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懇願

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 あっという間に二週間が過ぎ、奏は経営者向けセミナーの日を迎えた。その前にヒートがきてくれればまだよかったのだが、案の定奏の願うタイミングではきてくれなかった。
 頑なにピルの服用を拒んだものの、大勢の前でヒートになってしまうのは自分としても避けたい。結局、ヒートを抑える注射型の抑制剤を奏のスーツのポケットに忍ばせることで、高辻とは話がついた。
 セミナーが開かれる会場は、都内ホテルのイベントホールだ。普段は大学入試や新入社員の研修などで使われている会場らしい。事務的な印象の蛍光灯が、縦に広い室内を明るくさせている。
 整然と並んだ会議机は、空席も見当たらないほどの参加者で溢れかえっている。メモを取ったり、奏が口を開くたびにフムフムと相槌を打ったりする彼らの目は、常に真剣だ。
 『アラクティ』というベンチャー企業の若手社長――鈴田の体験談が終わり、奏の番が回ってきたのは四十分ほど前のこと。いろんなセミナーやインタビュー記事などの場面で何度も語ってきた内容を繰り返し、奏は難なく退屈な時間を終わらせた。
 簡単な質疑応答のあと、プロジェクタースクリーン脇にある登壇者用の椅子に戻る。
 椅子に座ると、隣の鈴田が「さすが芦原さんはこういった場面に慣れていらっしゃいますね」と、小声だが気さくに話しかけてきた。スピーカーから流れる司会進行役の女性の声が、うまくこちらの声をかき消してくれる。
「いえいえ。私も初めは噛み噛みで、人に聞かせられたものではありませんでしたよ」
「へえ、そうは見えなかったな。あ、そうだ。後で名刺を交換させていただいても?」
 嘘の明るさを纏った自分とは違い、鈴田の食い気味な明るさは真夏の陽射しのように確固たる明るさに溢れていた。親しみがあるし、地味な顔立ちの自分とは違い、海外のビジネスマンとも張り合えるほどの華やかさがある。
 先ほどの営業で走り回った体験談を聴いた時も思ったが、この経営者はきっとこれから、ますます注目されていくことだろう。悔しいが高辻の言う通り、この若手経営者と知り合いになっておいて損はないかもしれない。
 奏は営業向けの笑顔を作り、「こちらこそ」と隣の若い野心家に向かって言った。
 セミナーも終盤に差し掛かり、奏はホッと胸を撫で下ろす。一番の心配の種だったヒートが、セミナー中に起きなくてよかった。
 セミナー終了予定時間が間もなく訪れるというところで、司会の女性から奏と鈴田にゲストとして終わりの挨拶を一言ずつ求められた。初めてのセミナーだという鈴田が、堂々たる態度で挨拶を済ませる。「最後に芦原社長、お願いいたします」と司会女性の声に続いて席を立とうとした、次の瞬間だった。
 奏の心臓が、ドクンと大きく脈打った。
「……っ!」
 思わずスーツの上からギュッと胸を押さえる。ドッ、ドッ、ドッと嫌な拍動に血を沸き立たせられていく。全身の血が、逆流しているみたいだった。
 暴れた血が次に攻撃を始めたのは、腹の奥。前立腺のさらに奥の場所が、切ないほどに疼いた。三ヶ月に一度訪れるこの感覚は、間違いない――。ヒートだ。
 奏は腹を両腕で押さえながら、その場にうずくまった。突然苦しみだした奏に慌てているのか、セミナー会場のあちこちから、悲鳴のような声が上がる。
