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結婚の条件
③
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眠れない夜を過ごした翌日、エアルはまだ霧がかった明け方にローデンブルク城を目指して翼を広げた。
城の裏門には、旅仕様に身を包んだローシュとローシュの愛黒馬のゼリオス、そしてオイルランプを手にした厩舎長がいた。
「朝早くにすまないな」
ローシュが労うと、恰幅のいい厩舎長が「お安い御用です」と馬の手綱をローシュに渡した。ローシュより頭二つ分ほど背の低い中年男の腹にはでっぷりとした贅肉がついていて、リネンのシャツの上からサスペンダーが食い込んでいる。
ちょうどエアルも翼を閉じ、男たちの前に降り立った。地面を踏む足音で気づいたらしく、暗がりの中でローシュの頭がこちらを向く。
目が合った瞬間、キリッと鋭い王子の目が少年のようにアーチ状に曲がる。ローシュが礼とともに持ち場に戻るよう伝えると、厩舎長はおとなしくエアルの横を通り過ぎ、厩舎へと戻っていった。
二人きりになった途端、ローシュが薬草や食糧が入っているであろう荷袋を積んだ馬を引き、目の前まで歩み寄ってくる。丈の短い黒のフロックコートに身を包んだ姿は、上品な旅人といったところだ。深紅のブリーチズを履いた身軽な腰には、国花を模した王族の紋章が刻まれた剣が備えられている。
「見送ってくれるのか」
声を抑えたローシュが尋ねる。エアルは男の質問を無視し、淡々と「王の言うことが真実だとお思いですか?」と尋ね返した。
「また今度も性急だな」
ローシュは苦笑いになる。
「私は王が嘘をついていると思っています。洞窟に王族の宝などありはしない。仮に宝があったとして、あなたがそれを持ち帰ったとしても、私との結婚など認めるはずがないのです」
エアルがそう言うと、ローシュは表情を変えずに「ふむ」と頷いた。
「私は王を……レイモンド様の性格をよく存じ上げています。あの方が平気で嘘をつくことも、冷淡で無慈悲な考えをお持ちであることも」
必死で訴える。思い返せば、レイモンドは幼少期の頃から他人に関心のない男だった。よく言えばそつがない。息子のローシュやカリオと比べても、全教科で高評価の成績を収める手のかからない生徒だった。
幼少期の頃は楽だと感じていたが、それも大人の洗礼を受ける年頃まで。エアルが教えた夜の営みを覚えてからは、歴代のどの王よりもエアルを振り回す曲者となった。
いくら関係性の薄い親子とはいえ、父親の悪印象をローシュに教えるのは心苦しかった。だがローシュを危険な目に遭わせるぐらいなら、告げ口をする自分に呆れてくれた方がましだと思った。
「わざわざそんなことを教えに来てくれたのか。こんな日も昇らないうちに」
エアルの焦りとは反対に、ローシュはいたって冷静な口調で返してきた。
「そ、そんなことって……私は心配しているんですよっ?」
「それは光栄だな」
ははっと笑う男を前にして、エアルは全身の力が抜けるのを感じた。馬鹿にされているとまでは思わずとも、王から与えられた条件を軽く捉えすぎなのではと新たに別の心配が生まれた。
「とにかく、洞窟への出立は中止してください。レイモンド様には私から伝えておきますので」
「遠慮する」男は少しも考える素振りを見せずに答えた。
まさか本当に王から出された条件を飲めば、自分の願いが叶うとでも思っているのだろうか。エアルは心配を通り越して、ローシュに怒りさえ覚えた。
エアルの感情の起伏を感じ取ったのか、ローシュの隣にいるゼリオスが耳をピンと立てた。落ち着かせるように、ローシュは馬の鼻筋を撫でる。ゼリオスはブルルと足踏みしながら、ゆっくりと耳をパタパタと動かした。
「父上はもともと『考える』としか言わなかった。エアルの言うように、条件をクリアしたところで結婚を認めるなんてことはしないだろうな」
「そこまで承知の上だったんですか。ならどうして――」
「だってこうでもしなくちゃ、考えてももらえないだろ? きっと父上は俺が諦めない限り、何かと無理難題な条件を吹っかけてくる。今の俺にできることは、出された条件に一つ一つ応えていくことだけだ」
東塔の後ろから朝陽が昇りはじめている。少しずつ明るみになっていく視界の中で、ローシュの真っ直ぐな目に射抜かれた。
この目に捕まると身動きがとれなくなるようになったのは、いつからだろうか。思い出せない。エアルはその眼差しからかろうじて目を逸らし、唇を噛んだ。
自分の負けだ。この男の決意を揺らがすことも、諦めさせることも自分にはできないと思った。
「そんな顔をしないでくれ。昨日、皆の前で迷惑ではないと言ってくれて嬉しかったんだ」
ローシュの声音が優しいものになる。
昨日の臨時会議のあと、レイモンド王からローシュへの気持ちを遠回しに訊かれたことを思い出す。正直な気持ちを口にしたエアルだが、今考えてもそれが正しかったのかどうかはわからない。
だが、ローシュは嬉しそうだった。焼け野原のような殺伐とした空間の中、ひとり花畑にいるみたいに喜びをあらわにしていた。
俯いたままのエアルに、ローシュは続けて声を注いでくる。
「エアルを愛している俺を受け入れてくれてありがとう。たとえエアルの気持ちが俺に向いていないとしても、俺はそれだけで宝探しでも魔物討伐でも――何でもできる気がするんだ」
その瞬間、鼻の奥がツンとした。目の奥が震えて、涙が出そうになった。
どうしてこの男はこんなにも愛情深いんだろう。二十年という短い人生の中で、どうしてこんなにも愛の言葉を知っているんだろう。
人間なんて馬鹿にするだけの対象だった。狡くて薄汚くて、大嫌いだった。ローシュもその一人だった。ちょっと前までは。
でも今は自然と思う。
傷ついてほしくない。
危険な目に遭ってほしくない。
離れたくない――。
エアルはズッと洟を啜り、憎たらしい目を向ける。なんとか涙を堪えながら、「わかりました」と観念の音をあげた。
「私もご一緒いたします。魔物との戦闘ではお役に立てませんが、回復系や補助系の魔法でしたら使えます。実戦経験もローシュ様よりはあるかと」
やはりたった一人で向かう算段だったのだろう。ローシュは意外そうな顔をして目を見開いた。
「エアルが一緒に来てくれるのは心強いが、それでは父上がなんて言うか――」
「王はローシュ様お一人で、とは申されませんでした。あとからどうとでもなりますよ。といいますか、どうにかします」
ローシュは感心するように「頼もしいな」と呟いた。
「あたりまえです。私のせいで未来の時期国王に何かあれば、たまったものではありませんから」
本当はそれだけじゃない。ローシュを守りたかった。危険な場所に行くというのなら、手を伸ばせば届く範囲にいたかった。
どうしてそんな風に思うのか、自分でもわからないが……。
エアルは「行きましょう」と言いながら、大きく広げた両翼を煽いだ。ふわりと体が浮上するとともに、ローシュとの間に距離ができる。空が近くなる。
王の茶番などさっさと終わらせて、ローシュを安全な城に連れ戻したかった。求婚されていることに関して頭を悩ませるのは、それからでも遅くはないだろう。
地上に目を落とすと、ローシュが馬の背中で跨いでいた。男が鞍に腰を落とすのを確認してから、エアルは雲がかかった北の空に向けて進行方向を変えた。
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