上 下
15 / 25
第三章

1. 苛烈な女性

しおりを挟む
 ある日の午後、食後に一人で庭園を歩いていたアニエスは、正門の方から騒々しさが伝わってくるのを感じた。
 何が起こっているのかと近づいて行くと、一際大きな声で女性が騒いでいるのが分かった。

「アニエスって女を出しなさいっ!!」

 初めは騒々しいことしか分からなかったが、唐突に大声で名指しされてアニエスの心臓が跳ねる。
 正門が見えるところまで辿り着いたアニエスは、真っ赤な色のドレスを着た女性が、使用人に対して怒鳴っているのを見た。
 まだ昼間だというのに胸元の開いたデザインのドレスと、濃いめの化粧をした派手な印象のある女性だった。
 さらに長身で容姿も整っているので迫力のある美女だったが、険しい表情がせっかくの美しさを打ち消していた。
 もちろんアニエスの知っている女性ではない。
 だが、相手はアニエスのことを知っていて、「出せ」と使用人を恫喝している。
 アニエスは表情を引き締めると背筋を伸ばし、彼女へ向かって歩みを進めた。
 アニエスの存在に気づいた女性が、ほんの一瞬騒ぎ立てるのをやめてこちらを振り返る。それに気づいた使用人たちもまた、アニエスを見て動揺する。
 おそらく彼らは、その女性が何者なのかは知っているのだろう。皆一様に不安だったり気まずい顔をして、アニエスを止めるべきか迷っているようだった。
 中にはアニエスに声をかけようとした者もいたが、アニエスは微笑み頷くことで問題ないことを示して見せた。
 本当は女性が何者か分からず、なぜ自分を名指ししたのかも分からず――分からないことだらけで問題が無いわけがない。
 だが、問題が起こったときに毅然とした態度で臨もうとするのは、貴族の性のようなものだ。
 アニエスは女性の目の前まで来ると、膝を折って頭を下げてから、まっすぐに彼女を見返した。

「アニエス・モアヅィと申します。私に何か御用でしょうか」
「あんたが――」

 名前を名乗ると不機嫌だった女性の顔が、さらに険しいものになる。

「なによ、まだ子供じゃない! ルカーったら少女趣味だったわけ?!」

 投げつけられた罵声は、見事にアニエスの心に突き刺さった。

(確かに身長は低いけど……)

 だがもちろん、そんな不満な感情は表に出さない。

「私は成人しております。それよりも、どうぞご用向きをおっしゃってくださいませ」

 冷静に言葉を返すと女性は、一瞬顔を歪めたがすぐに嫌な笑みを浮かべて言った。

「可愛げのない子ね。そんなんだから婚約破棄されるのではなくて?」

 思わぬ言葉に若干アニエスは目を見開く。
 名前を知っていたのだから、婚約破棄のことを知っていてもおかしくはない。
 わざとらしく煽るような語調で、彼女はさらに続ける。

「元婚約者もあなたより幼い少女と婚約したらしいけど、少女趣味の男からも捨てられるようなあなたじゃ、そのうちルカーからも捨てられるわね」

 心配することもなかったわ、と女性が声を上げて嘲笑する。
 彼女の言葉はことごとくアニエスの心を傷つけていくが、『ルカーから捨てられる』という言葉に一番アニエスは胸を抉られるような痛みを覚えた。
 ただ、自分とルカーとは決してそのような間柄ではない。
 たとえ体の関係があったとしても、あれはルカーにとっては事故のようなものなのだ、と。
 アニエスは体の前で重ねた両手に力を籠めると、強い視線で彼女を見返した。

「何を勘違いしておられるのかは分かりませんが、私とルカー様との間には、あなたが考えているような関係はございません。私はこちらのお邸に、ルカーさまのご厚意に縋り、お世話になっているだけです。ご用向きがそれだけなのでしたら、どうぞお帰りくださいませ」

 アニエスは軽く頭を下げると、女性へ邸から退出するよう願った。
 顔を上げたアニエスが長身の女性を真っすぐに見上げると、女性がなお肩を怒らせて手を上げるのが見えた。
 気づいたときには遅く、女性の手は素早く振り下ろされてアニエスの頬を打った。
 途端、周囲の使用人から悲鳴が上がる。
 女性はそんな使用人に「うるさいっ!」と吐き捨ててから、再びアニエスに険しい表情を向け声を荒げた。

「しらじらしいことを言ってんじゃないわよ! 王都ではあんたがその体を使って呪いを解くふりをして、ルカーを篭絡したって話は広まってるんだからね! この売女っ! ルカーは私の婚約者なのよっ! あんたを裁判にかけて、また国外追放にしてやるんだからっ!」

