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 高辻が会社を去ってから、季節はうだるような真夏を過ぎ、あっという間に秋になった。 
 奏は秋が、あまり好きではない。夏は近くにいた空が遠のき、青々しかった空気の匂いが日に日に薄まっていくからだ。
 寂しいと思う。あの男と触れ合ったことを、思い出にできなくなる。頬に吹きつける木枯らしが後悔を連れてくるようで、高辻に出会ったこと自体を否定したくなってしまうのだ。
 軽井沢で高辻と最後に触れあったのが初夏のこと。あれから半年近くが経ったのかと考えると、不思議な気分だった。秘書として高辻が傍にいた時間よりも、一人でいたこの半年の方がずっと長く感じた。
 会社に着いてから、奏はセキュリティカードキーでオフィスに入った。すれ違った数人の社員たちから「お疲れさまです」と挨拶をもらい、社長室に足を向ける。
 とあるデスクの傍を通りかかった時だ。席を立った女性社員が「社長」と奏を呼んだ。
 首を捻って見ると、以前、証券会社からの営業電話に手こずっていた女性社員だった。「先ほど社長宛に奥谷様という方からお電話をいただきました」
 高辻がいない今、社員一人一人が以前よりだいぶ電話対応が上手くなった。少し緊張気味ではあるが、この女性社員も前に比べてずいぶんと上達した。
「奥谷? 知らないな」
 奏は頭を横に倒した。女性社員は「またかけ直しますとのことだったので、お待ちいただければいいかと」と自分の判断を述べる。
「そうみたいだな。どうせ電話番号を聞いても、教えてくれなかったんだろ?」
 はい、と頷く女性社員に、奏は「本当に俺に用事があるなら、またかかって来るさ」と言って、一人社長室の中に入った。
 社長椅子に座り、ひじ掛けに肘を置いて考える。奥谷という名前に、聞き覚えはないものの、仕事関係で会ったことのある人物だとしたら『どちらさまですか』とは聞けない。
 少し前に雇った事務員のおかげで、郵便物や書類関連の業務は奏の手から離れてくれた。だが業務以外のこと――例えばこういった時に、高辻の存在の大きさを改めて痛感する。
 聞き覚えのない名前を聞いた時や、顔は思い出せるのに名前が思い出せない相手に遭遇した場合など。高辻は素早く察知して、こっそり教えてフォローしてくれたのだ。
「……甘えすぎていたな」
 奏は独り言を吐きながら、自虐的に笑った。今思えば甘えている自覚もないほど、高辻という男の存在とその能力に頼り切っていた。
 その上、ヒートに乗じて抱かせようとしたのだ。逆にこれまでよく耐えてきたと思う。高辻が自分から離れていくのも当然だ。寂しい気持ちを引きずる資格も自分にはない――。
 だからこそ、このままじゃ駄目だ。
 奏はそう自分に言い聞かせる。椅子から立ち上がり、壁際のキャビネットに向かった。スチールのそれを開け、指の第一関節ほどの厚さのファイルを手に取り、中を開く。
 それは高辻が以前まとめた、名刺のファイルだった。同じ医療系の会社から、メディア系、通信系、中には銀座にあるクラブのママの名刺もファイリングされてある。
 その中から奏は『奥谷』という名前を探してみた。だが、ざっと見ても該当の名前は見当たらない。
 名刺ファイルを棚に戻してから、他に人物リスト系のファイルを探すため、人差し指でファイルの背をたどっていく。とあるファイルの背に書かれた文字が目に留まった時、奏は指を止めた。
「これって……」
 すかさず指の腹でファイルを傾けて抜きとった。軽くパラパラとめくって中を確認する。
 それは間違いない。軽井沢で高辻と言い争った時に、高辻が奏に『渡した』と声を荒げて主張したファイルだ。奏にとって要注意となりそうな人物をまとめたと言っていた。
 何のために高辻がこんなものを作成したのか。渡された時も、軽井沢の一件の時も疑問にすら思っていなかった。
 高辻は多忙な中、どうしてわざわざ写真を付けてまでファイルにしたんだろう。そして渡してきたんだろう。今さらながら、奏は高辻の意図を考えた。
 中を開いて、内容に目を通す。ファイルの中に収められていたリストは顔写真や名前、経歴や職歴、バース性といった個人情報が記されている。履歴書のようなものだった。
 会社役員や銀行員、奏の会社を辞めた元社員など業種も職種もバラバラ。高辻の言うように、若い女性である美弥子の資料もある。男女の性別も年齢もとにかくバラバラだった。
 目で追っていくうちに、奏はリストに載った人物の共通点に気がついた。それはファイリングされていた人物たちのバース性が、皆アルファだったこと。そして、全員が全員、奏と面識のある人物、もしくは共通の知人のいる人物だったのだ。
 しかも個人情報の列挙する下の備考欄には、高辻の達筆な文字で何かが書かれていた。その文字に、奏は目を疑った。
『オメガを強姦した犯罪歴有り』
『オメガへの蔑視発言を複数回に渡りメディアで発言』
『周囲のオメガを妊娠・堕胎させた経歴有り』
 など、オメガに関する犯罪歴やあくどい経歴が、一人一人に記載されていたのだ。それが約百人分。美弥子だけではない。以前、経営者セミナーで奏の抑制剤を奪い、事に及ぼうとした鈴田という社長のリストもあった。
 ここまで調べ上げるのに、どれだけの時間と労力を費やしたのだろうか。どうしてここまでして、高辻は自分の身辺を気にかけていてくれたのだろう。自分の雇い主がスキャンダルや事件に巻き込まれ、会社の業績が下がるのを防ぐため? 
 奏は胸が熱くなった。ファイルを胸に抱く。高辻の行動の裏にある意図が、奏の為ではなく会社の為だったとしてもいい。奏が父から譲り受けた会社を、守ろうとしてくれた。大事にしてくれた。それがとにかく嬉しかった。
 たとえこの解釈が、自分の都合のいいものだったとしても、高辻が過去に起こした行動は変わらない。結局、会社と奏の為になっているのだから。
 その時、社長室の電話が鳴った。ファイルをキャビネットに戻し、目尻の涙を親指で拭く。受話器を取って「はい」と返すと、電話越しに聞こえてきたのは、先ほど奏宛の電話を取った女性社員からだった。
 どうやら早速、奥谷という女性から奏宛に電話があったらしい。自分に繋ぐように言うと、すぐに電話の向こうから聞き覚えのない声が耳に届いた。
『お忙しいところ突然お電話してしまってすみません』
 丁寧な調子の声は、思いのほか若かった。まだ二十代前半ぐらいだろうか。
「単刀直入にお訊きしますが、どちら様でしょうか」
 不躾とも思える質問を、奏は投げる。結局、高辻がまとめてくれたどのファイルにも『奥谷』の名前はなかったのだ。
 すると相手は、短い沈黙のあとに答えた。
『高辻の――高辻理仁の実の妹です』
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