「はあっ、はあっ、はあっ……っ」
 苦しみに歪む声を、抑えることができない。誰でもいい。今すぐ抱いてほしい。暴走する思考に、奏は激しく混乱した。
「芦原さん大丈夫ですか!?」
 床にうずくまる奏に、鈴田が同じ目線まで屈んで訊いてくる。
「だ……じょ、ぶ……っ」
 大丈夫なわけがなかった。
 ガタガタと震える手で、奏はポケットから抑制剤を取り出そうとする。だが、一旦取り出した抑制剤は、覚束ない奏の手から落ちた。
 拾おうと手を伸ばそうにも、抑制剤は奏の薄れゆく視界の中で、コロコロとタイルカーペットの上を転がっていく。気づいた時には見失っていた。
 こんな時に限って、高辻はどうしても外せない社内のテレビ会議のため別室にいる。息も絶え絶えになりながら、奏はせめて椅子に座ろうと立ち上がる。だが足がもつれてしまい、ちょうどそこにいた鈴田に寄りかかってしまう。
 鈴田はオメガだとビジネス雑誌で読んだことがあるので、自分のフェロモンに影響される心配はない。さいわい、オメガの経営者に師事を仰ぐ参加者も、オメガやベータである場合がほとんどだ。
 そんな状況をかすかに残る理性で判断しつつ、駆け寄ってきた司会女性に抑制剤を落としてしまったことを伝えた。女性が周りの参加者に奏の言葉を伝えると、会場内で一斉捜索が始まった。
 だが、抑制剤はなかなか見つからなかった。そろそろ本格的に人に見せられない醜態を晒してしまいそうで怖い。
 奏は近くにいる鈴田に「どこでもいいから、部屋を取ってくれないか」と頼んだ。ここはホテルだ。鈴田が頼んだら、急なことでもホテル側は対処してくれるかもしれない。
 鈴田は「あ、ああ……分かった」と汗ばんで光る額を手で拭い、早速ホテルのフロントにスマホから電話をかけた。ホテル側の計らいから、告げられた番号の部屋に直接行ってくれていいとのことだった。
 奏は鈴田とその秘書である男に支えられながら、用意してもらった部屋に向かった。部屋に連れられると、男二人がかりでベッドに寝かせられる。
「ありがとう……たすか、った……」
 仰向けになって、瞼の上に自分の腕を乗せる。息も絶え絶えに礼を言うと、鈴田と秘書が小声で何やら話しているのが聞こえた。
 だが、話の内容に耳を傾ける余裕なんてなかった。二人が出ていくのを待ってから、奏は早速下半身を纏うズボンを脱いだ。皺になったって、構うものか。ジャケットも脱ぎ、シャツのボタンをむしり取るように外す。
 改めてベッドに体を沈めようとして、ふと前を見る。するとそこには、肩を激しく上下させた鈴田が、睨みつけるような目でこちらをじっと見据えていた。赤くなった顔が汗ばみ、息も荒い。
 てっきり秘書と一緒に出て行ったものだと思っていた。それにこの反応は――。
 手放した服と理性をかき集め、奏は尋ねた。
「鈴田社長……あなたはオメガです、よね……?」
 鈴田の耳に、奏の声は届いていないようだ。グルルルル……と喉の奥が、まるで獲物に照準を定める動物のように唸る。
 鈴田がゆっくりとベッドに近づいてくる。一歩一歩足を前に出すたび、蒸れた『雄』のにおいが濃くなるのを感じた。うっ、と鼻を手で覆う。まずい、と思った。この男はアルファだと、本能が教えてくれる。
 逃げたいのに逃げられない。ベッドに膝を乗せてくる男をはたき落としたいのに、鈴田に向かってねだるような手が伸びてしまう。
 ――助けてくれ!
