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長い気の迷い

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 人間自体も、人間が作るモノも、好きになれない。そんなエアルが唯一心許せる人物がいる。その人物の手によって作られるモノがある。

「本当によいのか? この桃はずいぶんと形が整っていると思うのだが」

 エアルは手にやっと収まるほど大きな桃を受け取った。丸々とした薄ピンク色の桃に黒ずみや虫に喰われた痕はなく、細やかな産毛を生やした表面はみずみずしい張りで今にも弾けてしまいそうだ。

「いいんだ、いいんだ。今日はべっぴんさんばかり採れたからなぁ。あんたにもオレの出来のいい子らをたまには食べてほしいんだよ」

 宮廷庭師のヨハンは、皺の多い顔をくしゃりとさせた。五十代半ばとは思えないほど老け込んだ顔は、毎日菜園と果樹園で太陽の光を浴びているからだろう。薄手のチュニックの開いた胸元から、あばら骨が浮き出た小麦色の肌が見える。

 宮廷庭師として奉公を始めてから四十年余りが経つ。新参の頃は言葉を話すことができず、ベテランの庭師や監督からこっぴどくいじめられていた。だが、ヨハンをいじめていた人間たちも年老いたのちに引退し、死んでいった。

 宮廷庭師の中で最年長となった今では、これまでに培った経験を活かし、菜園と果樹園で好き勝手に腕を振るっている。王族の誰かが苦手で作らなくていいと指示された野菜や果物でも遠慮なく栽培・収穫し、厨房に提供する姿勢は見ていて清々しい。実際エアルが知る限り、ヨハンは今が一番楽しそうに見えた。

「そういうことなら、ありがたく頂戴するよ」

「そうしてくれ。あ、何度も言ってるが礼は要らねえよ。オレが好きであんたにやってるんだ」

「ああ。わかってる」

 エアルはフッと笑みを浮かべ、手織りのバスケットに桃を入れる。ヨハンはこの城で唯一気軽に話せる相手だ。余計な気を遣わなくていいし、余計な気を遣われないからだ。エアルがフリューゲルであることも忘れていそうなヨハンの態度が心地よかった。

 庭園の一角にある菜園での穏やかな時間も、束の間だった。

 突如、城の裏手の方から叫び声が聞こえてきた。花壇やアリック王の銅像が建つ噴水広場の方からだ。

「なんだぁ? 今の声は」

 ヨハンが振り返り、城の方を見る。

「聞き間違えでなければカリオ様のものかと……」

「カリオ様の? なんか高い場所から落っこちたみてえな声だったな」

「カリオ様に限ってそれはありえないな」

 次の瞬間、「誰か来てー! 兄さまが!」とカリオの助けを求める叫びがこだました。どうやら第二王子の慌てぶりには、ローシュが関わっているらしい。続けて王城に響き渡ったのは、「エアルー!」と指名するカリオの声。

 ドッと肩が重くなった。ヨハンは苦笑いで「呼ばれちまったな」とエアルの肩を叩いた。

「こいつらは預かっといてやるから行ってきな」

 桃が入っているバスケットを奪われる。はあああ~……と深いため息をつく。エアルはヨハンに見送られながら、晴れ渡った空に翼を広げた。
 

***

 カリオがいたのは、王子たちの飛行訓練場にしているバルコニーの上だった。エアルの姿を空に見つけたカリオが、大きく広げた両手をブンブンと振っている。

 エアルは着陸の体勢に足を下へと向け、少しずつバルコニーに降下していった。

「どうなさったんです? そんなに大声を出して」

 本当は関わりたくないが、指名されたからには尋ねざるを得ない。カリオは焦った表情をエアルに向け、手すりの下に指を差した。

「飛行の練習をしていたら、兄さまが下に落ちちゃったんだよ!」

「飛行の練習? ローシュ様がですか?」

 なぜ? と疑問が浮かんだ瞬間、バシャッと水の弾ける音がバルコニーの下から聞こえた。

「あっ、兄さま!」

 カリオが手すりに前のめりになる。カリオの視線の先を追うと、そこにはびしょ濡れになったローシュが噴水の中で腰を抜かしていた。その近くには、フリューゲルの杖がぷかぷかと浮かんでいる。ローシュが子どもの頃にエアルが渡したものだ。

「はぁ~……さすがにいきなりは無謀だったか」

 独り言を口にしたローシュが、ブルブルと頭を振る。髪の毛の水分を落としているのか、短い髪先から水滴が飛ぶ。

「お怪我はありませんかっ?」

 カリオの問いかけに、「ああ」とローシュが顔を上げた。

「なんだ。エアルも来てたのか」

 エアルの姿を目に入れたと同時に、ローシュの口元が綻ぶ。

 エアルは再び翼を広げ、バルコニーの手すりを飛び越えた。噴水広場に降り立ち、ずんずんと噴水の中にいるローシュとの距離を詰めた。

「カリオ様からお聞きしましたが、飛行訓練をされていたと」

「ああ。空を飛ぶことに関しては、俺よりカリオの方が断然上手だからな。教えてもらおうと思ってさ」

 なんてことないみたいに答える男に、エアルはピキッと頭の血管が弾けた。

「いいですか。ローシュ様の飛行技術は素人同然なんです。自主的な練習はお控えください」

「べつにいいだろ。技術は素人並みでも、ある程度の飛行基礎は俺の頭にも入ってる」

 悪びれない男に対し、みぞおちのあたりに沸々と怒りがこみ上げてくる。

「技術が伴っていないうちは監督をつけなければ危険です。せめて私に一声かけてください」

「そんなこと言われたって、エアルは常に城にいるわけじゃないだろ。監督だって、一応カリオに教えてもらいながら見ててもらってたし……」

「たしかにカリオ様の飛行技術は優れていますが、指導したり監督したりする技術はございませんよ」

「おま……ほんと失礼なやつだな。カリオ、今の聞いたかっ?」

「カリオ様を巻き込むのはやめなさいと申し上げているんです!」

 言い合っている二人の周りを、エアルより一足遅れて駆け寄ってきた侍女や下男たちが囲みだす。噴水に落ちたびしょ濡れの王子を心配しているのか、タオルを持った侍女たちがオロオロしている。

 今すぐ噴水から引き上げて体を拭かせた方がいいのだろうが、エアルに王子の体調を気遣う余裕はなかった。

「だいたい、なぜあれほど避けていた飛行訓練に挑戦しようなどと考えたんですか!」

 呆れて頭が痛い。エアルは眉頭をつまんだ。挑戦する姿勢を見せるなら、今ではなく十年前に見せてほしかった。どうして自分の手を煩わせるようなことをするのか。

 問い詰めると、ローシュは膝を支えにしながら噴水の中で立ち上がった。

「エアルが教えてくれたんじゃないか」

「は?」

 眉頭から指を離し、ローシュに険しい目を向ける。

「俺はエアルより年上にはなれないし、エアルより世の中を知り尽くすには人生が短い。でも懐の深さと空を高く飛ぶこと。この二つに関しては、俺にだってエアルを超えることができるかもしれないだろ?」

 睨まれているとも知らず、ローシュの目は輝いて見えた。こちらを一心に見つめる深紅の目には、絶望も諦めもまったく浮かんでいない。

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