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突然のプロポーズたち
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上品なメロディが軽やかに舞う高級ホテル、最上階の豪華なラウンジ。ガラス張りの3方からは摩天楼の星の瞬きのような窓明りが散りばめられ、航空障害灯の赤いランプが点滅を繰り返す。
重力を克服した車が空中道路でテールランプの赤い川を作り出し、高層ビルのすぐ脇を青いスポーツカーが右上から左下へ向かって、猛スピードで落ち走り抜けてゆく。
綺麗に磨かれたガラス窓には大理石の上を歩く華やかな色合いのハイヒールと光沢を放つビジネスシューズがさっきまでワルツのステップを踏むように動いていたが、まるで途中で曲が途切れてしまったように一斉に立ち止まっていた。
パセリオグランディホテルの76階で、従業員と客の視線がある場所へ集中していた。彼らの目線の先では、まるで結婚式の花婿のような光沢のある瑠璃紺色のタキシードを着た富裕層が思いっきり漂う男が、玉座に座る女王陛下に最敬礼するみたいにオレンジ色の絨毯の上で片膝を床につけ、肩より長めのワンレングスの髪が下へ流れ落ち、頭を下げたまま優しげだが芯のある男の声が優雅に響いた。
「私と結婚してください」
「え……?」
男の斜め上前には、ラウンジの展望席で少し高めの椅子に座っているフードつきのパーカーに茶色の偽革のジャケットに、洗濯しまくりで色あせ緑色っぽくなっている黒のズボンにスニーカー。どこからどう見ても、高級ホテルとは無縁の庶民丸出しの女がぽかんとした顔をしていた。
跪いたままの男を見下ろしたまま、ミヌア シノデリエ、23歳のどこかズレている感あり、夢見がちのベビーピンクの瞳に苦笑という色が灯った。
(お笑いの前振りですか?)
考えるために、ベビーピンクの瞳は左手に広がるガラス張りの向こうで、綺麗な流れを作っているテールランプたちを捉え、信号が青に変わり、オレンジ色のウィンカーが綺麗なカーブという残像を残してゆく。
(……オチはどこ?)
どこかズレている感の瞳は再び右下で頭を下げたまま全く動く気配のない男の紺の髪へ戻された。
(あぁ~、わかった!)
右人差し指を立てて顔の横へ持ってきて、ウンウンと大きくうなずきを数回。
(私、どこかで間違えたんだ、何かを。
だから、こうなってるんだ。
よし、時間を巻き戻して、思い出してみよう!)
ミヌアの金髪の奥にある脳裏で時間がキュルキュルと巻き戻り始めた。
――――ミヌアのどこかズレた瞳はいつもよりもさらにぼうっとした様子で、買い物カゴからガザガザという音をともなって、黄色に丸い薄いものが印刷されている袋を左手でつかんだ。
(ポテトチップス……スキャン)
右手に持つバーコードリーダーを規則正しく並ぶ黒線の上に、赤い横線を直角にかざすとピッと鳴り、テーブルの上へポテチを置く。左手はカゴの中へ再び伸びてゆき、今度は重く細長いものを取り出した。
(ミネラルウォーター……スキャン)
ピッとまた鳴るが、ミヌアの金色の肩より長い髪の中の脳裏では全然別のことが同時進行中。
(こ、困ります!
そ、そんな急に言われても……)
柔らかでサラサラな髪はいつもと違い、黒の髪ゴムで乱雑にまとめられ、オレンジ色の少し派手めのシャツを着せられ、カゴの中に左手を再び入れた。
(ガム……スキャン)
ピッと鳴っている音をBGMのように、遠くで聞きながら心の中ではよがり続ける。
(いや~ん!
そ、それは困ります~)
商品をバーコードリーダーでスキャンしては、目の前にある台の上へ置いてゆくを繰り返し、どこかズレている感が出ているベビーピンクの瞳に少し派手めの色使いの箱が現れた。
(スキン……スキャン)
大人のアイテムを手に持ったまま、カゴの向こうに立つ人の気配を感じながら小首を傾げる。
(ん~?
ちょっと違う……?)
視線を上げると、様々な商品が並ぶコンビニの店内が広がった。左手にある箱の横にあるバーコードを読み取り、ピッと鳴ると通常しない動き、台の上に置く前に右手に箱を持ち替え、ミヌアはそれをまじまじと見つめ、口にも表情にも出さず、心の中ではエロ全開中。
(そ、そこはやめてください。
いや~、か、感じちゃう~!)
レジで精算をしている店員のはずなのに、悶えているミヌアは違和感を抱き、彼女の首が傾げられると、オレンジ色の制服にまとめきれなかった金の後れ毛がサラッと落ちた。
(やっぱり違うなぁ)
右手からスキンの箱を自分のすぐ手前へ置く。
(このセリフ、どうしたらうまく出来るの?
もっと経験してくればよかった?)
女優志望のフリーター、ミヌア シノデリエはバイト中にセリフの練習をしていた。カゴに左手をまた伸ばし、小さな緑色のものを取り出す。
(ライター……スキャン)
カゴが空っぽになったが、ミヌアはぼうっと突っ立ったままで、若さゆえの後悔を重ねる。
(でもさ、23歳で、セックス経験っていってもね。
そうそうないよね?
ん~……?
カエデに聞いた方が――)
「――いくら?」
「え……?」
さっきまで焦点が合わなかった現実がはっきり見え、ミヌアは空想世界からリアルワールドへ連れ戻された。茶色の背広を着た男が財布を広げて、注意力散漫のコンビニ店員へ早くしろと言わんばかりに視線を向けた。ミヌアのベビーピンクの瞳は慌てて、レジの画面へ向けられる。
「は、はい。1,098アルです」
「はい」
長ザイフから手慣れた感じで紙幣が2枚取り出され、ミヌアはをそれを受け取り、レジの銀色のスペースへ置き、テンキーをパパパっと押す。
(2、00、0!)
画面が切り替わり、ジャラジャラとコインが中から出て来た。それを1つ残らずすくい取り、ミヌアは客へ笑顔を向けた。
「お釣り、902アルです」
お釣りを渡し、要領の悪さ丸出しで、頭のいい店員ならカゴをのぞき込んだだけで、袋の大きさが判断出来るはずなのに、ミヌアは空のカゴを避けて、台の上の物を一度確認。ロスタイムが生じていた。
(ポテトチップス。
ミネラルウォーター。
ガム。
ライター……12号)
袋の大きさが決まり、それを下からすっと抜き取り、3つの商品を重さを考えて入れ、持ち手のビニールの部分を少し絞って客へ差し出す。
「ありがとうございました」
頭を下げるが、客にはそんなことはどうでもよく、シューッという音をともなって開いた自動ドアから、雑路という人の流れへ男は混じっていった。
ミヌアは台の上に突っ伏して、大きく伸ばした両手の間からため息交じりの声を漏らす。
「あぁ~、お客さん、来ないね、今日は」
ドラドア国の首都、ルドルカシティーにあるコンビニ。店の外には忙しそうだったり、楽しそうだったりの人がたくさん行き来をしている。だが、店に入ってくる人はほとんどいない。それどころか、店員もミヌア1人のみ。
しかし、店の中で動くものが1人、いや1体が正しい。商品の棚の間をスースーッと滑るように移動しては、その前にある銀のカゴに飲み物やお弁当などが入れられてゆく。
ミヌアのベビーピンクの瞳は自動ドアから、店内の動いているものへ向けられた。
(何とかコーポレーションが開発したフードシステム。
商品を分子化レベルまで分解して、客へ届けて再構築する。
画期的な流通。
ネットを通して、店に注文が入って……。
それを受けて、あのロボットが商品をピックアップして届ける……)
店内が異様に広いのに、レジが1つしかないコンビニで、ミヌアは中華まんの什器の内側に出来ている蒸気の結露を眺めた。
(だから、店員はいらない……)
人よりも的確に動いている銀色の鉄の塊の動きを目で追いながら、フードシステム評価を続行中。
(私はネットとは無縁の生活……使ったことはないけど……。
劇団の他の人が言うには魔法みたいらしい。
そこにないものが急に現れるから)
湯気が立ち登る向こうで、ヒュルヒュルと落ち葉が店先で風に乗せられ、アスファルトの上で輪舞曲を踊る。
(11月……何日だったっけ?)
どこかズレている感のあるベビーピンクの瞳は自動ドアからレジの画面の端へ向けられた。
(18日、金曜日……。
冬が来るね)
時代の流れで、儲かっているが直接来る客のいないコンビニの店内を暇つぶしという視線で眺めようとすると、レジのすぐ横、オレンジ色の制服の手前に少し派手めの色使いの箱を不意に見つけて、ミヌアは自分の目を疑い、顔をバッと近づけ、凝視するを3秒。
(ん?
あれ?
何で、スキンがレジの上にあるの?
おかしいな)
ないはずの商品がレジにある。それが起きる原因は1つしかない。だが、どこか抜けているミヌアはよく考えず箱を取り上げた。
「戻してこよう」
レジカウンターの間仕切りを押し出し、日用品の棚へさっと進み、1つ分きっちり空いている列へきちんと戻した。
(これで、よし。
じゃあ、戻って――)
「シノデリアさん、時間だよ」
「え……?」
屈み込んだ状態で見上げると、そこには同じバイト仲間、夕勤の女が立っていた。
(そんな時間?)
スニーカーを床でキュッと言わせ、すっと立ち上がり、店の壁にかけられた丸時計を視線でつかまえる。
(本当だ、5時だ)
労働からの解放で、ミヌアの心は羽が生えたように軽くなり、キラキラとした瞳で夕勤の女へ振り返った。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
両手を胸の前で組み、夢見がちな少女のように事務所の開き扉へ向かって、舞踏会でワルツを踊るような軽やかなステップで、右肩で銀のドアを押し開け、狭く乱雑なバックヤードへ入り、退勤の記録をするため、ねずみ色のデスクへ近づいて、コンビニ専用の端末のキーボードを慣れた感じで操作し、名札のバーコードをスキャンして、髪を縛っていた黒ゴムをザバッと引き抜き、金の髪が空中で草原で爽やかな風に吹かれたようにさっと広がり、背中にさらっと落ちた。
素早く振り返って、ロッカーをバッと開け、ミヌアはオレンジのシャツを脱ぎ、軽く丸めて、パステルピンクのリュックのチャックをジーッと開け、中へ制服をガバッと入れ、帰宅準備完了。
(よし、帰って、リュリュと一緒に、Legend of kiss 3。
水の王子~様を読もう!
策略先生と生徒の恋……。
私も恋の罠を仕掛けられたい――)
小説の世界へワープしているミヌアの近くで、中年男の声が不意に響いた。
「――デリエさん……シノデリエさん!」
メルヘンワールド、全てがピンク色で染まり、シャボン玉がハートの形をしてフワフワと浮かぶ景色は急に消え去り、乱雑で狭い事務所が現実という色を持ってミヌアの前へ広がった。
「は、はい……」
背後で怒りという雰囲気を醸し出している気配を感じ、ミヌアのどこかズレている感の出ているベビーピンクの瞳は金の髪が横へ揺れる動きをともなって向けられ、よく知った顔を見つけ、ポツリとつぶやく。
「店長……」
浮かれ気分とは程遠い緊迫した空気を読み取り、ミヌアの空想はピタリと止まり、店長から叱りという注意がやってきた。
「また、お客さんから商品入ってなかったって、苦情の電話」
「え……?」
フードシステムのおかげで客がほとんど来ない店。対応した人数は限られている。ミヌアは記憶を戻し、最後の客が帰っていったあとの不思議現象を思い出した。
(やってしまったぁ~。
あの残ってた商品、袋に入れ忘れたやつだったのか)
レジのところにない商品があるは、袋に入れ忘れたを指している。さらには、客側から見れば、店の詐欺と言われてもしょうがないこと。金を払ったのに、商品を渡してもらえないのだから。客は怒るし、クレームがついて当然。店長の両腕は胸の前で組まれていた。
「さすがに、これだけ立て続けにやられると、こっちも客商売だからね、信用失っちゃうと、お客さん来なくなっちゃうからね」
「はい……」
ミヌアの視線は目の前に立つ男の顔から外され、さっきまで着ていたオレンジ色の制服へ落とされた。
(どうしたら、なくなるんだろう……?
商品の入れ忘れ……)
しょんぼりしていたベビーピンクの瞳がそこでかすかに色づいた。
(あっ、わかった!
手前じゃなくて、自分の見える場所に置けば入れ忘れないかも!
よし、それを今度から試してみよう。
左手で、こうやって……)
シミュレーションという名の空想へ落ちているミヌアの前で、店長の叱りは続いていたが、
「機械の方がマシかな? 間違いが起きないんだから。ただね、愛想がないからね、機械は。だから、うちは人を使ってるんだけど……」
当の本人には全然聞こえておらず、ひとまずはミスを反省し、再発防止に努力を尽くすということをしていたが、店長の怒りはひどく、空想から戻って来てもまだまだ続いており、ミヌアは同じ繰り返しをしていた。
「はい……はい……はい……はい……はい……」
(店長とお客さんに迷惑かけちゃったなぁ)
と思っているそばから、思考だけが別世界という聖堂へワープ。威厳と神聖さを表すステンドグラスから入り込む光は癒しと畏れという両極性を作り出し、身廊の奥にある祭壇の前で跪き、手で十字を切り、銀のロザリオを握りしめ、目をそっと閉じる。
(主よ、私はここに懺悔します。
店長とお客さんを困らせた罪を、どうかお赦しください……)
ゴーンゴーンと鐘の音が鳴った気がした時、ミヌアの意識が現実へ戻って来て、店長が締めくくりの言葉を口にしていた。
「……とにかく、今度やったら首もあるからね」
「はい……すみませんでした」
ミヌアの頭は勢いよく前へ下げられたため、金の髪が明かりの下でキラキラと力強い線を縦に描き輝いた。
――――ルドルカシティー、国の役所街ではないが、複数の沿線が乗り入れている大きな駅、スタッドへと続く通りをミヌアはとぼとぼと歩いていた。
(罪が償えず、凹むなぁ……)
目まぐるしく変わる人の流れを、慣れというもので避けすり抜けを繰り返しながら進んでゆく汚れた安物のスニーカー。色あせた黒のズボンに袖が擦れほつれたパーカーの上に、もう何年前に買ったのかわからない偽革の茶色のジャケットを着て、しっかり背中に背負っているパステルピンクのリュックの肩紐を両手で引っ張った。
「はぁ~」
ミヌアのため息が雑路に混ざり込み、都会という無関心の中へ消え去ってゆく。歩道は混んでいるが、車道は縦列駐車という車が埋め尽くし、アスファルトの暗いグレーの隙間へ、斜め上から車輪のついていない車がふわり降りて来ては駐車する。
様々な靴の間を黄色のイチョウの葉がクルクルと踊り、色とりどりの石畳の上で無情に非道に押しつぶされてゆく。
(やっぱり、凹むなぁ……。
みんなに迷惑かけてばかりで……)
反省という名の悲しみの渦に飲み込まれそうになり、人の流れから抜け、歩道の柵へより、腰でもたれかかった。駅のホームから電車が空へ向かって龍のように登ってゆく。綺麗な光の流れがミヌアの落ち込んだベビーピンクの瞳に映った。
(役は、名前がついたものはもらえなくて……。
才能ないのかな?
彼氏はいない……。
家族もいない。
あぁ、リュリュがいた、それだけで私は幸せ……。
そう思うことにして……)
気がつくと、ミヌアの視線は夜空から、自分の汚れたスニーカーへ落ちていた。
(今日は沈みの泉から戻ってこれないなぁ。
私は誰の役にも立てない……)
近くの交差点の信号が青に変わり、止まっていた人がドッと流れ出す。冬を予感させる北風が頬を吹き抜け、靴音だけで騒音になるほどの人混みに紛れ、ミヌアの小さな歌声がパーソナリティスペースで舞う。
「♪今は1人にして……
素晴らしい 平和な日常
それなのに 立ち止まるの 息がつまって
不安が 苦しみが 降りかかる
目に見えない悲しみ
そんなものに惑わされる……
私は私
ありのままが素敵
どんなことも 私を落ち込ませることはできない
私は私
ありのままが素敵
何が起きても
だから 今日も落ち込ませないで♪」
余韻が都会の空気から消え去ると、ミヌアは摩天楼の群れという滝が落ちる夜空を見上げた。
「私のままが素敵!」
彼女の可愛げがあり透き通った声が元気よく言い切り、手のひらに広がっていた歩道の柵の冷たさがさっと離れたことによりすっと消え去り、ミヌアのスニーカーはさっきより少し軽やかに、靴たちの群れに入り込んだ。
駅のロータリーまでやって来ると、空へ向かっていくつも聳え立つ高層ビル群が姿を現し、明かりという小さな星たちの規則正しい縦の線をどこかズレている感のあるベビーピンクの瞳に映す。
(さっきのフードシステム……。
何とかコーポレーションのビル……)
固有名詞を覚えるのが苦手なミアヌの頭上には、デザイナーズビルで特殊なシェイプ、竜巻のようなうねりを見せている個性的なビルが建っていた。
(5年前に実現されたもの。
分子化した商品がネット上を移動して、相手に渡る。
だから、お店に行かなくても宅配を使わなくても商品が届く。
この方法を考えついた会社は、元々一部上場企業だったけど……。
この国の1番の大企業に成長して、ここに自社ビルまで建てた……。
どんな人が開発したんだろう?)
いつの間にか歩みが止まっていたミヌアの茶色い上着に、人混みという流れが容赦なくぶつかり始めた。
「あ、すみません」
近くのビルの入り口、人混み攻撃に合わない場所へ慌てて移動した。そこで、いつもは見えない風景がふと広がった。煌びやかなオレンジ色の光が、夢という世界へと導くような立派なエントランス。
(パセリオグランディホテル……)
高級車が横づけされ、黒に金糸で刺繍の施された上着に身を包み、シルクハットをかぶり、白い手袋をしたドアマンが華麗に車のドアを開けると、そこからドレスとタキシードという高級感、富裕層という別世界の住人がホテルへ入ってゆく。宝石のように輝く空間を見つめ、ミヌアの両手はパステルピンクのリュックの肩紐を引っ張り、考えるため首を傾げた。
(世界で1番の高級ホテル……。
極貧生活の私……PCも携帯もなくて……。
ご縁がない場所……。
でも、見てみたい、体験してみたい)
ミヌアの右人差し指は突き立てられ、顔の横へ持ち上げられ、前へグッと押し上げられた。
(これで、少し元気になれるかも!
そこに何かがあるかもしれない!
よし、行こう!)
汚れが目立つスニーカーは人混みという川へ出ようとしたが、ぴゅっと足を引っ込めた。
(待って!
泊まるは無理だよ。
ホテルで他に出来ることって、何?)
自分の前を喧騒という流れを作り出している人々の横顔をぼんやり眺めながら、ホテルへの道を模索中。
(食事……いや、それも無理。
たぶん、前菜だけで……何千アルもする。
しかも、コースしかないかも……)
冬へと近づく澄んだ空気のお陰で、ホテルの最上階まで高級という線を夜空へ気品を漂わせはっきり描いている建物を見上げた。
(あぁっ、わかった!
ラウンジだ!
そこで、お酒を飲む!
いいね、よし!
決まった、行こう!)
ミヌアのスニーカーは家路からそれ、いつも通らない交差点へ向かって、ウキウキというステップを踏みそうな勢いで歩き出した。人混みが酔いという心地よい海に変わったようで、寄せては返す波に身を任せ、ゆらゆらと夢心地で横断歩道を渡り、ホテルのエントランスまで津波にさらわれたようにやって来た。
さっき遠くで見ていたドアマンが数mの距離へ迫った歩道の上で、高級ホテルと一般庶民という境界線を足元で色の違い、アスファルトの灰色と赤レンガでしっかり作られているのを見つけた。
(1杯、いくらなんだろう?
税金……サービス料……席料……etc)
ミヌアの金髪の中の数字に弱い頭脳はフル回転をして、チャン! という音が鳴ると導き出した、高級ホテルの酒代を。
(3000アル……はかかる。
3日分の食費と一緒……)
あまりのレベルの差に、ミリアの口からはため息しか出てこなかった。
「はぁ~……」
物欲しそうにホテルの入り口を見つめている背後のアスファルトの上に、空から流れ落ちる星のように、黒塗りのリムジンが斜めに降りて来たが、それに気づかず、ミヌアはホテルの客室という塔を見上げた
(でもな、もう決めたし、よし、行こう!)
富裕層と貧困層という境界線を飛び越えようと、スニーカーの足元へ視線を戻すと、その向こう側に赤い流れが右から左へスルスルと走っていった。
「え……?」
(何、これ?
絨毯?
赤い絨毯が……)
都会の真ん中で、地面の上を絨毯が横切ってゆくという非日常を目で追ってゆく。歩道からホテルの敷地内を横切る赤い絨毯はコロコロと転がっていき、最後の動きをエントラスまで数cmという絶妙な距離感で終えた。
(何で道にこんなものが……。
アカデミー賞ですか!)
歩道に1人立ち止まり、絨毯とホテルの入り口の間を様々な角度から落ち着きなく見始めたミヌアの背後で、運命という名のファンファーレが鳴り響く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
遊線が螺旋を描く優雅で貴族的でありながら、人を惑わすような魅惑を持つ男の声に引き寄せられるように、ミヌアがぱっと振り返ると、時間の流れが急にスローモーションに変わった。
赤い絨毯の上に黒のロングブーツがスマートに降ろされ、次に紺の髪が現れた。それは艶がありハリがあるのにしなやか、真逆の性質を持つその人にぴったりのもので、リムジンから地面へかがみ出てすうっと立ちがると、気品漂う笑みをたたえ、神経質な頬は滑らかで色白。肩よりも長めの髪が女性らしさを漂わせているが、
「上空で待機していてください」
ドアのそばで控えていた運転手へ指示を出す声は男性のもので、中性的な雰囲気がまるで行き止まりへ誘い込むような策略という匂いを漂わせる。知的さを表す細い線のメガネの奥には冷静であり、氷の刃という名がよく似合う水色の瞳が潜む。だが、その奥深くには激情という名の獣が住み着く、冷と熱のギャップ。
ふと上げられた手は細く神経質で、流れるような仕草で目元の細い銀の線を外し、チェーンにつかまれたメガネは胸元へ首の引っ掛かりを持って落ち、アカデミックなイメージは一瞬にして消え去り、矛盾しているようだが、刺すような優しさが広がった。
まるで舞踏会でワルツを踊るようなステップで、赤い絨毯の上へ進み始める足元は細く膝まである黒のロングブーツ。そこへ巻きつくベルトにはオーロラブルーの宝石がハイソな遊びという彩りを添え、細身の白いパンツに高級という光沢のある瑠璃紺色のタキシードに包まれた体は、節々があまり感じられない滑らかな曲線美で、運動には決して向かない体躯。
上質なシルクのブラウスは襟元のギャザーでもたつかせ感を出し、瑠璃色の細いリボンをネクタイ代わりに縛っているが、わざと両端をずらして結び、つかみどころがない、いい意味での不安定感を演出していた。
地中海の青の洞窟を思わせるような幻想的で鮮やかなアパタイトのカフスボタンが通り過ぎてゆくと同時に、甘くスパイシーな香水がミヌアの鼻を悪戯という名の手でくすぐった。
その時、ときめきという風がミヌアの全身を駆け抜け、金の髪が背後へパッと流れ舞った気がした。リュックの肩紐にかけていた手が脱力したように下へドサっと落ち、放心状態になったミヌアは自分の前を優雅に通り過ぎてゆく、182cmもの背がある男の前で釘付けという拘束に見舞われながら立ち尽くした。
(神様……こんなに綺麗な男の人を今日初めて見ました。
どこかの国の王子様みたいです……)
男の冷静な水色の瞳はほんの一瞬だけ、ミヌアへ向けられたが、
(彼女ですか……)
優雅な笑みで真意を隠されたまま、紺の長い髪を風になびかせながら、赤い絨毯の上を慣れた感じでスマートに歩いてゆく。その時、強風が不意に吹き、瑠璃紺色のタキシードの裾がふわっと舞い上がり、腰元に非日常が現れた、サファイアブルーのペンライトみたいな細い棒がまるで何かと命をかけて対峙するように。
視覚と臭覚と心をがっつり盗まれたミヌアは11月の冷たい風が何度か吹き抜ける中ぼうっと立ち尽くし、まわりの音も消え去り、自分の居場所もわからなくなっていたが、ホテルの入り口から、さっきの運転手が現実的に赤い絨毯を回収しているのが目に飛び込んできて、
「はっ!」
我に返り、ときめきの台風から何とか生還し、時の流れも正常に戻った。ホテルからリムジンへと逆方向へ赤い絨毯がわしづかみという方法で消えてゆくのをしばらく眺めていたが、右人差し指をホテルのエントランスへ向けた。
「行こう」
小走りで、未知という高級ホテルへの自動ドアへ近づき、ドアマンに丁寧に頭を下げ、初心者全開でミヌアの貧困の象徴のような服装とリュックは富裕層という夢の世界へ消えていった。
――――綺麗に磨き上げられた大理石の上を汚れの目立つスニーカは歩き出したが、すぐに立ち止まった。吹き抜けのロビーが上へ吸い込みそうに広がっていて、中央には屋内にも関わらず、噴水から水がサーっという透明色の音で心地よいリズムを刻み、待合席にもフロント前にもドレスとタキシードの人ばかり。
黒い制服を着た従業員が丁寧な物腰でありながら、きっちり手際よく仕事をし、宿泊客の荷物を運んだり、上着を預かったりしている。芸術的な配置で置かれた観葉植物が癒しと緑を演出。
(世界が違う……)
大きなシャンデリアを中心として、暖色系のライトが星のようにいくつも浮かび、フロアを照らす中で植物の緑色がやけに光沢を持っていて、ミヌアはそれが気になった。
(本物……?)
