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執着
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プライベート用のスマホの着信音で、奏は目が覚めた。朝からこちらのスマホに電話してくる人物は、片手に数えられる程度である。
奏は重たい体を起こし、スマホ画面を見る。そこには母・麗子の名前が表示されていた。
クイーンサイズのベッドの上、二つある枕のうち一つをうつ伏せに抱きながら、応答ボタンを押す。
「……なに?」
我ながら眠そうな声だ。昔の夢を見たせいだろうか、いつもより体に疲労が残っている。
『あら、今日も元気そうじゃない』
弾んだ母の声が電話の向こうから聞こえる。母は典型的なお嬢様タイプで、アルファだというのに昔から人の機微にあまり気がつかない人だ。
母の洞察力の無さには慣れっこなので「ああ、元気だよ」と当たり障りなく答える。何の用件だろうと訊こうとする前に、母は早速本題を切り出した。
『あなた今、いい人はいないの?』
平日の朝から何を言っているんだとスマホを放り投げだしたくなる。母は以前から、奏に番候補の女性か男性はいないのかと、度々尋ねてくるのだ。
答えないでいると、母は『よさそうなアルファの方が何人かいるの。お写真だけでも見てみない?』と続けた。
一人息子ということもあり、心配なのは分かる。だが高辻への想いをこじらせた奏に、番を持つ選択も結婚の選択もなかった。
「悪いけど今はそういう相手は必要ないんだ」
奏はそう答え、母との電話を強引に切った。
嫌な夢を見たせいで、ただでさえ気分が悪かった。疲労をため息で誤魔化し、奏はベッドから立ち上がった。
寝室から出ると、コーヒーの香りがした。大理石で光る廊下を歩く。足裏が冷たいが、このくらいの方が目覚めにはちょうどいい。
リビングに入ると、高辻がキッチンでコーヒーを淹れているところだった。
一度奏が会議に大遅刻をしてからというもの、高辻は毎朝のように奏のマンションにやってくる。遅刻防止が名目ではあったが、奏は内心そのまま高辻が住み着いてくれることを期待して、合鍵を渡した。
だが、高辻は奏の意図を知ってか知らずか、住み着くどころか夜は絶対に来ない。社長に目覚めのコーヒーを淹れるという仕事のためだけにしか、合鍵を使わないのだ。
奏はカウンターキッチンを見張るような場所にある椅子に腰かける。
「おはようございます。どなたかと電話をされていたみたいですね」
キッチンカウンターの奥から出てきた高辻の手には、湯気の立つコーヒーカップが乗っている。それを奏の前のテーブルに置くと、高辻はまくったワイシャツの袖を戻し、カフスボタンを綴じた。
「ああ、少しな」
カップを持ち上げ、高辻の淹れたコーヒーをすする。出会った時のような純粋な『好き』という気持ち以外にも、今は悔しいやら憎たらしいやら、複雑な感情の方が大きい。こじらせた初恋に執着しているだけだと、自分でも分かっている。
高辻本人からしたら、毎朝コーヒーを淹れることも業務内容の一環としか考えていないのだろう。
けれど、高辻の淹れてくれたコーヒーを飲むとホッとする。コーヒーの温かさを手に乗せている時だけは、高辻理仁という男の温もりに、触れられているように感じるからだ。
「……美味しい」
「毎朝飲んでいるものと同じですが」
「分かってるさ。僕は美味しいものを美味しいと言っただけだ」
高辻は「そうですか」と無表情で答える。
淹れたコーヒーは飲めても、本人は手に入らない。その事実に改めて胸がツキッと痛む。
奏はカップから口を離した。
「……母から電話があった」
高辻は興味なさげに「そうですか」と言う。
「いい人はいないかと訊かれたよ。紹介したい相手も何人かいるらしい」
「はあ」
「でも、今は必要ないと答えた」
うつむき加減に言うと、高辻は短い間を置いたあとに続けた。
「勿体ないですね」
奏はコーヒーを傾ける手を止めた。
「ご紹介してもらったらどうですか。世の中には、素敵な方がたくさんいますよ」
「僕に……会えって言うのか」
