少し文学談義をしてやってくれ。ああ、相手は所詮高校生だから、あんまり難しい話をして気をなえさせないでくれよ」

 もちろん私は苛立った。永い夜を経てようやくありつけたはずの夜明けがもう一日分お預けにされたのである。

 だが一方で竹中が単純な親切でこれを提案したこともわかった。結局、この旧友は、人が良い部類の人間だった。伊地知夫婦との戦略的な関係を抜きにすれば、私をここに悦んで住ませたのも、こんな頼みごとを聞いたのも、この竹中という友人の持つベクトルの、つまり生来の人の良さ、親切心がそうさせたように思えた。

 竹中は、ふいに声量を抑えて話をつづけた。

「その娘さんってのがちょっと不幸なひとでね。ほら、昔で言うと鳥目ってやつなんだが、視野狭窄なんだ。東京に住んでたんだが、あんなに人通りがあると危険だし、夏のあいだだけ帰ってきたんだ。……随分、大変らしいよ。夜は全然見えないし、日にあたるのもよくないらしい。だからさ、力になれる分には力になってやろうよ」

 私たちは昼食をすませるとまた車で伊地知の屋敷に向かった。そこで伊地知の息子が出迎えた。

 伊地知の息子は若武という名で、歳は四十と存外年上だった。昨夜の尖った表情もなく、そのときはじめてこの若武という青年を私はまともに見た気がした。この青年は、平静だと、まるで両親の特徴をくっきり二分したような顔立ちで、たとえば少しの挙動で盛り上がる頬は父親似だったし、大きくまつ毛の長い目は母親のそれだった。しかしこの特徴はひとを憎む段になると忽ち陰を潜めていた。頬は平坦に静まり、目だけを大きく見開いて睨むので長いまつ毛は目立たなかった。もしかすれば両親の血を隠すために、この青年はあんな表情を好んでしているのかもしれなかった。

 若武は、屋敷の渡り廊下を行きながら、目の端の、池の鯉に餌をやっている父親をやはり苦々しく見、そうしてあえて抑える感じもなくこんなことを言った。

「小百合……娘の病気は、網膜色素変性症は、遺伝が多いんだそうです。うちもきっとそうでしょう。うちは資産をほかに出さないためにいとこ婚が多くてね、父と母だってそうなんです、いとこ同士のお見合いで、親戚に説得されて結婚。馬鹿々々しい理屈ですが、そのつけが娘に回ってきたんですよ。しかしもっと腹立つことはいまだにあんな結婚を肯定していることです。妻との付き合いにも育ちがちがうとかで散々反対しておいて、娘が病気にかかったときも遺伝じゃないって言い張るんです。勝手ですよ。ひどく勝手だ」

 苦言の最中も父親は鯉に餌をやりつづけていた。背が丸く、シャツの上からもわかる脂肪のいちいちが折りたたまれていた。びしゃびしゃと鯉は音を立てて欠片になったパンの耳を食した。顔は見えない。まだ笑っている気もすれば、息子のそれのように怒りに駆られた顔をしている気もした。

 私と竹中は、やがて擬洋風の棟の、その一階の隅の部屋に通された。

 部屋は広く、また雑然としていた。十六畳ほどの部屋には所せましと調度が押し合い、一個の華美な生活空間として自足させていた。ベッドがあり、冷蔵庫があり、おおきな食器棚があった。ベッドには絹の深紅の天蓋カーテンが半端に降ろされ、冷蔵庫の上には空瓶が置かれ、棚の複雑な模様の刻まれた食器は皿のサイズも合わせずに押し込められていた。部屋中央のブラックウォールナットの艶やかなテーブルにはコップの高台とおなじ円状の水滴が拭かれもせずに放っておかれ、テーブルを挟みこむかたちで位置されたソファーには湿りのとれていない黒いシミもあった。照明は白く冷たい過激なまでの光度で光を浴びせていた。荒れた部屋で唯一乱れのなかったのはカーテンだった。灰色の無地な遮光カーテンだけが隙間もなくぴっしりと閉じられていた。

 ……云うまでもなく、こういう部屋の詳細を入室のたった一瞥で把握できたわけではない。むしろわれわれの目には部屋の印象などほとんど映らなかった。われわれはこの荒んだ室内の様相より、はるかにこの部屋主の、小百合の姿に捉われていた。

 小百合は裸だった。
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