かろうじて、ドレスコードを免れたスニーカーで大理石の上をキュキュッと歩き、葉っぱを触るがカサカサした硬いものではなく、しなやかで湿り気があるものだった。
(本物だ……)
エントランスからの視線を遮るために置かれている観葉植物という目隠しの壁を一歩後ろへ下り、物珍しそうに眺める。
(すごいね。
枯れないなんて……光がないのに。
手入れが行き届いてるんだなぁ)
観葉植物とまるで挨拶を交わしているような位置で、ぼうっと突っ立っているミヌアの瞳に映る緑色の垣根の向こう側には、座り心地のよい1人がけのソファーの上で、白い細身のパンツと黒のロングブーツが優雅に組み替えられ、装飾品のオーロラブルーがシャンデリアの乱反射の中でエレガントに煌めいた。
光沢のある瑠璃紺色のタキシードの内ポケットからシルバーのシガーケースを出し、右手で慣れた感じでロックを外すと、開いた中から細身の茶色の線が規則正しく並んでいるのが顔を出した。
アパタイトのカフスボタンの留まった袖口から出ている細く神経質な指先が壊れやすい茶色の細いタイプの葉巻、ミニシガリロをすっと抜き取り、きめ細やかな肌の顔まで持ち上げ、ダビドフ プラチナムの芳醇な香りを火をつける前にひとまず愉悦に浸る。
冷静な水色の瞳は堪能というまぶたの裏へ一瞬隠れすっと開かれ、ミニシガリロを顔から離した時、さっきまでなかったはずのジェットライターが左手に不意に現れた。
葉巻はタバコのように自動的に燃えてくれるものではなく、360度綺麗に平均的に火をつけないと、偏ったまま燃えていってしまう。葉巻専用のライターは上からカチッと押すものではなく横から握れば着火し、ゴウっという炎の力強い息遣いを上げながら、その上で丁寧にミニシガリロを回し、丸い灼熱色に染めてゆく。反対側を中性的な唇の中へ入れ、青白い煙を吸い込むと、臭覚が刺激され、敏感という目覚めを起こす。
自分がつけた香水が慣れというもので感じ取れなかったが、甘くスパイシーな鋭利という刻みを体の内側につけるように入り込んで来る。煙は肺に入れず、口の中だけで香りと味を楽しみ、舌がしびれるほどの辛味を口の中で監禁するというマゾ的な遊びに身を任せながら、紺の肩より長めの髪のその人は、罠を仕掛ける相手を待つように膝の上に細い肘を乗せ、手のひらに神経質なあごを預ける。
(遅い……ですね。
先ほどの様子から、こちらへ来るという可能性が78.97%。
それとも、残りの21.03%が起きたのでしょうか?)
吐き出した青白い煙の奥で、冷静な水色の瞳の持ち主の心の内はまるで計算機、いやPCみたいに小数点以下2桁まできっちりカウントされていた。
観葉植物という境界線の後ろ側で、ミヌアの好奇の視線は緑の葉っぱから外された。
(上に行くには、どうすれ――)
そこで、銀の階段が上へ登ってゆくのを見つけ、
(エスカレーター!
よし、あっちだ)
ミヌアのスニーカーは小走りで、ドレスやタキシードの間をすり抜けていき、2階へ上るエスカレーターに乗り、視界がどんどん上がってゆく中で、さっきまで見ていたフロント前を上から見下ろす形になった。
(あぁ、あそこでも飲み物飲めるんだ。
パン屋さんもある……)
自動という動きが切れる先端で足を前へ出し、胡桃色の絨毯の上へ降り立ち、パステルピンクのリュックの肩紐に両手をかけながら、3階へ上るエスカレーターをキョロキョロと探す。
(あ、あれ?
ない……)
だが、後ろから上がって来る人たちにぶつかりそうになった。
「あぁ、すみません」
転落防止用のガラス張りの壁際に慌ててより、ミヌアのベビーピンクの瞳は捜索するため360度ぐるっと回るように向けられるが、同じ高さしか見ておらず、さっきいた観葉植物の反対側に今でも優雅に足を組み座っている人は視界の下にチラッと入り込んでいただけで、気づくことはなかった。
階下で立ち止まりという集まりを見せているドレスとタキシードの人の群れを運よく見つけ、ミヌアの頭の中で、ピン! という音が鳴り電球がピカッとついた気がした。
(わかった!
エレベータ!)
視線を2階へ上げるが、同じ位置にエレベータの扉はなく、ミヌアは首を傾げる。
(1階からしか乗れない?
じゃあ、戻らないと……)
エスカレーターに次々と乗り込もうとしている人の流れの隙を見て、シュッとミヌアのスニーカーは入り込み、1階へ戻るエスカレーターに乗り込む。手すりに両手でつかまり、エレベータの扉をあちこちの角度から眺めつつ、どうやっても挙動不審な人になりながら1階へ戻ってゆく。
(もしかして、あれ?
直通エレベータがあるとか?)
貧乏という服装で、高級ホテルのフロントで浮きに浮きまくっているミヌア。冷静な水色の瞳の人はミニシガリロの灰を灰皿へトントンと軽く叩き落とした。
(どちらへ行くのでしょう?)
上りのエスカレーターに乗り、ぼんやりまわりを見渡して、慌てて降りのエスカレーターへ乗り直し、落ち着きなさ全開のどうやってもおかしな行動をしているミヌアの様子を、余暇を楽しむ王子のような出で立ちでターゲッティングしながら、左手を顔近くへ上げると、不思議なことに携帯電話がすうっと現れた。意識化でつながっているため、他の人が使うという心配がないそれには暗証番号ロックはなく、画面をタッチしなくても、思い浮かべれば文字が打ち込める。
(あなたの予測通りいましたよ、彼女はこちらに)
送信をすると、すぐに相手から返事が来たが、画面は真っ白で男の中性的な唇からくすりという笑いの息が漏れた。
(空メール……相変わらずですね、彼は)
1階へ再び戻ってきたミヌアは行き交う富裕層の人々を避けながら、エレベータへ向かって猪突猛進のごとく進んでゆく。その様子を、冷静な水色の瞳は左から右へ追ってゆき、持っていたミニシガリロは灰皿へ一旦置かれ、光沢のあるタキシードの肘は肘掛から外されたが、細く神経質な右人差し指は軽く曲げられあごに当てられ、エレベータホールでいくつも並ぶ扉をデジタルに冷静に見極めという氷の刃の水色の瞳で刺すように眺めた。
(客室であるという可能性は0.12%
非常に低いです。
なぜなら、フロントへ行っていません。
そうなると……3階のラウンジ。
もしくは、最上階。
どちらでしょう?)
ミヌアの金の髪は落ち着きなく右へ左へ揺れるを繰り返しながら、開いたエレベータの中へドレスやタキシードに紛れながら入っていった。ドアが閉まり、冷静な水色の瞳はついっと細められた。
(最上階への直通エレベータ)
アパタイトのカフスボタンがズボンのポケットに近づき、中からチェーンのついた丸いものを取り出した。氷柱のような冷たさを持つ瞳に映るものは、アラビア数字が12個で円を描き、3本の長さの違う針があちこちに時刻という顔を見せる懐中時計。
(17時46分11秒。
そうですね……?)
紺の艶がありしなやかでハリのある髪の奥に隠された、人並外れた記憶力を持つ頭脳が瞬時に的確な数値を弾き出す、秒単位まで。
(1階から最上階へのエレベータの所要時間は、1分56秒。
17時48分07秒に到着。
今の時刻、17時46分21秒……残り1分46秒。
それでは、こちらのようにしましょうか)
言動を確定した線の細いタキシードはソファーへ一度もたれ、胸へ落ちてしまった紺の髪を手で背中へ払いのけ、灰皿から葉巻を取り、中性的な唇へ運び、青白い煙を吸い味わう、懐中時計を見つめたまま。
青白い煙がしなやかな肌の内側へ消えては外へ姿を現しを繰り返していると、ミニシガリロは灰皿へ最後の別れというように細く神経質な手で置かれた。
(17時47分59秒。
彼女の乗ったエレベータが最上階へ着くまで、あと8秒)
自分の横を人々が通り過ぎ、楽しげな会話がさざ波のように耳へ押し寄せ、高貴というシャンデリアの乱反射のシャワーが降り注ぐ中、冷静な水色の瞳の持ち主のデジタルな頭脳の中でカウントダウンが開始。
(5、4、3、2、1)
黒のロングブーツの足元がクロスする寸前の位置で、瑠璃紺色のタキシードの細身をさらに強調させるようにソファーから優雅に立ち上がり、紺の長い髪が衝撃で神経質な頬へかかり、水色の瞳に悪戯という光が宿ると、男のまわりの景色は不思議なことに全ての色を失い、モノクロに変わった。動いていた人々が不自然に止まり、流れていた上品な音楽も楽しげな会話もまるで時が止められたように動かなくなった。
だが、色が残っているものが1つ、それは瑠璃紺色のタキシードの男。
「それでは、行きましょうか」
遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声がやけに大きく聞こえる空間で、男の姿がすっと消えた途端、ホテルのフロントは色も動きも正常に戻ったが、誰も時が止まったことに気づくものはおらず、何事もなかったようにまた進み始めた。
ただ、優雅な男が座っていた席には吸いかけの葉巻が青白い煙を上げ、置いてけぼりを食らい、放置されていた。
――――木を隠すなら森の中。人を隠すなら人混みの中。
最上階のエレベータ待ちの人々は、まだかまだかと自分たちの階のランプが点灯することに視線を集中させている。さっきまでいなかった光沢のある瑠璃紺色のタキシードが急にそこへ混じっていても誰も気づかなかった。
(彼女の乗ったエレベータが到着するまで、あと3秒)
その群れから、紺の肩より長い髪は足早に抜けたために、香水の匂いをほのかに残し、ワンレングスの前髪が貴族的に優雅になびき、ガラス張りの壁へ近づいてゆく。
(あと1秒)
夜色が向こう側へ広がっているため、鏡のように室内が見える位置で、あのベビーピンクの瞳で貧困層丸出しの女を景色を眺めている振りをして、鏡のようなガラスというワンクッションを置いて相手を待ち構える姿勢を取ると、抜群のタイミングで、
(0、来ます)
ポーン!
というエレベータ到着の音が響き、人々が次々降り出した扉に、金の髪とおしゃれのかけらもないパステルピンクのリュックを背負ったミヌアが混じっていた。ミヌアがエレベータに先に乗ったはずなのに、男の方がさらに先へ最上階へ着いているという時間軸が狂っている出来事が起きていた。
ミヌアは富裕層という人々に流されながらフロアへ出て、目の前に広がった空間の素晴らしさに思わず息を飲んだ。全てがガラス張りとなり、その向こう側へ重力を克服したタイヤのついていない車がテールランプの川を同じ高さで作り出していて、時々すぐ近くを猛スピードでクーペなどが斜めへ落ちてゆく。
汚れたスニーカーは興味深そうに窓際へより、ちょうどそこにあった展望席のテーブルへ両手をかけ、どこかズレ感のあるベビーピンクの瞳をキラキラ輝かせた。
(すご~い!
光の海が広がってる……。
いつも下からしか見たことなかったけど……。
ルドルカシティってこんなに綺麗なんだ。
これが見れただけでも、よかった)
彼女の背中側のガラス越しで、冷静な水色の瞳は反対方向を向いたまま鏡のような窓に標的を映す。
(景気を眺めているみたいです。
さて、どのようにしましょうか?)
ミヌアは星の海といってもいいほどの夜の都会の明かりに気を取られながら、すぐ近くにあった少し高めの丸イスに何気なく座り、両肘をつけてぼんやり景色を眺めながら、リュックを慣れた感じで背中から外し膝の上へ乗せても、ベビーピンクの瞳にはオフィスビルの窓という明かりの群れが映っており、当初の目的を忘れてしまいそうだったが、女の声が不意に響いた。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「え……?」
ミヌアは光のイリュージョンという空想世界から現実へ引き戻され、自分のそばでニッコリ微笑む女の顔をまじまじと見つめる。
「こ、こんばんは……」
「ご注文はいかがなさいますか?」
優しげな声の主の服装は白いシャツに黒のベスト、蝶ネクタイと男性的な黒のスラックス。ミヌアは知らないうちに店の席へ座っていたことに気づいた。
(もしかして、レストランに来ちゃった?)
財布の中身を思い出し、焦りというものが体中へ広がってゆくのを必死に抑えつつ戸惑い気味に聞く。
「あ、あの……」
「はい」
「ラウンジに行きたいんですが……」
「こちらですよ」
「あぁ、そうでしたか……」
店員とのやり取りをガラス越しに見ていた冷静な水色の瞳の持ち主は、
(ラウンジへ来たみたいです。
それでは、こうしましょう)
優雅に振り返り、香水が魅惑というそよ風を巻き起こし、紺の長めの髪がふわっとダンスのターンをするように舞い踊り、黒いロングブーツはオーロラブルーという輝きを連れてスマートに大理石の上をカツカツという酔わせるような靴音を響かせ、あっという間にミヌアの斜め左後ろにあったロの字のカウンター席までやって来て、スマートに腰掛けた。
見られているとは知らないミヌアと店員の話はまだ続いている。
「何にしますか?」
「え~っと……?」
(高級ホテルのラウンジに来て、ビール……。
それは、せっかく来た意味がないなぁ。
じゃあ、ワイン?
それも、普通に飲み屋で飲めるしね)
ニッコリ微笑んでいる女性店員をじっと見つめ、ミヌアらしい心配。
(待たせるのはよくないから……。
どうしよう?
あっ、わかった!
知ってるお酒の名前を言えばいいんだ!)
これが、とんでもない結果を招くとは、当の本人は知る由もなかった。
「ジンとか……ウォッカとか……リキュール類で飲みやすいやつをお願いします」
「かしこまりました」
女は丁寧に頭を下げ、気品漂う感じで展望席から離れていった。その店員を斜め左奥から見る椅子に腰掛けていていた、瑠璃紺色のタキシードは。
(何を飲むのでしょう?)
ミヌアの注文を聞いた女はカウンターの中にいる男性店員へ、ジンとウォッカとリキュールで飲みやすいやつという危険な香りがする酒のオーダーを伝えたが、プライベートという名で守られている注文の声は紺の髪を持つ男には聞き取れず、冷静な水色の瞳はバーテンダーの手元へ情報収集という形で向けられた。
ホテルのロビーで取り出していたシガーケースを上着の内ポケットから取り出し、慣れた感じで火をつけ、青白い煙の上がる向こう側で、バーテンダーの手がつかんだ緑色の瓶で赤いリーリングスタンプのついたものを見つけた。
(タンカレーのジン、アルコール度数47.3%)
その人の冷静な頭脳の中で情報という本がバッと開き、PCのプログラミングのようにデータが流れ始める。
(ジントニック。
ジンライム。
ジンのストレート、すなわちショット。
もしくは……)
バーテンダーの次の手の動きを読む。透明な瓶で黒地に教会のステンドグラスのような絵柄がついたものが用意された。
(エギュベルのウォッカ、アルコール度数40%。
そうなると……)
細い葉巻を持つ人の頭の中に、該当するカクテルの種類が即座に浮かび上がった。バーテンダーの手はまだ止まらず、次の瓶を取り出す。琥珀色をした太めの小さもの。
(ネプチューン クレーム ド カカオ、アルコール度数25%。
ルシアンであるという可能性が78.56%)
その時、ミヌアにも声をかけていた女の店員の声が右耳から入り込んだ。
「こんばんは、今夜は冷えますね」
落ちてきていた髪を耳にかけながら、優雅に微笑み返して短くただの相づち。
「えぇ」
同意という言葉は決して口にしない、貴族的で黒のロングブーツの足をエレガントに組む男は。
「どちらにしますか?」
どこからどう見ても慣れた感じの会話。2つの酒の種類を問う注文の取り方。バーテンダーの手で銀のシェイカーに入れらた3つの酒を、冷静な水色の瞳の端に映したまま、遊線が螺旋を描く芯があり優雅な声が、常連という名の酒の銘柄を口にした。
「ヘネシー パラディーでお願いします」
(今日はブランデー、アルコール度数40%です)
「かしこまりました」
店員が離れてゆくと同時に、バーテンダーがシャカシャカとカクテルを作り始めた。最上階という高級感が漂う空間に、上品な音楽が控えめに流れているところへ、シェイカーのリズムが鮮やかにシンクロする。
三角の小さなグラスに3つの酒が混ぜられた琥珀色が注がれ、シルバーのトレーに乗せられ、さっきから夜景に目を奪われているミヌアの元へ運ばれてゆく。ミニシガリロの煙が中性的な唇から吐き出されると、
「お待たせしました」
手の空いたバーテンダーから手際よく、丸みの目立つブランデーグラスが差し出された。冷静な水色の瞳は上げられ、優雅に微笑む。
「ありがとうございます」
だが、口にはせず、グラスをくるくると回し、琥珀色の水面で不規則な円を描き始めた。
左斜め後ろのロの字のカウンターで青白いミニシガリロの煙が上っていることに気づかず、ミヌアがぼんやりしていると、さっきの女性店員の声が右側からかかった。
「お待たせしました」
「あぁ、はい……」
「ルシアンです」
琥珀色をしたショートカクテルが出された。
「あぁ、ありがとうございます」
(そんな名前のお酒があるんだね)
ミヌアがうなずくと、女は颯爽と艶やかにフロアを仕事という動きで歩き出した。ミヌアのどこかズレている感の瞳には小さな三角のグラスが映っていて、首を左右に傾けながら、カルチャーショックにノックアウトされていた。
(こんなに小さくて、3000アル……。
チーン! って、終わったって感じだ)
金の髪をさらっと揺らし、瑠璃紺色のタキシードを着る男の方へ振り返るが、バーテンダーの影になり見ることはできなかった。
(一生懸命作ってくれたものだから、飲もう)
繊細なショートカクテルグラスをガバッとつかみ、上質な琥珀色の液体を体の中へ落とし、ミヌアのベビーピンクの瞳はキラキラ輝いた。
(甘くておいしい!
お酒の味がしな~い。
こんな飲み物があるんだぁ)
丸椅子の足の引っ掛け部分を軸に左右へクルクルと回し、空想癖のあるミヌアは別世界の城の大広間で、王宮楽団の奏でるワルツに合わせて、華麗に軽やかにステップを踏むように、ルシアンの甘みという酔いに身を任せ、魅惑のグラスをもう一度傾けた。
「ん~っ!」
(めまいがするほど幸せ~♪)
3000アルもするショートカクテルをたった2口で飲み干した。斜め後ろから見ていた冷静な水色の瞳で、グラスから琥珀色が完全に消え去ったのをしっかり確認。
(それでは、行きましょうか。
あちらの方法が勝てる、成功するという可能性が87.97%)
瑠璃紺色のタキシードは優雅に立ち上がり、ブランデーグラスはアパタイトのカフスボタンを従えた細い神経質な手でつかまれ、テーブルの上に残されたシガーケースとジェットライラーは不思議なことにすっと消え、黒いロングブーツについたオーロラブルーはロの字のカウンターをぐるっと回り込むように優雅に進み、ミヌアの意表をつく背後に鮮やかに立った。
空になったグラスをテーブルの上で持ち上げて、名残惜しそうに見ていると、ミヌアのベビーピンクの瞳にこの世ではないあの世のものが入り込んできた。それは黒い霧。手のひらサイズの丸いモヤモヤ。さっきまで出てこなかったものが急に現れるようになり、ミヌアはグラスをコースターの上に置き、ガラス窓とラウンジの間の空間を見渡すが、ガラスにはその黒い霧は映っていない。
(黒い霧……まただ。
霊感と関係すると思うんだよね。
幽霊はよく見る。
店の1つ手前の交差点に、いつも30代ぐらいの男の人がぼうっと立ってる。
あれは、地縛霊なんだと思う。
だから、あそこから動けない。
でも、黒い霧はそれとは違ってるみたいで……。
疲れた時によく見るんだよね。
でも、今日は疲れてないよね?
それに、さっきまで見えなかったのに、今急に見えるようになった……。
どうして?)
ミヌアのまわりのもう1つの世界で異変が起きているガラス窓に、線の細い男の人影が近づいてくるのが映っていた。それをまるで自分とは関係ない背景のように眺めながら、ミヌアは首を傾げ続ける。
(黒い霧は自分に近づくと、消えるんだよね。
すうっと、まるでどこかに吸い込まれるように。
何なのかな?
他の人のまわりでも見るんだけど……。
消えないんだよね。
自分の近くにいるものだけで消え――)
そこで、遊線が螺旋を描き優雅で芯があり、人を惑わせるような男の声が不意に割って入ってきた。
「――お隣よろしいですか?」
「はい?」
頬杖をついていた手から頬を離し右横へ顔を向けると、そこには、紺の肩より長めの髪を持ち、氷の刃という名が似合う冷静な水色の瞳。滑らかな白い肌の神経質な頬に中性的な唇。襟元で瑠璃色のリボンがちょうちょ結びされていて、甘くスパイシーな香水が臭覚という記憶を呼び起こし、ミヌアは思わず目を見開いた。
(さっきの王子様……。
やっぱり綺麗な人――)
返事がいつまで経っても返ってこないので、男はもう一度聞いてきた。
「よろしいですか?」
ラブロマンスという別世界から慌てて引き上げてきたミヌアは、落ち着きという文字を己の辞書に持っていない様子で居住まいを正した、なぜか。
「あぁ、はい……どうぞ」
(誰かと待ち合わせ?)
「それでは、失礼」
男はどこか含み笑いの声で優雅に言い、スマートに椅子へ腰掛けた。香水の香りが酔うように広がってきて、ミヌアはそれだけでもエクスタシーワールドへ飛ばされそうになった。
(このまま崩れ落ちそう!)
空想世界へワープしそうになった時、真っ直ぐとはほど遠く、どこか弄び感が出ているが、それが感情とかそういう曖昧なものではなく、数字というきちんと確立された理論の元で全て成り立っているような優雅な男の声が疑問形を放ってきた。
「何を飲まれているのですか?」
(答えていただきます、情報を)
ミヌアは現実へ引き戻された、男の冷静さというもので。
「あぁ、ルシアンです」
「そうですか」
(ルシアンであるという事実として確定、100%です)
ミヌアは気づいていなかった。質問をされ、それに答えれば自分の情報が簡単に漏洩し、相手にデジタルに記憶されてゆくと。冷静な水色の瞳から取り込んだ視覚というデータは紺の長めの髪の奥にある脳へ着実に記録されており、ミヌアがどんな人間でどんな生活を送っているかが、服の汚れ、質感、行動でわかっている。さらに、声をかけた女がルシアンをどんなふうに飲み、次はどう動くかまで予測済み。
男の言葉の大半は疑問形と相づち。それは情報漏洩を避け、自分の思惑、手の内を相手へバラさないための言動。残念ながら、ミヌアはもう既にこの男の優雅な策略の中へ引きずりこまれていた。
普通の会話のように見えるが、密かな誘いという言葉が男の中性的な唇から出て来る、言葉遣いを考慮して。
「いつもこちらへ来られるのですか?」
(ルシアンを飲んでいます。
酔っているという可能性が32.89%……非常に低いです。
従って、私の質問に疑いを持つという可能性が98.78%。
考えている隙に、あちらの罠へ導きましょうか)
20cm近く背の高さが違う男の水色の瞳を、ミヌアのどこかズレているベビーピンクの瞳で見つめ返して、男の思惑通りに違和感を持ち、何も言わずに首を傾げた。
「…………」
(あれ? おかしい。
どうしてだろう?)