「会ってみなければ、運命の番を見つけることもできません」
「僕がそんな相手を望んでいないことくらい、知っているだろっ」
諦めの悪い自分に腹が立つ。ダンッとテーブルを叩くと、コーヒーカップが倒れた。テーブルの表面に、茶色い液体が広がる。
高辻は表情を一切変えず、手にした布巾でテーブルの上をサッと拭いた。空になったカップを手に、カウンターの中へと戻っていく。
奏はグッと拳を握る。反応もしてくれないのか。徹底的な拒否に乾いた笑いがこぼれる。
「運命の番、か……そりゃそうだよな。僕が番を見つければ、おまえは抗フェロモン剤を飲まずに済むんだもんな」
「……あなたには、しかるべき相手がいます」
「……っおまえのその喋り方、大っ嫌いだ」
強調して言ったあと、奏は椅子の背に力の抜けた体を預けた。
「でも……おまえよりいい男なんて、いない」
口にすると、声が震えた。じゃあ女性にすればいいじゃないかと声が飛んでくるかと一瞬思ったが、さいわい、それはなかった。
「好きなんだ」
やはり高辻は応えない。もう何度も聞いているからだろうか。その言葉は高辻の胸どころか、耳にも届いてくれない。高辻という的には刺さらない。
けれど、奏は言わずにはいられないのだ。
「僕は本当におまえのことが好きなんだよ……理仁」
高辻はしばらく間を置いてから、椅子の背に掛けていたスーツのジャケットに袖を通した。キッチンカウンターから出た男が、玄関へと続くドアを開ける。
次の瞬間、高辻がボソッと何かを言った。奏は「え?」と頭を上げる。
「今なんて言った?」
高辻は奏に向けた体を前に折った。そして「下の駐車場でお待ちしています」と言い残し、あっという間に玄関から出ていった。
2LDKの部屋に一人残される。呆然としながら、高辻の今の言葉を辿った。
――何も分かっていないくせに。
奏の耳には、確かにそう聞こえたのだ。
高辻の淹れてくれたコーヒーの残り香を嗅ぐ。今日はこぼしてしまったので、満足に飲むことができなかった。
早く準備をしなければ、また高辻に怒られる。怒られる分にはいい。無視されるより、ずっとましだから。
奏はテーブルの上に突っ伏した。「理仁」と舌に乗せる。甘くて苦い痛みが胸に広がった。
奏は重たい体を起こし、スマホ画面を見る。そこには母・麗子の名前が表示されていた。
クイーンサイズのベッドの上、二つある枕のうち一つをうつ伏せに抱きながら、応答ボタンを押す。
「……なに?」
我ながら眠そうな声だ。昔の夢を見たせいだろうか、いつもより体に疲労が残っている。
『あら、今日も元気そうじゃない』
弾んだ母の声が電話の向こうから聞こえる。母は典型的なお嬢様タイプで、アルファだというのに昔から人の機微にあまり気がつかない人だ。
母の洞察力の無さには慣れっこなので「ああ、元気だよ」と当たり障りなく答える。何の用件だろうと訊こうとする前に、母は早速本題を切り出した。
『あなた今、いい人はいないの?』
平日の朝から何を言っているんだとスマホを放り投げだしたくなる。母は以前から、奏に番候補の女性か男性はいないのかと、度々尋ねてくるのだ。
答えないでいると、母は『よさそうなアルファの方が何人かいるの。お写真だけでも見てみない?』と続けた。
一人息子ということもあり、心配なのは分かる。だが高辻への想いをこじらせた奏に、番を持つ選択も結婚の選択もなかった。
「悪いけど今はそういう相手は必要ないんだ」
奏はそう答え、母との電話を強引に切った。
嫌な夢を見たせいで、ただでさえ気分が悪かった。疲労をため息で誤魔化し、奏はベッドから立ち上がった。
寝室から出ると、コーヒーの香りがした。大理石で光る廊下を歩く。足裏が冷たいが、このくらいの方が目覚めにはちょうどいい。
リビングに入ると、高辻がキッチンでコーヒーを淹れているところだった。
一度奏が会議に大遅刻をしてからというもの、高辻は毎朝のように奏のマンションにやってくる。遅刻防止が名目ではあったが、奏は内心そのまま高辻が住み着いてくれることを期待して、合鍵を渡した。
だが、高辻は奏の意図を知ってか知らずか、住み着くどころか夜は絶対に来ない。社長に目覚めのコーヒーを淹れるという仕事のためだけにしか、合鍵を使わないのだ。
