太陽の島

丹羽嘉人

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第一章

3-1

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 竹中の家に戻ったとき、もしかすれば人は、私が丸っきり人格の変わったように興奮し、溢れんばかりの感動を胸に抱えていると推察するかもしれないが、そうではない。いや、興奮そのものは事実である。が、私は興奮を感じ、それでいて疑っていた。つまり、どうしてこのような興奮が生まれるのか、という意義のない問いをしつづけたのである。それは困窮していた人間が宝くじに当たり、通帳で見たこともない金額を見つめる心地に似ている。幸福の大きさに比例し、人は易々と幸福を受け入れられるわけでもなかった。

「そういえば、一人だけ、子どもたちのなかに肌の白い子がいたな」

 車に揺れながら、私は我慢が効かずそう訊いた。

「ああ、ケン坊のことだろう」

 竹中は感慨もなく返した。

「珍しいのか、ああいう肌の子は。少なくとも周りの子は褐色だったけども」

「まあ、外に出る子のなかでは唯一だろうね。あの子は祖母がオランダ人だったらしい。よく見ると鼻も高いし髪も明るい色をしている。ほかの兄弟はそうでもないんだが、隔世遺伝ってやつなのかもしれない」

「兄弟がいるのか」

「ああ、末っ子らしい。姉がいたか兄がいたかは覚えてないけど」

 竹中はそれで少年の話を終わらせた。そして次にはこれから訪問する家、伊地知家についての概略を伝えた。伊地知家は、江戸時代、あるいはより古い時代からのこの島の地主であった。それも、最盛のころは伊地知の土地を渡らずに島を渡れないと揶揄されたほどで、揶揄、と言ったが、実態はそれほど冗長でもなかった。伊地知家は小作人も数多く雇い、その経済力もさることながら、何より権威が凄まじかった。島内の細々とした取り決め、代表役、果てには小作人同士の婚約にも口を出した。

 言わずもがな土地は戦後の農地改革によって没収された。しかしだからといってこの日本の端の、旧態依然とした慣習が一転したわけでもなく、土地の取り上げられた伊地知家はその教育資本から教師、医者、政治家、いわゆる「先生」と呼ばれる職業人を輩出した。戦後から八十年代までは、伊地知はやはり不可視の、甚大な力を持った。それは敬意であり、信用であり、畏怖であって、一時期には民主的に定められるはずの島の町長の席には伊地知の血縁が半分を占めた。

 だが現代となれば、流石の伊地知も押しも押されぬ名家というわけにはいかない。凋落というほどの落ちぶれではない。事実、私の訪れた屋敷は、苔の深く刻まれた石垣、凛とした伝統的なふたつの日本庭園、うちひとつは数重の波紋の描かれた枯山水、もうひとつは穏やかな水音で彩られた手水鉢と小池、またそれを架ける石橋があり、二棟の建築は外観こそ似かよった、港町のそれと図体しか変わらぬ瓦屋根と白壁であったが、内装はモダンと擬洋風とに分かれ、それらを通じる屋根付きの渡り廊下には、往来の気配で点灯するLED照明がかけられていた。

 竹中は玄関口までの飛び石を跨ぎながら、こんな耳打ちした。

「ここの主人は昔病院を経営していてね、金はあるんだ。それだけで十二分に立派なことだが、本人たちの理想とは随分かけ離れてるらしい。いや本人はちがうな。伊地知の爺さんは大人しい、どちらかと言えば権威とかに無頓着な人だ。それよりも問題は奥さんのほうさ。七十になるが、あれほどに偉そうで、自分の力を魅せたがる人は、お姫様育ちって言われてもちょっと説明つかないね。……それで、その奥さんからしてみれば、いまの伊地知家は経済的に裕福だが、しかしそれだけなんだ。町長を決めるにしても、細かいいざこざも、まったく自分の蚊帳の外で起こるんだから」

「なんでそんな人と付き合っているんだ」と私は訊いた。

「色々と役立つのさ」

 竹中はそれだけ言うとインターホンを押した。空は夕暮れの、燃えるような赤裸で、チャイムが聴こえるや否や、屋敷の慌ただしい喧噪が漏れ出ていた。しばらくすると中年の女性が戸を開けた。痩せた、蒼白のひとで、黄色いエプロンをつけていた。私でも、この女性が伊地知の妻でないのはわかった。