水色の瞳から視線を外し、まわりの景色を眺め、ドレスとタキシードの人々を見つけ、今度は自分の服へ視線を落とした。汚れたスニーカー、洗濯のし過ぎで緑色に変色しかかっている黒のズボン。袖が擦れてほつれたパーカー、偽革の茶色の上着。そこで、ミヌアは違和感の原因を突き止めた。
(あぁ、私の格好、どう見ても、ここに来慣れてない格好だよね。
なのに、どうして、いつも来てるのかって聞くのかな?
何だか、おかしい――)
視線を外したばかりに、男の水色の瞳の行方をミヌアは見逃し、その目線はターゲットにしている女ではなく、彼女のまわりをなぜか見ていた。
(彼の言っていたことは本当であるという可能性が98.76%)
何かの数字を弾き出し、優雅に見えるような男には実は瞬発力がかなりあるのだった。
(それでは、こうしましょう)
ミヌアの瞳が自分の服から上げられ、男の細く神経質な手から瑠璃紺色のタキシードの腕へ向かい、紺の髪の先を捉えようとした時、
「失礼」
優雅な声が聞こえたかと思うと、一瞬視界が真っ暗になり、いわゆるブラックアウトを起こした。音も消えたが、それはほんの少しの間で、ミヌアの視界には紺の髪が入り込んだが、どうも何かがおかしく。
(あれ?
さっきより距離が縮まった?)
自分が動いたわけでもない、相手が引き寄せたわけでもない。それなのに、男との距離が縮まっている。怪奇現象と言っても過言ではない光景を前にしても、ミヌアはどこかズレている頭で都合よくふんわり飛び越えて、男の冷静な水色の瞳を見つめ返したが、さっきより絶対近づいているのが如実にわかった。
(あれ?
椅子を引き寄せられた?)
キョロキョロし始めて、カウンターに乗っている空のショートカクテルグラスが自分より左後ろの離れた位置にあったの見つけ、次に椅子に相変わらず座っているのを感じる。
(人が座ってる椅子って、引っ張り寄せられたかな?
下は絨毯、摩擦が思いっきりある。
そんなに簡単に、人が座ってる椅子を動かせる……?)
戸惑いという罠の中へ誘い込まれてしまったミヌアは会話をするどころではなく、男の手中へ落ち始めた。
(彼女は戸惑っているように見える。
それでは、先ほど導き出した罠へと誘いましょうか)
「どうかしたのですか?」
答えたら最後、情報を持っていかれる。交わす手はいくつかあるが、既に1つ目の罠、急接近に縛られてしまっているミヌアは珍しく難しい顔で尋ねた。
「どうしたんでしょう?」
(気になります、どうして近づいたのか)
何とか交わす手の1つを放った。疑問形に疑問形。聞き返すことによって、情報漏洩は免れ、仕掛けられた罠から逃れられるようになるが、相手にはそんなことは到底計算済みで、さらに絶妙な疑問形を返してきた。
「どうしたいですか?」
最初の2文字は一緒なのに、全然違う質問がやってきた。しかも、自分の要求を聞いてくるという内容。ミヌアは何の遠慮もなしに、優雅に気品高く微笑む男を凝視したまま。
「……どうしたいんでしょう?」
(あれ? 何かしたかったかな?)
混乱という言葉の嵐に巻き込まれ始めたミヌアを、冷静な水色の瞳に映したまま、男の言葉はさらにすり替えられる。
「どうされたいですか?」
なおかつ錯乱させられる言葉を放たれ、ミヌアのまぶたは落ち着きなくパチパチ。
「……さ、されたい?」
(敬語? それとも受け身?)
こうして、男の罠の最後から2番目の言葉が、優雅に鮮やかにやって来た。
「私が決めてしまいますよ」
疑問形ではなくいきなり断定の言葉。しかも、主導権を持っていくと言ってきているが、どこかズレている感が漂い出ているミヌアは、
(この人の行動を決めるんだから、この人が決めてもいいよね)
「あぁ、はい……」
全然違う解釈でうなずいてしまい、男から最終確認が入った。
「取り消しは出来ませんよ。よろしいですか?」
(こちらの言葉にあなたがうなずけば、私の罠が成功するという可能性が99.99%)
(この人の行動は取り消せないよね、私には。
だから……)
「はい、どうぞ」
冷と熱。冷静と激情。知的と悪戯。人を魅了しやすいギャップというギャップをいくつも持つ男の罠の仕上げに、ミヌアは簡単に引っかかってしまった。
そうして、空前絶後の無理難題が相手から突きつけられた、断れなくさせられた上で。
「それでは、私と結婚してください」
(私の罠にはまっていただいて光栄です)
「え……?」
ミヌアの空想がミュージカル仕立てで暴走し始めた。
(結婚~~♪
それは~♪)
純白のウェディングドレスを着て、教会の扉からクルクルっと回り入りながら、右手をすうっと天井絵に伸ばし、タキシードを着た男が待つ祭壇前の赤い絨毯の敷かれている身廊を、右へ左へステップを踏み揺れながら幸せの歌を歌い続ける。
(あなたと私~♪
めぐりあい~、共に歩いてゆく~♪)
身廊の途中で白いハイヒールは止まり、参列席に座る招待客へ夢心地の視線を降り注ぐ。
(幸せのおすそ分け~♪
あなたに、あなたにも)
手に持っていたブーケから花を一輪取り出し、右へ左へ配りながら祭壇の前までやって来て、余計なところは都合よくスキップし、黒い神父服からお決まりの言葉がやって来た。
「それでは、誓いのキスを」
ミヌアの被っていたベールが上げられ、相手の顔が見えそうになるが、
(結婚~♪
それは~、愛する人と――)
そこで、紺の肩より長いハリがありしなやかな髪と冷静な水色の瞳、貴族的な優雅な笑みの男が、現実へ戻って来たミヌアのベビーピンクの焦点の合った瞳に映った。
「っ!」
(愛する人じゃない……。
さっき会った人。
名前も知らない……)
言葉のすり替えという罠の中で、手を打つ機会を逃してばかりのミヌアに、男のさらなる鮮やかな一手が打たれた。
「こちらのほうがよろしいですか?」
「どちらの……?」
ミヌアの貧困層丸出しの服の前で、瑠璃紺色のタキシードは椅子から優雅に立ち上がり、オレンジ色の絨毯の上へ片膝をつき、紺の長い髪がふわっと浮かび上がり、高級ホテルのラウンジなのに、まるで玉座に座る女王陛下にお辞儀というように華麗に跪いた。
「私と結婚してください」
「え……?」
頭を下げたため、床につきそうになっている紺の髪と、突然の跪きプロポーズにまわりを歩いていたドレスとタキシードが不思議そうに立ち止まり、一番しっかりしているはずの従業員も動きを止め、驚きという静寂がやって来た。
(ということで、今に戻って来た。
どこも間違ってないね。
あえて上げるなら、ここに来たことかな?)
ミヌアなりに首を傾げ、頭をフル回転させ、目の前で起きている出来事をお笑いの前振りではなく、別の解釈を探し始めた。
「あの……」
「えぇ」
跪いたまま水色の冷静な瞳はさっと上げられ、絶対服従みたいな姫とナイトのような距離感で優雅に先を促した。どこからどう見ても、天然ボケの入っていなそうな男に、ミヌアは顔をしかめる。
「相手を間違ってませんか?」
(誰かに、私が似てたとか?)
水色の冷静な瞳はゆっくりと横へ揺れた。
「いいえ、間違っていませんよ」
(あなたをやっと見つけましたよ)
「そうですか……」
(ボケてる感じもしない……。
そうすると……)
ミヌアはガラス窓の向こうに見えるテールランプのルビーのような川を眺め、次は反対側へ顔をやって、まるで時間が止まってしまったようなドレスやタキシードたちを見つめ、自分を見上げている水色の瞳を上から見下ろして、きっぱりと。
「嫌です」
(お断りです。
確かに王子様みたいで、素敵ですけど……)
こうして、男の罠の1つが時間差という効力を発揮。くすりと微笑んで、跪いているはずなのに、下克上の言葉を放った。
「おや? 取り消しは出来ないと、先ほど約束しましたよ」
(あなたに拒否権はもうありませんよ)
さっきの言葉の解釈を間違っていたことにミヌアは気づいて、彼女の表情は苦渋に。
「…………」
(あれって、こういうことだったの?
あちゃ~、うなずいてる。
どうしよう?
断りたい。
でも、取り消せない)
その時だった、ミヌアの心の中で教会のゴーンゴーンという聖なる鐘の音が響き、神からの天啓のようにスポットライトが差した気がした。
(わかった!
こうだ!
よし、実行!)
ミヌアは空想世界から現実へ戻り、計画を遂行し始めた。膝の上に乗せっぱなしだったリュックから財布を取り出し、お札3枚をテーブルの上へパシッと置き、右利きのため、右から少し高めの丸椅子を降りようとしたが、斜め後ろで男が跪いているのを思い出して、慌てて左へ向きを変えようとすると、カクテルグラスに袖口を引っ掛け、高そうなグラスが倒れるのをパッと押さえる。
(あ、危ない!
割ったら、いくらするかわからないからね。
ここは、そうっと……)
ホテルものを破損しないように椅子を左側から降りようとして膝を上げ、テーブルに強く打ちつけた。
「痛っ!」
何とかその痛みに耐えながら、スニーカーの足で忍び足を2、3歩してから、跪いている光沢のある瑠璃紺色のタキシードの前で足をそろえ、頭をペコッと下げると、
「す、すみません!」
(逃走で、巻いてしまえ!)
さっと走り出そうとしたミヌアの手。瞬発力のある男には簡単に捕まえられるが、優雅に床から立ち上がり、エレベータ前まで大慌てで走ってゆくミヌアの小さな背中を見送りながら、ついっと細められた冷静な水色の瞳。
(今は逃します。
私だけではありませんからね。
ですが、あとで捕まえますよ。
あなたがどちらへ行こうとも、私は追えます。
もう出会ってしまったのですから)
逃げたとしても、エレベータ待ちで捕まってしまうということにミヌアは全然気づいていなかった。だが、水色の冷静な瞳を持つ男は椅子に優雅に腰掛け、さっきから一口も飲んでいなかったブランデーを口に含み、左手を顔近くへ上げると、また不思議なことに携帯電話がすっと現れた。
紺の髪を後ろへ避け、コール音が2度鳴ったところで相手が出た。
「私はそのように思いますが、あなた自身で確認していただいてよろしいですか?」
言葉を自由自在に操り、相手を自分の思う通りに動かす男は話が長く丁寧。それとは対照的に電話の向こうからは、真っ直ぐで地鳴りのように低い男の声が最低限の言葉しか返してこなかった。
『構わん』
「場所は……」
『言わなくてもわかる』
大都会の真ん中で逃走した人を探せる。そんな手がある。相手は携帯を持っていない、GPSなど使えない。それなのに見つけられると、電話の向こう側の男は言う。低い声の持ち主の得意技を思い浮かべながら、優雅な男は細く神経質な指先に自分の紺の髪を悪戯っぽく絡ませた。
「そうですか、よろしくお願いします」
『切る』
「えぇ」
短く優雅なうなずきが、ブランデーグラスの上で舞うと、電話が愛想なしに切れた。携帯をテーブルの上へ置き、ミニシガリロに火をつけながら、渋滞というテールランプの川を冷静な水色の瞳に映す。
(少し時間はかかるでしょうから……。
私はこちらでパラディーを飲みながら待ちましょうか)
ブランデーのグラスを取り、甘い香りを中性的な少し柔らかい唇から味わい、葉巻でさらに深い快感という泉の底へ落ちる酔いという戯れに身を任せ始めた。
――――優雅で貴族的な一流ホテルのエントランスからミヌアは慌てて飛び出し、雑路という人の流れに入り込もうとしたが、
(あ、あれ?
ど、どっちから来たっけ?)
キョロキョロしているベビーピンクの瞳は一瞬止まり、全てがモノクロになった。信号の色も歩道を流れる人の群れも何もかもが止まり、数m離れた細い路地の薄闇という死角へ、不思議なことに人影がすうっと立った。
そして、再び時は正常に動き出した、何千人もいるであろう人が誰一人異変に気づかないままで。
ビルとビルの間で、黒の履き慣れたショートブーツが通りとは直角に物音1つ立てずに向き直り、ビル風にロングコートがマントのように翻り、両袖は肘手前までまくり上げられ、満月を背に髪の毛の縁が赤でギザギザを描いている。背が異様に高いその人の心の内は少し変わっていた。
(2つ。
8m先、Evil。
5m先、女。
こっちへ来る)
まるで暗号みたいなシンプルな自己専門用語だった。
ミヌアのどこかズレている感がある瞳は、人混みの向こう側に帰路が違う角度から存在しているのを見つけた。
(よし、あっちだ)
優雅な男が今もいるであろうラウンジを背後にして、歩道を歩き出すと、割り込んだ後ろから男2人の会話が耳に入り込んで来た。
「そういえば、あの芸能人、眠り病で死んだよな?」
「あぁ、あれにはびっくりした」
「ずいぶん前から悩んでたらしいな」
「あれはかかったら医者じゃ治せないからな」
ミヌアはリュックの肩紐を引っ張りながら、空想世界へワープ。舞台の端に立ち、真っ暗な中で自分にだけスポットライトが当たり、語り口調。
(眠り病……。
それは、現代医学では治せない病気。
ある日、睡眠にとりつかれるようにして眠り続け……。
食事も摂れなくなり、それでも点滴で何とか生き続けるが……。
体力の消耗が激しくなり、補充するのが間に合わなくなり、やがて死ぬ)
汚れたスニーカーが前へ進み続ける、空想の舞台という頭をともなって。赤い縁を持つ髪の持ち主は細い路地で息を潜めながら、ただひたすら待つ。
(4m先、Evil。
1m先、女。
女が先)
ミヌアの別世界へワープしているベビーピンクの瞳の右端に細い路地が見えて来たが、歩道を歩く人の騒音と薄闇というものに紛れて、ロングコートが隠れているとは知らず、心の中ではスポットライトをまだ浴びたまま。
(原因は未だにわからない。
緩和する薬さえも開発がされていない)
(3m先、Evil。
女、来る。
正中線と正中線を合わせる。
左の肩甲骨の意識を高める)
何かの動きを体現するみたいな心の内。細い路地に隠れている人は不思議と気配がなく、ミヌアはその前で立ち止まり、眠り病について考えるため、首を傾げると金の髪が肩からさらっと落ちた。
(でも、何が原因なんだろう?
眠るようになって、衰弱してくなんて……?)
その時だった。細い路地から誰かの大きな左手が伸びて来て、驚く暇もなく薄暗い路地へミヌアのスニーカーは地面の上を引きずられるのではなく、空中を浮遊するようにすうっと引っ張り込まれた。まるで芸術というような動きで鮮やかな手口で、歩道を歩いている人は誰も気づかなかった、ミヌアが突然大通りから消えたことに。
ミヌアの視界は急に暗くなり、目の前の景色が変わり、眠り病の説明という空想世界から自分の身の回りで起きた急変に照準を合わせる。
「え……?」
(道を歩いてた気がするんだけど……。
座ってる?)
スニーカーが横向きで地面に落ちていた。袖をまくったロングコート腕に完全に抱き寄せられている状態を見つけ、確かめようとするが、隠しても隠しきれない男の性的に酔わせるような匂いが漂っていて、ミヌアはビルの壁を凝視したままだったが、
(男の人に抱きしめられてる……?
誰ですか?)
右斜め上に顔を上げたと同時に相手も顔を下ろし、満月を間に挟んで、社会というモラルの中で、細い路地に入り込んでまるで秘め事をするように見つめ合い、全てがスローモーションになった。
192cmという長身とミヌアの163cmという29cmの身長差のギャップ。どうやっても相手は男で、自分は女だと突きつけられる物理的なエロ。ある意味、視姦(*視覚で犯すこと)だけで悶え死にそうな男の腕の中で、聴覚という五感がミヌアにエクスタシーという色をともなって襲いかかった。
「動くな」
地鳴りのように低く安定感があり、媚薬を使われたように体の力が抜けてしまうような艶やかさを持つ声が最低限の言葉を口にした。
落ち着きのないミヌア。それでも、相手の重厚感、不動の雰囲気に飲み込まれ、ベビーピンクの瞳は無感情、無動という代名詞がよく似合うカーキ色の切れ長な瞳で、武術の技をかけられたように動きを封じられた。どんなことが起きても安心して身を任せられる安定感を持つ男。
ミヌアの上着を抱き寄せている腕は男らしく筋肉質で、節々のはっきりした手指だが、しなやかであり、それを見ただけで体の芯が熱くなり、濡れてしまうような色気の漂う類稀な手。
ホテルでさっき会った男とは対照的に骨格がしっかりとして、どこからどう見ても男で鍛えている感が出ている。赤い髪は何かをするために邪魔にならないような短さと簡潔さを持っていた。月影だけでもわかる、端正な顔立ちで頬からあごにかけてのラインがシャープで妖艶。
春情という風が、ミヌアの全身を愛撫するように駆け抜けていった。両腕の力は抜け、座っていても後ろへ倒れてしまいそうになるが、抱き寄せている男の腕がそうはさせず、さらにしっかり捕まれられ、鉄っぽい匂いがめまいを起こすように体の奥へ入り込む。それでも何とか、相手へ惹きつけられてしまうのを抑え、ミヌアはビルとビルの狭間で細長く切り取られた夜空を見上げた。
(神様……こんなに男の色気が漂い出てる人に今日初めて会いました。
どんな俳優さんよりも素敵です。
このまま襲われてもいい……)
ミヌアのエロ妄想は官能という谷底へ頭から真っ逆さまに落ち、首都という摩天楼を遠くに眺められる荒野に建つ屋敷の大きな屋根の上、月明かりという照明に照らし出され、お互いの肌が背中と胸で触れ合う体位バックの座位。自分の蜜壺がぐーっと押し広げられてゆく感触。それが止まることはなく、灼熱の男根が膨張し続け、男らしい両腕に後ろからしっかりと抱き止められている。
「あぁ……はぁ……っ」
という自分が絶対出すことの出来ない周波数の低い声が言語ではなく、吐息という男の耐え忍ぶ喘ぎで耳元に絡みつくように舞い続ける。野外プレイという自由空間の中で夜風がお互いの髪を揺らし、欲望が自分の体の中で野生という獣の名で暴れ出し、形が違うのに絶妙にマッチする鍵と錠前みたいな性器の密着という眩みが襲いかかる、男の性的な匂いで気絶という奈落の底へ落ちてゆきそうな予感。
男らしい太い腕でありながらしなやかな肌に、吸いつけられるにしがみつきながら理性という意識を必死で呼び戻す、絶頂という名のループに引きずり回されたくて。
こんなエロ空想から脱出させたのは神の御前という神聖な場で、ミヌアは我に返り、時間の流れは正常に戻った。
(というのは冗談で……。
どうして、こんなことになってるのかな?
聞いてみよう)
「あ、あの……」
「静かにしろ」
(1m先、Evil)
ロングコートの男の心はどこか別のところを見ているようで、腰に巻きついていた男の手が急にミヌアの口に上がってきて、それをすっかりふさいだ。
「んん、んん……」
(き、聞けません! これじゃ。
っていうか、もう叫びたい――)
男の得意技が出る。ミヌアの内側、別次元へ彼の意識は向けられていて、専門用語が並ぶ。
(胸の意識が強くなっている。
次は暴れる。
それを防ぐには、女の重心を俺へ軽く奪う)
「逃げられん」
魔法の呪文みたいな単純な単語が、背の高い男の唇から低音という響きをともなって耳元で囁かれた。
そこで悲鳴を上げて、助けを求めようとしていたミヌアの身に異変が起こった。男のつかむ腕の強さは変わらず、何かをされたわけでもないのに、まるで麻酔でも打たれたかのように体中の力が抜け、朦朧とし始めた、意識が。
(あれ……手が動かない。
あれ……何してたっけ、今?
あれ……もうわからなく……)
自分を何かから守るように抱き寄せている男へ、特殊なことを使って意識も動きも持っていかれてしまい、ミヌアはぼうっとするしかなかった。その時だった。何も持っていなかった男の右手に細長くあちこち突起物のあるものが現れたのは。
ミヌアは急に現れたものがものだけに、口をふさがれ、体の自由は何かに奪われていたが、心の中で稲妻に打たれたような衝撃が走った。
(きゃあっ!
銃っっっ!?
た、大変だ!
人がいます!
ここでは危ないです!)
大都会の真ん中で、1m先には大通りという人の流れが出来ており、靴音が騒音を作り出す場所。男は気にした様子もなく、FN FNC/アサルトライフルを通りへ構えた。
(来る)
男がスコープをのぞくことはなく、ミヌアは阻止しようとするが体が動かず、そうこうしているうちに、首都の真ん中で、
スバーンッッッ!!!!
ゴォォォォーー!
という銃声がビルという山々にこだまし、ミヌアは驚いて思わず目を大きく見開き、銃口が向けられていた人混みへ顔をさっと向けたが、そこには人以外のものがいた。
(黒い霧……あんなに大きいの初めて見た)
人の背よりも頭1つ分大きい黒いもやが打ち込まれた銃弾によって砕かれ、チリジリに空中を舞ったかと思うと、ミヌアたちがいるところから金の光が妖精のように黒い霧へ向かっていき、聖なる光に打ち消されるように邪悪の象徴のようなそれはすうっと飲み込まれるようにして全て消え去った。
(え……?
今の光は何?
今日、初めて――)
銃声が轟いたのに、誰一人驚いている人がいないどころか、何事もなかったように街は動いていた。ミヌアとその男にしか今の出来事は見え聞こえていないような感じで、他は正常に進んでいる。
(あれ?
誰も怪我してない……。
ううん、誰も気づいてないみたい……)
男の右手からFN FNCはいつの間にか消えており、ミヌアの口をふさいでいた左手は背中に回され、ロングコートの方へ45度向き直され、男の節々のはっきりした右手がミヌアの肩をつかみ、真正面で向き合う形になり、満月の明かりを背にして赤髪の人は無感情のカーキ色の瞳を真っ直ぐ向け、思考と同じく言葉も簡潔で、低く男の色気が漂う声で言った。
「お前と結婚する」
(ずっと探していた)
「え……?」
(起承転結……じゃなくて、最初と最後をとって起結。
お笑いの前振りじゃなく……。
ボケでもなく……何かの修業ですか?)
街の喧騒は一気に消え失せ、細い路地で2人きり。肩は男らしい手につかまれ、これ以上ないほどの真っ直ぐなプロポーズ。不動のカーキ色の切れ長な瞳とどこかズレている感のベビーピンクの瞳は絡みに絡み合い、性行為につながりそうな勢いだったが、ミヌアは右手で自分の肩をつかんでいた男の手をつかみ離し、はっきりとこんな言葉を口にした。
「間に合ってます」
(お断りです。
俳優さんより、整った顔立ちで素敵ですけど……)
地べたに自分を守るように座り込んでいたロングコートから立ち上がり、細い路地を右へ出て、汚れのついたスニーカーは足早に立ち去って行った。残された男は芸術的な映画を見ているような仕草で艶やかに立ち上がり、無感情の低い声でバッサリ切り捨てた。
「意味がわからん」
(何が間に合っている?)