 甘い声しか出せなくなった口の代わりに、奏は心の中で叫んだ。バンッとけたたましい音が部屋に割れたのは、その時だった。
 音よりも先に、開けられたドアの前に立つ長身の男に目がいく。涼しい顔で立っていたのは、高辻だった。
 よほど強くドアを蹴破ったのか、ドアの表面はへこみ、カードキーで開けるタイプの鍵の部分からはうっすらと煙が出ている。アルファの高い身体能力をもってしても、高級ホテルの鍵を一瞬のうちにここまで破壊できる人間は、この男の他にいないだろう。
 高辻は部屋に足を踏み入れると、ドアの近くに品のあるビジネスバッグを置いた。指の骨をポキポキと鳴らしながら、鈴田に迫る。
「お噂は本当だったようですね。鈴田社長」
 衝撃音のおかげで我に返ったのか、奏の座るベッドの上で、鈴田は「ち、違うんだっ」と慌てだす。
「違う? 何のことでしょうか。アルファであるにも拘らず、オメガだと偽って不当な補助金を受け取っていることでしょうか。それともあなたを信頼して入社したオメガの社員を、度々自宅マンションに連れ込んでいることでしょうか」
 鈴田は「やめろッ!」と情けない声で高辻の言葉を遮ろうとする。だが、高辻の攻勢は終わらない。
「よりによって他社の取締役にまで手を出そうとするとは、聞いて呆れますね」
「ち、違う! 今回はオメガのフェロモンにやられて俺は……っ!」
「そうですか。ではポケットの中身を拝見してもよろしいですか?」
 高辻は鈴田が答える前に足を動かし始める。「く、来るなぁ!」
 逆さまの四つ這いで、鈴田は高辻との距離を取ろうと後ろに下がった。
 だが高辻は素早く鈴田の足首を掴むと、相手の体をぐるっと回してうつ伏せにした。後ろ手を拘束し、ベッドに沈ませる。押さえつけた鈴田の手を強く捻ったのか、鈴田は「痛い痛いっ」と悲鳴をあげる。
 鈴田をベッドから降ろさせ、高辻は容赦なく相手のズボンポケットに手を突っ込んだ。ポケットから抜かれた手にあったのは、先ほど奏がセミナー会場で失くしたはずの抑制剤。
 最初から犯行に及ぶ予定だったのか。そう考えると、肝が冷えた。
 さすがに逃げられないと判断したのだろう。鈴田は情けない涙声で白状した。
「目の前で急にヒートになって……完全に出来心だったんだよっ」
 鈴田の目的を聞いた高辻は、鈴田の体を離すと、打って変わって丁寧な手つきで鈴田の乱れた服を直させた。
 背を向けているので、高辻の表情までは見えない。ただ鈴田の首元に添えられた高辻の両手に、ドキッとした。一瞬だが、まるで首を絞めているかのように見えたからだ。
 高辻は賢い。そして理性的な男だ。高辻に限って、まさか自分のためにそんな乱暴なことはしないはず……。
 奏の心配をよそに、高辻は事務的だった。
「弊社の社長はあなたが手を出していい方ではございません。どうかお忘れなく」
 奏側からは見えないが、自身の首に回された手に、鈴田は殺気を感じたのだろうか。「ヒッ」と頬を引き攣らせると、足をもつれさせながら逃げるように部屋から出て行った。
 部屋に二人きりになる。高辻を見て、心だけではなく身の警戒心も解けた奏だった。再び襲ってくる腹の奥の激しい疼きに、奏の息が荒くなる。
「あのような成り上がり男の衝動を煽って、どうするんですか」
 高辻は建付けの悪くなったドアを無理やり閉めて言う。
「おまえが……知り合いに、なれ……って」
 奏は胸を押さえた。とめどなく体の中から沸き起こる性衝動が、苦しくてたまらない。
「たしかに言いましたが、こういった形で仲良くなれとは言っておりませんが」
「僕だ、っ……そんな、つも、じゃ……っ」
 突き上げてくるような衝動に、我慢できる気がしない。高辻の前だろうと関係なく、奏は剝き出しになった下半身に手を伸ばした。
 触れたそこは、ほぐす必要もないほど濡れている。指一本なんて足りない。疼く場所を擦りたい。早く楽になりたい。奏は自身の指を一気に二本入れ、敏感な場所を探った。
「……今回はまた酷いですね」
 高辻は手で鼻を覆う。高辻の表情が、いつになく険しい。抗フェロモン剤を飲んでいるとはいえ、今回はやはり自分から発せられるフェロモンの濃度が濃いのかもしれない。
 指で注挿を繰り返すたびに、こぼれる愛液がベッドを濡らしていく。早くここを、何かで擦ってほしかった。熱いもので、強い刺激を与えられたかった。
 実際、発情した自分の体は、挿れてもらえるのなら何でもいいと叫んでいる。だけど、心はそうじゃない。高辻だけがほしい。