 またもや手を振り上げようとする彼女を、背後から女性に付き従ってきたのだろう使用人が羽交い絞めにする。

「お嬢様、これ以上はっ、いったん帰りましょう!」

 真っ青な顔で必死に女性を引っ張って、何とか彼女を馬車に押し込むと逃げるように去って行ってしまった。
 残されたアニエスはしばし、叩かれた頬に手をやって呆然としていたが、周囲に居た使用人に声をかけられて我に返る。

「大丈夫ですか? アニエス様……お顔が」

 力いっぱい叩かれたせいか、アニエスの頬は真っ赤に変色し、若干腫れてしまっていた。
 だが、これくらいならアニエスは自分で何とかできる。
 顔を曇らせる使用人に笑みを見せて、アニエスは彼らを安心させようとした。

「ええ、大丈夫よ。これくらいなら半日もあれば治るわ」

 逆に言えば、半日時間をかけないと治せないのだが、そんな不出来な聖女を彼らは嘲笑うことなく、「濡らしたタオルを」とか「氷を」と言ってアニエスを介抱しようとする。
 そんな優しさに触れながらアニエスは、何度も繰り返し考えてきたことを、もう一度改めて考えるのだった。

(これ以上ここの方たちに、ルカー様に迷惑はかけられないわ。結局、ルカー様の呪いを解くことができない私が、長居したのがいけなかったのよ。早く出ていかないと――)

 きっと優しい彼らはアニエスを引き留めようとするだろう。
 だから、どうやって引き留められずに出ていけるかと、そんなことをぼんやり考えていたアニエスの耳に、馬の走る足音が近づいて来るのが聞こえた。
 馬車の音ではないことに安堵しつつ、そちらを見れば走る馬に跨っているのはルカーだった。
 その後ろからは同じく馬に乗った従者がいて、彼が弓を担いでいることからどうやら狩りに出ていたようだと分かった。
 騒動が起こっていると知らせを受けて戻って来たらしい。
 アニエスの目の前まで来ると素早く馬から降り、硬い表情で何があったのかと尋ねてくる。
 アニエスには説明しがたく、それを察した周囲の使用人が「畏れながら」と説明してくれる。
 そこで初めてアニエスは、先ほどの女性の家名を聞いた。

「ラヴィカラ家のあのご令嬢がアニエス様に手を上げて――」

 それを聞いたルカーが、険しい表情でアニエスを見る。
 アニエスは叩かれた頬に手を当てていたが、それでも赤く腫れているのは分かったのだろう。
 すべてを聞いたルカーは言葉少なに「分かった。アニエス嬢の手当てを」と言い、再び馬に跨ると門の外へ走り去ってしまった。
 きっと女性を追って行ったのだろう。
 女性はルカーと婚約していると言っていたから、その彼女に誤解されたことに慌てたのかも知れない。
 急いで彼女を追って弁明し、誤解を解いたあとはアニエスに「出て行ってほしい」と言うのかも知れない。
 誠実な彼のことだから無下に追い出すことはしないだろうが、ルカーにそう言われた場面を想像しただけでアニエスは胸が苦しくなった。

(私、いつの間にかルカー様のことを……)

 瞬く間に小さくなっていくルカーの背中を見送りながら、アニエスはその呟きに続く言葉を胸の奥に仕舞い込んだのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

お嬢様のために暴君に媚びを売ったら愛されました!

近藤アリス
恋愛
暴君と名高い第二王子ジェレマイアに、愛しのお嬢様が嫁ぐことに! どうにかしてお嬢様から興味を逸らすために、媚びを売ったら愛されて執着されちゃって…? 幼い頃、子爵家に拾われた主人公ビオラがお嬢様のためにジェレマイアに媚びを売り 後継者争い、聖女など色々な問題に巻き込まれていきますが 他人の健康状態と治療法が分かる特殊能力を持って、お嬢様のために頑張るお話です。 ※ざまぁはほんのり。安心のハッピーエンド設定です! ※「カクヨム」にも掲載しています ※完結しました!ありがとうございます!