時間差遅れで、ミヌアのプロポーズの返事とは到底思えない言葉にツッコミを入れると、ロングコートの左ポケットでズズーと振動が起きた。節々のはっきりした手で四角いものを取り出し、赤髪の短髪の下にある耳へ当てる。
「俺たちは確認した。あとはお前だけだ」
その男と同じような低い声だったが、少し周波数が高く、超不機嫌なそれが携帯電話の向こうから聞こえてきた。
『どこだ?』
「俺のそばだ」
首都の真ん中で逃走している人を探しているのに、目印のないものを提示された電話の向こう側の人は怒りが最高潮に達し、火山が噴火したみたいに天までスカーンと抜けるように怒鳴り散らした。
『貴様のそのバカと俺を一緒にするな!』
背の高い男のカーキ色の瞳は彼なりの笑い、目を細めた。
「ホテルの入り口から右へ行った」
『ん』
意思表示のない気の無い返事をし、電話の向こうの相手は無情にもバッサリ切るのボタンをタッチした。
駅前のスクランブル交差点、待合せ場所によく使われるブロンズ像の後ろの街明かりも届かない都会の闇に、左人差し指の全ての関節にかかるような鋭いシルバー色を描くアーマーリングの尖った先端があごにトントンと当てられ、奥深さがあり少し低めの声が雑路という喧騒の中に文句を盛大に放った。
「あいつ、なぜわざと逃した? 余計な手間かけさせやがって!」
スクランブル交差点の信号が変わる間際。人々の目線が信号、その向こう側にあるビルの大画面テレビに集中する隙、人がいるからこその死角。
その時を待っていたというように、全てがモノクロになり、交差点の前にある大画面からの大音量も消え去り、無の世界が突如広がり、信号待ちの人混みの中へ、一人色がついている人物が急にすっと立ち入った。そして、全てが色と動きと音を取り戻して進み始め、文句を盛大に放った人も雑路という川の流れに強引という方法で紛れ込んだ。
――――罠は仕掛けられるはライフル銃は見るはで、非現実に見舞われているミヌアは自分の帰り道の交差点を過ぎても、大慌てで人混みを真っ直ぐすり抜けていた。
(な、何んなの? 今日は。
プロポーズデーですか!?
それとも、新手のナンパ?)
小走りの汚れたスニーカーは信号待ちという人だかりに捕まった。振り返っては前を向くを繰り返すたび、金の髪はサラサラと左右へ焦りという動きを作る。
(早く変わって!
追いかけてきたら困るから~!)
スクランブル交差点の大画面がパッと変わり、奥行があり人を惹きつける低めの男の声がR&Bというグルーブ感と独特の音階を持って、低音から一気に高音、裏声へと魂を震撼させるが如く響き渡り、前で信号待ちをしていた少女2人が急に黄色い声を上げた。
「きゃあ、あれ、見て!」
「あっ、ユリア!」
「かっこいいよね」
「デビューしてから、ずっと1位取り続けてるしね」
「でも、プライベートは全然で」
「あの噂、本当なのかな?」
「あぁ、楽屋から突然消えちゃうってやつでしょ?」
「人が消えるってある?」
「あれじゃない? 宣伝効果だよ、きっと」
「あぁ、そう言えば、人って気になるもんね」
「それだよ、それ」
ミヌアの左耳から入ってきた話と、大音量で流れている綺麗な声に引き寄せられ、進行方向へ顔を戻すと、前の2人が上を見ている後ろ姿が、どこかズレている感のあるベビーピンクの瞳に映り、つられて視線を上げた。
大画面の中にいたのは、細く神経質な顔で可愛らしさがあるのに、左目の鋭利なスミレ色の瞳で台無しになっているが、秀麗さを作り出しており、珍しい銀の長めの前髪が右目を隠しているが、形のよい眉が描かれている。耳元には、神が与えし叡智を意味するエメラルドをはめ込んだピアス。
純潔さを表す白の服をまとい、線が細いが最低限の筋肉がついている体躯。声が伸び上がる時に目を閉じ、低音をなぞり始めると、再び開けられた超不機嫌な瞳は人々の心を引き込むように注がれ、ミヌアの全身を神秘という名の風が金の髪をバッと揺らすように吹き抜けていき、全てがスローモーションになった。
人の話し声は消え、足音もなくなり、銀の髪を持ち、低音が基本だが透き通る裏声へ滑らかに自由自在に変化する歌声だけが体の中で恋といううねりを生み出し続け、ミヌアは思わず後ろに倒れそうになる体をかかとで何とか食い止めた。
(神様……こんなに神聖で美しい男の人を今日初めて見ました。
天使みたいです……)
妄想世界でミヌアの服はパステルグリーンのドレスへ変わり、銀の長い前髪を持つ天使が空からふんわり降臨してきて、見上げる位置から伸ばされた手は細いシルバーリングを3つつけた繊細だが男らしい節も見えるもの。
ミヌアの手をまるで天国へ導くようにつかみ、晴れ渡る空へ斜めにすうっと引き上げ、立派な両翼が羽ばたきふんわり飛び上がる。雲という絨毯の上で、天使の鋭利なスミレ色の瞳は今は子供のような無邪気な微笑み。
(あぁ、天へ召される時が来たんですね……)
どこかズレている感のあるベビーピンクの瞳の持ち主のあごに当てられる指先にはシルバーのアーマーリングがつけられ、バングルのチェーンが見え隠れする袖口はわざとほつれさせたおしゃれであり、思いっきり出ているこだわり感。
昇天というあの世へ導く役割の天使。恐れ多くも天使の綺麗な首へ手を伸ばす、その先には襟元は少し立てられていて、右上から左下にチャックという銀の斜線が美的センスを描いていた。
天使と人の恋。結ばれぬ想いは愛という名の竜巻に乗って、上空へまるで魔法のダンスを楽しむようにクルクル回りながら登ってゆく。
(あぁ、私は今空を飛んでいる……。
足元はどうなって……)
さっきまで超不機嫌俺様ひねくれだったのに、胸キュンなギャップを持つ、今は無邪気な子供みたいな笑みの天使の綺麗な体を、ベビーピンクの瞳で下へ降りてゆくと、わざとギザギザに布地が取られた巻きスカートのようなものが腰元で神秘という幕を張り、その下にはベルトのバックルが幾重にも並ぶヒールつきの歩くたびに金具の音が鳴り響く細身のロングブーツ。
いわゆる、ゴスパンクファッションだが黒ではなく白。純白を表すホワイト一色。
神が与える陽光のシャワーのように輝く無邪気な微笑みというスミレ色の瞳でミヌアを真っ直ぐ見下ろし、ベビーピンクの瞳も夢心地というように見上げ、永遠の楽園という天国で神秘という光の妖精たちが祝福の螺旋を描く空中で、お互いの瞳の色が幸福という天空で混じり合う。パステルグリーンのふわふわのドレスと天使の白い服と頭の上で光る金の輪。
(神様……私は今――)
「っ!」
ここで、時間の流れが正常に戻った。スクランブルの交差点の青信号で一斉に歩き出した人という川の流れがスルスルと両脇を避けて通る岩肌みたいなってしまったミヌア。妄想世界へワープしていた彼女は一瞬自分がどこにいるのかを忘れており、右から左から前から後ろから人の腕やバッグにぶつかるを繰り返し始めた。
(え~っと……ど、どこか、人の切れ目は……)
ミヌアの視線は人々の胸のあたりに絞られ、横断歩道の向こう側から歩いてくる怪しさ全開の人に気づかなかった。夜の繁華街でシャツのフードをかぶり、顔のラインがわからないようなサングラスをした、185cmという長身を持つすらっと背の高い人。
その人の歩みはまるでモデルのように、左右にクロスさせて1歩を進み出し、体で何かのリズムを取るように人を避けるのではなく、他の人が避けてゆく。目が全く見えないサングラスをしていても、射殺すような威圧感が逆走する人の流れを、モーセが海を割いたが如く、道を譲り始める人々。
ミヌアが人の流れという濁流で立ち尽くしている間にも、サングラスをかけた背の高い人は滑るように彼女の右側をすれ違う位置を狙ってやって来る。
人々に障害物と認定され物扱いをされ、無情に非道に背中や肩に人々がぶつかる中で、どこかズレている感のあるベビーピンクの瞳は落ち着きなく、近づいて来る人物とは反対側の左の方を眺めていた。
(あ、あっち!
自分と同じ方向の流れが出来て――)
その時だった、無防備に体の横へ落としていた右手首をガバッと捕まれのは。
「っ!」
フードを被っている人とミヌアはお互いの体があと1歩で通り過ぎてしまう、ちょうどすれ違いざまの位置になっていたが、ミヌアの視界が急に後ろ右へ半円を描くようにぐらっと揺れ、
「痛っ!」
彼女の汚れたスニーカーは歩道の石畳の上で強引というステップを踏まされ、もつれそうになりながら、突き飛ばすように手首を引っ張られ、彼女の金の髪は衝撃で左前へ飛び出し、そのまま横へ連れ去られるように動き、ミヌアのスニーカーは無理やり踊らさらた感のあるつま先立ちのステップを左後ろ横右前の半円を踏み、ヒールつきの細身の黒のロングブーツの前、バックルの整列という装飾品と真正面からご対面。
さっきから人の流れの切れ目を探し、視線を落とし気味だったミヌアには突然のことで、11月の少し冷たい風の中で、目の前にいるラメの入った砂色の幾重にも襟が楕円という洗練された線を描くシャツと錆びた鉄のようなくすみを持たせた皮のシャープなジャケットの人が立ちはだかっていた。
自分の右手首をつかむ手は繊細で綺麗なものだが、どこからどう見ても男の大きさ。そこの指1本には長い鎧みたいな銀の光るものがつけられ、見たこともないアクセサリーにミヌアは思わず疑問形。
(その先の尖ったものは武器ですか?)
22cmもの身長差がある、どうやっても男の神経質だが、綺麗なラインを描く顔がすうっと近づいてきて、ミヌアは相手のサングラスに映る自分の顔が大きくなってゆくのを黙ったまま見つめていた、あまりに急な出来事で何が起きているのかついていけず。
パーソナルティスペースを完全無視で、強引に割り込んできた男はさらに近づいてきて、そこでミヌアは何とかゴーイングマイウェイのサングラスの人のペースから抜け出し、声を出そうとしたが、
「あ、あの……」
人混みの中の手元という死角。男の節が少し見える繊細な右手に不思議なことに四角い黄緑色したものが現れ、そのまま上へ持ち上げられ、ミヌアの唇に何の躊躇もなくちょうどいい場所というように押し当てた。
「んん、んん……っ」
何かで口の動きを封じられ、ミヌアは男のサングラスに疑問という視線を向けるが、隠された相手の瞳を見ることが出来ず、心の中で猛抗議。
(口をふさいでます!
な、何ですか? これは)
右手首は引っ張られたまま、行く手は男のすらっとした体で阻まれ、知らないうちにどんどん拘束がかけられてゆく、都会の雑路という他人に対する無関心の元で。ミヌアとサングラスにフードをかぶる怪しい人。見ても人は人、そういう人もいるで、全員完全スルーしてゆく、希薄という都会人。
自分で回避しないと誰も助けてくれない。話しかければ助けてもらえるかもしれないが、口がふさがれている。
(と、とりあえず、これと何とかしないと……)
近すぎて焦点が合わないなりに、冷たく硬いものを見極めようと、ミヌアは視線だけ下ろした。
(け、携帯電話!?)
それで口をふさがれてるという空前絶後の行動を平然としてくる男の瞳があるであろうサングラスの奥をじっと見つめる。
(これは口をふさぐものではないです!
話すものです!)
対する男側からはこんな風に見えていた。ぼうっとした金髪の女のどこかズレている感のベビーピンクの瞳。鈍臭く間抜けで人混みを避けることも出来ない決断力の欠落、美的センスゼロ、胸があるわけでもなく、綺麗でもなく、特に男を惹き寄せるようなものは皆無。
(ふーん)
携帯電話の画面には、何かの数式とプログラミングのデータが下の方に出ていて、目の前に立つミヌアとそっくりの画像が写っていた。彼女の右手首をしっかりつかんだまま、サングラスの奥に隠された鋭利な瞳は金の髪を持つ女ではなく、そのまわりに向けられていて、しばらく何か別世界の動きを眺めていたが、
(ふーん)
作業は1つ終了というように、再び目の前にいるどっからどう見ても普通に見える女の顔をまじまじと見つめ、神経質で綺麗なラインを持つ男の顔は首を右へ左へ傾けながら、どんどん近づいてきて、まるで何かの品定めでもするようにミヌアを無遠慮に見始めた。
視点はミヌア側へ戻った。
(あ、あの……な、何で急に近づいてるんですか!
ドキドキします!)
フードをかぶりサングラスをかけ、何の言葉も言わず、いきなり手首をつかまれ、無理やり目の前へ立たされて口は携帯電話でふさがれ、キスするような位置まで近づいてくると、男の胸に下げられていた天使のペンダントヘッドが雑路の濁った空気の間で、聖なる導きのように降臨した。
相手の吐息と柔らかな男の匂いが入り込んでくる距離。どうやっても見られているのがわかる。たった数十秒がまるで何時間にも感じられるような濃密な時が流れ、男が何度目かの首を横へ傾けた時、フードの隙間から銀の長い前髪がさらっと落ちて、公衆という場へ姿を現した。
男側からの視線へ再び戻り、ミヌアの口をふさぐように置いていた携帯電話の画面がパッと切り替わった。
(ん? メール?)
『どちらにいますか?』
誰かからの質問に、銀の長い前髪を持つ男は意識化でつながっている携帯に指で操作もせず、文字が打ち込まれてゆく。
(スタッド駅北口の向かい側、スクランブル交差点の歩道だ)
携帯に気を取られている間に、ミヌアは自分の右手首をつかんでいる男の力が弱まったのを感じた。
(下へそうっと抜いて……抜けた!)
手の拘束は自力で解いた。あとはぶつかりそうな位置で止まっている男の顔と唇に当てられた携帯電話、今相手が気を取られているもの。そこから離れるだけ。男の鋭い眼光には相手からメールの返事が、
『それでは、上空で待機していますよ』
それを読み終えたと同時に、ミヌアの金の髪がすうっと下へ降り始める。
(あとは下に体を落として、この人の横をかがみながら抜けて、反対方向へ走っていけば――)
逃走準備が順調に進んでいたが、奥行があり澄んでいて少し低めの人を引きつけるような声が有無を言わせない強い感じで響いた。
「貴様、立っていろ」
「は、はい……」
相手の威圧感にびっくりして、ミヌアは男の前にシャッキと立ち、彼が携帯電話を持っていた手を下へ降ろすと、バングルのチェーンがジャラジャラと当たる音が2人の間に歪みを作り出した。サングラスという正体不明のアイテムを挟んで、ミヌアと強引にもほどがある出会いし、命令しかされていないのに男の口から出てきたものは、これだった。
「貴様と結婚してやってもいい、ありがたく思え」
(なぜ、ネットを避けている!
色々と手間をかけさせやがって!
探してやった、ありがたく思え)
心の内まで態度デカデカで、短縮されまくりの言動に誰もついていけないのに、引きずり回し続ける俺様感。
普通の人なら怯んでしまうところだが、ミヌアの顔はわななわなと震え出す。
(カチンとくるな)
俺様全開の背が高く、体全体で綺麗さが際立つ男をきっと睨み返し、
「ありがたくありません」
(お断りです。
誰かに似てて、素敵ですけど……)
左前へ体をさっと出し、そのまま逃走を始めた。パステルピンクのリュックを背負った金の長い髪は自分の横を素早くすり抜けてゆく瞬発力のよさに、サングラスの男はありえない光景を目にした時に人がする、何度も見るを繰り返し、ミヌアの手を捕まえるということは叶わず、185cmの長身を生かして、人混みの中を眺めると、走って追いかけなくてはいけないほど遠くでミヌアの急いでいる背中があった。
焦ること、自分が劣勢な立場になる追いかけるという行為が絶対に許せない男は、その場でロングブーツの足で石畳を上から蹴りつける。
「くそっ!」
(あの女、俺のプロポーズを断るとはどういうつもりだ!)
言葉を悔しそうに吐き捨て、携帯電話を耳に当て、1コールで出た相手に、
「逃げた」
優雅な声がくすりと笑い、遊線が螺旋を描く芯のある声が今まさに行われたサングラスの男の行為を言い当ててきた。
『無遠慮に見つめたのではありませんか?』
奥深さがあり澄んだ少し低い声が、火山が噴火する寸前みたいな怒り色をともなって突き刺さった。
「余計なことはいいから、早く捕まえろ! 俺はあとから行く」
相手の返事などいらないと言わんばかりに自分勝手に切って、サビ色のレザーの上着からどんどん離れ、人混みに紛れ始めたミヌアの偽革のジャケットの背中をよく見るため、ずっとつけられていたプライベートという名のサングラスは、まるで何かの映画のワンシーンで外されるような美しさで引き抜かれ、鋭利なスミレ色の瞳と可愛らしい顔が全貌を現したが、愛想という言葉など不必要と言わんとばかりの超不機嫌で射殺すような視線で台無しになっていたが、秀麗だった。
――――3人目のプロポーズをきっぱりと交わし、ミヌアは最期の審判みたいな衝撃的なバイト上がりの出来事を思い返しながら走り続けている。
(な、何で?
今日に集中してるの?)
そこで、自分の体の異変を感じた。
(手が重い……。
息が苦しい……)
ミヌアのベビーピンクの瞳はまるで波間に漂うヨットのように揺れに揺れ始めた。
(目が回る……。
立ってられない……)
その時だった。右上から重力を無視した黒塗りのリムジンが交差点へ横づけされるように降りてきた。意識がなぜか遠のき始めたミヌアはそれを見つけたが、
(あれって、さっきホテルの――)
一瞬、世界がモノクロに切り替わった。ミヌアも何もかもが止まり、音も消え去った静寂で、1人その法則から漏れている瑠璃紺色の光沢のあるタキシードが、瞬きもせずアッシュグレーに変わってしまっているどこかズレている感のある瞳の持ち主の前にすっと現れ、遊線が螺旋を描く芯があり優雅な声がエチケットという言葉を言う。
「失礼」
幻想的で鮮やかなアパタイトのカフスボタンをともなった細い腕は動いていないのに、まるで乙女のピンチを救った王子様のように、ミヌアの体はお姫様だっこという女性の憧れの体勢へ、紺の髪を持ち、銀の細いメガネを胸元で遊びというように下げている人の腕の中へ、まるで時間を飛ばしたようにスマートに収まったかと思うと、シュッと歩道の石畳から消え去り、再び景色に色と音が戻ると、交差点にリムジンが横づけされた状態で駐車していたが、ミヌアの姿はどこにもなかった。
――――荒れ狂う波間に浮かぶ船に乗っているような激しい揺れを感じながら、ミヌアは意識の混濁がひどく思わず閉じていたまぶたの中の暗闇にいる。
(ん?
座ってる?
歩道……違うね。
柔らかで……)
右手に当たる感触を目を閉じたまま味わう。
(サラサラした皮みたいなもの……。
風がない、寒くない……どこかの中に入った?)
その時、右斜め前から、地鳴りのように低く男の匂いが漂い出て仕方がない声が聞こえてきた。
「どうした?」
(この声、さっき……銃を持ってた人?
う、気持ち悪い……)
なぜか吐き気を覚えたミヌアの瞳はまぶたに隠されたまま、前へ倒れこもうとすると大きな両手でしっかり支えられた。
「っ」
誰かの詰まるような息遣いが聞こえ、手首に指が添えられ、数十秒の間があり、次にまぶたを無理やり開けられられるが、ベビーピンクの瞳は正常な反応を見せず、目の前にあるカーキ色の2つのものを焦点が合わない状態で見つめていると、左端に銀の髪を持ちアーマーリングのついた手を腰のあたりで組み、イライラ感が思いっきり出ている人が突如現れた。
(え……?
どこから来たの?)
「貴様、わざと逃すとはどういうつもりだ! 手間かけさせ――」
天までスカーンと抜けるような俺様ボイスが響き渡ったが、相手の正体をつかめないままミヌアのまぶたは重みで再び閉じられ、まるで医者が診断を下すように、低く安定感のある声が放たれた。
「……急性アルコール中毒だ」
自分の右隣から、貴族的で優雅な男の声が少し含み笑いで、
「ショートカクテルを2口で飲んでいましたからね」
安定感のある低い声が斜め右前から、
「何をだ?」
また右隣から、
「ルシアンですよ」
右斜め前から、
「それは女を立てなくさせる酒だ」
(2口で飲んで走ったら、こうなって当たり前だ)
ミヌアの意識が気絶という底へ完全に沈む前に、自分の真正面から、
「女は勃たない」
「勃つ」
自分と向き合うようにいる声色の違う2つ男の声が漢字変換を違えている話へ、遊線が螺旋を描く優雅な声がエレガントにくすくす笑いながら、スマートにツッコミ。
「どちらの話をしているのですか?」
そこまでだった、ミヌアの意識があったのは。完全に意識を失った23歳の女を乗せ、リムジンの座り心地のよいリアシートは空にある道へ向かって、斜めにまるで飛行機が離陸するように浮かび上がりながら登り始めた。銀の長い前髪を持つ人はアーマーリングをした手であっちへ行けみたいな仕草、手の甲を外へ2回押し出す。
「俺の上に吐かれるの許せないから、貴様らの方へ持っていけ」
紺の肩より長い髪の持ち主は細く神経質な手の甲を口に当てくすくす笑う。
「仕方がありませんね」
(私の膝の上で構いませんよ)
正体不明になったミヌアをそっと寄せ、細身の白いズボンの膝の上へ寝かせた。バングルのチェーンがリアシートの上でサラサラという音を作り出している手のひらの中に、不思議なことにミネラルウォーターのペットボトルが急に現れた。
「飲ませてやれ」
鋭利なスミレ色の瞳の持ち主から、赤髪の人と水色の冷静な瞳の人の間へ、ペットボトルが見せつけるように出されて、シルバーリング3つをつけた人とは思えない言動を前にして、無感情、不動のカーキ色の瞳は珍しく目を細める。
「…………」
(お前が譲るとは……)
首からかけられたチェーンのつきの線の細い銀のメガネは、上質なシルクのブラウスの胸で楽しそうに揺れた。
「…………」
(あなたらしくありませんね)
自分のした行動に気まずさを覚えた超不機嫌で俺様でひねくれの人は咳払いをし、話題を転換した。
「んんっ! 貴様、なぜ、リムジンで来た?」
短い年月ではなく、数十年の付き合いという会話が展開され始める。優雅で貴族的な人は言葉を自由自在に扱い、流暢に長々と説明、いや遊び始めた。
「点から点への移動では面白くありませんからね。戯れに身を任せたかったのです。景色と時間という心の余暇を至福の悦楽という牢獄で、体中に刻まれる非合理という体罰の中で得られる真逆の痛覚と禁断的な絶頂という名の海の底へ落ちてゆく、死という恍惚とさせるものへの理想郷もしくは――」
(こちらであなたには怒っていただきましょうか)
まだ続きそうな修飾語のループの羅列に、俺様不機嫌声が切るように割って入ってきた。
「合理主義の貴様がこんな移動手段を使うか! 俺の耳に貴様のその渋滞のテールランプみたいな言葉を聞かせるな、真面目に答えろ」
自分の思惑通りに怒っている男を前にして、貴族的な雰囲気でくすくす笑っていた男は、オーロラブルーの宝石がついた黒のロングブーツを優雅に組み替えた。
「今日は社で色々あったのです」
その言葉が車内に舞った時、空気がガラッと変わった。それは心配という名の絶対の秘密。赤髪の男の低い声が簡潔に聞き返す。
「薬は?」
自分へ課せられた宿命の海の中でもがき続ける苦痛から逃げられない牢獄。それが嵐の前の静けさを作り出す体を感じながら、水色の冷静な瞳は車窓へ真っ直ぐ向けられた。
「飲みましたよ」
「貴様、寝室の鍵は開けておけ」
鋭利なスミレ色の瞳は反対側の窓へ差し込まれた。人を罠へ誘い込むためなら平然と嘘をついてくる男。遠回しな言い方を必ずしてくる細い線の体の持ち主にしては珍しく真っ直ぐな言い方、断定した言葉を口にした、首を横へゆっくり振りながら。
「そちらはしたくありませんね」
相手の痛みを運命をも受け入れたい。そんな想いがこの3人の男たちにはある。断ってきた言葉の真意を知っている銀の長い前髪を持つ男は有無を言わせない強い口調を浴びせた。
「いいから、開けておけ!」
(貴様また、そうやって……)
無感情、無動のカーキ色の瞳には瑠璃紺色のタキシードの腰元がなぜか映っていた。
「俺も行く」
(1人で背負うな)
冷静という名の盾で抑え込まれていた激情という名の獣が隙間から顔を出し、都会の光の海が涙という波でゆらゆらと揺らぐ。
「ありがとうございます」
遊線が螺旋を描く声がいつもとは違って儚げに響くと、車中は静かになった。
重力を克服した車が空中道路でテールランプの赤い川を作り出し、高層ビルのすぐ脇を青いスポーツカーが右上から左下へ向かって、猛スピードで落ち走り抜けてゆく。
綺麗に磨かれたガラス窓には大理石の上を歩く華やかな色合いのハイヒールと光沢を放つビジネスシューズがさっきまでワルツのステップを踏むように動いていたが、まるで途中で曲が途切れてしまったように一斉に立ち止まっていた。
パセリオグランディホテルの76階で、従業員と客の視線がある場所へ集中していた。彼らの目線の先では、まるで結婚式の花婿のような光沢のある瑠璃紺色のタキシードを着た富裕層が思いっきり漂う男が、玉座に座る女王陛下に最敬礼するみたいにオレンジ色の絨毯の上で片膝を床につけ、肩より長めのワンレングスの髪が下へ流れ落ち、頭を下げたまま優しげだが芯のある男の声が優雅に響いた。
「私と結婚してください」
「え……?」
男の斜め上前には、ラウンジの展望席で少し高めの椅子に座っているフードつきのパーカーに茶色の偽革のジャケットに、洗濯しまくりで色あせ緑色っぽくなっている黒のズボンにスニーカー。どこからどう見ても、高級ホテルとは無縁の庶民丸出しの女がぽかんとした顔をしていた。
跪いたままの男を見下ろしたまま、ミヌア シノデリエ、23歳のどこかズレている感あり、夢見がちのベビーピンクの瞳に苦笑という色が灯った。
(お笑いの前振りですか?)
