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成年王族

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 たとえば先の大戦のようなことが起き、国が混乱や争いに巻き込まれたとしたら。この国の緑豊かな土壌は枯れ、海や川は穢れてしまうだろう。死した同胞たちが愛した景色や動植物たちの住処も、失われてしまう。

 かく言うエアルも、この生活を手放したところでどこに行けばいいのかわからなかった。長い年月をかけて、鳥籠の狭い空間に慣れさせられてしまったのだ。そんな自分がこの国を出て一人で生きていくなんて、できるわけがないと思った。

 ローシュが王になれば、今よりもっと国力は安定するだろう。たとえ混乱が起きたとしても、その統率力とカリスマ性をもってして平和への旗振りを怠らないはずだ。少なくても、ローシュにその資質があると断言できる。

 そして国の平穏は、自分の居場所の確保に繋がる。エアルはそれ以上のことを何も……何も望んでいないのだ。

「妃を娶り、世継ぎを設けてください。そして自ら国民に王の威厳を示してください。まずはそれからです」

 エアルの勢いに、ローシュが片眉を上げた。

「それから? まるで妻を娶ったあとならおまえを口説いてもいいみたいな言い種だな」

 ローシュの言っていることは、半分正解で半分間違っている。ローシュがいい顔をしないことはわかっていたが、エアルは思いついたそのままを口にした。

「ご結婚されたあとなら、私をどうぞ好きにしてください」

 ローシュの眉がピクッと反応する。

「あなたにはその権利があるんですから。いくらでも私を愛人として囲えばよいでしょう」

「ふざけているのか? 俺がおまえを愛人にしたいだなんて嘘でも口にしたことがあるか?」

「愛人が嫌なら、慰み者にでもすればいいじゃないですか。あなたの父上のように」

 無意識のうちに自暴自棄な言い方になってしまう。

 エアルが口を開くたびに、ローシュの苛立ちが濃くなるのが伝わる。同時にローシュの後ろで列を成している侍者の空気が、ピリピリとした緊張感で張られていく。

 本当はもっと冷静に諭すつもりだった。そうするはずだったのに、どうしてこんなにも嫌な言い方しかできないのだろう。自分でもわからなかった。

 感情が昂ぶる。たった今愛人や慰み者として囲うことを自ら提案したくせに、もしもローシュが承諾したら? もしもそうなったら自分の気持ちはどうなるのだろう。考えると悲しくなる。想像だけで、目頭に涙が浮かんだ。

 張り詰めた空気を一変させたのは、ローシュの胸を張った笑い声だった。天井に高らかに響いた笑い声で、その場にいる者たちの緊張感が思わず緩む。

 ローシュはひと笑いを終えたあと、目尻に溜まった笑い涙を親指で拭った。

「エアルには本当に俺の気持ちが伝わっていないんだな。それがわかって、俄然やる気が沸いたよ」

 エアルはキョトンとする。不機嫌になられたり怒りをぶつけられたりすることはあっても、まさか笑われるとは思わなかったのだ。

「俺が結婚したい相手はエアルだけだ。本来なら、誰の慰み者にも手ほどきの相手にもしたくない」

 さっきまで緩んでいた男の視線が鋭くなる。柱の間から鋭い眼光を送った先は、父であるレイモンド王の寝室がある中央塔の最上階だった。

「国民の前で宣言したのは、あれが宣戦布告だからだ。エアルを好き勝手に弄んできた祖先たちと父上、そしてそれを見て見ぬふりをしてきたすべての人間たちへの、俺からの果たし状だ」

 ローシュの全身から放たれる敵意が、王子の背後に連なる侍者にもヒリヒリと伝わったようだ。皆、強張った顔を下に向けている。王子の言葉には、それだけその場にいる人間の罪悪感を引き出す力があった。

 視線を王の寝室からエアルに戻す頃には、ローシュの攻撃的な面は影を潜めていた。

 ローシュはその場で跪き、エアルの左手を優しく奪った。薬指のつけ根にチュッと口づけを落とす。こちらを見上げたのは、敵意とはほど遠い場所にある微笑みだ。

 ローシュはエアルの左手を握ったまま、言葉を紡ぎ始めた。

「俺の寿命なんて、エアルの寿命の指一本分にも満たない。できればその一本を俺にくれないだろうか」

 言葉の意味を理解した途端、エアルは胸の奥からぶわっと感情が溢れ出るのを感じた。怒涛のようにいろんな感情が押し寄せてくる。自分がどこに立っているのかもわからなくなるほど、気持ちがぐちゃぐちゃになった。

 自分でも気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。エアルはそれを拭うことも忘れて、霞んでいく視界の中を泳いだ。

 息ができない。前が見えない。この涙は一体どこからくるんだろう。どうしよう。皆が見ている。早く断らなければ。これ以上ローシュに喋らせたら、もっと状況が悪くなってしまう。

「わた、し……っは……」

 ああもう。口が回らない。どうしてこんなときに。

 わかることといえば、ローシュの唇が降ってきた薬指が異常に熱いことだけ。

 フッと微笑むローシュが、涙で曇った視界の中心で揺れる。次の瞬間、耳を疑う言葉――いや、ローシュからの好意を初めて感じ取った時点で、いつか言われるであろうとどこかでわかっていた言葉が耳をくすぐった。

「俺と結婚してください」

 初めて聞く、ローシュの誠実な声。その言葉と声が、耳の奥にこびりついていた民衆の悲愴な声をかき消していく。

 ローシュのプロポーズを浴びるだけで精一杯だった。そんな自分にローシュが助け舟を送ってくれたのは、それからすぐのことだ。

「結婚が難しいと言うのなら、せめてエアルの残りの指が濃いものになるよう協力させてほしい」

 ローシュはそう言うと、再びエアルの薬指に口づけた。熱を落とされた薬指が、少しずつ自分の体から離れていくような気がした。

 欲望の赴くままローシュの胸に飛び込みたい。逞しい腕に強く抱きしめられたい。そんな自分勝手な衝動に駆られながら、エアルは頬を濡らす涙もそのままに、ローシュの手を固く握り締めた。





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