【完結】『飯炊き女』と呼ばれている騎士団の寮母ですが、実は最高位の聖女です

葉桜鹿乃
恋愛
ルーシーが『飯炊き女』と、呼ばれてそろそろ3年が経とうとしている。 王宮内に兵舎がある王立騎士団【鷹の爪】の寮母を担っているルーシー。 孤児院の出で、働き口を探してここに配置された事になっているが、実はこの国の最も高貴な存在とされる『金剛の聖女』である。 王宮という国で一番安全な場所で、更には周囲に常に複数人の騎士が控えている場所に、本人と王族、宰相が話し合って所属することになったものの、存在を秘する為に扱いは『飯炊き女』である。 働くのは苦では無いし、顔を隠すための不細工な丸眼鏡にソバカスと眉を太くする化粧、粗末な服。これを襲いに来るような輩は男所帯の騎士団にも居ないし、聖女の力で存在感を常に薄めるようにしている。 何故このような擬態をしているかというと、隣国から聖女を狙って何者かが間者として侵入していると言われているためだ。 隣国は既に瘴気で汚れた土地が多くなり、作物もまともに育たないと聞いて、ルーシーはしばらく隣国に行ってもいいと思っているのだが、長く冷戦状態にある隣国に行かせるのは命が危ないのでは、と躊躇いを見せる国王たちをルーシーは説得する教養もなく……。 そんな折、ある日の月夜に、明日の雨を予見して変装をせずに水汲みをしている時に「見つけた」と言われて振り向いたそこにいたのは、騎士団の中でもルーシーに優しい一人の騎士だった。 ※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。 ※小説家になろう様でも掲載予定です。

お堅い公爵様に求婚されたら、溺愛生活が始まりました

群青みどり
恋愛
 国に死ぬまで搾取される聖女になるのが嫌で実力を隠していたアイリスは、周囲から無能だと虐げられてきた。  どれだけ酷い目に遭おうが強い精神力で乗り越えてきたアイリスの安らぎの時間は、若き公爵のセピアが神殿に訪れた時だった。  そんなある日、セピアが敵と対峙した時にたまたま近くにいたアイリスは巻き込まれて怪我を負い、気絶してしまう。目が覚めると、顔に傷痕が残ってしまったということで、セピアと婚約を結ばれていた! 「どうか怪我を負わせた責任をとって君と結婚させてほしい」  こんな怪我、聖女の力ですぐ治せるけれど……本物の聖女だとバレたくない!  このまま正体バレして国に搾取される人生を送るか、他の方法を探して婚約破棄をするか。  婚約破棄に向けて悩むアイリスだったが、罪悪感から求婚してきたはずのセピアの溺愛っぷりがすごくて⁉︎ 「ずっと、どうやってこの神殿から君を攫おうかと考えていた」  麗しの公爵様は、今日も聖女にしか見せない笑顔を浮かべる── ※タイトル変更しました

他国から来た王妃ですが、冷遇? 私にとっては厚遇すぎます!

七辻ゆゆ
ファンタジー
人質同然でやってきたというのに、出されるご飯は母国より美味しいし、嫌味な上司もいないから掃除洗濯毎日楽しいのですが!?

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

【完結】誰にも相手にされない壁の華、イケメン騎士にお持ち帰りされる。

三園 七詩
恋愛
独身の貴族が集められる、今で言う婚活パーティーそこに地味で地位も下のソフィアも参加することに…しかし誰にも話しかけらない壁の華とかしたソフィア。 それなのに気がつけば裸でベッドに寝ていた…隣にはイケメン騎士でパーティーの花形の男性が隣にいる。 頭を抱えるソフィアはその前の出来事を思い出した。 短編恋愛になってます。

本日をもって、魔術師団長の射精係を退職するになりました。ここでの経験や学んだことを大切にしながら、今後も頑張っていきたいと考えております。

シェルビビ
恋愛
 膨大な魔力の引き換えに、自慰をしてはいけない制約がある宮廷魔術師。他人の手で射精をして貰わないといけないが、彼らの精液を受け入れられる人間は限られていた。  平民であるユニスは、偶然の出来事で射精師として才能が目覚めてしまう。ある日、襲われそうになった同僚を助けるために、制限魔法を解除して右手を酷使した結果、気絶してしまい前世を思い出してしまう。ユニスが触れた性器は、尋常じゃない快楽とおびただしい量の射精をする事が出来る。  前世の記憶を思い出した事で、冷静さを取り戻し、射精させる事が出来なくなった。徐々に射精に対する情熱を失っていくユニス。  突然仕事を辞める事を責める魔術師団長のイースは、普通の恋愛をしたいと話すユニスを説得するために行動をする。 「ユニス、本気で射精師辞めるのか? 心の髄まで射精が好きだっただろう。俺を射精させるまで辞めさせない」  射精させる情熱を思い出し愛を知った時、ユニスが選ぶ運命は――。

処理中です...