考えるために、ベビーピンクの瞳は左手に広がるガラス張りの向こうで、綺麗な流れを作っているテールランプたちを捉え、信号が青に変わり、オレンジ色のウィンカーが綺麗なカーブという残像を残してゆく。
(……オチはどこ?)
どこかズレている感の瞳は再び右下で頭を下げたまま全く動く気配のない男の紺の髪へ戻された。
(あぁ~、わかった!)
右人差し指を立てて顔の横へ持ってきて、ウンウンと大きくうなずきを数回。
(私、どこかで間違えたんだ、何かを。
だから、こうなってるんだ。
よし、時間を巻き戻して、思い出してみよう!)
ミヌアの金髪の奥にある脳裏で時間がキュルキュルと巻き戻り始めた。
――――ミヌアのどこかズレた瞳はいつもよりもさらにぼうっとした様子で、買い物カゴからガザガザという音をともなって、黄色に丸い薄いものが印刷されている袋を左手でつかんだ。
(ポテトチップス……スキャン)
右手に持つバーコードリーダーを規則正しく並ぶ黒線の上に、赤い横線を直角にかざすとピッと鳴り、テーブルの上へポテチを置く。左手はカゴの中へ再び伸びてゆき、今度は重く細長いものを取り出した。
(ミネラルウォーター……スキャン)
ピッとまた鳴るが、ミヌアの金色の肩より長い髪の中の脳裏では全然別のことが同時進行中。
(こ、困ります!
そ、そんな急に言われても……)
柔らかでサラサラな髪はいつもと違い、黒の髪ゴムで乱雑にまとめられ、オレンジ色の少し派手めのシャツを着せられ、カゴの中に左手を再び入れた。
(ガム……スキャン)
ピッと鳴っている音をBGMのように、遠くで聞きながら心の中ではよがり続ける。
(いや~ん!
そ、それは困ります~)
商品をバーコードリーダーでスキャンしては、目の前にある台の上へ置いてゆくを繰り返し、どこかズレている感が出ているベビーピンクの瞳に少し派手めの色使いの箱が現れた。
(スキン……スキャン)
大人のアイテムを手に持ったまま、カゴの向こうに立つ人の気配を感じながら小首を傾げる。
(ん~?
ちょっと違う……?)
視線を上げると、様々な商品が並ぶコンビニの店内が広がった。左手にある箱の横にあるバーコードを読み取り、ピッと鳴ると通常しない動き、台の上に置く前に右手に箱を持ち替え、ミヌアはそれをまじまじと見つめ、口にも表情にも出さず、心の中ではエロ全開中。
(そ、そこはやめてください。
いや~、か、感じちゃう~!)
レジで精算をしている店員のはずなのに、悶えているミヌアは違和感を抱き、彼女の首が傾げられると、オレンジ色の制服にまとめきれなかった金の後れ毛がサラッと落ちた。
(やっぱり違うなぁ)
右手からスキンの箱を自分のすぐ手前へ置く。
(このセリフ、どうしたらうまく出来るの?
もっと経験してくればよかった?)
女優志望のフリーター、ミヌア シノデリエはバイト中にセリフの練習をしていた。カゴに左手をまた伸ばし、小さな緑色のものを取り出す。
(ライター……スキャン)
カゴが空っぽになったが、ミヌアはぼうっと突っ立ったままで、若さゆえの後悔を重ねる。
(でもさ、23歳で、セックス経験っていってもね。
そうそうないよね?
ん~……?
カエデに聞いた方が――)
「――いくら?」
「え……?」
さっきまで焦点が合わなかった現実がはっきり見え、ミヌアは空想世界からリアルワールドへ連れ戻された。茶色の背広を着た男が財布を広げて、注意力散漫のコンビニ店員へ早くしろと言わんばかりに視線を向けた。ミヌアのベビーピンクの瞳は慌てて、レジの画面へ向けられる。
「は、はい。1,098アルです」
「はい」
長ザイフから手慣れた感じで紙幣が2枚取り出され、ミヌアはをそれを受け取り、レジの銀色のスペースへ置き、テンキーをパパパっと押す。
(2、00、0!)
画面が切り替わり、ジャラジャラとコインが中から出て来た。それを1つ残らずすくい取り、ミヌアは客へ笑顔を向けた。
「お釣り、902アルです」
お釣りを渡し、要領の悪さ丸出しで、頭のいい店員ならカゴをのぞき込んだだけで、袋の大きさが判断出来るはずなのに、ミヌアは空のカゴを避けて、台の上の物を一度確認。ロスタイムが生じていた。
(ポテトチップス。
ミネラルウォーター。
ガム。
ライター……12号)
袋の大きさが決まり、それを下からすっと抜き取り、3つの商品を重さを考えて入れ、持ち手のビニールの部分を少し絞って客へ差し出す。
「ありがとうございました」
頭を下げるが、客にはそんなことはどうでもよく、シューッという音をともなって開いた自動ドアから、雑路という人の流れへ男は混じっていった。
ミヌアは台の上に突っ伏して、大きく伸ばした両手の間からため息交じりの声を漏らす。
「あぁ~、お客さん、来ないね、今日は」
ドラドア国の首都、ルドルカシティーにあるコンビニ。店の外には忙しそうだったり、楽しそうだったりの人がたくさん行き来をしている。だが、店に入ってくる人はほとんどいない。それどころか、店員もミヌア1人のみ。
しかし、店の中で動くものが1人、いや1体が正しい。商品の棚の間をスースーッと滑るように移動しては、その前にある銀のカゴに飲み物やお弁当などが入れられてゆく。
ミヌアのベビーピンクの瞳は自動ドアから、店内の動いているものへ向けられた。
(何とかコーポレーションが開発したフードシステム。
商品を分子化レベルまで分解して、客へ届けて再構築する。
画期的な流通。
ネットを通して、店に注文が入って……。
それを受けて、あのロボットが商品をピックアップして届ける……)
店内が異様に広いのに、レジが1つしかないコンビニで、ミヌアは中華まんの什器の内側に出来ている蒸気の結露を眺めた。
(だから、店員はいらない……)
人よりも的確に動いている銀色の鉄の塊の動きを目で追いながら、フードシステム評価を続行中。
(私はネットとは無縁の生活……使ったことはないけど……。
劇団の他の人が言うには魔法みたいらしい。
そこにないものが急に現れるから)
湯気が立ち登る向こうで、ヒュルヒュルと落ち葉が店先で風に乗せられ、アスファルトの上で輪舞曲を踊る。
(11月……何日だったっけ?)
どこかズレている感のあるベビーピンクの瞳は自動ドアからレジの画面の端へ向けられた。
(18日、金曜日……。
冬が来るね)
時代の流れで、儲かっているが直接来る客のいないコンビニの店内を暇つぶしという視線で眺めようとすると、レジのすぐ横、オレンジ色の制服の手前に少し派手めの色使いの箱を不意に見つけて、ミヌアは自分の目を疑い、顔をバッと近づけ、凝視するを3秒。
(ん?
あれ?
何で、スキンがレジの上にあるの?
おかしいな)
ないはずの商品がレジにある。それが起きる原因は1つしかない。だが、どこか抜けているミヌアはよく考えず箱を取り上げた。
「戻してこよう」
レジカウンターの間仕切りを押し出し、日用品の棚へさっと進み、1つ分きっちり空いている列へきちんと戻した。
(これで、よし。
じゃあ、戻って――)
「シノデリアさん、時間だよ」
「え……?」
屈み込んだ状態で見上げると、そこには同じバイト仲間、夕勤の女が立っていた。
(そんな時間?)
スニーカーを床でキュッと言わせ、すっと立ち上がり、店の壁にかけられた丸時計を視線でつかまえる。
(本当だ、5時だ)
労働からの解放で、ミヌアの心は羽が生えたように軽くなり、キラキラとした瞳で夕勤の女へ振り返った。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
両手を胸の前で組み、夢見がちな少女のように事務所の開き扉へ向かって、舞踏会でワルツを踊るような軽やかなステップで、右肩で銀のドアを押し開け、狭く乱雑なバックヤードへ入り、退勤の記録をするため、ねずみ色のデスクへ近づいて、コンビニ専用の端末のキーボードを慣れた感じで操作し、名札のバーコードをスキャンして、髪を縛っていた黒ゴムをザバッと引き抜き、金の髪が空中で草原で爽やかな風に吹かれたようにさっと広がり、背中にさらっと落ちた。
素早く振り返って、ロッカーをバッと開け、ミヌアはオレンジのシャツを脱ぎ、軽く丸めて、パステルピンクのリュックのチャックをジーッと開け、中へ制服をガバッと入れ、帰宅準備完了。
(よし、帰って、リュリュと一緒に、Legend of kiss 3。
水の王子~様を読もう!
策略先生と生徒の恋……。
私も恋の罠を仕掛けられたい――)
小説の世界へワープしているミヌアの近くで、中年男の声が不意に響いた。
「――デリエさん……シノデリエさん!」
メルヘンワールド、全てがピンク色で染まり、シャボン玉がハートの形をしてフワフワと浮かぶ景色は急に消え去り、乱雑で狭い事務所が現実という色を持ってミヌアの前へ広がった。
「は、はい……」
背後で怒りという雰囲気を醸し出している気配を感じ、ミヌアのどこかズレている感の出ているベビーピンクの瞳は金の髪が横へ揺れる動きをともなって向けられ、よく知った顔を見つけ、ポツリとつぶやく。
「店長……」
浮かれ気分とは程遠い緊迫した空気を読み取り、ミヌアの空想はピタリと止まり、店長から叱りという注意がやってきた。
「また、お客さんから商品入ってなかったって、苦情の電話」
「え……?」
フードシステムのおかげで客がほとんど来ない店。対応した人数は限られている。ミヌアは記憶を戻し、最後の客が帰っていったあとの不思議現象を思い出した。
(やってしまったぁ~。
あの残ってた商品、袋に入れ忘れたやつだったのか)
レジのところにない商品があるは、袋に入れ忘れたを指している。さらには、客側から見れば、店の詐欺と言われてもしょうがないこと。金を払ったのに、商品を渡してもらえないのだから。客は怒るし、クレームがついて当然。店長の両腕は胸の前で組まれていた。
「さすがに、これだけ立て続けにやられると、こっちも客商売だからね、信用失っちゃうと、お客さん来なくなっちゃうからね」
「はい……」
ミヌアの視線は目の前に立つ男の顔から外され、さっきまで着ていたオレンジ色の制服へ落とされた。
(どうしたら、なくなるんだろう……?
商品の入れ忘れ……)
しょんぼりしていたベビーピンクの瞳がそこでかすかに色づいた。
(あっ、わかった!
手前じゃなくて、自分の見える場所に置けば入れ忘れないかも!
よし、それを今度から試してみよう。
左手で、こうやって……)
シミュレーションという名の空想へ落ちているミヌアの前で、店長の叱りは続いていたが、
「機械の方がマシかな? 間違いが起きないんだから。ただね、愛想がないからね、機械は。だから、うちは人を使ってるんだけど……」
当の本人には全然聞こえておらず、ひとまずはミスを反省し、再発防止に努力を尽くすということをしていたが、店長の怒りはひどく、空想から戻って来てもまだまだ続いており、ミヌアは同じ繰り返しをしていた。
「はい……はい……はい……はい……はい……」
(店長とお客さんに迷惑かけちゃったなぁ)
と思っているそばから、思考だけが別世界という聖堂へワープ。威厳と神聖さを表すステンドグラスから入り込む光は癒しと畏れという両極性を作り出し、身廊の奥にある祭壇の前で跪き、手で十字を切り、銀のロザリオを握りしめ、目をそっと閉じる。
(主よ、私はここに懺悔します。
店長とお客さんを困らせた罪を、どうかお赦しください……)
ゴーンゴーンと鐘の音が鳴った気がした時、ミヌアの意識が現実へ戻って来て、店長が締めくくりの言葉を口にしていた。
「……とにかく、今度やったら首もあるからね」
「はい……すみませんでした」
ミヌアの頭は勢いよく前へ下げられたため、金の髪が明かりの下でキラキラと力強い線を縦に描き輝いた。
――――ルドルカシティー、国の役所街ではないが、複数の沿線が乗り入れている大きな駅、スタッドへと続く通りをミヌアはとぼとぼと歩いていた。
(罪が償えず、凹むなぁ……)
目まぐるしく変わる人の流れを、慣れというもので避けすり抜けを繰り返しながら進んでゆく汚れた安物のスニーカー。色あせた黒のズボンに袖が擦れほつれたパーカーの上に、もう何年前に買ったのかわからない偽革の茶色のジャケットを着て、しっかり背中に背負っているパステルピンクのリュックの肩紐を両手で引っ張った。
「はぁ~」
ミヌアのため息が雑路に混ざり込み、都会という無関心の中へ消え去ってゆく。歩道は混んでいるが、車道は縦列駐車という車が埋め尽くし、アスファルトの暗いグレーの隙間へ、斜め上から車輪のついていない車がふわり降りて来ては駐車する。
様々な靴の間を黄色のイチョウの葉がクルクルと踊り、色とりどりの石畳の上で無情に非道に押しつぶされてゆく。
(やっぱり、凹むなぁ……。
みんなに迷惑かけてばかりで……)
反省という名の悲しみの渦に飲み込まれそうになり、人の流れから抜け、歩道の柵へより、腰でもたれかかった。駅のホームから電車が空へ向かって龍のように登ってゆく。綺麗な光の流れがミヌアの落ち込んだベビーピンクの瞳に映った。
(役は、名前がついたものはもらえなくて……。
才能ないのかな?
彼氏はいない……。
家族もいない。
あぁ、リュリュがいた、それだけで私は幸せ……。
そう思うことにして……)
気がつくと、ミヌアの視線は夜空から、自分の汚れたスニーカーへ落ちていた。
(今日は沈みの泉から戻ってこれないなぁ。
私は誰の役にも立てない……)
近くの交差点の信号が青に変わり、止まっていた人がドッと流れ出す。冬を予感させる北風が頬を吹き抜け、靴音だけで騒音になるほどの人混みに紛れ、ミヌアの小さな歌声がパーソナリティスペースで舞う。
「♪今は1人にして……
素晴らしい 平和な日常
それなのに 立ち止まるの 息がつまって
不安が 苦しみが 降りかかる
目に見えない悲しみ
そんなものに惑わされる……
私は私
ありのままが素敵
どんなことも 私を落ち込ませることはできない
私は私
ありのままが素敵
何が起きても
だから 今日も落ち込ませないで♪」
余韻が都会の空気から消え去ると、ミヌアは摩天楼の群れという滝が落ちる夜空を見上げた。
「私のままが素敵!」
彼女の可愛げがあり透き通った声が元気よく言い切り、手のひらに広がっていた歩道の柵の冷たさがさっと離れたことによりすっと消え去り、ミヌアのスニーカーはさっきより少し軽やかに、靴たちの群れに入り込んだ。
駅のロータリーまでやって来ると、空へ向かっていくつも聳え立つ高層ビル群が姿を現し、明かりという小さな星たちの規則正しい縦の線をどこかズレている感のあるベビーピンクの瞳に映す。
(さっきのフードシステム……。
何とかコーポレーションのビル……)
固有名詞を覚えるのが苦手なミアヌの頭上には、デザイナーズビルで特殊なシェイプ、竜巻のようなうねりを見せている個性的なビルが建っていた。
(5年前に実現されたもの。
分子化した商品がネット上を移動して、相手に渡る。
だから、お店に行かなくても宅配を使わなくても商品が届く。
この方法を考えついた会社は、元々一部上場企業だったけど……。
この国の1番の大企業に成長して、ここに自社ビルまで建てた……。
どんな人が開発したんだろう?)
いつの間にか歩みが止まっていたミヌアの茶色い上着に、人混みという流れが容赦なくぶつかり始めた。
「あ、すみません」
近くのビルの入り口、人混み攻撃に合わない場所へ慌てて移動した。そこで、いつもは見えない風景がふと広がった。煌びやかなオレンジ色の光が、夢という世界へと導くような立派なエントランス。
(パセリオグランディホテル……)
高級車が横づけされ、黒に金糸で刺繍の施された上着に身を包み、シルクハットをかぶり、白い手袋をしたドアマンが華麗に車のドアを開けると、そこからドレスとタキシードという高級感、富裕層という別世界の住人がホテルへ入ってゆく。宝石のように輝く空間を見つめ、ミヌアの両手はパステルピンクのリュックの肩紐を引っ張り、考えるため首を傾げた。
(世界で1番の高級ホテル……。
極貧生活の私……PCも携帯もなくて……。
ご縁がない場所……。
でも、見てみたい、体験してみたい)
ミヌアの右人差し指は突き立てられ、顔の横へ持ち上げられ、前へグッと押し上げられた。
(これで、少し元気になれるかも!
そこに何かがあるかもしれない!
よし、行こう!)
汚れが目立つスニーカーは人混みという川へ出ようとしたが、ぴゅっと足を引っ込めた。
(待って!
泊まるは無理だよ。
ホテルで他に出来ることって、何?)
自分の前を喧騒という流れを作り出している人々の横顔をぼんやり眺めながら、ホテルへの道を模索中。
(食事……いや、それも無理。
たぶん、前菜だけで……何千アルもする。
しかも、コースしかないかも……)
冬へと近づく澄んだ空気のお陰で、ホテルの最上階まで高級という線を夜空へ気品を漂わせはっきり描いている建物を見上げた。
(あぁっ、わかった!
ラウンジだ!
そこで、お酒を飲む!
いいね、よし!
決まった、行こう!)
ミヌアのスニーカーは家路からそれ、いつも通らない交差点へ向かって、ウキウキというステップを踏みそうな勢いで歩き出した。人混みが酔いという心地よい海に変わったようで、寄せては返す波に身を任せ、ゆらゆらと夢心地で横断歩道を渡り、ホテルのエントランスまで津波にさらわれたようにやって来た。
さっき遠くで見ていたドアマンが数mの距離へ迫った歩道の上で、高級ホテルと一般庶民という境界線を足元で色の違い、アスファルトの灰色と赤レンガでしっかり作られているのを見つけた。
(1杯、いくらなんだろう?
税金……サービス料……席料……etc)
ミヌアの金髪の中の数字に弱い頭脳はフル回転をして、チャン! という音が鳴ると導き出した、高級ホテルの酒代を。
(3000アル……はかかる。
3日分の食費と一緒……)
あまりのレベルの差に、ミリアの口からはため息しか出てこなかった。
「はぁ~……」
物欲しそうにホテルの入り口を見つめている背後のアスファルトの上に、空から流れ落ちる星のように、黒塗りのリムジンが斜めに降りて来たが、それに気づかず、ミヌアはホテルの客室という塔を見上げた
(でもな、もう決めたし、よし、行こう!)
富裕層と貧困層という境界線を飛び越えようと、スニーカーの足元へ視線を戻すと、その向こう側に赤い流れが右から左へスルスルと走っていった。
「え……?」
(何、これ?
絨毯?
赤い絨毯が……)
都会の真ん中で、地面の上を絨毯が横切ってゆくという非日常を目で追ってゆく。歩道からホテルの敷地内を横切る赤い絨毯はコロコロと転がっていき、最後の動きをエントラスまで数cmという絶妙な距離感で終えた。
(何で道にこんなものが……。
アカデミー賞ですか!)
歩道に1人立ち止まり、絨毯とホテルの入り口の間を様々な角度から落ち着きなく見始めたミヌアの背後で、運命という名のファンファーレが鳴り響く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
遊線が螺旋を描く優雅で貴族的でありながら、人を惑わすような魅惑を持つ男の声に引き寄せられるように、ミヌアがぱっと振り返ると、時間の流れが急にスローモーションに変わった。
赤い絨毯の上に黒のロングブーツがスマートに降ろされ、次に紺の髪が現れた。それは艶がありハリがあるのにしなやか、真逆の性質を持つその人にぴったりのもので、リムジンから地面へかがみ出てすうっと立ちがると、気品漂う笑みをたたえ、神経質な頬は滑らかで色白。肩よりも長めの髪が女性らしさを漂わせているが、
「上空で待機していてください」
ドアのそばで控えていた運転手へ指示を出す声は男性のもので、中性的な雰囲気がまるで行き止まりへ誘い込むような策略という匂いを漂わせる。知的さを表す細い線のメガネの奥には冷静であり、氷の刃という名がよく似合う水色の瞳が潜む。だが、その奥深くには激情という名の獣が住み着く、冷と熱のギャップ。
ふと上げられた手は細く神経質で、流れるような仕草で目元の細い銀の線を外し、チェーンにつかまれたメガネは胸元へ首の引っ掛かりを持って落ち、アカデミックなイメージは一瞬にして消え去り、矛盾しているようだが、刺すような優しさが広がった。
まるで舞踏会でワルツを踊るようなステップで、赤い絨毯の上へ進み始める足元は細く膝まである黒のロングブーツ。そこへ巻きつくベルトにはオーロラブルーの宝石がハイソな遊びという彩りを添え、細身の白いパンツに高級という光沢のある瑠璃紺色のタキシードに包まれた体は、節々があまり感じられない滑らかな曲線美で、運動には決して向かない体躯。
上質なシルクのブラウスは襟元のギャザーでもたつかせ感を出し、瑠璃色の細いリボンをネクタイ代わりに縛っているが、わざと両端をずらして結び、つかみどころがない、いい意味での不安定感を演出していた。
地中海の青の洞窟を思わせるような幻想的で鮮やかなアパタイトのカフスボタンが通り過ぎてゆくと同時に、甘くスパイシーな香水がミヌアの鼻を悪戯という名の手でくすぐった。
その時、ときめきという風がミヌアの全身を駆け抜け、金の髪が背後へパッと流れ舞った気がした。リュックの肩紐にかけていた手が脱力したように下へドサっと落ち、放心状態になったミヌアは自分の前を優雅に通り過ぎてゆく、182cmもの背がある男の前で釘付けという拘束に見舞われながら立ち尽くした。
(神様……こんなに綺麗な男の人を今日初めて見ました。
どこかの国の王子様みたいです……)
男の冷静な水色の瞳はほんの一瞬だけ、ミヌアへ向けられたが、
(彼女ですか……)
優雅な笑みで真意を隠されたまま、紺の長い髪を風になびかせながら、赤い絨毯の上を慣れた感じでスマートに歩いてゆく。その時、強風が不意に吹き、瑠璃紺色のタキシードの裾がふわっと舞い上がり、腰元に非日常が現れた、サファイアブルーのペンライトみたいな細い棒がまるで何かと命をかけて対峙するように。
視覚と臭覚と心をがっつり盗まれたミヌアは11月の冷たい風が何度か吹き抜ける中ぼうっと立ち尽くし、まわりの音も消え去り、自分の居場所もわからなくなっていたが、ホテルの入り口から、さっきの運転手が現実的に赤い絨毯を回収しているのが目に飛び込んできて、
「はっ!」
我に返り、ときめきの台風から何とか生還し、時の流れも正常に戻った。ホテルからリムジンへと逆方向へ赤い絨毯がわしづかみという方法で消えてゆくのをしばらく眺めていたが、右人差し指をホテルのエントランスへ向けた。
「行こう」
小走りで、未知という高級ホテルへの自動ドアへ近づき、ドアマンに丁寧に頭を下げ、初心者全開でミヌアの貧困の象徴のような服装とリュックは富裕層という夢の世界へ消えていった。
――――綺麗に磨き上げられた大理石の上を汚れの目立つスニーカは歩き出したが、すぐに立ち止まった。吹き抜けのロビーが上へ吸い込みそうに広がっていて、中央には屋内にも関わらず、噴水から水がサーっという透明色の音で心地よいリズムを刻み、待合席にもフロント前にもドレスとタキシードの人ばかり。
黒い制服を着た従業員が丁寧な物腰でありながら、きっちり手際よく仕事をし、宿泊客の荷物を運んだり、上着を預かったりしている。芸術的な配置で置かれた観葉植物が癒しと緑を演出。
(世界が違う……)
大きなシャンデリアを中心として、暖色系のライトが星のようにいくつも浮かび、フロアを照らす中で植物の緑色がやけに光沢を持っていて、ミヌアはそれが気になった。
(本物……?)