奏はカウンターキッチンを見張るような場所にある椅子に腰かける。
「おはようございます。どなたかと電話をされていたみたいですね」
キッチンカウンターの奥から出てきた高辻の手には、湯気の立つコーヒーカップが乗っている。それを奏の前のテーブルに置くと、高辻はまくったワイシャツの袖を戻し、カフスボタンを綴じた。
「ああ、少しな」
カップを持ち上げ、高辻の淹れたコーヒーをすする。出会った時のような純粋な『好き』という気持ち以外にも、今は悔しいやら憎たらしいやら、複雑な感情の方が大きい。こじらせた初恋に執着しているだけだと、自分でも分かっている。
高辻本人からしたら、毎朝コーヒーを淹れることも業務内容の一環としか考えていないのだろう。
けれど、高辻の淹れてくれたコーヒーを飲むとホッとする。コーヒーの温かさを手に乗せている時だけは、高辻理仁という男の温もりに、触れられているように感じるからだ。
「……美味しい」
「毎朝飲んでいるものと同じですが」
「分かってるさ。僕は美味しいものを美味しいと言っただけだ」
高辻は「そうですか」と無表情で答える。
淹れたコーヒーは飲めても、本人は手に入らない。その事実に改めて胸がツキッと痛む。
奏はカップから口を離した。
「……母から電話があった」
高辻は興味なさげに「そうですか」と言う。
「いい人はいないかと訊かれたよ。紹介したい相手も何人かいるらしい」
「はあ」
「でも、今は必要ないと答えた」
うつむき加減に言うと、高辻は短い間を置いたあとに続けた。
「勿体ないですね」
奏はコーヒーを傾ける手を止めた。
「ご紹介してもらったらどうですか。世の中には、素敵な方がたくさんいますよ」
「僕に……会えって言うのか」
「会ってみなければ、運命の番を見つけることもできません」
「僕がそんな相手を望んでいないことくらい、知っているだろっ」
諦めの悪い自分に腹が立つ。ダンッとテーブルを叩くと、コーヒーカップが倒れた。テーブルの表面に、茶色い液体が広がる。
高辻は表情を一切変えず、手にした布巾でテーブルの上をサッと拭いた。空になったカップを手に、カウンターの中へと戻っていく。
奏はグッと拳を握る。反応もしてくれないのか。徹底的な拒否に乾いた笑いがこぼれる。
「運命の番、か……そりゃそうだよな。僕が番を見つければ、おまえは抗フェロモン剤を飲まずに済むんだもんな」
「……あなたには、しかるべき相手がいます」
「……っおまえのその喋り方、大っ嫌いだ」
強調して言ったあと、奏は椅子の背に力の抜けた体を預けた。
「でも……おまえよりいい男なんて、いない」
口にすると、声が震えた。じゃあ女性にすればいいじゃないかと声が飛んでくるかと一瞬思ったが、さいわい、それはなかった。
「好きなんだ」
やはり高辻は応えない。もう何度も聞いているからだろうか。その言葉は高辻の胸どころか、耳にも届いてくれない。高辻という的には刺さらない。
けれど、奏は言わずにはいられないのだ。
「僕は本当におまえのことが好きなんだよ……理仁」
高辻はしばらく間を置いてから、椅子の背に掛けていたスーツのジャケットに袖を通した。キッチンカウンターから出た男が、玄関へと続くドアを開ける。
次の瞬間、高辻がボソッと何かを言った。奏は「え?」と頭を上げる。
「今なんて言った?」
高辻は奏に向けた体を前に折った。そして「下の駐車場でお待ちしています」と言い残し、あっという間に玄関から出ていった。
2LDKの部屋に一人残される。呆然としながら、高辻の今の言葉を辿った。
――何も分かっていないくせに。
奏の耳には、確かにそう聞こえたのだ。
高辻の淹れてくれたコーヒーの残り香を嗅ぐ。今日はこぼしてしまったので、満足に飲むことができなかった。
早く準備をしなければ、また高辻に怒られる。怒られる分にはいい。無視されるより、ずっとましだから。
奏はテーブルの上に突っ伏した。「理仁」と舌に乗せる。甘くて苦い痛みが胸に広がった。
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