「ああ、竹中さん、どうぞいらっしゃいました。お暗いなか、わざわざ……」

 女性は過剰な慇懃さでわれわれを応対し、リビングまでの、長い廊下を先導した。廊下はいくつかの絵画、おそらく日本作家の油絵がかけられ、夜明けの桜島を描いたものや、浴室の裸婦を描いたもの、パリの落書きで埋められた壁を描いたものが、死に際の不吉な走馬灯のように繰り広げられた。ふいに、私がそのパリの壁の前で立ち止まりかけた。すると女性は、視線を斜め上に泳がせ、思い出すように講釈を述べた。

「佐伯雄三という人の絵なんです。大阪の、若くに亡くなった人で、あの、これはレプリカなんですけど、本物はたしか……」

 私はそこで礼を言って解説を切り上げさせた。そのときから、いや飛び石を行ったときの竹中の耳打ちから、私の脳裏には嫌な予感がむくむくと立ち込めていた。

 予感は的中した。それからリビングでの歓迎会では不快な思いをした。たしかに竹中の告知の通り、和仁、伊地知家の現当主であり、福岡の産婦人科の病院元院長のほうは物静かで、そのふくよかな笑みから悪い印象は受けなかったが、やはりその妻、桑子のほうは多分に厄介な人物であった。私は会話の最中、左の側頭に苛々とした痛みを感じ、またそれでも愛想を繕わないといけないことが、一層の苦痛だった。

 会には、われわれ以外に四人居合わせ、そのうちのふたりは伊地知夫妻だったが、ほかに若い男が同席していた。どうやら伊地知の一人息子らしく、東京のIT企業を立ち上げ、妻と娘に先んじて、一日はやくこの島にかえってきたという。息子は無口であった。しかしその無口は父親のそれとは違い、喉まで突きかかった言葉を無理に押し殺したような感じがあった。息子は、母親のくだらない自慢、誰に調べさせたのかもわからない家系図の披露や東京で催された島民の会の小話を聴きながら、硝子製のテーブルに埋め尽くされた寿司や手羽先の煮込みを無心に食べ、かと思えば突然切っ先のような鋭さで睨んでいた。

 息子は、それこそ私とおなじほどの歳に思えた。あっても、三十二、三ぐらいで、あまりにも感情に任せた視線、体制に対する決死な火炎瓶のような面立ち、それはまさに若者の特権であった。

 私は、この息子に、ある親しみ、羨みをもった。嫌悪というのはどうしてこうも人と人を引き寄せるのだろうか。同一の対象に抱く好意よりも、その嫌悪はまた別の他者との嫌悪と結びつき、しかもそれはほとんど無言のうちに行われる。私は、嫌いな教師が叱っている生徒を見る心地で彼を見ていた。そして私がひとたび苛立ちを露わにすれば、きっと彼も、深い同調の目で見返してくれると思われた。

 話題は私のことへと移った。竹中は、あんな寸評をしたわりに、伊地知和仁を「先生」と呼び、また桑子のことを「先生夫人」と呼んで、この仕様のない物書きを絢爛豪華に解説した。

「先生、この男はね、小説を書いてるなんて言いましたが、実のところ芸術一家の子息なんですよ。こいつの父親はデザイナーで、色々な広告を描いてまして、母親のほうはジャズピアニストなんです。いつのことか、こいつの実家に訪れたことがありましたが、いやあ、この感性というか素養というかそういうものはこうやって育まれたんだなと納得しますよ。一階が父親の事務所なんですが、そこには勿論、家のなかにも沢山の絵画が飾られて、リビングにはピアノがあって、ロフトには楽譜やら油絵やらが平積みにされてるんです。ああいう家に行くと、やっぱりこいつは芸術の星の下に生まれたんだなあと思わされます」

「はあ、だから……」

「だから、ってなんだい、加代さん」

「いえね、奥様、この方、廊下を通るときに佐伯雄三さんの絵をじっとお見詰めになったんです。それで―――」

「ああ、なんだい、早く言ってくれれば良かったのに。しかしねえ、お父さまがデザイナーねえ……」

「どちらも藝大も出ていたらしいですよ」

「へえ、東京の?」

「ええ、東京のです」

 私はまた頭痛がひどくなった。そして痛みのまま、背筋を強張らせ、桑子と、竹中を憎んだ。すると目の端に伊地知の息子が同情のある眼差しで私を見つめていた。それだけが救いであった。
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