かろうじて、ドレスコードを免れたスニーカーで大理石の上をキュキュッと歩き、葉っぱを触るがカサカサした硬いものではなく、しなやかで湿り気があるものだった。
(本物だ……)
エントランスからの視線を遮るために置かれている観葉植物という目隠しの壁を一歩後ろへ下り、物珍しそうに眺める。
(すごいね。
枯れないなんて……光がないのに。
手入れが行き届いてるんだなぁ)
観葉植物とまるで挨拶を交わしているような位置で、ぼうっと突っ立っているミヌアの瞳に映る緑色の垣根の向こう側には、座り心地のよい1人がけのソファーの上で、白い細身のパンツと黒のロングブーツが優雅に組み替えられ、装飾品のオーロラブルーがシャンデリアの乱反射の中でエレガントに煌めいた。
光沢のある瑠璃紺色のタキシードの内ポケットからシルバーのシガーケースを出し、右手で慣れた感じでロックを外すと、開いた中から細身の茶色の線が規則正しく並んでいるのが顔を出した。
アパタイトのカフスボタンの留まった袖口から出ている細く神経質な指先が壊れやすい茶色の細いタイプの葉巻、ミニシガリロをすっと抜き取り、きめ細やかな肌の顔まで持ち上げ、ダビドフ プラチナムの芳醇な香りを火をつける前にひとまず愉悦に浸る。
冷静な水色の瞳は堪能というまぶたの裏へ一瞬隠れすっと開かれ、ミニシガリロを顔から離した時、さっきまでなかったはずのジェットライターが左手に不意に現れた。
葉巻はタバコのように自動的に燃えてくれるものではなく、360度綺麗に平均的に火をつけないと、偏ったまま燃えていってしまう。葉巻専用のライターは上からカチッと押すものではなく横から握れば着火し、ゴウっという炎の力強い息遣いを上げながら、その上で丁寧にミニシガリロを回し、丸い灼熱色に染めてゆく。反対側を中性的な唇の中へ入れ、青白い煙を吸い込むと、臭覚が刺激され、敏感という目覚めを起こす。
自分がつけた香水が慣れというもので感じ取れなかったが、甘くスパイシーな鋭利という刻みを体の内側につけるように入り込んで来る。煙は肺に入れず、口の中だけで香りと味を楽しみ、舌がしびれるほどの辛味を口の中で監禁するというマゾ的な遊びに身を任せながら、紺の肩より長めの髪のその人は、罠を仕掛ける相手を待つように膝の上に細い肘を乗せ、手のひらに神経質なあごを預ける。
(遅い……ですね。
先ほどの様子から、こちらへ来るという可能性が78.97%。
それとも、残りの21.03%が起きたのでしょうか?)
吐き出した青白い煙の奥で、冷静な水色の瞳の持ち主の心の内はまるで計算機、いやPCみたいに小数点以下2桁まできっちりカウントされていた。
観葉植物という境界線の後ろ側で、ミヌアの好奇の視線は緑の葉っぱから外された。
(上に行くには、どうすれ――)
そこで、銀の階段が上へ登ってゆくのを見つけ、
(エスカレーター!
よし、あっちだ)
ミヌアのスニーカーは小走りで、ドレスやタキシードの間をすり抜けていき、2階へ上るエスカレーターに乗り、視界がどんどん上がってゆく中で、さっきまで見ていたフロント前を上から見下ろす形になった。
(あぁ、あそこでも飲み物飲めるんだ。
パン屋さんもある……)
自動という動きが切れる先端で足を前へ出し、胡桃色の絨毯の上へ降り立ち、パステルピンクのリュックの肩紐に両手をかけながら、3階へ上るエスカレーターをキョロキョロと探す。
(あ、あれ?
ない……)
だが、後ろから上がって来る人たちにぶつかりそうになった。
「あぁ、すみません」
転落防止用のガラス張りの壁際に慌ててより、ミヌアのベビーピンクの瞳は捜索するため360度ぐるっと回るように向けられるが、同じ高さしか見ておらず、さっきいた観葉植物の反対側に今でも優雅に足を組み座っている人は視界の下にチラッと入り込んでいただけで、気づくことはなかった。
階下で立ち止まりという集まりを見せているドレスとタキシードの人の群れを運よく見つけ、ミヌアの頭の中で、ピン! という音が鳴り電球がピカッとついた気がした。
(わかった!
エレベータ!)
視線を2階へ上げるが、同じ位置にエレベータの扉はなく、ミヌアは首を傾げる。
(1階からしか乗れない?
じゃあ、戻らないと……)
エスカレーターに次々と乗り込もうとしている人の流れの隙を見て、シュッとミヌアのスニーカーは入り込み、1階へ戻るエスカレーターに乗り込む。手すりに両手でつかまり、エレベータの扉をあちこちの角度から眺めつつ、どうやっても挙動不審な人になりながら1階へ戻ってゆく。
(もしかして、あれ?
直通エレベータがあるとか?)
貧乏という服装で、高級ホテルのフロントで浮きに浮きまくっているミヌア。冷静な水色の瞳の人はミニシガリロの灰を灰皿へトントンと軽く叩き落とした。
(どちらへ行くのでしょう?)
上りのエスカレーターに乗り、ぼんやりまわりを見渡して、慌てて降りのエスカレーターへ乗り直し、落ち着きなさ全開のどうやってもおかしな行動をしているミヌアの様子を、余暇を楽しむ王子のような出で立ちでターゲッティングしながら、左手を顔近くへ上げると、不思議なことに携帯電話がすうっと現れた。意識化でつながっているため、他の人が使うという心配がないそれには暗証番号ロックはなく、画面をタッチしなくても、思い浮かべれば文字が打ち込める。
(あなたの予測通りいましたよ、彼女はこちらに)
送信をすると、すぐに相手から返事が来たが、画面は真っ白で男の中性的な唇からくすりという笑いの息が漏れた。
(空メール……相変わらずですね、彼は)
1階へ再び戻ってきたミヌアは行き交う富裕層の人々を避けながら、エレベータへ向かって猪突猛進のごとく進んでゆく。その様子を、冷静な水色の瞳は左から右へ追ってゆき、持っていたミニシガリロは灰皿へ一旦置かれ、光沢のあるタキシードの肘は肘掛から外されたが、細く神経質な右人差し指は軽く曲げられあごに当てられ、エレベータホールでいくつも並ぶ扉をデジタルに冷静に見極めという氷の刃の水色の瞳で刺すように眺めた。
(客室であるという可能性は0.12%
非常に低いです。
なぜなら、フロントへ行っていません。
そうなると……3階のラウンジ。
もしくは、最上階。
どちらでしょう?)
ミヌアの金の髪は落ち着きなく右へ左へ揺れるを繰り返しながら、開いたエレベータの中へドレスやタキシードに紛れながら入っていった。ドアが閉まり、冷静な水色の瞳はついっと細められた。
(最上階への直通エレベータ)
アパタイトのカフスボタンがズボンのポケットに近づき、中からチェーンのついた丸いものを取り出した。氷柱のような冷たさを持つ瞳に映るものは、アラビア数字が12個で円を描き、3本の長さの違う針があちこちに時刻という顔を見せる懐中時計。
(17時46分11秒。
そうですね……?)
紺の艶がありしなやかでハリのある髪の奥に隠された、人並外れた記憶力を持つ頭脳が瞬時に的確な数値を弾き出す、秒単位まで。
(1階から最上階へのエレベータの所要時間は、1分56秒。
17時48分07秒に到着。
今の時刻、17時46分21秒……残り1分46秒。
それでは、こちらのようにしましょうか)
言動を確定した線の細いタキシードはソファーへ一度もたれ、胸へ落ちてしまった紺の髪を手で背中へ払いのけ、灰皿から葉巻を取り、中性的な唇へ運び、青白い煙を吸い味わう、懐中時計を見つめたまま。
青白い煙がしなやかな肌の内側へ消えては外へ姿を現しを繰り返していると、ミニシガリロは灰皿へ最後の別れというように細く神経質な手で置かれた。
(17時47分59秒。
彼女の乗ったエレベータが最上階へ着くまで、あと8秒)
自分の横を人々が通り過ぎ、楽しげな会話がさざ波のように耳へ押し寄せ、高貴というシャンデリアの乱反射のシャワーが降り注ぐ中、冷静な水色の瞳の持ち主のデジタルな頭脳の中でカウントダウンが開始。
(5、4、3、2、1)
黒のロングブーツの足元がクロスする寸前の位置で、瑠璃紺色のタキシードの細身をさらに強調させるようにソファーから優雅に立ち上がり、紺の長い髪が衝撃で神経質な頬へかかり、水色の瞳に悪戯という光が宿ると、男のまわりの景色は不思議なことに全ての色を失い、モノクロに変わった。動いていた人々が不自然に止まり、流れていた上品な音楽も楽しげな会話もまるで時が止められたように動かなくなった。
だが、色が残っているものが1つ、それは瑠璃紺色のタキシードの男。
「それでは、行きましょうか」
遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声がやけに大きく聞こえる空間で、男の姿がすっと消えた途端、ホテルのフロントは色も動きも正常に戻ったが、誰も時が止まったことに気づくものはおらず、何事もなかったようにまた進み始めた。
ただ、優雅な男が座っていた席には吸いかけの葉巻が青白い煙を上げ、置いてけぼりを食らい、放置されていた。
――――木を隠すなら森の中。人を隠すなら人混みの中。
最上階のエレベータ待ちの人々は、まだかまだかと自分たちの階のランプが点灯することに視線を集中させている。さっきまでいなかった光沢のある瑠璃紺色のタキシードが急にそこへ混じっていても誰も気づかなかった。
(彼女の乗ったエレベータが到着するまで、あと3秒)
その群れから、紺の肩より長い髪は足早に抜けたために、香水の匂いをほのかに残し、ワンレングスの前髪が貴族的に優雅になびき、ガラス張りの壁へ近づいてゆく。
(あと1秒)
夜色が向こう側へ広がっているため、鏡のように室内が見える位置で、あのベビーピンクの瞳で貧困層丸出しの女を景色を眺めている振りをして、鏡のようなガラスというワンクッションを置いて相手を待ち構える姿勢を取ると、抜群のタイミングで、
(0、来ます)
ポーン!
というエレベータ到着の音が響き、人々が次々降り出した扉に、金の髪とおしゃれのかけらもないパステルピンクのリュックを背負ったミヌアが混じっていた。ミヌアがエレベータに先に乗ったはずなのに、男の方がさらに先へ最上階へ着いているという時間軸が狂っている出来事が起きていた。
ミヌアは富裕層という人々に流されながらフロアへ出て、目の前に広がった空間の素晴らしさに思わず息を飲んだ。全てがガラス張りとなり、その向こう側へ重力を克服したタイヤのついていない車がテールランプの川を同じ高さで作り出していて、時々すぐ近くを猛スピードでクーペなどが斜めへ落ちてゆく。
汚れたスニーカーは興味深そうに窓際へより、ちょうどそこにあった展望席のテーブルへ両手をかけ、どこかズレ感のあるベビーピンクの瞳をキラキラ輝かせた。
(すご~い!
光の海が広がってる……。
いつも下からしか見たことなかったけど……。
ルドルカシティってこんなに綺麗なんだ。
これが見れただけでも、よかった)
彼女の背中側のガラス越しで、冷静な水色の瞳は反対方向を向いたまま鏡のような窓に標的を映す。
(景気を眺めているみたいです。
さて、どのようにしましょうか?)
ミヌアは星の海といってもいいほどの夜の都会の明かりに気を取られながら、すぐ近くにあった少し高めの丸イスに何気なく座り、両肘をつけてぼんやり景色を眺めながら、リュックを慣れた感じで背中から外し膝の上へ乗せても、ベビーピンクの瞳にはオフィスビルの窓という明かりの群れが映っており、当初の目的を忘れてしまいそうだったが、女の声が不意に響いた。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「え……?」
ミヌアは光のイリュージョンという空想世界から現実へ引き戻され、自分のそばでニッコリ微笑む女の顔をまじまじと見つめる。
「こ、こんばんは……」
「ご注文はいかがなさいますか?」
優しげな声の主の服装は白いシャツに黒のベスト、蝶ネクタイと男性的な黒のスラックス。ミヌアは知らないうちに店の席へ座っていたことに気づいた。
(もしかして、レストランに来ちゃった?)
財布の中身を思い出し、焦りというものが体中へ広がってゆくのを必死に抑えつつ戸惑い気味に聞く。
「あ、あの……」
「はい」
「ラウンジに行きたいんですが……」
「こちらですよ」
「あぁ、そうでしたか……」
店員とのやり取りをガラス越しに見ていた冷静な水色の瞳の持ち主は、
(ラウンジへ来たみたいです。
それでは、こうしましょう)
優雅に振り返り、香水が魅惑というそよ風を巻き起こし、紺の長めの髪がふわっとダンスのターンをするように舞い踊り、黒いロングブーツはオーロラブルーという輝きを連れてスマートに大理石の上をカツカツという酔わせるような靴音を響かせ、あっという間にミヌアの斜め左後ろにあったロの字のカウンター席までやって来て、スマートに腰掛けた。
見られているとは知らないミヌアと店員の話はまだ続いている。
「何にしますか?」
「え~っと……?」
(高級ホテルのラウンジに来て、ビール……。
それは、せっかく来た意味がないなぁ。
じゃあ、ワイン?
それも、普通に飲み屋で飲めるしね)
ニッコリ微笑んでいる女性店員をじっと見つめ、ミヌアらしい心配。
(待たせるのはよくないから……。
どうしよう?
あっ、わかった!
知ってるお酒の名前を言えばいいんだ!)
これが、とんでもない結果を招くとは、当の本人は知る由もなかった。
「ジンとか……ウォッカとか……リキュール類で飲みやすいやつをお願いします」
「かしこまりました」
女は丁寧に頭を下げ、気品漂う感じで展望席から離れていった。その店員を斜め左奥から見る椅子に腰掛けていていた、瑠璃紺色のタキシードは。
(何を飲むのでしょう?)
ミヌアの注文を聞いた女はカウンターの中にいる男性店員へ、ジンとウォッカとリキュールで飲みやすいやつという危険な香りがする酒のオーダーを伝えたが、プライベートという名で守られている注文の声は紺の髪を持つ男には聞き取れず、冷静な水色の瞳はバーテンダーの手元へ情報収集という形で向けられた。
ホテルのロビーで取り出していたシガーケースを上着の内ポケットから取り出し、慣れた感じで火をつけ、青白い煙の上がる向こう側で、バーテンダーの手がつかんだ緑色の瓶で赤いリーリングスタンプのついたものを見つけた。
(タンカレーのジン、アルコール度数47.3%)
その人の冷静な頭脳の中で情報という本がバッと開き、PCのプログラミングのようにデータが流れ始める。
(ジントニック。
ジンライム。
ジンのストレート、すなわちショット。
もしくは……)
バーテンダーの次の手の動きを読む。透明な瓶で黒地に教会のステンドグラスのような絵柄がついたものが用意された。
(エギュベルのウォッカ、アルコール度数40%。
そうなると……)
細い葉巻を持つ人の頭の中に、該当するカクテルの種類が即座に浮かび上がった。バーテンダーの手はまだ止まらず、次の瓶を取り出す。琥珀色をした太めの小さもの。
(ネプチューン クレーム ド カカオ、アルコール度数25%。
ルシアンであるという可能性が78.56%)
その時、ミヌアにも声をかけていた女の店員の声が右耳から入り込んだ。
「こんばんは、今夜は冷えますね」
落ちてきていた髪を耳にかけながら、優雅に微笑み返して短くただの相づち。
「えぇ」
同意という言葉は決して口にしない、貴族的で黒のロングブーツの足をエレガントに組む男は。
「どちらにしますか?」
どこからどう見ても慣れた感じの会話。2つの酒の種類を問う注文の取り方。バーテンダーの手で銀のシェイカーに入れらた3つの酒を、冷静な水色の瞳の端に映したまま、遊線が螺旋を描く芯があり優雅な声が、常連という名の酒の銘柄を口にした。
「ヘネシー パラディーでお願いします」
(今日はブランデー、アルコール度数40%です)
「かしこまりました」
店員が離れてゆくと同時に、バーテンダーがシャカシャカとカクテルを作り始めた。最上階という高級感が漂う空間に、上品な音楽が控えめに流れているところへ、シェイカーのリズムが鮮やかにシンクロする。
三角の小さなグラスに3つの酒が混ぜられた琥珀色が注がれ、シルバーのトレーに乗せられ、さっきから夜景に目を奪われているミヌアの元へ運ばれてゆく。ミニシガリロの煙が中性的な唇から吐き出されると、
「お待たせしました」
手の空いたバーテンダーから手際よく、丸みの目立つブランデーグラスが差し出された。冷静な水色の瞳は上げられ、優雅に微笑む。
「ありがとうございます」
だが、口にはせず、グラスをくるくると回し、琥珀色の水面で不規則な円を描き始めた。
左斜め後ろのロの字のカウンターで青白いミニシガリロの煙が上っていることに気づかず、ミヌアがぼんやりしていると、さっきの女性店員の声が右側からかかった。
「お待たせしました」
「あぁ、はい……」
「ルシアンです」
琥珀色をしたショートカクテルが出された。
「あぁ、ありがとうございます」
(そんな名前のお酒があるんだね)
ミヌアがうなずくと、女は颯爽と艶やかにフロアを仕事という動きで歩き出した。ミヌアのどこかズレている感の瞳には小さな三角のグラスが映っていて、首を左右に傾けながら、カルチャーショックにノックアウトされていた。
(こんなに小さくて、3000アル……。
チーン! って、終わったって感じだ)
金の髪をさらっと揺らし、瑠璃紺色のタキシードを着る男の方へ振り返るが、バーテンダーの影になり見ることはできなかった。
(一生懸命作ってくれたものだから、飲もう)
繊細なショートカクテルグラスをガバッとつかみ、上質な琥珀色の液体を体の中へ落とし、ミヌアのベビーピンクの瞳はキラキラ輝いた。
(甘くておいしい!
お酒の味がしな~い。
こんな飲み物があるんだぁ)
丸椅子の足の引っ掛け部分を軸に左右へクルクルと回し、空想癖のあるミヌアは別世界の城の大広間で、王宮楽団の奏でるワルツに合わせて、華麗に軽やかにステップを踏むように、ルシアンの甘みという酔いに身を任せ、魅惑のグラスをもう一度傾けた。
「ん~っ!」
(めまいがするほど幸せ~♪)
3000アルもするショートカクテルをたった2口で飲み干した。斜め後ろから見ていた冷静な水色の瞳で、グラスから琥珀色が完全に消え去ったのをしっかり確認。
(それでは、行きましょうか。
あちらの方法が勝てる、成功するという可能性が87.97%)
瑠璃紺色のタキシードは優雅に立ち上がり、ブランデーグラスはアパタイトのカフスボタンを従えた細い神経質な手でつかまれ、テーブルの上に残されたシガーケースとジェットライラーは不思議なことにすっと消え、黒いロングブーツについたオーロラブルーはロの字のカウンターをぐるっと回り込むように優雅に進み、ミヌアの意表をつく背後に鮮やかに立った。
空になったグラスをテーブルの上で持ち上げて、名残惜しそうに見ていると、ミヌアのベビーピンクの瞳にこの世ではないあの世のものが入り込んできた。それは黒い霧。手のひらサイズの丸いモヤモヤ。さっきまで出てこなかったものが急に現れるようになり、ミヌアはグラスをコースターの上に置き、ガラス窓とラウンジの間の空間を見渡すが、ガラスにはその黒い霧は映っていない。
(黒い霧……まただ。
霊感と関係すると思うんだよね。
幽霊はよく見る。
店の1つ手前の交差点に、いつも30代ぐらいの男の人がぼうっと立ってる。
あれは、地縛霊なんだと思う。
だから、あそこから動けない。
でも、黒い霧はそれとは違ってるみたいで……。
疲れた時によく見るんだよね。
でも、今日は疲れてないよね?
それに、さっきまで見えなかったのに、今急に見えるようになった……。
どうして?)
ミヌアのまわりのもう1つの世界で異変が起きているガラス窓に、線の細い男の人影が近づいてくるのが映っていた。それをまるで自分とは関係ない背景のように眺めながら、ミヌアは首を傾げ続ける。
(黒い霧は自分に近づくと、消えるんだよね。
すうっと、まるでどこかに吸い込まれるように。
何なのかな?
他の人のまわりでも見るんだけど……。
消えないんだよね。
自分の近くにいるものだけで消え――)
そこで、遊線が螺旋を描き優雅で芯があり、人を惑わせるような男の声が不意に割って入ってきた。
「――お隣よろしいですか?」
「はい?」
頬杖をついていた手から頬を離し右横へ顔を向けると、そこには、紺の肩より長めの髪を持ち、氷の刃という名が似合う冷静な水色の瞳。滑らかな白い肌の神経質な頬に中性的な唇。襟元で瑠璃色のリボンがちょうちょ結びされていて、甘くスパイシーな香水が臭覚という記憶を呼び起こし、ミヌアは思わず目を見開いた。
(さっきの王子様……。
やっぱり綺麗な人――)
返事がいつまで経っても返ってこないので、男はもう一度聞いてきた。
「よろしいですか?」
ラブロマンスという別世界から慌てて引き上げてきたミヌアは、落ち着きという文字を己の辞書に持っていない様子で居住まいを正した、なぜか。
「あぁ、はい……どうぞ」
(誰かと待ち合わせ?)
「それでは、失礼」
男はどこか含み笑いの声で優雅に言い、スマートに椅子へ腰掛けた。香水の香りが酔うように広がってきて、ミヌアはそれだけでもエクスタシーワールドへ飛ばされそうになった。
(このまま崩れ落ちそう!)
空想世界へワープしそうになった時、真っ直ぐとはほど遠く、どこか弄び感が出ているが、それが感情とかそういう曖昧なものではなく、数字というきちんと確立された理論の元で全て成り立っているような優雅な男の声が疑問形を放ってきた。
「何を飲まれているのですか?」
(答えていただきます、情報を)
ミヌアは現実へ引き戻された、男の冷静さというもので。
「あぁ、ルシアンです」
「そうですか」
(ルシアンであるという事実として確定、100%です)
ミヌアは気づいていなかった。質問をされ、それに答えれば自分の情報が簡単に漏洩し、相手にデジタルに記憶されてゆくと。冷静な水色の瞳から取り込んだ視覚というデータは紺の長めの髪の奥にある脳へ着実に記録されており、ミヌアがどんな人間でどんな生活を送っているかが、服の汚れ、質感、行動でわかっている。さらに、声をかけた女がルシアンをどんなふうに飲み、次はどう動くかまで予測済み。
男の言葉の大半は疑問形と相づち。それは情報漏洩を避け、自分の思惑、手の内を相手へバラさないための言動。残念ながら、ミヌアはもう既にこの男の優雅な策略の中へ引きずりこまれていた。
普通の会話のように見えるが、密かな誘いという言葉が男の中性的な唇から出て来る、言葉遣いを考慮して。
「いつもこちらへ来られるのですか?」
(ルシアンを飲んでいます。
酔っているという可能性が32.89%……非常に低いです。
従って、私の質問に疑いを持つという可能性が98.78%。
考えている隙に、あちらの罠へ導きましょうか)
20cm近く背の高さが違う男の水色の瞳を、ミヌアのどこかズレているベビーピンクの瞳で見つめ返して、男の思惑通りに違和感を持ち、何も言わずに首を傾げた。
「…………」
(あれ? おかしい。
どうしてだろう?)