 奏は本能と理性の狭間で意識を保ちながら、這いつくばってベッドの端に立つ高辻の傍に向かった。スーツの袖を引っ張り、高辻に縋りつく。
「り、ひと……おねが、い……っ。挿れて……っ今回だけで、いい、から……っ」
 何でもいいけど高辻がいい。高辻がいいのに、楽になれるなら何でもいい。でも……何でもいいなら、やっぱり高辻がいい。矛盾だらけの欲望が苦しかった。
 そんな奏に、高辻は眉根を寄せ、チッと舌打ちした。鈴田から奪い返した抑制剤をメモリに合わせてセットし、奏の太股を開かせる。
「なっ……やだ……!」
「楽になりたいのでしょう。これくらいの痛みなら、我慢できるはずです」
 奏は「嫌だ」と暴れる。そうじゃない。そうじゃなくて……。分かっているはずなのに、はぐらかそうとする男に悲しくなる。
「僕は、おまえがほしいんだよ……っ」
 高辻が聞こえるようにため息をつくと、「何度も同じことを言わせないでください」と言い返される。
どんなに呆れられても、縋りついてしまう自分が憎かった。恥を晒してでも、この男に抱かれたいと願う自分の浅ましさに嫌気が差す。どうしてこんなに好きなんだろう。この男じゃないとダメなんだろう。胸が痛い。
 一瞬の隙を衝き、奏は高辻の手から抑制剤を奪った。ベッドに注射針を突き刺し、親指で注入ボタンを押す。マットレスに薬剤を染みこませて捨てたあと、空になった注射器を床に投げ落とした。
 奏の決死の行動に、高辻は呆れてものも言えないようだ。心底面倒くさそうな眼差しを、奏に向けた。それが悔しくて、奏は震える声で訴えた。
「じゃあ……っどうして助けにきたんだよ。僕のことなんて、放っておけばよかったじゃないか!」
 高辻は不機嫌そうに、眉根を歪ませた。
「あなたは新進気鋭の社長……著名人ですよ。どこかの男に犯されて、万が一、番にされて妊娠でもしたらどうするんですか」
「そんなことはこっちの勝手だろ!」
 奏はベッドを叩いた。スプリングが軋み、ベッドが揺れる。
「僕が誰の番になろうと、誰の子を妊娠しようと……同情でも抱いてくれないおまえには関係ない!」
 自分の言葉に傷つく。そう……同情でいいのだ。毎朝コーヒーを淹れてくれるように、業務の一環だと思ってくれて構わない。
 ふと沸いた考えに、奏はそうか、と納得する。初めから、こうすればよかったんだ。
「給料……払うよ。それならおまえも、仕事だと思えるだろ? それで僕を抱いてくれよ」
 高辻は五人兄弟の長男だ。実家にいる妹や弟たちのためにも、まだまだ金は必要なはずだ。実際、ボーナスが出た際にはすべて家族への仕送りに充てていると聞いた。
 この提案なら、受け入れてくれると思った。嫌々でも、金のためだと思えばきっと――。
 だが高辻の反応は、予想していたものとはほど遠いものだった。
 それまで苛立ちをあらわにしていた男の表情が、スッと消える。常にセットされた前髪が乱れている。高辻は額を覆う髪の束を造作に掻き上げ、呆れるように「はっ」と笑った。
「そんな程度ですか」
「……え?」
「私を見くびることが、あなたの愛ですか」
 高辻は静かに怒りをあらわにして、侮蔑のこもった目で奏を見下ろした。
 高辻の言ったことが分からなかった。ただ、こんなふうに感情を見せる高辻は初めてだ。
 困惑しているうちに、高辻はドアの近くに置いたビジネスバッグから何かを取り出した。ベッドの上に投げ出されたそれを認めた瞬間、奏は頭が真っ白になった。
 それはディルドーー男性器を模した大人の玩具だった。これで自分を慰めろということなのだろうか。ショックで言葉が出ない。
「気づきたくないかもしれませんが、あなたは私じゃなくてもいいんですよ」
 どこか悲しげな声に聞こえたのは、自分が悲しかったからだろうか。
「どちらにせよ、今回のヒート時にあなたに渡すつもりだった代物です。これでご自分を慰めてはどうですか」
「お、おまえ……っ」
 唇がわなわなと震える。悲しみと怒りが、形にならずに胸の中でうごめく――。
「支払いはこちらで済ませておきます。ご満足いただけた際には、どうかお気をつけてお帰りください」
 酷く冷たい声が、耳にこびりついて離れない。高辻が出て行ったドアに向かって、奏は玩具を投げつける。床に転がったそれを見ていると、虚しさを洗い流すように涙があふれて止まらなかった。

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