水色の瞳から視線を外し、まわりの景色を眺め、ドレスとタキシードの人々を見つけ、今度は自分の服へ視線を落とした。汚れたスニーカー、洗濯のし過ぎで緑色に変色しかかっている黒のズボン。袖が擦れてほつれたパーカー、偽革の茶色の上着。そこで、ミヌアは違和感の原因を突き止めた。
(あぁ、私の格好、どう見ても、ここに来慣れてない格好だよね。
なのに、どうして、いつも来てるのかって聞くのかな?
何だか、おかしい――)
視線を外したばかりに、男の水色の瞳の行方をミヌアは見逃し、その目線はターゲットにしている女ではなく、彼女のまわりをなぜか見ていた。
(彼の言っていたことは本当であるという可能性が98.76%)
何かの数字を弾き出し、優雅に見えるような男には実は瞬発力がかなりあるのだった。
(それでは、こうしましょう)
ミヌアの瞳が自分の服から上げられ、男の細く神経質な手から瑠璃紺色のタキシードの腕へ向かい、紺の髪の先を捉えようとした時、
「失礼」
優雅な声が聞こえたかと思うと、一瞬視界が真っ暗になり、いわゆるブラックアウトを起こした。音も消えたが、それはほんの少しの間で、ミヌアの視界には紺の髪が入り込んだが、どうも何かがおかしく。
(あれ?
さっきより距離が縮まった?)
自分が動いたわけでもない、相手が引き寄せたわけでもない。それなのに、男との距離が縮まっている。怪奇現象と言っても過言ではない光景を前にしても、ミヌアはどこかズレている頭で都合よくふんわり飛び越えて、男の冷静な水色の瞳を見つめ返したが、さっきより絶対近づいているのが如実にわかった。
(あれ?
椅子を引き寄せられた?)
キョロキョロし始めて、カウンターに乗っている空のショートカクテルグラスが自分より左後ろの離れた位置にあったの見つけ、次に椅子に相変わらず座っているのを感じる。
(人が座ってる椅子って、引っ張り寄せられたかな?
下は絨毯、摩擦が思いっきりある。
そんなに簡単に、人が座ってる椅子を動かせる……?)
戸惑いという罠の中へ誘い込まれてしまったミヌアは会話をするどころではなく、男の手中へ落ち始めた。
(彼女は戸惑っているように見える。
それでは、先ほど導き出した罠へと誘いましょうか)
「どうかしたのですか?」
答えたら最後、情報を持っていかれる。交わす手はいくつかあるが、既に1つ目の罠、急接近に縛られてしまっているミヌアは珍しく難しい顔で尋ねた。
「どうしたんでしょう?」
(気になります、どうして近づいたのか)
何とか交わす手の1つを放った。疑問形に疑問形。聞き返すことによって、情報漏洩は免れ、仕掛けられた罠から逃れられるようになるが、相手にはそんなことは到底計算済みで、さらに絶妙な疑問形を返してきた。
「どうしたいですか?」
最初の2文字は一緒なのに、全然違う質問がやってきた。しかも、自分の要求を聞いてくるという内容。ミヌアは何の遠慮もなしに、優雅に気品高く微笑む男を凝視したまま。
「……どうしたいんでしょう?」
(あれ? 何かしたかったかな?)
混乱という言葉の嵐に巻き込まれ始めたミヌアを、冷静な水色の瞳に映したまま、男の言葉はさらにすり替えられる。
「どうされたいですか?」
なおかつ錯乱させられる言葉を放たれ、ミヌアのまぶたは落ち着きなくパチパチ。
「……さ、されたい?」
(敬語? それとも受け身?)
こうして、男の罠の最後から2番目の言葉が、優雅に鮮やかにやって来た。
「私が決めてしまいますよ」
疑問形ではなくいきなり断定の言葉。しかも、主導権を持っていくと言ってきているが、どこかズレている感が漂い出ているミヌアは、
(この人の行動を決めるんだから、この人が決めてもいいよね)
「あぁ、はい……」
全然違う解釈でうなずいてしまい、男から最終確認が入った。
「取り消しは出来ませんよ。よろしいですか?」
(こちらの言葉にあなたがうなずけば、私の罠が成功するという可能性が99.99%)
(この人の行動は取り消せないよね、私には。
だから……)
「はい、どうぞ」
冷と熱。冷静と激情。知的と悪戯。人を魅了しやすいギャップというギャップをいくつも持つ男の罠の仕上げに、ミヌアは簡単に引っかかってしまった。
そうして、空前絶後の無理難題が相手から突きつけられた、断れなくさせられた上で。
「それでは、私と結婚してください」
(私の罠にはまっていただいて光栄です)
「え……?」
ミヌアの空想がミュージカル仕立てで暴走し始めた。
(結婚~~♪
それは~♪)
純白のウェディングドレスを着て、教会の扉からクルクルっと回り入りながら、右手をすうっと天井絵に伸ばし、タキシードを着た男が待つ祭壇前の赤い絨毯の敷かれている身廊を、右へ左へステップを踏み揺れながら幸せの歌を歌い続ける。
(あなたと私~♪
めぐりあい~、共に歩いてゆく~♪)
身廊の途中で白いハイヒールは止まり、参列席に座る招待客へ夢心地の視線を降り注ぐ。
(幸せのおすそ分け~♪
あなたに、あなたにも)
手に持っていたブーケから花を一輪取り出し、右へ左へ配りながら祭壇の前までやって来て、余計なところは都合よくスキップし、黒い神父服からお決まりの言葉がやって来た。
「それでは、誓いのキスを」
ミヌアの被っていたベールが上げられ、相手の顔が見えそうになるが、
(結婚~♪
それは~、愛する人と――)
そこで、紺の肩より長いハリがありしなやかな髪と冷静な水色の瞳、貴族的な優雅な笑みの男が、現実へ戻って来たミヌアのベビーピンクの焦点の合った瞳に映った。
「っ!」
(愛する人じゃない……。
さっき会った人。
名前も知らない……)
言葉のすり替えという罠の中で、手を打つ機会を逃してばかりのミヌアに、男のさらなる鮮やかな一手が打たれた。
「こちらのほうがよろしいですか?」
「どちらの……?」
ミヌアの貧困層丸出しの服の前で、瑠璃紺色のタキシードは椅子から優雅に立ち上がり、オレンジ色の絨毯の上へ片膝をつき、紺の長い髪がふわっと浮かび上がり、高級ホテルのラウンジなのに、まるで玉座に座る女王陛下にお辞儀というように華麗に跪いた。
「私と結婚してください」
「え……?」
頭を下げたため、床につきそうになっている紺の髪と、突然の跪きプロポーズにまわりを歩いていたドレスとタキシードが不思議そうに立ち止まり、一番しっかりしているはずの従業員も動きを止め、驚きという静寂がやって来た。
(ということで、今に戻って来た。
どこも間違ってないね。
あえて上げるなら、ここに来たことかな?)
ミヌアなりに首を傾げ、頭をフル回転させ、目の前で起きている出来事をお笑いの前振りではなく、別の解釈を探し始めた。
「あの……」
「えぇ」
跪いたまま水色の冷静な瞳はさっと上げられ、絶対服従みたいな姫とナイトのような距離感で優雅に先を促した。どこからどう見ても、天然ボケの入っていなそうな男に、ミヌアは顔をしかめる。
「相手を間違ってませんか?」
(誰かに、私が似てたとか?)
水色の冷静な瞳はゆっくりと横へ揺れた。
「いいえ、間違っていませんよ」
(あなたをやっと見つけましたよ)
「そうですか……」
(ボケてる感じもしない……。
そうすると……)
ミヌアはガラス窓の向こうに見えるテールランプのルビーのような川を眺め、次は反対側へ顔をやって、まるで時間が止まってしまったようなドレスやタキシードたちを見つめ、自分を見上げている水色の瞳を上から見下ろして、きっぱりと。
「嫌です」
(お断りです。
確かに王子様みたいで、素敵ですけど……)
こうして、男の罠の1つが時間差という効力を発揮。くすりと微笑んで、跪いているはずなのに、下克上の言葉を放った。
「おや? 取り消しは出来ないと、先ほど約束しましたよ」
(あなたに拒否権はもうありませんよ)
さっきの言葉の解釈を間違っていたことにミヌアは気づいて、彼女の表情は苦渋に。
「…………」
(あれって、こういうことだったの?
あちゃ~、うなずいてる。
どうしよう?
断りたい。
でも、取り消せない)
その時だった、ミヌアの心の中で教会のゴーンゴーンという聖なる鐘の音が響き、神からの天啓のようにスポットライトが差した気がした。
(わかった!
こうだ!
よし、実行!)
ミヌアは空想世界から現実へ戻り、計画を遂行し始めた。膝の上に乗せっぱなしだったリュックから財布を取り出し、お札3枚をテーブルの上へパシッと置き、右利きのため、右から少し高めの丸椅子を降りようとしたが、斜め後ろで男が跪いているのを思い出して、慌てて左へ向きを変えようとすると、カクテルグラスに袖口を引っ掛け、高そうなグラスが倒れるのをパッと押さえる。
(あ、危ない!
割ったら、いくらするかわからないからね。
ここは、そうっと……)
ホテルものを破損しないように椅子を左側から降りようとして膝を上げ、テーブルに強く打ちつけた。
「痛っ!」
何とかその痛みに耐えながら、スニーカーの足で忍び足を2、3歩してから、跪いている光沢のある瑠璃紺色のタキシードの前で足をそろえ、頭をペコッと下げると、
「す、すみません!」
(逃走で、巻いてしまえ!)
さっと走り出そうとしたミヌアの手。瞬発力のある男には簡単に捕まえられるが、優雅に床から立ち上がり、エレベータ前まで大慌てで走ってゆくミヌアの小さな背中を見送りながら、ついっと細められた冷静な水色の瞳。
(今は逃します。
私だけではありませんからね。
ですが、あとで捕まえますよ。
あなたがどちらへ行こうとも、私は追えます。
もう出会ってしまったのですから)
逃げたとしても、エレベータ待ちで捕まってしまうということにミヌアは全然気づいていなかった。だが、水色の冷静な瞳を持つ男は椅子に優雅に腰掛け、さっきから一口も飲んでいなかったブランデーを口に含み、左手を顔近くへ上げると、また不思議なことに携帯電話がすっと現れた。
紺の髪を後ろへ避け、コール音が2度鳴ったところで相手が出た。
「私はそのように思いますが、あなた自身で確認していただいてよろしいですか?」
言葉を自由自在に操り、相手を自分の思う通りに動かす男は話が長く丁寧。それとは対照的に電話の向こうからは、真っ直ぐで地鳴りのように低い男の声が最低限の言葉しか返してこなかった。
『構わん』
「場所は……」
『言わなくてもわかる』
大都会の真ん中で逃走した人を探せる。そんな手がある。相手は携帯を持っていない、GPSなど使えない。それなのに見つけられると、電話の向こう側の男は言う。低い声の持ち主の得意技を思い浮かべながら、優雅な男は細く神経質な指先に自分の紺の髪を悪戯っぽく絡ませた。
「そうですか、よろしくお願いします」
『切る』
「えぇ」
短く優雅なうなずきが、ブランデーグラスの上で舞うと、電話が愛想なしに切れた。携帯をテーブルの上へ置き、ミニシガリロに火をつけながら、渋滞というテールランプの川を冷静な水色の瞳に映す。
(少し時間はかかるでしょうから……。
私はこちらでパラディーを飲みながら待ちましょうか)
ブランデーのグラスを取り、甘い香りを中性的な少し柔らかい唇から味わい、葉巻でさらに深い快感という泉の底へ落ちる酔いという戯れに身を任せ始めた。
――――優雅で貴族的な一流ホテルのエントランスからミヌアは慌てて飛び出し、雑路という人の流れに入り込もうとしたが、
(あ、あれ?
ど、どっちから来たっけ?)
キョロキョロしているベビーピンクの瞳は一瞬止まり、全てがモノクロになった。信号の色も歩道を流れる人の群れも何もかもが止まり、数m離れた細い路地の薄闇という死角へ、不思議なことに人影がすうっと立った。
そして、再び時は正常に動き出した、何千人もいるであろう人が誰一人異変に気づかないままで。
ビルとビルの間で、黒の履き慣れたショートブーツが通りとは直角に物音1つ立てずに向き直り、ビル風にロングコートがマントのように翻り、両袖は肘手前までまくり上げられ、満月を背に髪の毛の縁が赤でギザギザを描いている。背が異様に高いその人の心の内は少し変わっていた。
(2つ。
8m先、Evil。
5m先、女。
こっちへ来る)
まるで暗号みたいなシンプルな自己専門用語だった。
ミヌアのどこかズレている感がある瞳は、人混みの向こう側に帰路が違う角度から存在しているのを見つけた。
(よし、あっちだ)
優雅な男が今もいるであろうラウンジを背後にして、歩道を歩き出すと、割り込んだ後ろから男2人の会話が耳に入り込んで来た。
「そういえば、あの芸能人、眠り病で死んだよな?」
「あぁ、あれにはびっくりした」
「ずいぶん前から悩んでたらしいな」
「あれはかかったら医者じゃ治せないからな」
ミヌアはリュックの肩紐を引っ張りながら、空想世界へワープ。舞台の端に立ち、真っ暗な中で自分にだけスポットライトが当たり、語り口調。
(眠り病……。
それは、現代医学では治せない病気。
ある日、睡眠にとりつかれるようにして眠り続け……。
食事も摂れなくなり、それでも点滴で何とか生き続けるが……。
体力の消耗が激しくなり、補充するのが間に合わなくなり、やがて死ぬ)
汚れたスニーカーが前へ進み続ける、空想の舞台という頭をともなって。赤い縁を持つ髪の持ち主は細い路地で息を潜めながら、ただひたすら待つ。
(4m先、Evil。
1m先、女。
女が先)
ミヌアの別世界へワープしているベビーピンクの瞳の右端に細い路地が見えて来たが、歩道を歩く人の騒音と薄闇というものに紛れて、ロングコートが隠れているとは知らず、心の中ではスポットライトをまだ浴びたまま。
(原因は未だにわからない。
緩和する薬さえも開発がされていない)
(3m先、Evil。
女、来る。
正中線と正中線を合わせる。
左の肩甲骨の意識を高める)
何かの動きを体現するみたいな心の内。細い路地に隠れている人は不思議と気配がなく、ミヌアはその前で立ち止まり、眠り病について考えるため、首を傾げると金の髪が肩からさらっと落ちた。
(でも、何が原因なんだろう?
眠るようになって、衰弱してくなんて……?)
その時だった。細い路地から誰かの大きな左手が伸びて来て、驚く暇もなく薄暗い路地へミヌアのスニーカーは地面の上を引きずられるのではなく、空中を浮遊するようにすうっと引っ張り込まれた。まるで芸術というような動きで鮮やかな手口で、歩道を歩いている人は誰も気づかなかった、ミヌアが突然大通りから消えたことに。
ミヌアの視界は急に暗くなり、目の前の景色が変わり、眠り病の説明という空想世界から自分の身の回りで起きた急変に照準を合わせる。
「え……?」
(道を歩いてた気がするんだけど……。
座ってる?)
スニーカーが横向きで地面に落ちていた。袖をまくったロングコート腕に完全に抱き寄せられている状態を見つけ、確かめようとするが、隠しても隠しきれない男の性的に酔わせるような匂いが漂っていて、ミヌアはビルの壁を凝視したままだったが、
(男の人に抱きしめられてる……?
誰ですか?)
右斜め上に顔を上げたと同時に相手も顔を下ろし、満月を間に挟んで、社会というモラルの中で、細い路地に入り込んでまるで秘め事をするように見つめ合い、全てがスローモーションになった。
192cmという長身とミヌアの163cmという29cmの身長差のギャップ。どうやっても相手は男で、自分は女だと突きつけられる物理的なエロ。ある意味、視姦(*視覚で犯すこと)だけで悶え死にそうな男の腕の中で、聴覚という五感がミヌアにエクスタシーという色をともなって襲いかかった。
「動くな」
地鳴りのように低く安定感があり、媚薬を使われたように体の力が抜けてしまうような艶やかさを持つ声が最低限の言葉を口にした。
落ち着きのないミヌア。それでも、相手の重厚感、不動の雰囲気に飲み込まれ、ベビーピンクの瞳は無感情、無動という代名詞がよく似合うカーキ色の切れ長な瞳で、武術の技をかけられたように動きを封じられた。どんなことが起きても安心して身を任せられる安定感を持つ男。
ミヌアの上着を抱き寄せている腕は男らしく筋肉質で、節々のはっきりした手指だが、しなやかであり、それを見ただけで体の芯が熱くなり、濡れてしまうような色気の漂う類稀な手。
ホテルでさっき会った男とは対照的に骨格がしっかりとして、どこからどう見ても男で鍛えている感が出ている。赤い髪は何かをするために邪魔にならないような短さと簡潔さを持っていた。月影だけでもわかる、端正な顔立ちで頬からあごにかけてのラインがシャープで妖艶。
春情という風が、ミヌアの全身を愛撫するように駆け抜けていった。両腕の力は抜け、座っていても後ろへ倒れてしまいそうになるが、抱き寄せている男の腕がそうはさせず、さらにしっかり捕まれられ、鉄っぽい匂いがめまいを起こすように体の奥へ入り込む。それでも何とか、相手へ惹きつけられてしまうのを抑え、ミヌアはビルとビルの狭間で細長く切り取られた夜空を見上げた。
(神様……こんなに男の色気が漂い出てる人に今日初めて会いました。
どんな俳優さんよりも素敵です。
このまま襲われてもいい……)
ミヌアのエロ妄想は官能という谷底へ頭から真っ逆さまに落ち、首都という摩天楼を遠くに眺められる荒野に建つ屋敷の大きな屋根の上、月明かりという照明に照らし出され、お互いの肌が背中と胸で触れ合う体位バックの座位。自分の蜜壺がぐーっと押し広げられてゆく感触。それが止まることはなく、灼熱の男根が膨張し続け、男らしい両腕に後ろからしっかりと抱き止められている。
「あぁ……はぁ……っ」
という自分が絶対出すことの出来ない周波数の低い声が言語ではなく、吐息という男の耐え忍ぶ喘ぎで耳元に絡みつくように舞い続ける。野外プレイという自由空間の中で夜風がお互いの髪を揺らし、欲望が自分の体の中で野生という獣の名で暴れ出し、形が違うのに絶妙にマッチする鍵と錠前みたいな性器の密着という眩みが襲いかかる、男の性的な匂いで気絶という奈落の底へ落ちてゆきそうな予感。
男らしい太い腕でありながらしなやかな肌に、吸いつけられるにしがみつきながら理性という意識を必死で呼び戻す、絶頂という名のループに引きずり回されたくて。
こんなエロ空想から脱出させたのは神の御前という神聖な場で、ミヌアは我に返り、時間の流れは正常に戻った。
(というのは冗談で……。
どうして、こんなことになってるのかな?
聞いてみよう)
「あ、あの……」
「静かにしろ」
(1m先、Evil)
ロングコートの男の心はどこか別のところを見ているようで、腰に巻きついていた男の手が急にミヌアの口に上がってきて、それをすっかりふさいだ。
「んん、んん……」
(き、聞けません! これじゃ。
っていうか、もう叫びたい――)
男の得意技が出る。ミヌアの内側、別次元へ彼の意識は向けられていて、専門用語が並ぶ。
(胸の意識が強くなっている。
次は暴れる。
それを防ぐには、女の重心を俺へ軽く奪う)
「逃げられん」
魔法の呪文みたいな単純な単語が、背の高い男の唇から低音という響きをともなって耳元で囁かれた。
そこで悲鳴を上げて、助けを求めようとしていたミヌアの身に異変が起こった。男のつかむ腕の強さは変わらず、何かをされたわけでもないのに、まるで麻酔でも打たれたかのように体中の力が抜け、朦朧とし始めた、意識が。
(あれ……手が動かない。
あれ……何してたっけ、今?
あれ……もうわからなく……)
自分を何かから守るように抱き寄せている男へ、特殊なことを使って意識も動きも持っていかれてしまい、ミヌアはぼうっとするしかなかった。その時だった。何も持っていなかった男の右手に細長くあちこち突起物のあるものが現れたのは。
ミヌアは急に現れたものがものだけに、口をふさがれ、体の自由は何かに奪われていたが、心の中で稲妻に打たれたような衝撃が走った。
(きゃあっ!
銃っっっ!?
た、大変だ!
人がいます!
ここでは危ないです!)
大都会の真ん中で、1m先には大通りという人の流れが出来ており、靴音が騒音を作り出す場所。男は気にした様子もなく、FN FNC/アサルトライフルを通りへ構えた。
(来る)
男がスコープをのぞくことはなく、ミヌアは阻止しようとするが体が動かず、そうこうしているうちに、首都の真ん中で、
スバーンッッッ!!!!
ゴォォォォーー!
という銃声がビルという山々にこだまし、ミヌアは驚いて思わず目を大きく見開き、銃口が向けられていた人混みへ顔をさっと向けたが、そこには人以外のものがいた。
(黒い霧……あんなに大きいの初めて見た)
人の背よりも頭1つ分大きい黒いもやが打ち込まれた銃弾によって砕かれ、チリジリに空中を舞ったかと思うと、ミヌアたちがいるところから金の光が妖精のように黒い霧へ向かっていき、聖なる光に打ち消されるように邪悪の象徴のようなそれはすうっと飲み込まれるようにして全て消え去った。
(え……?
今の光は何?
今日、初めて――)
銃声が轟いたのに、誰一人驚いている人がいないどころか、何事もなかったように街は動いていた。ミヌアとその男にしか今の出来事は見え聞こえていないような感じで、他は正常に進んでいる。
(あれ?
誰も怪我してない……。
ううん、誰も気づいてないみたい……)
男の右手からFN FNCはいつの間にか消えており、ミヌアの口をふさいでいた左手は背中に回され、ロングコートの方へ45度向き直され、男の節々のはっきりした右手がミヌアの肩をつかみ、真正面で向き合う形になり、満月の明かりを背にして赤髪の人は無感情のカーキ色の瞳を真っ直ぐ向け、思考と同じく言葉も簡潔で、低く男の色気が漂う声で言った。
「お前と結婚する」
(ずっと探していた)
「え……?」
(起承転結……じゃなくて、最初と最後をとって起結。
お笑いの前振りじゃなく……。
ボケでもなく……何かの修業ですか?)
街の喧騒は一気に消え失せ、細い路地で2人きり。肩は男らしい手につかまれ、これ以上ないほどの真っ直ぐなプロポーズ。不動のカーキ色の切れ長な瞳とどこかズレている感のベビーピンクの瞳は絡みに絡み合い、性行為につながりそうな勢いだったが、ミヌアは右手で自分の肩をつかんでいた男の手をつかみ離し、はっきりとこんな言葉を口にした。
「間に合ってます」
(お断りです。
俳優さんより、整った顔立ちで素敵ですけど……)
地べたに自分を守るように座り込んでいたロングコートから立ち上がり、細い路地を右へ出て、汚れのついたスニーカーは足早に立ち去って行った。残された男は芸術的な映画を見ているような仕草で艶やかに立ち上がり、無感情の低い声でバッサリ切り捨てた。
「意味がわからん」
(何が間に合っている?)
時間差遅れで、ミヌアのプロポーズの返事とは到底思えない言葉にツッコミを入れると、ロングコートの左ポケットでズズーと振動が起きた。節々のはっきりした手で四角いものを取り出し、赤髪の短髪の下にある耳へ当てる。
「俺たちは確認した。あとはお前だけだ」
その男と同じような低い声だったが、少し周波数が高く、超不機嫌なそれが携帯電話の向こうから聞こえてきた。
『どこだ?』
「俺のそばだ」
首都の真ん中で逃走している人を探しているのに、目印のないものを提示された電話の向こう側の人は怒りが最高潮に達し、火山が噴火したみたいに天までスカーンと抜けるように怒鳴り散らした。
『貴様のそのバカと俺を一緒にするな!』
背の高い男のカーキ色の瞳は彼なりの笑い、目を細めた。
「ホテルの入り口から右へ行った」
『ん』
意思表示のない気の無い返事をし、電話の向こうの相手は無情にもバッサリ切るのボタンをタッチした。
駅前のスクランブル交差点、待合せ場所によく使われるブロンズ像の後ろの街明かりも届かない都会の闇に、左人差し指の全ての関節にかかるような鋭いシルバー色を描くアーマーリングの尖った先端があごにトントンと当てられ、奥深さがあり少し低めの声が雑路という喧騒の中に文句を盛大に放った。
「あいつ、なぜわざと逃した? 余計な手間かけさせやがって!」
スクランブル交差点の信号が変わる間際。人々の目線が信号、その向こう側にあるビルの大画面テレビに集中する隙、人がいるからこその死角。
その時を待っていたというように、全てがモノクロになり、交差点の前にある大画面からの大音量も消え去り、無の世界が突如広がり、信号待ちの人混みの中へ、一人色がついている人物が急にすっと立ち入った。そして、全てが色と動きと音を取り戻して進み始め、文句を盛大に放った人も雑路という川の流れに強引という方法で紛れ込んだ。
――――罠は仕掛けられるはライフル銃は見るはで、非現実に見舞われているミヌアは自分の帰り道の交差点を過ぎても、大慌てで人混みを真っ直ぐすり抜けていた。
(な、何んなの? 今日は。
プロポーズデーですか!?
それとも、新手のナンパ?)
小走りの汚れたスニーカーは信号待ちという人だかりに捕まった。振り返っては前を向くを繰り返すたび、金の髪はサラサラと左右へ焦りという動きを作る。
(早く変わって!
追いかけてきたら困るから~!)
スクランブル交差点の大画面がパッと変わり、奥行があり人を惹きつける低めの男の声がR&Bというグルーブ感と独特の音階を持って、低音から一気に高音、裏声へと魂を震撼させるが如く響き渡り、前で信号待ちをしていた少女2人が急に黄色い声を上げた。
「きゃあ、あれ、見て!」
「あっ、ユリア!」
「かっこいいよね」
「デビューしてから、ずっと1位取り続けてるしね」
「でも、プライベートは全然で」
「あの噂、本当なのかな?」
「あぁ、楽屋から突然消えちゃうってやつでしょ?」
「人が消えるってある?」
「あれじゃない? 宣伝効果だよ、きっと」
「あぁ、そう言えば、人って気になるもんね」
「それだよ、それ」
ミヌアの左耳から入ってきた話と、大音量で流れている綺麗な声に引き寄せられ、進行方向へ顔を戻すと、前の2人が上を見ている後ろ姿が、どこかズレている感のあるベビーピンクの瞳に映り、つられて視線を上げた。
大画面の中にいたのは、細く神経質な顔で可愛らしさがあるのに、左目の鋭利なスミレ色の瞳で台無しになっているが、秀麗さを作り出しており、珍しい銀の長めの前髪が右目を隠しているが、形のよい眉が描かれている。耳元には、神が与えし叡智を意味するエメラルドをはめ込んだピアス。
純潔さを表す白の服をまとい、線が細いが最低限の筋肉がついている体躯。声が伸び上がる時に目を閉じ、低音をなぞり始めると、再び開けられた超不機嫌な瞳は人々の心を引き込むように注がれ、ミヌアの全身を神秘という名の風が金の髪をバッと揺らすように吹き抜けていき、全てがスローモーションになった。
人の話し声は消え、足音もなくなり、銀の髪を持ち、低音が基本だが透き通る裏声へ滑らかに自由自在に変化する歌声だけが体の中で恋といううねりを生み出し続け、ミヌアは思わず後ろに倒れそうになる体をかかとで何とか食い止めた。
(神様……こんなに神聖で美しい男の人を今日初めて見ました。
天使みたいです……)
妄想世界でミヌアの服はパステルグリーンのドレスへ変わり、銀の長い前髪を持つ天使が空からふんわり降臨してきて、見上げる位置から伸ばされた手は細いシルバーリングを3つつけた繊細だが男らしい節も見えるもの。
ミヌアの手をまるで天国へ導くようにつかみ、晴れ渡る空へ斜めにすうっと引き上げ、立派な両翼が羽ばたきふんわり飛び上がる。雲という絨毯の上で、天使の鋭利なスミレ色の瞳は今は子供のような無邪気な微笑み。
(あぁ、天へ召される時が来たんですね……)
どこかズレている感のあるベビーピンクの瞳の持ち主のあごに当てられる指先にはシルバーのアーマーリングがつけられ、バングルのチェーンが見え隠れする袖口はわざとほつれさせたおしゃれであり、思いっきり出ているこだわり感。
昇天というあの世へ導く役割の天使。恐れ多くも天使の綺麗な首へ手を伸ばす、その先には襟元は少し立てられていて、右上から左下にチャックという銀の斜線が美的センスを描いていた。
天使と人の恋。結ばれぬ想いは愛という名の竜巻に乗って、上空へまるで魔法のダンスを楽しむようにクルクル回りながら登ってゆく。
(あぁ、私は今空を飛んでいる……。
足元はどうなって……)
さっきまで超不機嫌俺様ひねくれだったのに、胸キュンなギャップを持つ、今は無邪気な子供みたいな笑みの天使の綺麗な体を、ベビーピンクの瞳で下へ降りてゆくと、わざとギザギザに布地が取られた巻きスカートのようなものが腰元で神秘という幕を張り、その下にはベルトのバックルが幾重にも並ぶヒールつきの歩くたびに金具の音が鳴り響く細身のロングブーツ。
いわゆる、ゴスパンクファッションだが黒ではなく白。純白を表すホワイト一色。
神が与える陽光のシャワーのように輝く無邪気な微笑みというスミレ色の瞳でミヌアを真っ直ぐ見下ろし、ベビーピンクの瞳も夢心地というように見上げ、永遠の楽園という天国で神秘という光の妖精たちが祝福の螺旋を描く空中で、お互いの瞳の色が幸福という天空で混じり合う。パステルグリーンのふわふわのドレスと天使の白い服と頭の上で光る金の輪。
(神様……私は今――)
「っ!」
ここで、時間の流れが正常に戻った。スクランブルの交差点の青信号で一斉に歩き出した人という川の流れがスルスルと両脇を避けて通る岩肌みたいなってしまったミヌア。妄想世界へワープしていた彼女は一瞬自分がどこにいるのかを忘れており、右から左から前から後ろから人の腕やバッグにぶつかるを繰り返し始めた。
(え~っと……ど、どこか、人の切れ目は……)
ミヌアの視線は人々の胸のあたりに絞られ、横断歩道の向こう側から歩いてくる怪しさ全開の人に気づかなかった。夜の繁華街でシャツのフードをかぶり、顔のラインがわからないようなサングラスをした、185cmという長身を持つすらっと背の高い人。
その人の歩みはまるでモデルのように、左右にクロスさせて1歩を進み出し、体で何かのリズムを取るように人を避けるのではなく、他の人が避けてゆく。目が全く見えないサングラスをしていても、射殺すような威圧感が逆走する人の流れを、モーセが海を割いたが如く、道を譲り始める人々。
ミヌアが人の流れという濁流で立ち尽くしている間にも、サングラスをかけた背の高い人は滑るように彼女の右側をすれ違う位置を狙ってやって来る。
人々に障害物と認定され物扱いをされ、無情に非道に背中や肩に人々がぶつかる中で、どこかズレている感のあるベビーピンクの瞳は落ち着きなく、近づいて来る人物とは反対側の左の方を眺めていた。
(あ、あっち!
自分と同じ方向の流れが出来て――)
その時だった、無防備に体の横へ落としていた右手首をガバッと捕まれのは。
「っ!」
フードを被っている人とミヌアはお互いの体があと1歩で通り過ぎてしまう、ちょうどすれ違いざまの位置になっていたが、ミヌアの視界が急に後ろ右へ半円を描くようにぐらっと揺れ、
「痛っ!」
彼女の汚れたスニーカーは歩道の石畳の上で強引というステップを踏まされ、もつれそうになりながら、突き飛ばすように手首を引っ張られ、彼女の金の髪は衝撃で左前へ飛び出し、そのまま横へ連れ去られるように動き、ミヌアのスニーカーは無理やり踊らさらた感のあるつま先立ちのステップを左後ろ横右前の半円を踏み、ヒールつきの細身の黒のロングブーツの前、バックルの整列という装飾品と真正面からご対面。
さっきから人の流れの切れ目を探し、視線を落とし気味だったミヌアには突然のことで、11月の少し冷たい風の中で、目の前にいるラメの入った砂色の幾重にも襟が楕円という洗練された線を描くシャツと錆びた鉄のようなくすみを持たせた皮のシャープなジャケットの人が立ちはだかっていた。
自分の右手首をつかむ手は繊細で綺麗なものだが、どこからどう見ても男の大きさ。そこの指1本には長い鎧みたいな銀の光るものがつけられ、見たこともないアクセサリーにミヌアは思わず疑問形。
(その先の尖ったものは武器ですか?)
22cmもの身長差がある、どうやっても男の神経質だが、綺麗なラインを描く顔がすうっと近づいてきて、ミヌアは相手のサングラスに映る自分の顔が大きくなってゆくのを黙ったまま見つめていた、あまりに急な出来事で何が起きているのかついていけず。
パーソナルティスペースを完全無視で、強引に割り込んできた男はさらに近づいてきて、そこでミヌアは何とかゴーイングマイウェイのサングラスの人のペースから抜け出し、声を出そうとしたが、
「あ、あの……」
人混みの中の手元という死角。男の節が少し見える繊細な右手に不思議なことに四角い黄緑色したものが現れ、そのまま上へ持ち上げられ、ミヌアの唇に何の躊躇もなくちょうどいい場所というように押し当てた。
「んん、んん……っ」
何かで口の動きを封じられ、ミヌアは男のサングラスに疑問という視線を向けるが、隠された相手の瞳を見ることが出来ず、心の中で猛抗議。
(口をふさいでます!
な、何ですか? これは)
右手首は引っ張られたまま、行く手は男のすらっとした体で阻まれ、知らないうちにどんどん拘束がかけられてゆく、都会の雑路という他人に対する無関心の元で。ミヌアとサングラスにフードをかぶる怪しい人。見ても人は人、そういう人もいるで、全員完全スルーしてゆく、希薄という都会人。
自分で回避しないと誰も助けてくれない。話しかければ助けてもらえるかもしれないが、口がふさがれている。
(と、とりあえず、これと何とかしないと……)
近すぎて焦点が合わないなりに、冷たく硬いものを見極めようと、ミヌアは視線だけ下ろした。
(け、携帯電話!?)
それで口をふさがれてるという空前絶後の行動を平然としてくる男の瞳があるであろうサングラスの奥をじっと見つめる。
(これは口をふさぐものではないです!
話すものです!)
対する男側からはこんな風に見えていた。ぼうっとした金髪の女のどこかズレている感のベビーピンクの瞳。鈍臭く間抜けで人混みを避けることも出来ない決断力の欠落、美的センスゼロ、胸があるわけでもなく、綺麗でもなく、特に男を惹き寄せるようなものは皆無。
(ふーん)
携帯電話の画面には、何かの数式とプログラミングのデータが下の方に出ていて、目の前に立つミヌアとそっくりの画像が写っていた。彼女の右手首をしっかりつかんだまま、サングラスの奥に隠された鋭利な瞳は金の髪を持つ女ではなく、そのまわりに向けられていて、しばらく何か別世界の動きを眺めていたが、
(ふーん)
作業は1つ終了というように、再び目の前にいるどっからどう見ても普通に見える女の顔をまじまじと見つめ、神経質で綺麗なラインを持つ男の顔は首を右へ左へ傾けながら、どんどん近づいてきて、まるで何かの品定めでもするようにミヌアを無遠慮に見始めた。
視点はミヌア側へ戻った。
(あ、あの……な、何で急に近づいてるんですか!
ドキドキします!)
フードをかぶりサングラスをかけ、何の言葉も言わず、いきなり手首をつかまれ、無理やり目の前へ立たされて口は携帯電話でふさがれ、キスするような位置まで近づいてくると、男の胸に下げられていた天使のペンダントヘッドが雑路の濁った空気の間で、聖なる導きのように降臨した。
相手の吐息と柔らかな男の匂いが入り込んでくる距離。どうやっても見られているのがわかる。たった数十秒がまるで何時間にも感じられるような濃密な時が流れ、男が何度目かの首を横へ傾けた時、フードの隙間から銀の長い前髪がさらっと落ちて、公衆という場へ姿を現した。
男側からの視線へ再び戻り、ミヌアの口をふさぐように置いていた携帯電話の画面がパッと切り替わった。
(ん? メール?)
『どちらにいますか?』
誰かからの質問に、銀の長い前髪を持つ男は意識化でつながっている携帯に指で操作もせず、文字が打ち込まれてゆく。
(スタッド駅北口の向かい側、スクランブル交差点の歩道だ)
携帯に気を取られている間に、ミヌアは自分の右手首をつかんでいる男の力が弱まったのを感じた。
(下へそうっと抜いて……抜けた!)
手の拘束は自力で解いた。あとはぶつかりそうな位置で止まっている男の顔と唇に当てられた携帯電話、今相手が気を取られているもの。そこから離れるだけ。男の鋭い眼光には相手からメールの返事が、
『それでは、上空で待機していますよ』
それを読み終えたと同時に、ミヌアの金の髪がすうっと下へ降り始める。
(あとは下に体を落として、この人の横をかがみながら抜けて、反対方向へ走っていけば――)
逃走準備が順調に進んでいたが、奥行があり澄んでいて少し低めの人を引きつけるような声が有無を言わせない強い感じで響いた。
「貴様、立っていろ」
「は、はい……」
相手の威圧感にびっくりして、ミヌアは男の前にシャッキと立ち、彼が携帯電話を持っていた手を下へ降ろすと、バングルのチェーンがジャラジャラと当たる音が2人の間に歪みを作り出した。サングラスという正体不明のアイテムを挟んで、ミヌアと強引にもほどがある出会いし、命令しかされていないのに男の口から出てきたものは、これだった。
「貴様と結婚してやってもいい、ありがたく思え」
(なぜ、ネットを避けている!
色々と手間をかけさせやがって!
探してやった、ありがたく思え)
心の内まで態度デカデカで、短縮されまくりの言動に誰もついていけないのに、引きずり回し続ける俺様感。
普通の人なら怯んでしまうところだが、ミヌアの顔はわななわなと震え出す。
(カチンとくるな)
俺様全開の背が高く、体全体で綺麗さが際立つ男をきっと睨み返し、
「ありがたくありません」
(お断りです。
誰かに似てて、素敵ですけど……)
左前へ体をさっと出し、そのまま逃走を始めた。パステルピンクのリュックを背負った金の長い髪は自分の横を素早くすり抜けてゆく瞬発力のよさに、サングラスの男はありえない光景を目にした時に人がする、何度も見るを繰り返し、ミヌアの手を捕まえるということは叶わず、185cmの長身を生かして、人混みの中を眺めると、走って追いかけなくてはいけないほど遠くでミヌアの急いでいる背中があった。
焦ること、自分が劣勢な立場になる追いかけるという行為が絶対に許せない男は、その場でロングブーツの足で石畳を上から蹴りつける。
「くそっ!」
(あの女、俺のプロポーズを断るとはどういうつもりだ!)
言葉を悔しそうに吐き捨て、携帯電話を耳に当て、1コールで出た相手に、
「逃げた」
優雅な声がくすりと笑い、遊線が螺旋を描く芯のある声が今まさに行われたサングラスの男の行為を言い当ててきた。
『無遠慮に見つめたのではありませんか?』
奥深さがあり澄んだ少し低い声が、火山が噴火する寸前みたいな怒り色をともなって突き刺さった。
「余計なことはいいから、早く捕まえろ! 俺はあとから行く」
相手の返事などいらないと言わんばかりに自分勝手に切って、サビ色のレザーの上着からどんどん離れ、人混みに紛れ始めたミヌアの偽革のジャケットの背中をよく見るため、ずっとつけられていたプライベートという名のサングラスは、まるで何かの映画のワンシーンで外されるような美しさで引き抜かれ、鋭利なスミレ色の瞳と可愛らしい顔が全貌を現したが、愛想という言葉など不必要と言わんとばかりの超不機嫌で射殺すような視線で台無しになっていたが、秀麗だった。
――――3人目のプロポーズをきっぱりと交わし、ミヌアは最期の審判みたいな衝撃的なバイト上がりの出来事を思い返しながら走り続けている。
(な、何で?
今日に集中してるの?)
そこで、自分の体の異変を感じた。
(手が重い……。
息が苦しい……)
ミヌアのベビーピンクの瞳はまるで波間に漂うヨットのように揺れに揺れ始めた。
(目が回る……。
立ってられない……)
その時だった。右上から重力を無視した黒塗りのリムジンが交差点へ横づけされるように降りてきた。意識がなぜか遠のき始めたミヌアはそれを見つけたが、
(あれって、さっきホテルの――)
一瞬、世界がモノクロに切り替わった。ミヌアも何もかもが止まり、音も消え去った静寂で、1人その法則から漏れている瑠璃紺色の光沢のあるタキシードが、瞬きもせずアッシュグレーに変わってしまっているどこかズレている感のある瞳の持ち主の前にすっと現れ、遊線が螺旋を描く芯があり優雅な声がエチケットという言葉を言う。
「失礼」
幻想的で鮮やかなアパタイトのカフスボタンをともなった細い腕は動いていないのに、まるで乙女のピンチを救った王子様のように、ミヌアの体はお姫様だっこという女性の憧れの体勢へ、紺の髪を持ち、銀の細いメガネを胸元で遊びというように下げている人の腕の中へ、まるで時間を飛ばしたようにスマートに収まったかと思うと、シュッと歩道の石畳から消え去り、再び景色に色と音が戻ると、交差点にリムジンが横づけされた状態で駐車していたが、ミヌアの姿はどこにもなかった。
――――荒れ狂う波間に浮かぶ船に乗っているような激しい揺れを感じながら、ミヌアは意識の混濁がひどく思わず閉じていたまぶたの中の暗闇にいる。
(ん?
座ってる?
歩道……違うね。
柔らかで……)
右手に当たる感触を目を閉じたまま味わう。
(サラサラした皮みたいなもの……。
風がない、寒くない……どこかの中に入った?)
その時、右斜め前から、地鳴りのように低く男の匂いが漂い出て仕方がない声が聞こえてきた。
「どうした?」
(この声、さっき……銃を持ってた人?
う、気持ち悪い……)
なぜか吐き気を覚えたミヌアの瞳はまぶたに隠されたまま、前へ倒れこもうとすると大きな両手でしっかり支えられた。
「っ」
誰かの詰まるような息遣いが聞こえ、手首に指が添えられ、数十秒の間があり、次にまぶたを無理やり開けられられるが、ベビーピンクの瞳は正常な反応を見せず、目の前にあるカーキ色の2つのものを焦点が合わない状態で見つめていると、左端に銀の髪を持ちアーマーリングのついた手を腰のあたりで組み、イライラ感が思いっきり出ている人が突如現れた。
(え……?
どこから来たの?)
「貴様、わざと逃すとはどういうつもりだ! 手間かけさせ――」
天までスカーンと抜けるような俺様ボイスが響き渡ったが、相手の正体をつかめないままミヌアのまぶたは重みで再び閉じられ、まるで医者が診断を下すように、低く安定感のある声が放たれた。
「……急性アルコール中毒だ」
自分の右隣から、貴族的で優雅な男の声が少し含み笑いで、
「ショートカクテルを2口で飲んでいましたからね」
安定感のある低い声が斜め右前から、
「何をだ?」
また右隣から、
「ルシアンですよ」
右斜め前から、
「それは女を立てなくさせる酒だ」
(2口で飲んで走ったら、こうなって当たり前だ)
ミヌアの意識が気絶という底へ完全に沈む前に、自分の真正面から、
「女は勃たない」
「勃つ」
自分と向き合うようにいる声色の違う2つ男の声が漢字変換を違えている話へ、遊線が螺旋を描く優雅な声がエレガントにくすくす笑いながら、スマートにツッコミ。
「どちらの話をしているのですか?」
そこまでだった、ミヌアの意識があったのは。完全に意識を失った23歳の女を乗せ、リムジンの座り心地のよいリアシートは空にある道へ向かって、斜めにまるで飛行機が離陸するように浮かび上がりながら登り始めた。銀の長い前髪を持つ人はアーマーリングをした手であっちへ行けみたいな仕草、手の甲を外へ2回押し出す。
「俺の上に吐かれるの許せないから、貴様らの方へ持っていけ」
紺の肩より長い髪の持ち主は細く神経質な手の甲を口に当てくすくす笑う。
「仕方がありませんね」
(私の膝の上で構いませんよ)
正体不明になったミヌアをそっと寄せ、細身の白いズボンの膝の上へ寝かせた。バングルのチェーンがリアシートの上でサラサラという音を作り出している手のひらの中に、不思議なことにミネラルウォーターのペットボトルが急に現れた。
「飲ませてやれ」
鋭利なスミレ色の瞳の持ち主から、赤髪の人と水色の冷静な瞳の人の間へ、ペットボトルが見せつけるように出されて、シルバーリング3つをつけた人とは思えない言動を前にして、無感情、不動のカーキ色の瞳は珍しく目を細める。
「…………」
(お前が譲るとは……)
首からかけられたチェーンのつきの線の細い銀のメガネは、上質なシルクのブラウスの胸で楽しそうに揺れた。
「…………」
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「点から点への移動では面白くありませんからね。戯れに身を任せたかったのです。景色と時間という心の余暇を至福の悦楽という牢獄で、体中に刻まれる非合理という体罰の中で得られる真逆の痛覚と禁断的な絶頂という名の海の底へ落ちてゆく、死という恍惚とさせるものへの理想郷もしくは――」
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「合理主義の貴様がこんな移動手段を使うか! 俺の耳に貴様のその渋滞のテールランプみたいな言葉を聞かせるな、真面目に答えろ」
自分の思惑通りに怒っている男を前にして、貴族的な雰囲気でくすくす笑っていた男は、オーロラブルーの宝石がついた黒のロングブーツを優雅に組み替えた。
「今日は社で色々あったのです」
その言葉が車内に舞った時、空気がガラッと変わった。それは心配という名の絶対の秘密。赤髪の男の低い声が簡潔に聞き返す。
「薬は?」
自分へ課せられた宿命の海の中でもがき続ける苦痛から逃げられない牢獄。それが嵐の前の静けさを作り出す体を感じながら、水色の冷静な瞳は車窓へ真っ直ぐ向けられた。
「飲みましたよ」
「貴様、寝室の鍵は開けておけ」
鋭利なスミレ色の瞳は反対側の窓へ差し込まれた。人を罠へ誘い込むためなら平然と嘘をついてくる男。遠回しな言い方を必ずしてくる細い線の体の持ち主にしては珍しく真っ直ぐな言い方、断定した言葉を口にした、首を横へゆっくり振りながら。
「そちらはしたくありませんね」
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「いいから、開けておけ!」
(貴様また、そうやって……)
無感情、無動のカーキ色の瞳には瑠璃紺色のタキシードの腰元がなぜか映っていた。
「俺も行く」
(1人で背負うな)
冷静という名の盾で抑え込まれていた激情という名の獣が隙間から顔を出し、都会の光の海が涙という波でゆらゆらと揺らぐ。
「ありがとうございます」
遊線が螺旋を描く声がいつもとは違って儚げに響くと、車中は静かになった。
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★コメントの返信は遅いです。
★タグが勝手すぎる!と思う方。ごめんなさい。検索してもヒットしないよう工夫してます。
♡注意事項~この話を読む前に~♡
※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。【妄想史であり世界史ではない】事をご理解ください。登場人物、場所全て架空です。
※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。
※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
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